Friday, August 21, 2009

なにも変わらない (1)

 私がこの旅を始めたのは西暦千四百三年の五月。我々の使節には、カスティリャからサマルカンドまで国王エンリケ三世の親書を携えて行き、皇帝ティムールに拝謁してくるという、一見重要そうな任務が課せられていた。
 私がその使節の大使に選ばれた時、周りの者は皆、羨ましがり、祝福してくれた。そして、私が報告書作成能力に秀でているからだろうとお世辞を言った。本当は他に応募者がいなかったというだけのことで、誰もやりたがらない危険度の高い仕事だった。私以外の殆どが、国王に任命されて仕方なく来たという連中で、その顔ぶれを見ていると、期待よりも不安のほうが大きくなるのだった。
 出発にあたり、先祖代々受け継がれてきた土地と家を処分した。家の中にあった家具や工芸品、美術品も売り払った。少しでも多くの金貨や銀貨を持って旅をし、先々で欲しいものを買いたかったし、そもそも帰ることはできないかもしれないと思えば、土地や家には意味がなかった。
 サマルカンドまでの一年四か月は、あっという間に過ぎた。海の風に押し戻されたり、使節団員が病に倒れたり、先に進むことを許されずに待たされたり、贈り物を強要されたり、大変なこともいろいろあったが、すべてが予想の範囲内といえた。だからといって、私の道行きが楽だったわけではない。下痢に悩まされたり、捻挫をしたり、筆記具の具合が悪かったり、カネを盗まれたり、毎日のようになにかしら都合の悪いことが起きた。それでもなんとか元気に振舞っていた。
 往路が順調だった理由のひとつに、モハメッド・アル・ケチというチャガタイの男の存在があった。モハメッドはティムールが送った使節の代表で、サマルカンドからカスティリャまで親書を携えて行き、エンリケ三世に拝謁し、目的を果たして帰るところだった。チャガタイ特有の残忍なところがあり、通過する村々で時に酷いこともしたが、細かいことは文化や習慣の違いということで受け入れることにしていた。黒海を過ぎるまでの大変さを考えると、ティムール領内に入ってからサマルカンドに着くまでの旅は、順調の一語に尽きる。もちろん、モハメッドのおかげだ。
 サマルカンドでのことを記せば、良いことばかりだったように思われるだろう。毎日のように、美しく盛りつけられた大量の肉料理を供され、芳しい香りと不思議な煙の中で茶を飲み、妙なる調べのなかで媚を売るような踊りを楽しんだ。だから、私には文句を言う資格はない。でも実際は、緊張と不安に包まれた、恐怖と隣り合わせの滞在だった。
 幸いにして、ティムールに拝謁しエンリケ三世からの親書を届けるという使節の使命は果たすことができた。事前にモハメッドから、ティムールの前では平身低頭を忘れないこと、ティムールに話す時は家来を通して話すこと、というような基本的な所作を教えられていたので、礼儀をわきまえた者という役割を演じることができたのだ。
 もっとも、いつ謂れのないことで難癖を付けられ殺されることになっても、おかしくはなかった。実際、明の使節がティムールの怒りに触れ、その大使は惨い目に遭っていた。
 平身低頭に徹していたので、ティムールの顔を見ることは殆どなかったのだが、それでも私は、ティムールの低い声に恐怖を感じ続けた。一言なにかを言われれば、私の命はそれまでなのだと思うと、心臓が凍りつく。
 ティムール帝国の征服や統治のやり方には、モンゴル帝国を思わせるものがあり、ペルシャ、アルメニア、グルジア、トルコ、エジプト、小インドといった近隣諸国には大きな災いをもたらし、その周りの国々には大きな不安を抱かせていた。ティムールは、侵略、略奪、破壊といった強烈な行動をとる一方で、科学、技術、芸術などの分野に人材や資金を集中させるという実際的戦略を持ち、統治に優れていた。あっという間に出現したその帝国は、我々の使節が派遣されたことでもわかるように、遠い地イベリア半島のカスティリャにさえ大きな恐怖を感じさせていた。その恐怖を、サマルカンドで、しかもティムール本人から味わったのだから、緊張や不安も仕方ない。
 そんなわけで、サマルカンドを出発した時には、心からほっとした。この帝国の都に未練はなかった。帰路が往路より大変になるとは思えなかったし、タブリーズまで辿り着けば、後はどうにかなるということで、皆の意見は一致していた。
 タブリーズのそばのカラバグという牧草地で、ティムールの孫のオマル・ミルザが越冬している。そこにサマルカンドで用意してくれた書類を提出すれば、帰国の許可が与えられるだけでなく、黒海までの安全は保障する。サマルカンドを出る時に、そう言われていた。それにそもそも、来た道を辿ればカスティリャまで戻ることができるのだから、帰路に心配はなかった。
 とにかくタブリーズまで頑張ろうと、あまり休まずに、前へ前へと進んだ。砂漠は広く美しかったが、そこを横断する難しさは想像を絶するものがあった。風が吹くたびに地形が変わるため、どんなに良い道案内人をつけても道に迷い、余計な距離を歩くことになる。水を求めて、またさらに歩く。そしていつも、先に進んでいるのかどうかわからなくなり、不安に包まれる。
 砂漠で私は何度か幻を見た。砂嵐や吹雪のなか、道に迷い途方にくれている私に優しく微笑み、正しい方向を示す。その幻は水の精のようにも見え、女にも見えた。ある時は砂漠にあるはずのないひまわり畑の中から現れる。どこまでも続く青い空の下、あたり一面を覆う黄色いひまわりに囲まれて立つさまは、見たことのない母親を感じさせる。またある時はこれも蜃気楼に違いない小さな湖の中から現れる。水に濡れ微笑むさまは、女神以外のなにものでもない。私にしか見えないこの美しい幻に、私は心から感謝していた。
 途中、ブラミという町で、往路で病気にかかり療養をしていた連中が合流した。七人のうち、神父のアロンゾはじめ五人は、チャガタイの貴族たちのおかげもあって元気を取り戻していたが、軍人のゴメスと侍従ひとりとは、帰らぬ人となっていた。
 再会を喜ぶ暇もなく、我々は先を急いだ。風は冷たく、砂漠も豪雪も辛いものがあったが、最低限の食料や馬は調達することができ、西暦千四百五年二月二十八日の土曜日、タブリーズに辿り着いた。緑と水の多い町のなかを歩くだけで、皆ほっとした気分になり、旅の苦労があっという間に消えていった。夕方になって、我々はアルメニア人が管理している大きな家に案内され、それぞれに部屋をあてがわれた。同じキリスト教徒だということでの はからいだったようだが、私にはアルメニア人は異教徒にしか見えなかった。
 三月一日の日曜日、サマルカンドから共に旅をしてきたトルコ使節とエジプト使節とが、合同で会議をしようと言ってきた。議題はオマルへの謁見のことに限り、その他のことは話さないようにしようという。誰もが、謁見のことよりはその先の帰国のことに心を奪われていたが、かといって謁見を軽くみるわけにもいかなかったのだ。会議を毎日開くということで意見は一致したが、他の事で意見を合わせるのは容易ではないと思われた。
 タブリーズに着いて四日目の三月三日、なんの前ぶれもなく、一人に一頭ずつ、駿馬が贈られた。オマルの指示だった。会議に出ると、さすが皇孫オマルとか、贈り物を増やさなければというような無警戒で呑気な発言が大勢を占め、どの顔にも、緊張感というものが感じられない。これから先の旅のことを話題にするものは、もう一人もいなかった。同じ日に、カラバグへの招待状が届いた。
 三月四日の水曜日、我々は、サマルカンドからついてきてくれた案内人に先導され、オマルの幕営地に向かった。出発前に案内人から、カラバグという場所はそんなに近くない、山を越えるのでそれなりの準備をするように、しかし道中のことを考え荷物は軽くするように、などという注意を受けた。険しい道のことを考えれば荷物は軽くはできない。ましてや贈り物を減らすことなど気の小さい私には考えられない。エジプト大使は、中国の使節から貰った物までオマルなんぞにやる必要はないなどと言って、贈り物を半分以下に減らしていた。私にはそんな勇気はなかった。
 二日かかって威圧するかのようにそびえ立つ山をゆっくりと越え、低く刈り込んだ葡萄の木々の間まできたところで、突然、行進が止まった。先頭を行っていたエジプト使節が引き返してくる。そばまで来た時にどうしたんだと尋ねると、訪問は中止だという短い答えが返ってきた。
 帰り道にトルコの大使を捉まえて、どうしたのだと聞く。大使は、タブリーズに引き返し、改めて招待が来るまで待っていればいいのだという。長旅をしてきた我々には少々の休息が必要だというのが理由だそうだ。大使がそれ以上は聞くなという表情をしたので、私は黙った。
 タブリーズに帰ってからの会議は、追い返された理由を推察する場になった。建設的な話はなにも出なかったが、トルコ使節やエジプト使節は我々よりはるかに多くの情報を持っており、私にとっては収穫の多い有益な時間だった。
 それからまた十日後に、今度は正式な儀礼儀典に則った立派な招待状が届き、我々は前回よりもやや格式ばった感じで出発した。山を越え、葡萄の木々の間を抜け、畑に囲まれた集落を幾つか過ぎ、カラバグまでもうあと一日というところまで来た時に、反対側からやって来た隊商が我々を止めた。
 騒乱が起きている。状況はお前らにはつかめないだろうが、間違いない。一つ前の集落では、皆、逃げ出そうとしていた。だからこの先には進まないほうがいい。隊商の男たちに笑顔はなかった。
 我々は、さんざん迷った挙句、とにかくカラバグまで行くことにした。避難民のような一団が次から次へとすれ違っていく。タブリーズを目指しているのだろう。我々とは違い、どの一団にも迷いはなかった。まわりを見ると、騒乱とは関係のない、静かで美しい風景が広がっていた。
 カラバグに着くと、問い合わせるまでもなく、オマルに会えないことは明らかだった。空は限りなく高く、見渡す限りテントが整然と立ち並び、そのあいだを男たちが忙しく動き回っている。戦闘の用意なのだろう。作業をしていないものは無言で足早に歩き、緊張感があたりを支配している。自分たちはいかにも場違いだった。
 案内係のテントを見つけたので相談してみると、タブリーズに戻って改めて招待状が届くのを待つのがよいだろうという。我々もそれが最善の策だと思ったので、余計なことは聞かず、急いでカラバグをあとにした。往きに三泊した道程を、たった一泊で引き返した。三月二十七日の金曜日の晩にタブリーズに戻った時には、皆、疲れ果てていて、挨拶もなく床に着いた。
 タブリーズには、いろいろなニュースが錯綜していた。ティムールの甥のジャハーン・シャー・ミルザがオマルを殺そうとした。いや、ジャハーンはオマルに殺された。そういったニュースのひとつひとつが、ティムールが死んだのが原因と考える以外には説明のつかない、異常なものだった。
 混乱のなかから出てくるニュースは人間の欲望を映し出し、信じられるものは少ない。こんな時には、全体の利益より個人の利益が優先するもので、誰もが自分の身の振り方だけを真剣に考えるようになる。他人の生命など構っていられない。生き延びるために盗み、盗むために人を殺す。宗教も道徳もない。剥き出しになった人間の醜さがすべてを支配する。
 街道沿いはどこも物騒になっていて、オマルからの招待状が届こうが届くまいが、当分のあいだタブリーズにいるしかないように思われた。実際、トルコ使節もエジプト使節も、皆、動くことには反対だった。
 とんだところで足止めをくらってしまったので、帰ってから提出することになっている使節報告書の下書きを整理することにした。カスティリャ国王のエンリケ三世は、事実に基いた客観的な態度というのが好きで、文章もそういう態度を反映させたものでなければならないという。実際、私情を挿まず、意見も書かず、あった事だけをありのまま書けということが、私の職務命令書の最初に書かれていた。使節遂行中におこったことを、飾らず、形容詞もできるだけ使わず、細大漏らさず書くこと。それが私の仕事なのだ。
 事実だけ書く作業は簡単に思えたが、ここ何日かは、うまく書けない状態が続いていた。ジャハーン・シャー・ミルザがオマルに殺されたという確かな情報を得たので紙の上に、ジャハーンが殺された、と書いてみる。するとそれが事実でないような気がしてくる。気がつけば、まわりで起きていることの殆どが、自分で確かめようのないことばかりなのである。
 ティムールが死んだという噂を聞いた、と書く。すると、いつから噂が事実になったのだ、という内の声が聞こえてくるのだ。噂は噂であって、事実ではないだろう。私の仕事は、噂を書くことではないはずだ。
 そんなことを考えていると、一行も書けなくなる。往路のペラで、一日に二十枚もの紙を小さな文字で無邪気に埋めてしまったことを考えれば、多分書く量は、百分の一くらいになってしまっている。しかし、書けないものは書けない。
 確かにサマルカンドまでの往路では、見るもの聞くものすべてが驚きの連続で、報告書作成の義務感も今よりはるかに強かった。書くことは簡単だった。
 もっとも今だって、毎日合戦の噂を耳にするわけだから、書く材料には事欠かない。それなのになぜか逡巡してしまっている。紙や筆記具も、旅の途中あちらこちらで買い求めたものがあるので、報告書の下書きを書くにも、人の話を書き取るにも、なんの不自由もない。往路であれほど節約していた紙も、今はふんだんにある。羽ペンで苦労してとったメモも、途中で買い求めた炭ペンで簡単にとれる。それなのに書くことができない。
 単語も出てこない。エジプトの国名ひとつとっても、なにも知らない頃には、ただ簡単にエジプトと書いていたのだが、どうも正式には違うらしいということでマムルーク朝と書くようになり、マムルークというのが外人部隊の傭兵や奴隷のことを呼ぶ蔑称と聞けば、びくびくしながらエジプトスルタン国などと書く。マムルークという呼び方が気に入っているとエジプト大使に言われれば、マムルーク。エジプトという呼び方で構わないと言われれば、エジプト。どうでもいいことなのだが、考えに考えた末に、なにも知らない頃使っていたエジプトに落ち着く。トルコのことも、もっとひどい逡巡のあと、トルコと書くようになる。
 毎日の会議は情報交換の場になっていった。噂を持ち寄り、分析し、議論のなかから真実を探ろうとする。そんなことに意味があるのかどうか、私にはわからない。でもなぜか、皆、ムキになる。
 トルコにもエジプトにも、ティムールに取られた領土の奪還という切実な課題があった。また、ティムール亡き後の後継者争いは、二つの国の今後の命運を左右しかねない重要な事項だった。
 もっとも、遠く離れたカスティリャから来た我々にとっては、この混乱はそう重要なこととはいえず、私もいまひとつ積極的になれないでいた。実際、どうすればカスティリャまで無事に辿り着けるのかということだけが、我々の関心事だった。
 情報交換ではっきりしてきたことのなかに、ティムールの死があった。我々がタブリーズに着いた二月の末には、ティムールはもう死んでいたのだ。いま起きている混乱は後継者争いに違いなかったが、ティムールによって征服された国々が反乱を起こしたという側面もあった。
 これからトルコの影響下にある地域を通って国に帰ろうとしている我々には、通過していく町や村の状態よりも、トルコ使節との関係のほうがより重要だった。私個人も、戦乱の様子より、トルコ大使のことのほうが気になっていた。本来なら、宗教の違いから、トルコ使節とカスティリャ使節は行動を別にし、異なった進路を選ぶべきなのだが、こういう非常事態にあっては、そんなことは言っていられない。トルコ使節と行動を共にすることが、我々にとっての最良の選択に思えた。
 ある日、オマルから、手紙が届いた。帰国の許可を与えず申しわけない。出発が遅れ、不都合なことも多々あるだろうが、気を悪くしないてほしい。父との和解が成立したので、近日中に帰国許可を与える。チャガタイらしい簡潔な文章だった。
 いつ出るともわからない帰国許可を宿でじっと待っていても仕方がないので、私は毎日散歩に出かけた。市場は賑やかで、ボイルをはじめとする綿織物、タフタなどの絹織物、真珠に代表される宝石、香水、食料、香辛料、それにさまざまな日用品が雑多に並んでいた。宿屋や茶店の案内係とも客引きともつかぬやつらに混じって、宗教や占いの勧誘をするものまでいたが、私のように事情のわからないものには煩わしいだけだった。他国の使節団員が上機嫌で女を買う交渉をしているのを見かけたが、私はそういう気分にはなれなかった。
 市場から離れたところには、あまり売る気のない連中が店を広げていた。装身具、家具、絨毯などといったものが、なんとなく置かれている。市場と違って通る人もまばらだったが、売るほうも買うほうも皆穏やかな目をしていた。埃も煙も喧騒もなく、澄んだ空気は冷たく、遠くに見える山々は青い空の下で輝いている。気がつけば、もうあたりは春だった。
 天気のよい日には、馬を借り、川を遡って山に向かった。山からの幾筋もの流れはタブリーズに着くまでのあいだに一本の川になる。それがタブリーズの街に入った途端、また沢山の流れに分散し、街路に沿って皆のための用水路になる。それがまたもう一度集まって、一本の川になって街を出て行く。タブリーズは、街じゅうを流れる水のおかげで、落ち着いた雰囲気に包まれていた。
 馬を山の麓の小屋に預け、水の音を聞きながら山の中に入って行くと、私のために特別に用意されたような道が続いている。人間が歩いた跡なのか、それとも獣たちが通った跡なのか、私が前に進むのに丁度いいくらいの幅の心地よい空間があり、引き返すのがもったいないような気分になる。水源にまで分け入り、崖の下から湧き出る泉を見つけて感激することも、一度や二度ではなかった。
 木漏れ日を浴びているのに気づいた時には、上を見上げる。木の葉の緑が、日の光に透けて輝いている。大きな獣と出会った時には、すぐに回れ右をする。疲れれば座り、喉が渇けば川に下りて水を飲む。水の音は心地よく、流れは心をなごませる。
 町に戻る下り坂は散歩のなかでも一番の場所だった。タブリーズの町の外側には緑に囲まれた大きな家が建ち並び、見るだけでも楽しかった。金線や青い模様が特徴の陶器のタイルや、石膏の彫刻が埋め込まれた、白を基調にした壁。大きさや形の違った石がさまざまな模様を織りなす床。細密画を基に色ガラスをはめ込んで作られた窓ガラス。そういう建物は、名声を追った金持ちたちの夢のあとなのだろう。欲望の少ない人たちがこういうところに住めるはずはないのだが、センスのいい家々は、塀の向こうに垣間見える住人をなぜか無垢な存在に見せていた。
 ここの人間は皆、人なつっこい。散歩の途中、すれ違うと、必ずといっていいほど声をかけてくる。旅のあいだに身につけた習慣で、煩わしいことを避けるために、立ち止まって話し込むようなことはしなかったが、ここには、コンスタンチノープルやサマルカンドとは違い、しつこくついてくる物乞いや物売りは一人もいなかった。
 十数年前にムザッファルがティムールに滅ぼされた時、タブリーズの町は散々な目にあった。戦争が終わると、ティムールは息子のミーラーン・シャーにこの町を預け、サマルカンドに帰って行った。ところがその数年後、このミーラーンがちょっとした気まぐれからこの町を破壊してしまう。ティムールは激怒し、町をミーラーンの息子のオマル・ミルザのものとした。そんなわけで、町のあちらこちらに破壊された跡が残っていたが、オマルが町を嫌い草原で暮らしていたこともあって、ここ数年は比較的穏やかな日々が続いていた。
 一人で歩く女が多いのも町が安全だからだろう。女は皆、頭から白い布を被っている。白い布が貧富の差や年齢を隠してくれるというが、布の材質でだいたいの豊かさが、歩き方や声でだいたいの年がわかってしまう。顔の前のネットが馬の毛で編んであったり、布と同じ糸で編んであったりする。たまにだが、ちょっとした刺繍を施したものまである。
 香水や化粧品を買っている時の女たちは、白い布の上からでも、生き生きしているのがわかる。食料品などは男が買っていたが、女の身の回りのものは自分たちで買い求めているようだった。女たちが生き生きしているということは、いろいろなことがうまくいっているからなのだろう。
 四月二十八日の火曜日、部屋で報告書の整理をしていると、案内人が血相を変えてやって来て、乱暴者たちが警察の長に率いられて押しかけて来ていると言った。外に出ると、確かに、警察の長らしいチャガタイの風貌をした男を先頭に、目つきの鋭い連中が押しかけて来ていた。オマル・ミルザの息のかかった連中だということは、一目見てすぐにわかった。タブリーズの人たちとは違い、傲慢さがあたりに漂っていた。
 警察の長は私を見ると、すぐさま、オマル・ミルザの命令を大声で読みだした。一つ、武装解除し武器はすべてすみやかに廃棄すること。一つ、持ち物すべてを引き渡し、我々に管理を委ねること。以上。
 私は冷静さを失った。カスティリャ使節は友好を目的としてサマルカンドまで出かけた。そのことはわかっているのか。そう問うと、警察の長は、今回の君主様の御命令はあなた方をより良く保護するためのものである、などと言う。そう言うそばから、手下どもは勝手に家に押し入り、武器を押収し、持ち物すべてを没収し、持ち去ってしまった。
 私たちは呆然とした。しばらくはどうしていいものやら途方に暮れるしかなかった。そうまでして私腹を肥やしたいのか。私たちをより良く保護するためなどと言わず、盗みに来たと素直に言えばいいじゃないか。気分は最低だった。
 トルコ使節とエジプト使節も同じ目にあっていた。後で聞いた話だが、エジプト使節はかなり抵抗し、けが人を出すほどの騒ぎになっていた。
 せめてもの救いは、私が部屋の棚の裏側に隠しておいた財布と、私たちが入口のあたりですったもんだしている間に一人の従者が気を利かせて床下に隠した金貨の箱一つと銀貨の箱三つが、私たちの手元に残ったことだった。それと、それぞれが懐に忍ばせていたカネがある。しばらくは、これでどうにかなるだろう。
 私は皆を集め、これから先、少しの間の、暮らし方の相談をした。私たちが普通に暮らしているのを警察の長が知ったら、まずいことになるのだろうか。没収されたものは返してもらえるのだろうか。
 サマルカンドからついてきた案内人は、普通に暮らしてなんのまずいこともない、没収されたものも、少しは掠め取られるだろうが、半分以上は返ってくるだろう、と言った。皆も同じ意見だった。
 私以外は皆、冷静だった。私だけが興奮し、私だけがこの先の心配をしているように思えた。すこし気を静めようと、私はひとりで外に出た。
 ぶらぶら歩いて行くと、四角い池のある広場に、大きな人だかりがしている。近づいてみると、競りのようで、皆、やけに興奮している。人ごみの後ろから様子をうかがうと、宝石や布で競り落とすのでなく、アチェとかメリといった貨幣で競りが行なわれている。何十枚もの貨幣を払うようなそんなに高いものっていったいなんだろうと思い、人をかき分けて前のほうに出てみると、なんと売られているのは人間だった。
 胸に売約済の札が貼られている囚われ人たちは脇に寄せられ、中央に、あと、男が一人、女が二人、残っていた。女の一人を見て私は息をのんだ。綺麗だった。顔は汚れていたが、気高い表情と鋭い目が女を際立たせていた。顔の輪郭も顔立ちもこのあたりの女たちとは違う。もしかしたら、カスティリャの女かもしれない。そんな思いが頭をよぎった。
 女は売られて、売春でもさせられるのだろうか。白い布を被っていないということは、ここの感覚として、なにを意味するのだろう。奴隷は家畜と共に動産として扱われているということなので、人と思われていないのかもしれなかった。
 なぜか、女の顔が懐かしく思える。どこかで会ったことがあるのかもしれない。私は女から目が離せないでいた。
 ヌビア人らしい男の競りがあっけなく終わったあと、その女の競りが始まった。ディルハム銀貨四十枚というような値段から始まり、値段はなかなか上がらなかったが、でっぷりと太った男と執事風の男の一騎討ちになったとたん、値段は急にはね上がった。どちらに買われてもろくなことはなさそうだ。女は不愉快そうな、しかし意思の強そうな眼差しで、ことの成り行きを見ている。値段を耳にしても、どうもその価値がわからない。交換レートをいろいろ考えてみたが、今叫ばれている値段が一ドゥカート相当なのか十ドゥカート相当なのか、とっさには判断がつきかねた。
 五十ドゥカート。私は大声で叫んだ。財布の中には、ヴェネチアのドゥカート金貨が入っていた。このあたりでは、金貨といえばディナール金貨を意味したが、ドゥカートやフィオリーナといった金貨も通用した。
 太った男も執事風の男も、もうなにも言わなかった。女の鋭い目が私を捉えた。競り人が私に歩み寄り、金貨を見せろと言う。どうも法外の値段を言ってしまったようだったが、そんなことはどうでもよかった。ヴェネチア金貨を見せると、競り人は満足そうな微笑みを浮かべる。競り人というよりは、売っている当人に違いなかった。
 全部の競りとセレモニーが終わったあと、少し待たされてから、私は女を引き取った。胸には売約済の札が貼られていた。支払いの際、税金を請求されたので、サマルカンドで貰った税免除の証明書を見せると、競り人はなんとあっさりと売買契約書に無税と書き、赤い蝋印を施し、それを私に手渡した。金貨と引き換えに、契約書と女とが私のものになった。
 使節が強奪に遭わなかったら、部屋に隠しておいた財布や税免除の証明書を持って町なかを歩いたりはしなかっただろう。奴隷を買うこともなかったはずだ。神のおぼし召しか、そうでなければ何かのめぐり合わせだろうか。いずれにしても、買ったことに後悔はなかった。
 女はカスティリャ語を話したが、カスティリャ人ではないという。あなたに買われたからといって私はあなたのものにはならない。あなたは大変損な買い物をした。そんなことを言いながら、気の強そうな目で私のことを探っていた。私はこの女と一緒に宿舎であるアルメニア人の家に向かった。並んで歩きながら、この旅の途中何度も目にしてきた解放証書のことを思い出していた。
 解放証書は、奴隷に自由が与えられることを示す書類のことで、裁判の後、法廷によって発行される。解放者はこれから先、解放奴隷に対していかなる関係も持ちえない、また、奴隷はこれから先、一般の人間と同様に扱われる、ということが書かれていた。
 この旅で私は奴隷をたくさん見てきた。そして奴隷制度を呪い続けてきた。この制度は、自分が奴隷にされるのを想像するだけで、容認できなくなる。私は漠然と、この女のために解放証書を手に入れてやることを考えた。女が奴隷だというのがいやだった。
 宿舎に帰ると、私が五十ドゥカートも出して女を買ったということは、もうすでに皆に知れ渡っていた。居心地が悪かったし、質問に答えるのが面倒だったので、私は女を誘って散歩に出た。女は警戒しているというよりは覚悟をしているというような表情をしてついてきた。
 用水路に沿って歩くと、聞こえたことのない水の音がする。鳥の鳴き声が聞こえる。途中気がついて、頭から被る白い布を買い、女に与えた。これで目立つことはないだろうと思ったのだが、歩き方からして違うこの女を風景のなかに溶け込ませてしまうのは不可能だった。私は並んで歩くことが嬉しかった。歩調は自然と合い、呼吸も同じにしている。そんな気がした。
 考えてみれば、カスティリャを出てから、こうして女性のことを意識することなど一度もなかった。商売女を買う趣味はなかったし、歓待され小娘をあてがわれても丁寧に接していた。曲がり角で、私は女の匂いを感じた。今まで感じたことのない良い匂いだと思った。
 少ない会話の中でわかったことは、女がたくさんの言葉を話すということと、世界の地理に詳しいということだった。ラテン語やギリシャ語にも詳しい。バビロンやジェノヴァも知っていた。私の知らないところのことをいろいろ聞きたがったが、女はまだ心を開いていなかった。
 宿舎に帰り、空いていた部屋に女を落ち着かせ、食事を運ばせた。私は自分の部屋に入り、床に敷かれた絨毯の上に仰向けになった。女と並んで歩いただけで、こんなにも疲れてしまっている。私は目を閉じた。女と歩いた道の風景が浮かんできた。白い布を被る前に見せた鋭い眼光を思い出す。女の匂いがよみがえる。
 私は急に思いたって、買い物をしに外に出た。女のためにまず石鹸を買った。カスティリャにいた時にはオリーブの油と海藻の灰から作られたマルセイユ石鹸しか知らなかったが、ここの石鹸はもっと素敵で、とてもいい匂いがした。柔らかくて大きいタオルも何枚か買った。この旅の途中で覚えたいろいろな葉っぱの類や、香辛料、それに救急製品という名の粉末や液状の薬も手に入れた。女のためにする買い物は楽しかった。
 夜になると、誰に聞いたのか、女は私の部屋を訪ねてきた。女の健康状態が気になったので、爪を見たり手や腕を触診することにした。服を脱ぐように言うと、女はやっぱりという顔をした。私はあわてて、上着だけ脱ぐようにと言い直した。気をつけて見ると、手の甲と肘とに小さな傷があったので、そこに液状の薬を塗った。しみるのだろう。女は顔をしかめた。
 買ってきた品物を棚から取り出し、ひとつひとつ説明しながら渡す。女は真剣な表情で聞く。葉っぱの説明には納得できない様子で、さまざまな質問をする。なぜこの葉っぱは、あおいのか。なぜこれは、干からびているのか。その葉っぱの名称は、何語なのか。鍋に入れる時には、そのまま入れるのか。刻むのか。すり潰すのか。盛り付ける前に、取り出すのか。それとも食べるのか。
 女の目はくりくりと動き、なにか小動物を連想させた。好奇心が強いのだろう、どんな小さなことにも目が動く。この石鹸はどうしてこんなにいい匂いがするのだ。このタオルはどうしてこんなにふかふかと柔らかいのだ。この香辛料はどこから来たのか。真剣に聞かれれば真剣に答えるしかないのだが、一所懸命に答を考えても、知らないものは知らない。知らないと言うと、女は私を見て微笑んだ。
 部屋の外にいた案内人に、湯を桶に入れて運んでくるように頼むと、ほどなくして湯が届いた。大きな桶を受け取ると、顔に湯気が気持ちいい。女に椅子に座るように言うと、女は素直に従った。桶を女の脇に置き、足を入れるように言った。女は躊躇した。私は屈んだまま、女の足を取り、湯に浸けた。見上げると、女は困ったような顔をしている。構わずに私は女の足を揉むようにして洗った。女の今までの奴隷としての苦労を思った。それをねぎらうように女の足を洗った。女は怒ったような顔になり、しまいには目に涙をためた。私はそれを見て洗うのを止めた。
 今日買ったタオルのなかで一番大きい、しかも一番ふかふかしたやつを手に取り、それで女の足を包んだ。しばらくそうしていると気持ちいいよと言うと、女はわっと泣いた。私は今度は小さなすべすべしたタオルを渡した。
 まずいことをしてしまったのだと思った。文化が違えば誠意は通じないということを、私はこの旅の間にいやというほど経験してきていた。こちらの好意でしたことが悪意にとられたり、何気ないことが事件の原因になったりした。私は女に素直に謝った。女は泣くのを止め、なにも謝ることはないと言った。部屋の中はとても静かだった。
 私は女に渡した品物をまとめ、布で包み、腕に抱えた。疲れたろう、もう寝たほうがいい、と言った。女は動かなかった。私は品物の包みを女の部屋まで運んだ。
 私の部屋に戻ると、女は部屋の隅で立って待っていた。お湯の桶もタオルも綺麗に片付いていた。女に座るようにと椅子をすすめ、私はベッドのふちに座った。私が名前を聞くと、それには答えず、ひとつ質問してもいいかと聞く。もちろんと答えると、買った理由を知りたいと言う。やっぱり、寝るために、というか、抱くために、というか、私の体で遊ぶために、というか、そういうために私を買ったのか。女は思いつめた顔をしていた。
 どう思う、私は尋ね返した。女は私をまっすぐ見据えて、それ以外には考えつかない、と言った。飽きたら次の男に売るのか。五十ドゥカートより高く売れるとでも思っているのか。私はわからないと言った。実際、なにもわからなかった。なぜこの女を買ったのかもわからなかったし、これからどうしたいのかもわからなかった。
 五十ドゥカートと言われ、私はカネのことを思い出した。棚の裏側に隠した財布を取り出し、その中にあった小銭を女に持たせた。女は訝しげな顔を私に向けた。なんだこれは、私はもうあなたのものだ、いちいち払う必要はない。私は女を見据え、買い物をするにも、なにかを頼むのにも、カネが必要だ、持っていろ、と強く言った。ベッドの脇にあった使っていない布製の財布を手に取り、紐をこうして結べば小銭が落ちることもないと実際に見せたあと、目を見ずにそっと渡した。
 疲れただろう、私も疲れた、もう寝よう、と言った。私はあなたと寝なくてもいいのか、私が嫌いか、買ったのを後悔しているのか、そんな答えが返ってきた。自分の部屋に行って一人で寝るがいい。私も一人で寝る、そう言うと、女はほっとした顔をした。少なくとも私にはそう思えた。
 女が出て行ってからいろいろなことを考えた。奴隷のこと、カネのこと、男と女のこと、そして言葉のことなどにも思いをめぐらした。言葉には興味があった。この旅でも言葉の習得に多くの時間を割いてきた。カスティリャと違い、どこに行っても、皆、三か国語くらいは流暢に話す。私もいろいろ覚えた。語尾の変化で意味の変わる言葉があることも、この旅で知った。
 女は私と話すなかでいろいろな言葉を使ったが、その殆どは理解することができた。発音には微妙な違いがあるようで、私の知っているようなはっきりした音ではなく、鼻にかかったような母音や喉の奥から出てくるような子音を使うように思えた。シという時、スやセが少し混ざったような発音をする。ネという時も、ニやヌが混ざる。どれも不思議に心地よかった。
 それにしても不思議な女だ。私の知っているどんな女よりも広い範囲のことを知っているようだ。ティムールがエンリケ三世に贈った女奴隷のことを思った。男の相手をすること以外にはなんの興味も持ち合わせていないという雰囲気を漂わせていた。サマルカンドで会った後宮の女たちのことを思った。宝石などの目に見えるもの以外には興味を持たない連中だった。カスティリャの女たちのことも思った。自分が生まれ育った町以外の場所がこの世に存在しようがしまいが関係なく、それでいて町の噂話にはどんな些細なことでも精通していた。女たちが歌い踊る姿を思い出す。すると、突然、カスティリャにいる好きだった女のことが甦ってきた。気持ちが通わず、お互いを理解することもなく、結婚まで辿り着くことはなかった。うまくいかず、自棄になり、この使節に応募した。それでも思い出せば、せつない。
 気がつくと、朝だった。いつのまにか寝ていたらしい。表面の粗いタオルをとり、それを腰紐に挿むと、洗面をしに部屋を出た。途中、女の部屋の様子を窺うと、ひと気がない。扉を開けると女はいなかった。部屋はきちんと片付いていた。逃げられた、そう思った。
 急いで外に出ると、なんのことはない、女は外で大きな水瓶のようなものと格闘していた。持てないので斜めにして転がしている。私はとんでいって手を貸した。なんでこんなことをしているのかと尋ねると、女は微笑んで言った。なにをするにも水がいるでしょ、だから運んでいるの。私はそれ以上なにも聞かず、水瓶を転がすのを手伝った。
 水瓶を女の部屋に運び込んでから、私は洗面に向かった。水場には、従者が一人、先に来ていた。おはようと言うと、その男は、ああ、おはようございます、朝食はどうするのですか、と言って私を見た。なんでそんなことを聞く、いつも通りにきまっているだろうが。そこまで言って、私ははっとした。その男は昨日連れて来た女のことをいっているのだ。皆と一緒に食べるのか、それとも、女になにか作らせて、別にひとりで食べるのか、そんなことを言いたいのだろう。私は少しむっとして、いつも通り皆と食べると言い直した。
 朝食後は、トルコ・エジプト両使節とのいつもの合同会議に行った。そこでも、話題は、私が昨日買った五十ドゥカートもする女奴隷のことに集中した。どうだった、昨日の晩は、良かったか。なにを言われても私は我慢した。その女を使って商売するなら一番目の客になってやってもいいぞ。この会議の後で会いに行ってもいいか。明日の会議に連れて来い。さんざんからかわれたが、足止めをくらい暇を持て余しているやつらのことを怒ってもしかたがない。それよりも、と私は思った。いつまでここにいるのだろう。
 まさか夏になってもここにいるなんていうことはないよな。私はトルコの大使を部屋の隅に誘い、小声で聞いた。トルコの影響下にある場所を通って国に帰ろうとしている私たちには、トルコの大使だけが頼みの綱だった。大使は私を真顔で見て、いつまでいるかということは問題ではない、生きて帰ることができるかどうかということが問題なのだ、と言った。足止めをされているからここにいると思うな。ここにいることが一番安全だと判断しているからここにいるのだ。目は真剣だった。
 私はトルコの大使を夕飯に誘った。エジプトの大使なしでか、というので、そうだ、と答えた。オマル・ミルザの役所に届けるのか、というので、いや、と答えた。許可なしでかと念を押すので、たまたま前を通りかかったら夕飯の準備ができていて、なんていうのでどうだと言ってみた。よし、それでは明後日の夕方、カスティリャの使節団員が泊まっている家の前をトルコの使節団員がたまたま通りかかるので、よろしく。私は心の中で笑った。有難うと言った。
 宿舎に戻ると、女は私の部屋の掃除をしていた。部屋は塵ひとつない感じだったので、掃除をしているふりをして私の帰りを待っていたのかもしれなかった。料理はできるかと聞いた。女はできるとは言わず、料理を作るのは好きだと言った。カスティリャ料理を知っているかという問いには、食べたことはあるという。明後日の夕方に三十人前くらいの料理を作ってほしいのだがどうかと聞くと、三十人の嫌な男と寝るよりはずっとましだと答えた。
 私は早速、使節にコックという肩書きでついて来ている男を呼んだ。男はコックでもなんでもなかった。実際、この旅で、この男が作ったものを食べたことは一度もない。なんの役にも立たない男だった。明後日の夕食にトルコの大使を招待したと言うと、男はおどおどとした目を私に向けた。お前が料理を作れないことぐらい、私も知っている。この女に料理の支度はすべて任せるから、お前は、買い物、水や薪の運搬、火をおこす事などでこの女を助ければいい。そのようなことを言うと、男はほっとした顔になり、喜んでなんでもさせていただきますなどと馬鹿丁寧な返事をした。
 あと二日しかないぞと言うと、女とコックは顔を見合わせ、二日もあると言った。大事なもてなしであること、正式に招待することはできないことなどを、丁寧に説明した。カネはいくら使ってもいい。我々の命に比べれば安いものだ。トルコ使節の下働きを見つけ、こっそりと食べられないものを聞いて来い。今の時期、宗教上の理由で食べられないものがあるかもしれない。大使が嫌いなものもあるだろう。そういうことを聞き出すのだ。肉のことだけでなく、香辛料の使い方にも注意をしろ。女もコックも生き生きした顔をしていた。
 二日後の夕方、晩餐の準備を整え、それぞれの持ち場で待機していると、宿舎の前をトルコ使節の一行が通りかかった。私はなぜか外に出ていて、大使を見かけ、なにをしているのかと聞いた。あとは手筈どおりだった。カスティリャ使節の晩餐に、トルコ使節の皆が招き入れられる。そこには、皆の喜ぶ食べ物や飲み物が並んでいる。宴が始まり、両使節の者たちが入り乱れ、座は挨拶も出来ないほど賑やかになる。
 私は大使の横に座り、昼の合同会議では聞くことのできないこと、つまり、生きて帰るためにはどうしたらいいのかということと、いつ頃にどういう判断で出発するのか、そしてどういう経路をとればトルコまで辿り着けるのかということを聞いた。まわりの皆は予想外に盛り上がっており、我々の話に耳を傾けるものなど一人もいなかった。
 大使の助言は端的だった。カネを惜しむな。オマル・ミルザはじめ、チャガタイの連中は皆、盗賊のようなやつらだ。いざという時には出し惜しみをするな。いつもというわけではない。贈り物をしなければならない時には、私が合図を送るから心配するな。出発の時期は私にもわからない。最終的には逃げ出すことになると思う。殺される前に逃げ出していくということだ。逃亡の経路は戦況による。
 逃亡の経路は戦況による。この言葉は私には重かった。そうだ今は戦争中なのだ。そして我々は逃亡者予備軍なのだ。こんな平和な町にいると現状の把握も曖昧になる。自分の認識の甘さを恥じるとともに、この大使を招くことのできた幸運に感謝した。
 用意された食べ物は、皿の上に絵画のように盛り付けられ、口に入れると蕩けるようなものや、さくさくしたもの、噛みごたえのあるものなどさまざまで、ひとつひとつの料理に添えられた香草はどれも食べてしまいたくなるようなものばかりだった。飲み物も素晴らしく、女とコックが時機を見て運んでくる冷たいスープや果物のジュースなどが、からだを気持ちよくさせていた。
 これでもかというように量で押してくるサマルカンドでの料理と違い、今日の料理はどれも洗練されていた。
 宴が佳境に入る頃、オマル・ミルザの役所に送った男が帰ってきた。念のためにオマル・ミルザに礼を尽くす形で、我々の宿舎の前をトルコ使節の一行が通りかかったので食を供している、問題なきや、という手紙を持参させたのだった。答えは、了承、という短いものだった。手紙に添えた現金が功を奏したのだろう。これで夜更けまで大っぴらに盛り上がることができる。私は皆に楽しんでくれと言ってまわった。
 トルコの大使は上機嫌で、カスティリャ使節の皆様の安全は私が保証致します、などという挨拶までした。こんな素晴らしい料理は、はじめてであります。トルコの料理は世界一でありますが、今日の料理はそれを凌ぐかもせれません。大使は飲めば飲むほど言葉が丁寧になっていった。
 宴が終わり、トルコ使節の一行が帰ったあと、私は女とコックを労った。ありがとう、大成功だ。後片付けは明日にして、今日は寝てくれ。二人はしかし、後片付けが終わるまで寝ようとはしなかった。今日の成功が、奴隷として売られていた女と、コックとは名ばかりだと思われていた男のおかげかと思うと、妙におかしかった。
 この宴のあと、女とコックは、それぞれに、皆の信任を得たようだった。コックは皆から見直され、料理を任されるようになった。私の奴隷ということで、女には誰もが距離を置いていたが、それでも朝になれば、シベバシュ、ブエノス・ディアス、ブオン・ジョルノ、ソブ・ベカイール、サハルズ・ヘイール、ギュナイディンなどと、皆、思いつく限りの言葉で、朝の挨拶をした。誰も女の素性を知らないために、どんな言葉で挨拶したらいいのかわからず戸惑っていたのかもしれないし、そんなふうにして楽しんでいただけかもしれない。とにかく女は皆の仲間になっていた。
 私は女を連れてよく散歩をした。ある朝、崖の下から湧き出ている泉を見せてやりたいと思い、水源まで行くので支度をするようにと言ったところ、女はなにを勘違いしたのか、水瓶の小さなものを背負って現れた。それはいらないと言うと、ではなにを支度すればいいのかという。わかった、わかった、なんの支度もいらない、そのままでいい。そう言って、私は女と共に宿舎を出た。
 借りた馬に乗り、川に沿って進んだ。道の両側には立派な樹木が並んでいる。自然にできる並木道などというものはないから、誰かが遠い昔に植えたのだろうが、私にはそれが永遠に存在する景色のように思えた。町を破壊するものが現れても、並木道にまでは思いが及ぶまい。だいいち、並木道を破壊する理由などなにもないだろう。樹齢百年とか樹齢千年とかいうが、木々はとにかく長い間、こうして人の行き来を眺め続けている。今、二人のことを見て、いったいなにを思っているのだろう。
 一旦川から遠ざかり、また川に近づくと、心なしか川が狭くなっている。川辺には高さの揃った草が生え、その緑が目に眩しく映る。風が作り出す草の波を見て、私はなぜか感激した。ひとりで来た時には気づかないことに、気持ちが動く。なんだか、おかしい。
 山に入るあたりで馬を預け、細い道を分け入って、今まで見た中では一番好きな水源に向かった。何日か前の雨のせいで、道はところどころぬかっている。もっとも女には、ぬかるみはそれ程は苦にならないようで、私のうしろを遅れずについてくる。私はわくわくしていた。さあ着いた、あそこをまがれば泉が崖の下から、と言いかけて、私は足を止めた。景色が全然違うのだ。
 崖の下から泉が湧いていてなどという景色ではなかった。崖全体が滝になっている。雨を山全体が吸い込み、木も土も水分でいっぱいになり、こんどはそれが溢れ、滝になって流れ出している。陽光が水の飛沫に当たり、きらきらと輝く。木の葉が風に揺れ色を変える。綺麗、女が言った。私は女を見た。綺麗だと思った。
 その日の午後、私は奴隷の売買契約書を手に、トルコ使節が宿舎にしている少し壊れかけた大きな家に出かけた。入口で大使に会いたい旨を伝えると、大使本人が笑顔で迎えに出てきた。個人的な相談だと前置きをして、売買契約書を見せ、女のために解放証書をとってやりたいと言った。大使はそれは簡単なことだと微笑んだ。書式を整えて裁判所に提出し、費用さえ払えば簡単に発行される。発行の際、解放者が法廷で宣誓し、解放者と裁判長とが署名をすればそれで済む。以前は解放奴隷も出廷し、解放者と共に宣誓をしたものだが、最近では、一方的な解雇という性格を持つ奴隷解放が多くなってきたため、解放奴隷は、殆どの場合、出廷しないという。
 裁判所はオマル・ミルザのものなのかと聞くと、驚いたことに、そうでないものもあるという。タブリーズに昔からある裁判所で事は足りる、中央広場の裁判所がいいだろう、などと言うので、なぜそんなに詳しいのかと尋ねると、大使は、ここではなんでも裁判だからなあと、ため息をつく。私が黙っていると、なんなら書類一式を取り寄せてやろうかというので、お願いすることにする。
 私はトルコ大使に心からの感謝の気持ちを述べ、トルコ使節の宿舎を後にした。大使はなんの詮索もしなかった。尋ねたことに答えただけだった。その職業的な応対に、私は感服していた。あんな風になりたいものだと思った。
 その夜遅く、私は女を部屋に呼び、解放証書をとることにしたと告げた。それをとれば、私はこれから先、女に対していかなる関係も持ちえない。そして、女はこれから先、自由になり、一般の人間と同様に扱われる。そういう意味のことを付け加えた。
 女は喜ぶどころか、えらく悲しそうな顔をした。解放された私が、ひとりで、こんな地の果てでどうやって生きていけばいいのか。あなたはなにを考えているのか。私に、いったい、どうしろというのだ。
 私はこの反応に戸惑った。解放証書をとるということは、この女が奴隷でなくなるということなのだ。自由が、かけがえのない自由が、手に入るのだ。なぜ喜ばないのだ。
 私は女を見つめた。女は相変わらず、悲しそうな顔をしていた。自由が欲しくないのか。私は女の目を見ながら真剣に聞いた。女はずっと私の目を見ていた。
 長い沈黙のあと、女は急に立ち上がり、扉のほうを見ながら小さな声で、どこまでも連れて行ってくれないか、と言った。私は女の前に立ち、肩に手を置いた。これ以上自由について話しても無駄なようだった。私は小さな声で、一緒に来ればいいと言った。女は顔を少しだけ上に向け、嬉しそうに微笑み、小さく頷いた。私を見るその目はとても綺麗だった。
 次の日、合同会議に行くと、トルコ大使が、裁判所に提出する書類一式を渡してくれた。申請人記入欄として、解放者氏名、出身地、解放奴隷氏名、出身地、身体的特徴などが並び、法廷記入欄として、年月日、管理官名、解放条件などが並んでいた。自分でも書けるだろうが、裁判所の前の代書屋に頼んで書いてもらうのがいい。料金は言われた額の倍ぐらい払うこと。そうすれば法廷での審理や事務手続きがスムーズに行く。大使の助言は細かく親切だった。
 夕方、私は一人で部屋にいた。書類を前にいろいろ考えるのだが、どうも考えがまとまらない。ヴェネチアかジェノヴァまで行けば、女が奴隷だなどということは誰にもわからない。ならば、解放証書をとるなどということは必要ないのではないか。いや、確か、ヴェネチアやジェノヴァでも、奴隷の売買契約書は有効なはずだ。だったら、やはり、解放証書をとっておいたほうがいいのではないか。でも、当人が望んでいないものを、なぜとるのだ。俺は考えがまとまらないまま、女を呼び、書類を見せた。
 女は私の話を聞くと、私の目を見据えた。怒っているように見えた。昨日、あなたが一緒に連れて行ってくれると言った時点で、その話はもう終わったのではなかったのか。私はひるまずに自由の話をした。カスティリャでの人間の自由という考え方、人間の尊厳と人間の自由意志について。私は真剣に話した。女に奴隷でない自由な存在になってほしかったのだ。
 女はわかったと言った。今から自由な存在になろう。私は自分の自由意志であなたについて行く。だから解放証書はいらない。
 それでは困るのだ。奴隷を愛するわけにはいかない。一人の自由な女と向き合いたいのだ。そう口にして、はじめて、私は自分の心のなかの変化に気づいた。私はこの女になにかを望んでいた。
 次の日の朝早く、私は一人で、中央広場の裁判所の前にある代書屋に出かけた。代書屋は、奴隷解放のための申請書類をあっという間に整え、私を裁判所の中のいろいろな部屋に案内する。不思議なことに、どこの部屋の係官も、申請証書の端を千切る。代書屋の後をついて裁判所の中を行ったり来たりしていたら、昼前には法廷で審理を受けられることになったのだが、その頃には、申請用紙はその周りじゅうを千切られ、見るも無残な姿になっていた。うまくしたもので、申請用紙が千切られて読めなくなるにつれ、奴隷解放証書が出来上がっていく。なんのために申請用紙を千切るのかは最後までわからなかったが、最終的に、解放者用と、解放奴隷用の、二枚の奴隷解放証書が用意された。
 法廷で宣誓し、まず私が、次に裁判長が、二枚の奴隷解放証書に署名をし、すべてが終わった。解放するものはこの解放証書を売買契約書と共に安全な場所に保管すること、解放されるものはこの解放証書を随時携行すること、などという注意事項が書かれた紙と、書類を入れるための袋を二つ受け取り、私は裁判所を後にした。女にはこのことは言わないでおけばいい。いずれにしても今は、女を守ることのほうが大事だ。そんなことを考えながら、宿舎までの道を歩いた。
 五月十八日の月曜日、オマル・ミルザから手紙が届いた。何度読んでもわけのわからない手紙だった。部下に命じて、あなた方を保護するために、あなた方の所持品を預かり管理しているが、そのことで怒ったりせず、私が父親と和解したことを喜んでいただきたい。近々アッサレクに行き、そこで帰国の許可を与えたいので、招待状が届いたらぜひ来ていただきたい。いかがか。
 いかがかと言われても、持ち物は没収されたままだし、近々アッサレクに行くといったって、いつのことかもわからない。皆にこの手紙を見せ意見を聞いたが、誰からもこれといった意見は得られなかった。
 トルコ使節とエジプト使節にも同じ内容の手紙が届いているはずだから、どう理解したらいいものか意見を聞いてきてほしい。従者の一人を呼んでそう言うと、その男は返事もせずにあわてて飛び出していった。ほどなく帰ってきた従者は、困惑した顔で、トルコの大使からもエジプトの大使からも意見は頂けませんでした、と言った。トルコの大使は近いうちにお見えになるそうです。エジプトの大使はただただ怒っておいででした。
 待つのは辛い。オマル・ミルザからの次の知らせは、いったい、いつになったら来るのだろう。帰国の許可は出るのだろうか。疑問は募る。運の良いことに、カスティリャ使節の仲間は、皆、落ち着いていて、表面上はなんの問題もないような毎日が続いていた。しかし、心の中に溜まった漠然とした不安は、ひとりひとりに重くのしかかっていた。
 私は毎日、それも朝と夕方の二回、女と二人で散歩に出た。女はいろいろなことをよく知っていた。このあたりの歴史にも詳しいようで、ササンやアッパースというような私の全く知らない千年も前のことをいろいろと話した。時代が下って、セルジュクが東から来た侵入者に追い払われ、その侵入者もモンゴルに追い出され、モンゴルからムザッファルが独立し、というようなことならば、どうにか理解できた。ただ、私には馴染みのない名前が多く、同じ話を二度三度、してもらわなければならなかった。
 意外だったのは、モンゴルの話だ。私は、モンゴル人というのは戦闘と破壊だけに長けていたのだと思っていたのだが、女が言うには、モンゴル人は柔軟な思考をし、知識欲が極めて旺盛だったという。たとえば、と女は続ける。カザン・ハンというモンゴルの皇帝は、私の知る限りでは最高の指導者だ。自ら改宗し地元民と融和を図り、チャガタイ語、ペルシア語、アラビア語はもちろん、中国の言語やヨーロッパの言語を習得し、天文学や医学から歴史学や文学まで幅広い分野の学問を修めた。首都だったタブリーズは国際的な学問の都として栄え、その当時はこのあたりの道を中国人やヨーロッパ人の学者が当たり前のように歩いていたのだという。
 ひどいのはティムール達だ。この町だってティムール達が破壊した。それまで私が聞かされていた、モンゴルは破壊しティムールは建設する、というのとは正反対の意見だった。女はティムールとその一族のことをよく思っていないようだった。敵意さえ感じられた。優しい人たちは、いつも負けて滅びる。嫌な人たちは、いつも勝って栄える。そんなようなことを、何度も繰り返した。
 散歩の途中、退屈することはなかった。川に降りて水を飲んだり、流れの音に合わせて歌ったり、川に沿って走ったり、陽の光と一緒に笑ったり、そんな女を見ているだけで幸せだった。
 我々の使節は、神父のアロンゾや軍人のゴメスなど、来たくもないないのに来た連中の寄せ集めだったので、言葉にも注意せねばならず、考えを口に出すことなどあまりなかった。
 アロンゾは細かいことにこだわる男で、途中で会ったすべてのキリスト教信者の悪口を言い続けた。あの儀礼は間違っている、あいつらの信仰心は足らないなどなど、言うだけならいいのだが、そのすべてを報告書に書けと言う。私は些細な儀礼上の誤りなどには興味がなかったのだが、アロンゾに言われるままに、アルメニア人やギリシャ人の悪口を報告書に書き加えていた。使節の中での神父という立場には微妙なものがあり、アロンゾは私の間違いを正したり、私が書いたものを校正したりという役目を担っていた。
 ゴメスは、この旅が余程辛かったとみえ、往路で患い、そのまま帰らぬ人となった。軍人らしく危機管理を優先させたので、すべてに悲観的だった。一歩進むにも警戒を怠らず慎重に事にあたるので、慣れない場所で疲れ果ててしまったのだと思う。慎重が過ぎれば臆病になるという諺がぴったりの男だった。
 従者で何人か、いいやつがいたが、皆、私との距離を保っていた。礼儀正しい態度といえばそれまでだが、なにも話すことはできなかった。
 私にとって、女は、この旅で初めてできた心を許せる存在だったのだ。女も、私に気を許し始めていた。相変わらず名前や生い立ちに関する質問には答えなかったが、とても近い存在になってきていた。夕食後はいつも私の部屋に来て、一緒の時間をすごした。
 二人で市場を歩いている時、女はある小さな店に目をとめ、急に立ち止まった。店には色の付いた粉が並んでいる。香辛料ではない。医薬品でもなさそうだ。白、黒、茶、黄といった見慣れた色の粉は、比較的大きな木の箱に入れられ、輝くばかりの青や赤、鈍い光を放つ金や銀、それに、吸い込まれるような紫や緑といった色の粉は、小さな木の箱に大事そうに収められていた。
 これはなんなのだ。そう私が聞くと、女は絵を描くための粉だと答えた。このあたりでは、壁や床にも絵を描く。色の付いた石やガラスを埋め込んだりはめ込んだりしても、好みの色に仕上げるためにこういう粉は欠かせないのだ。水に溶いて塗るだけでなく、石膏の中に混ぜ合わせたり、壁土を塗る作業の最後に上から叩き込んだりするという。
 内装や外装の工事を職業にする人たちは、こうした粉を自分たちで大量に入手できるので、市場などに買いに来たりはしない。ここに来ているのは、自分の家を自分で飾ったり、趣味で絵を描いたりというような、普通の人たちなのだ。このあたりでは、誰でも絵を描き、詩を作る。そこまで言って、女は黙りこんだ。
 私が白と茶の粉を買い求めると、女は不思議そうな顔をして私を見た。私が絵を描くのが好きだなどとは、想像もつかないのだろう。市場から出ると、女はまた口を開いた。
 ここの人たちは詩を書くのがうまい。詩でないものまでが、詩になっている。案内書でも小説でもいいから、一度声に出して読んでみるといい。どの段落を取っても、それぞれが独立した詩になっている。
 絵を描くことにも長けている。必要のないところにまで絵を描く。例えば、市場の入口の柱、噴水のまわりの長椅子。そういうところにまで小さな模様を描く。注意していれば、いろいろなことに気付く。下水のための陶器の管にまで見事な花柄の模様が施されている。こんな無駄をするところなど、ここ以外にはあるまい。
 そういう詩や絵を愛する人たちが、ただ強いだけの野蛮人に征服され、滅ばないまでも服従させられ、素晴らしいものを次から次へと失っていく。あたりまえのこととはいえ、悲しいとは思わないか。そう女は言って下を向いた。
 私はそれまで、征服される側に問題があり、征服する側に正義があるという考え方をしていたので、それを口にした。
 女は少しだけ黙った後、征服され素晴らしいものを失う人たちのことを思うと悲しくなる、と言った。だからといって征服されてもいいとは言わない。私はあちらこちらで、征服された人々の暮らしを見てきた。戦闘で殺されるのならまだしも、負傷し放置され障害者になったり、財産を奪われ生活手段を失ったり、捕らえられ捕虜になったりして、あらゆる理不尽を受け入れなければならない人たち。すべての自由を奪われ、人間として暮らすことのできない奴隷。その悲惨さは、経験しなければわからない。
 町が征服されても個人の生活は侵害されず、町も個人も征服される前より栄えてしまうということだって、ないわけではない。タブリーズもその一例だろう。タブリーズは占領されてから栄えた。では、タブリーズの住人は幸せか。運が良いといえるか。
 タブリーズの人たちの美意識には、私などには及ぶことのできない、素晴らしいものがある。でも、あの人たちには目標がない。統治者はよそ者で、信じていいものかどうか、誰にもわからい。宗教も法律もすべて外から来たもので、自分たちのものとは言い難い。そんな中で人々は、個人の利益と美意識を、価値の中心に置いた。私の目にはそれが、とても空しく映った。一人一人が蓄えたどんな資産も、家を飾るどんな素晴らしい装飾も、長い時間の中では限りなく空しい。
 悲しいことだが、負けてしまい征服されてしまえばそれまでのこと。女はそんなことが言いたいようだった。
 私は多少の議論をしてみたかった。しかし、女には議論などという次元以上のものが感じられ、私の浅はかな考えをぶつけるのは憚られるように思えた。宿舎に戻るまで、私は黙っていた。女は私の横で、いつものように、なにか遠いものを見るようにして歩いていた。
 ある日の夜、トルコの大使が訪ねて来た。二人だけになると、大使は、オマル・ミルザからの手紙の話をした。あれは、皆、でたらめだ。我々を保護するために我々の所持品を預かっているというのも、オマルがオマルの父親と和解したというのも、オマルが近いうちにアッサレクに行くというのも、皆、嘘だという。
 オマルというのは、父親を殺そうと罠にかけたり、兄弟を獄に繋ぎその嫁を犯し里に送り返したり、とにかくとんでもないことを平気でする。自分が有利になるためなら、どんな嘘もつくし噂も流す。父親とは和解などしていない。トルコの大使はそう言い切った。
 そして、大使は、ティムールが死んだ後の混乱と、後継者争いのことを、理路整然と話した。私は大使の許可を得て、それを紙に書き取った。名前がどれも似ているのと、姻戚関係が入り組んでいるのとで、書き取らないことには理解ができなかったのだ。
 ところで、なんの用事でお見えになったのですか。大使の話が一区切りついたところで、私らしくもなく丁寧に尋ねた。これからのことを一緒に考えようと思って来たのです。大使も丁寧に答えた。前に話したように、許可が出なくても逃げ出さざるをえない状況になるかもしれないし、逆に、追い出されるということだってありうる。そんな緊急時にどうしたらいいかということを話しに来たのだという。
 一緒に行動したほうがいいのか、別々のほうがいいのか。一緒に行くとしたら、指揮権はあなたと私のどちらが持つのか。皆の仕事の分担は指揮権を持ったものが決めるというのでいいか。費用の分担はそれぞれ実費負担ということでいいか。大使は長いリストを目の前に置いて、ゆっくりと話した。
 私は、トルコ使節と行動を共にしたい、指揮権はトルコの大使、仕事の分担はその都度話し合って決める、費用は折半、などなど、計算なしで考えた通りのことを口に出した。大使は、驚いたことに、私の言ったことを全部そのまま受け入れた。
 大使が満足だ、帰る、と言うので、私は、少し飲んでいかないかと誘った。大使は、断るのが苦手で困ってしまうというようなことを言って、私の誘いを受けた。
 サマルカンドの手前の鉄門というところで手に入れた葡萄酒があったので、それを開けた。果物の模様をあしらった洒落た入れ物に入っている。グラスに注ぐと、濃い色が太陽を感じさせる。大使は一口飲むなり、うまい、と言った。それを口に含みながら、私は、報告書が書けなくなってきていることを話した。事実だけ書こうとすると、なんにも書けなくなる。情けない話だが、近頃は三行書くのがやっとなのだ。そんな話をした。
 トルコの大使は私の話を聞いて笑った。そして、私なら余計なことはなにも書かないと言った。三行なんて多すぎるくらいだ。一行で十分。だいたい、書いてなにになるというのだ。私は書く前に、まず関係者に確認をとり、読み手のすべてが納得したことだけを書くようにしている。
 書くということは怖いことだ。私の国では余計なことを書いたために処刑されたものがたくさんいる。大使は続けた。言うのはいい。もっとも上がティムールだったら、余計なことを言っただけで処刑されてしまうのだろうが、幸い私の国では言うのは許されている。しかし、書くのはいけない。
 特に、戦争のことは書いてはならない。例えばだが、あなたの大事な人がくだらない戦争で死んだとする。あなたは、その戦争がくだらないと言えるか。大事な人が戦った側に正義がないと言えるか。もし、そのようなことを言えば、あなたの大事な人は、犬死にしたことになる。だから、あなたは思想信条などと係わりなくその戦争を擁護するだろう。その戦争のことをくだらない戦争だったという人に腹を立てるだろう。
 わかりますか。戦争のことを書けば、誰かがいやな思いをするのです。誰かを褒めれば褒めたで、または貶せば貶したで、人を傷つけたり不利にしたりする。あなたは余計なことを書いていませんか。大使はそう言って私の目を見た。
 私には答がなかった。良く考えてみると、報告書を書くということは、職業的倫理などというのをはるかに超え、殆ど義務のようになっていた。サマルカンドまで行ってティムールに拝謁しカスティリャ国王からの親書を手渡した後、残る仕事はカスティリャに戻ることと書くことだけだった。戻るという仕事は、足止めされているために進まず、書くという仕事は、事実だけを書こうなどという私の思いのためにこれもまた進まない。トルコの大使は、戻るという仕事には大いに役立ってくれそうだったが、書くという仕事にはなんの役にも立ってくれそうにない。こうしてトルコの大使と話してみてよくわかったのは、これからますます書けなくなるという現実だった。
 大使は、私の暗い気持ちを察したのか、雰囲気を変えようという感じで、女の話をした。解放証書のあの方にはお会いできないのでしょうか。それともあの方はあなただけのものなのですか。そう言われて私は、すぐに女を呼んだ。
 女が来ると、大使は嬉しそうな顔をして、私の国の言葉をご存知ですかと丁寧に聞いた。女はエヴェトゥと答えた。そしてしばらくの間、二人はティムールの治世の長所と短所について話した。女は長所として交通と郵便の仕組みや制度を、短所として奴隷や動物を大事にしないことを挙げ、大使は長所として軍事を、短所として人の治め方を挙げた。私は感心して聞いていた。女も大使もさまざまな事に精通していた。
 二人は、私が話に加わっていないのに気づき、話題を変え、タブリーズの浴場の話を始めた。タブリーズでは、ティムール直営の宿屋とか、ティムール直営の茶店とかいうような、ティムール直営が幅をきかせていたが、浴場には、ティムール直営はない。ティムールたちが浴場という趣味を持たなかったためかもしれないし、浴場くらいは好きにさせておこうということだったのかもしれない。
 往路でタブリーズに滞在した時に入った浴場が私には世界一に思えたのだが、二人によれば、そこは決して一流の浴場とはいえないらしい。私の行ったところは公衆浴場だったが、一流の浴場はどこも個人の所有で、紹介がなければ入れない。そういう浴場は、普通、入口だけは男女に別れているのだが、水浴びや蒸し風呂を済ませた後の温水浴槽の部分は混浴になっているという。まさかと言ったら、二人とも真顔で本当だと言った。
 話ははずみ、食べ物や飲み物の話から、歌や踊りの話になり、しまいには紙や筆記用具の話までした。私がいなければ大使と女はもっと難しい話をしたのだろうが、私がいればこんなものだろう。いずれにしても、愉快な晩だった。
 トルコの大使が帰った後、私は女の頬に、はじめて口づけをした。女は怒ったような顔をした。その表情は、はじめてではなかった。女に嫌われているのでもいい。私はその表情が好きだった。
 次の日、私は、使節報告書を大きく書きかえ、しかも旅の間にそれを仕上げてしまうという決心をし、一頁目から清書を始めた。噂や不確かなこと、私の個人的な見方や意見、それにカスティリャの王や国の役に立たない情報などは、できるだけ削除しようと思った。事実として皆が認めていること、私以外の使節団員の見方や意見、それに交通、郵便、通信、上下水道などの優れた仕組みや制度についての観察はできるだけ残すことにした。そして、残りの旅の間は、必要なことだけを最小限書いていくように決めた。
 私以外の使節団員の見方や意見も削除しようと思ったが、それでは皆に申しわけが立たない。特に、旅の途中で死んでしまった使節団員の残した言葉を削るのは、犯罪のように思われた。
 毎日数時間は清書にあてた。一人自分の部屋に静かに座り、清書に没頭していると、ここで足止めされていることも忘れる。なかなかいい時間の過ごし方だった。
 女は私の清書に興味を持った。見せてくれというので清書だけでなく下書きも渡した。私が清書している間、ずっと黙って傍に座り、私が書いたものを読む。
 しばらくすると、女は私に質問を始めた。オマルとアブ・バクルはどちらが兄でどちらが弟なのか。アブ・ダリャとリオ・ビアモは同じ川のことではないのか。二月二十二日迄スルタニヤに留まるというのは、二月二十一日にスルタニヤを出発というのと矛盾していないか。三月五日の水曜日というのは誤りで木曜日だと思うのだが。ビヤンなどという地名はあるのか。それは何語なのか。私は質問の度にその箇所を注意深く読み直し、訂正できるものは訂正した。
 女のほうが私よりも物事や事情に詳しのは明らかだったのだが、女はそれを認めようとしなかった。奴隷は主人の下、という考えかもしれなかったし、女がもともと持っている性格なのかもしれなかった。私は女に、トルコの大使にしたのと同じ話をした。近頃、報告書が書けなくなってきている。事実だけ書こうとすると、なにも書けない。事実っていったいなんだろう。私が感じたこと、理解したこと、考えたこと、そういうことを全部、報告書の中に書くのだろうか。それはエンリケ王の望むところではないはずだ。
 女は事実とはなにかと聞いた。事実とは実際にあったことだと私は答えた。女は私の答えを無視し、静かに話す。ひとつの国のなかにいて、例えばあなたの国で、皆が似たような恋をし、似たような結婚をし、子供を作り、似たような繰り返しを続けていれば、ひとつの事実などという幻想に浸れるかもしれない。でも、私のように奴隷などという身分にされ、売られてしまったりすれば、事実などどこにもなくなる。
 私が今あなたを見ながら、なにを考えているのか、なにを感じているのか、わかるか。わからないだろう。まあ、そんなことは、どうでもいい。例えば、私が今、あなたの優しさのことを考えていたとしよう。でも、あなたにはそれが本当かどうかわからない。それは、あなたが私ではないからなのだ。同じように、あなたにはティムールのこともオマルのこともわからない。わからなければ、なにを書いたって意味はないだろう。
 報告書を書くからには、読む人というのを多少は想定しているのだろうが、あなたは本気でその人たちになにかを伝えられると思っているのか。その人たちは、あなたが見てきた景色のどれひとつも見ていない。あなたがしてきた苦労なんてまったくわかりはしない。
 暴風雨の翌日、森を歩いていて、木が根こそぎに倒れているのに出くわしたとする。それを見てあなたは、前日の暴風雨のせいで倒れた木が道を塞ぎ、などと書くのだろう。でも、木が倒れたのを見たわけではないから、後できっと悩むのだ。この木は本当に暴風雨のせいで倒れたのだろうかって。
 要は、と女は私の目を覗きこんだ。事実だけ書こうなどとは考えないことだ。あなたにとっての事実を書けばいい。王様がなにを望んでいるか知らないけれど、王様にとってあなたの報告書がそんなに重要なものとは思えない。でも、あなたにとって、報告書はとても大事なものだ。だから、王様のためでなく、あなたのために書いたらいい。そう言って微笑んだ。
 私は女の髪にふれた。女はまた、怒ったような顔をした。
 オマル・ミルザは忙しく、我々の帰国許可などという些細なことに構っている暇はないように思えた。西のほうからはグルジアやトルクメンなど各地の反乱のニュースが舞い込み、東のほうからはティムールの後継者争いのニュースが届く。ティムール存命中はそれなりの力を持っていたオマルであったが、ティムールの死後は、サマルカンドから遠く離れ、一人孤立し、後継者争いに名乗りも上げられないでいた。
 オマルとしては、まず父親や兄弟といった肉親との争いに勝たなければならなかったのだが、そうした争いも容易ではなかった。父親を捕虜にすることもできず、かといって和解もままならず、せっかく捕まえた兄弟には逃げられ、その兄弟の許に部下の多くが寝返ってしまう。オマルにとって最悪の状況が続いていた。
 人望がなくても力で人々を畏怖させ押さえつけてしまうというやり方はティムールと同じだったが、ティムールにはあった運というものがオマルにはなかった。一人の盗賊からのし上がり、何度も死線をかいくぐってきたティムールと、皇孫として生まれ、はじめから部下を持たされていたオマルとでは、運という言葉だけでは説明できない大きな違いがあるようだった。
 サマルカンドで会ったティムールの孫ピール・ムハマドも、タシケントのあたりを任され統治しているオマルの異母弟ハリル・スルタンも、オマルと同じ弱さを持っていた。ティムールがのし上がる過程で皆に植え付けた恐怖、決して信じることなく利用するだけして捨ててしまう部下、美しい建造物を作り上げるためだけにいる建築家や芸術家、そういうものを持っていないという弱さだった。
 歴史上で真に選ばれた者だけがもつ狂気の力を目の当たりにし、自分もその力を持つことを夢見て育ち、自分にはそれを持つことはできないのだと悟る時、その絶望はどれほどだろう。
 オマルの父親ミーラーン・シャーが言ったという言葉の中に、そういう持てない者の悩みがよく表れている。私は世界一強いティムールの息子だ。ティムールはもうなにもしなくても歴史に残る。だが私がなにをしても人々の記憶には残らない。私にはなにも残せない。ならば破壊しよう。破壊することで私の名を人の記憶の中に残すのだ。そう言ってミーラーンはタブリーズを破壊した。
 私はこの旅でミーラーンのことをいろいろ聞いてきたが、狂っていると思ったことは一度もなかった。オマルもよくわからない行動をとるが、こちらも狂ってはいない。ティムールの子や孫として生まれ生きることの難しさ、その苛酷さを思えば、私の人生などまだましなほうだ。
 ティムールの後継者争いは混沌としている。オマルがサマルカンドに凱旋しティムールの後継者になるということだってあるだろう。ただそれは私の任務とは関係のないことだった。サマルカンドでティムールに拝謁し親書を手渡したところで私の任務はほぼ達成されていた。あとはカスティリャに戻り報告書を提出するだけである。
 それにしても、と私は思った。なんて意味のない使節だろう。命を懸けた旅の果てに親書を渡した相手はもういない。次に誰が後継者になろうと、親書の意味などなにもない。だいたいこの帝国が存在し続けるかどうかさえわからない。おまけにこの足止めだ。帰国の許可だっていつ出るのか、そもそも出るのかどうかさえ私にはわからなかった。
 オマルが我々の帰国について心配していたとすれば、帰国の許可は絶対に出ない。我々がこれから通ろうとしているところはどこも戦場で、安全の保証など絶対にできないからだ。オマルが我々のことを忘れていた場合も、もちろん帰国の許可は出ない。どこを探しても、我々のことを進言してくれる者など一人もいないのだ。いつまで待ってもなにも起こらないように思える。
 私は、トルコ使節と行動を共にするように決めていた。そうすることで、この行き止まりの道に迷い込んだような状況から抜け出せると信じていたのだ。それでもタブリーズに出口は見えなかった。
 町には、毎日のように、オマル・ミルザに関する風聞が伝えられたが、オマルの劣勢は明らかだった。
 ある日、突然、タブリーズにオマルからの命令が届いた。町ごとに違う命令が下されたようだった。中央広場に貼りだされたタブリーズへの命令書には、ヴィアンでティムール・ベッグの御霊のための葬式と宴会を催すので、羊、パン、葡萄酒、馬、タフタ、礼服などを用意し、要職にあるものは全員出席するように、と書いてあった。また、但し書きのなかに、各使節から預かっているものはすべて直ちに持ち主に返却するように、という項目もあった。
 ヴィアンというのは、タブリーズから四十キロのところにある幕営地で、景色が良いことで知られていた。行くのはそう大変でないという。
 命令の中にある、各使節から預かっているもの、つまり、警察の長に率いられた連中が持ち去ってしまったものは、武器を除き、その大半が戻ってきた。期待していなかっただけに、皆、素直に喜んだ。
 八月十三日の木曜日、手紙を携えたチャガタイ氏族の使者二名がやって来て、私に面会を求めた。私は正装し、使者を迎え、手紙を受け取った。手紙には、ヴィアンで催されるティムールのための宴に是非来て頂きたい、と書いてあった。来れば帰国の許可を与えようというのである。使者に酒を振舞い、喜んで御招待をお受けいたしますというような手紙を急いで準備した。
 その夜、女を部屋に呼び、事情を説明した。私はヴィアンに行く。何日の旅になるかはまったくわからないが、必ず戻るので待っていてほしい。ここは安全とはいえないので、市場の中に隠れ家を用意した。古文書屋という名前の本屋に行けば案内してくれるだろう。女は私の目を見て、黙ってうなずいた。
 私は女に大きな鞄を一つ預けた。公式文書、契約書、手紙、メモ、報告書など、カスティリャまで届いてほしい紙類が一束、それに、地図、貨幣の一覧表、辞書、などといったものが入っていた。使節として大事なものはすべてこの鞄に入れた。
 女にしか思いつかないような場所に鞄が隠され、女にしか思いつかないような方法で鞄が運ばれて行く、そんな夢のようなことを願ったのかもしれない。私は女を信頼していた。
 それとは別に、金貨一袋、銀貨十袋、それに私の日記が入った小さな鞄も一つ預けた。そこには、奴隷売買契約書と開放証書とが厳封された袋も入っていた。隙間には、売ったり贈り物にしたりできるような絹の布を詰めた。
 私の身になにかあった時には、この小さな鞄が、女を安全なところまで届けてくれる。鞄は私の小さな希望だった。
 女は、そんな願いや希望とは関係なく、黙って大小二つの鞄を持ち、静かに部屋を出て行った。
 女が行った後、私は一人の従者を呼んだ。四月の末に警察の長に率いられた乱暴者たちが押しかけて来た時、気転を利かせて金貨や銀貨の箱を床下に隠してくれた男である。お前はここに留まり、この宿舎とここにあるすべての荷物を守るように。何日留守することになるかわからないが、よろしく頼む。私がそう言うと、男は、はい、と答えた。短い返事が頼もしかった。
 夜遅く、女がやって来て、誰にもわからないところに鞄を隠したから安心するようにと言った。私は女を見つめ、はじめて胸に触れた。服の上からだったが、指には不思議な感触が残った。
 死んではいけない。女は私の目を見ながら何度も繰り返し言った。生きていればいいこともある。だから、死んではいけない。私はなにも言わなかった。夜の静けさが、あたりを包んでいた。
 翌八月十四日、エジプト使節、トルコ使節、そして我々という順でタブリーズを出発した。途中、道に迷ったりしたため、夜までにヴィアンに着くことができず、道沿いで火を焚き、交代で休んだ。
 八月十五日の明けがた、ヴィアンに着き、小川の脇にテントを張った。その後、中央の大テントの中に招き入れられ、オマルに謁見し、我々は手筈どおり丁重な挨拶を繰り返した。オマルは愛想よく我々に接し、オマルの部下たちがした狼藉について、なかなか説得力のある釈明をした。私は騙されやすいのか、その釈明を好意を持って聞いた。
 誰にとってもオマルとの謁見は疲れるものだったようで、小川の脇のテントに戻ると、皆申し合わせたかのようにその中に倒れ込んだ。夕方頃、与えられた食事を済ませ、あとは思い思いにからだを休めた。
 八月十六日の日曜日、我々全員が大テントでの宴会に招待された。格別のはからいのようだった。まず、ティムールを称える追悼の言葉が神に捧げられ、その後、見たことのないような量の肉が皆に配られた。贈り物をする順番がきたので、オマルに合うようなウールとシルクの服、それにカスティリャ製の美しい彫金仕上げの剣などを贈った。
 十八日の火曜日、オマルが我々に衣服を贈り、道案内の貴族を指名してくれた。トルコ使節にも同様のことがなされたが、エジプト大使と使節の一行は、なぜかどこかへ連れて行かれてしまった。我々は急いでヴィアンを出発、タブリーズに向かった。トルコ使節の連中も我々も、声を発することなく先を急いだ。
 トルコ大使の顔は憔悴しきっていた。私には想像もできないような緊張を強いられていたのだろう。私のように、ひとつひとつの言葉の意味やその裏の事情もわからず、ただ言われるままに右往左往していたほうが、こういう時にはいいのかもしれない。
 その晩私は、道端のテントの中で、エジプトの大使一行が投獄されたと書いた。たぶん今頃は首を刎ねられ殺されているだろうとも書いた。確かに連れて行かれたところは見た。しかし投獄されたところも殺されたところは見ていない。殺されたのは贈り物をしなかったからに違いない、とも書いた。ほんとうにそうだろうか。エジプトがティムール帝国に反乱を起こしたからかもしれないし、オマルにそうせざるを得ない事情があったのかもしれない。
 私の想像でしかないじゃないか。そう思った。この二年以上にわたる旅のあいだに書いてきた報告書の下書きを、一頁ずつ思い浮かべる。書いた場所を思い出し、書いたことのひとつひとつを検証してみる。すると、真実などどこにもないということに気づく。
 私は間違いなくサマルカンドに行った。ティムールに会って親書を渡した。明からの使節にも会った。そう考えると、確かなことがたくさんあるような気がする。ティムールは間違いなく死んだ。そうでなければ今の混乱はないだろう。エジプトの大使も死んだのだ。現にこのテントの中にいないではないか。
 時は流れる。月日や時間に嘘はない。私が、いつ、どこにいたのかというのは、事実なのだ。その時々の天気も事実として書くことができる。だからといって、西暦千四百五年八月十八日、火曜日、午前は晴れ、午後は曇り、タブリーズに戻る、などと事実を書くだけでは、今日一日のことはなにも伝えられない。報告書の意味もない。
 私はこの間の決心を思い出した。噂や不確かなことは書かない。私の個人的な見方や意見も書かない。それでも書きたいことや伝えたいことがたくさん残る。しかし、だからといって、書きたいことや伝えたいことを報告書の中に書く必要があるのだろうか。私は自問自答を繰り返した。
 十九日水曜日の昼過ぎ、我々はタブリーズに着いた。急いだ割には隊列は乱れなかった。私はまず女に会いに行った。女は私を見て大喜びし、私に走り寄ってきた。元気そうだった。目に涙を浮かべ、無事で良かったと言って私に抱きついた。私は女を強く抱きしめながら、言葉を探した。女の匂いとか息とかが気になって、なんの言葉も浮かばない。女が私のことを心配していたのが伝わってくる。私の目にも涙が浮かぶ。私はまだ死なない。なぜか、そんなことを思った。
 宿舎に戻ってしばらくすると、女が大きな鞄と小さな鞄を持って現れた。私は、小さな鞄の中から、金貨一袋、銀貨十袋、それに、奴隷売買契約書と開放証書とが厳封された袋を取り出し、女に渡した。これからもこれらの品々を預かってくれと頼むと、女は迷惑そうな顔をした。
 女は、一度自分の部屋に戻ると、今度は何冊かの本を抱えてあらわれた。本屋の主人に貰ったという。女を匿ってもらうように頼んだ時に金貨を渡したので、そのお礼かもしれなかった。イブン・バットゥータの旅行記、サーディの果樹園やハーフェズのディヴァンといった詩集、それにペルシャ語やアラビア語の辞書といった高価なものだ。女は嬉しそうに、そして得意そうに、それぞれの本の説明をした。
 イブン・バットゥータが三十年近くを費やして旅行した地域は、モンゴル帝国が支配した地域よりずっと広い。サーディの韻を踏んだ文章と凡人には思いつかないような表現は、なにもかもを美しくする。ハーフェズのやさしい言葉や偽善を嫌う立場には、親近感を覚える。そんなことを言った。手書きとも木版印刷ともつかない頁が、素晴らしい装丁の表紙と裏表紙の間に収められていた。
 私がいいものを貰ったというと、女は心から喜んだふうに笑った。こういうものを手に入れて読もうというのだから、普通ではない。どういう女なのだろう。どこで、どうやって育ったのだろう。何日ぶりかで見る女は、とても綺麗だった。
 トルコの大使は、タブリーズに着くとすぐ、どのような道を通ればトルコまで安全に辿り着くのかを調べるために、人を数人雇い、別々に西の方に放った。翌二十日の夕方までには全員が戻り、トルクメンの反乱部隊を避けること、アルメニア人の多いところには近付かないこと、幹線道路を避けること、などの情報が大使の元に集まった。
 大使は相談があるといってわざわざ私のところまでやって来た。だいたいの進路を示し、説明を加えた。私が、出発はいつになるのかと尋ねると、オマルが指名してくれた道案内の貴族を待ったりせず、できるだけ早くここを出ようという。
 トルコ使節にずっとついて行くがそれでいいか。私は改めて聞いた。トルコの大使は私の目をじっと見ながら、それはわからないと静かに答えた。別れて行動したほうが良いと思う時がきっとくる。それまでは一緒にいよう。
 この大使には、見たり考えたり実行したりという実践的な能力が、すべて備わっていた。
 なにが起きているのかを客観的に見、正確に理解するには、心の目と良く働く頭脳が必要だ。いろいろな要素の中でなにが大事なのかを考え、見極めるには、広い知識と、失敗を含めた経験とが要る。そして、すると決めたことを実行に移すには、誇り、自信、信念といったものに裏打ちされた勇気が不可欠だ。
 考えるに、エジプトの大使は見ることに優れ、私は考えることを得意とし、オマル・ミルザは実行に秀でていたが、それぞれにできない事が多すぎた。それに比べ、トルコの大使はすべてを兼ね備え、聡明で冷静だった。
 それだけではなく、この大使には、心があった。歴史に名を残すような人物には、三つの基本的な能力のすべてを備えているものが多い。ティムールやカザン・ハンといった人たちは、皆、そうした能力を備えていたに違いない。しかし、そいつらには心はなかった。だから私は、そいつらを信じたりはしない。ティムールなど、信じれば殺されるのがオチだ。でも、私はこの大使を信じていた。
 二十一日の金曜日、出発の支度をしていると、町の行政官を装った連中が長い棒を手に現れ、所持品検査をしたいのですべての持ち物をここに並べろ、と要求した。四か月近く前に、警察の長に率いられた連中が押しかけて来て、持ち物すべてを持っていってしまったが、あの時の連中はチャガタイの風貌をしていた。目つきが鋭く、オマルの息のかかった者特有の傲慢さを持っていた。その時とは違い、今押しかけて来ているのは、何かの事情でこの町に流れ着いたよそ者に違いなかった。狡賢い目をし、オマルの力が衰えてきていることに乗じて、少しでも多くの利益を掠め取ろうということのようだった。
 荷物が全部運ばれるのを待たず、独特の光沢を放つサテンの生地や、中国風の華やかな模様のついたカマカン織りの生地、深紅の鮮やかなこのあたりでは見かけない色をした衣服など、目に付くものを片端から鷲掴みにし、これは皇孫様のご命令で、この地方にはこのような質の良いものはないため、欲しがっておられる、代金は後でお支払いになられる、などと言い捨て、馬に乗り一目散に立ち去った。幸い多くのものが残った。
 トルコ使節も同じような目にあっていた。これ以上、こんなところにいても、ろくなことはない。そういう気持ちは誰も同じで、次の日の明け方前に出発するというトルコの大使の提案に反対する者はひとりもいなかった。タブリーズでの長期滞在でたまってしまったものを片付けるのは容易ではなかったが、日暮れ前には出発の準備が整い、ささやかな宴を開くことができた。
 この先、黒海に出るまでの旅は、今まで以上に厳しいものになるだろう。人や自然が我々の行く手を遮るかもしれない。でも互いに助け合い、どうにか黒海まで辿り着こう。私が珍しく真面目に挨拶したので、皆、顔を見合わせた。
 その夜、全員で、旅の間の服装について話し合った。天候の予測がつかないこともあって、服の選択は容易ではなかったが、安全のため、目立たない色のものを着ようということで意見が一致した。
 女については、一見して男にしかみえない格好をしたほうがよいということになり、髪を切り、大きめの服と深めの帽子でごまかすことにした。
 髪は私が切った。髪を短くしてみると、はじめて会った頃に比べ、顔がふっくらとし、表情が明るくなったことがよくわかった。髪が短くなっても、ひげもなく、どう見ても女でしかなかったが、誰もそれは言わなかった。
 八月二十二日土曜日明け方前にタブリーズを出発した。不思議なことになんの感慨もなかった。
 二十四日にペルシャとアルメニアの境にあるコイという村を通過する。アルメニアに入ったからといって風景が変わるわけでもなく、危険が去ったわけでもない。それでも私たちにはキリスト教国に入ったという安堵感があった。
 トルコ使節にとっては、ペルシャだろうがアルメニアだろうが、同じことだった。三年前の七月二十日にアンゴラで、バヤズィット一世率いるオスマン・トルコ軍がティムール軍に大敗を喫して以来、この地域でのトルコの影響力は小さいものとなっていたし、人々のあいだではむしろ敵国という意識のほうが強かった。
 途中、ティムールの軍隊やトルクメンの反乱部隊を避けるために、道を変えたり引き返したりした。飲み水がなくなり、食料も何度か底をついた。その度に、見ず知らずの人たちが我々を助けた。
 九月五日の土曜日にやっとのことでアブニクという所に到着した。皆、疲れ果てていた。女だけが晴々とした顔をしていた。
 七日にアブニク城主を表敬訪問し贈り物をした。城主は快く我々を迎え、窮状を聞いてくれた上で、トルコ使節と私たちとに、安全な道を知る案内人を、一名ずつ指名してくれた。そして、トルコ使節には母国に続く街道の南側の荒れた丘陵地帯を、私たちには黒海のトレビゾンドへ続く街道の北側の山道を行くように勧めた。出発は翌八日ということになった。
 街道を避けるように勧めるのは、両使節の特殊性に配慮してのことだろう。往路で滞在したエルジンジャンやエルゼルムなどの町にも寄らないほうが良いという。こういった助言は、アブニクとトレビゾンドとが敵対しているというような単純な理由によるものではない。このあたり一帯の勢力均衡が崩れ、敵も味方もない無秩序な状況が生じたため、戦闘に巻き込まれたくなければ、盗賊や自然の脅威に身を晒すしか道はないのだった。
 七日の晩、アブニク城主が催してくれた晩餐の後、私はトルコの大使と二人だけで話をした。私が、宗教の違う二人がこんなにも近く感じるのはなぜだろうと言うと、大使は、宗教というのは神を信じるという個人的なことなので、どの宗教を信じているかということはさほど重要ではないだろうと言った。しばらく神のことや信じるということを話した後、私は大使に別れを言った。言いながら涙が出た。
 トルコの大使が私に、女はどこだと言った。別れの挨拶をしたいのだと思い、私はすぐに女を呼んだ。女が来ると大使は、女と私とを並んで立たせ、自分は二人に向かい合うようにして立った。大使はまず私を見た。そして、この女を一生愛せと言った。つぎに女のほうを向いて、この男を愛し続けろと言った。女は下を向いていたが、小さく頷いたようにも見えた。私はずっと不思議な気がしていた。
 大使は、仕事柄、キリスト教の結婚式というのを知っていて、その真似事をしているのではないか。錯覚かもしれなかったが、私にはそう思えた。私は、トルコ大使と別れた後、女と見つめあった。しばらくすると、女は私に微笑み、おやすみなさいと言った。
 九月八日の火曜日にアブニクを出発。アブニク城主が付けてくれた案内人に従って信じられない悪路を進む。
 案内人がこの先の道程のことを詳しく話すので、私は少し訝しく思っていた。案の定、九日の朝、山を登りきったあたりで、案内人は姿を消してしまった。
 十二日の土曜日、アスプリの町が見えてきたところで休憩をとっていると、突然、神父のアロンゾが、街道を進もうと言い出した。ずっと山道ばかりでうんざりしていた私たちは、皆、明るい顔でアロンゾを見た。ただひとり、女が反対した。
 アブニク城主の勧めに従ったほうが良いと思う。女はそう言ってアロンゾを見た。考えてみると、使節の中で女がうちとけていなかったのは、アロンゾだけだった。二人のあいだには、考え方の違いからくる一種のわだかまりがあり、お互いを軽んじているようにも見えた。
 アロンゾは女を睨みつけた。アブニク城主のことなど、信じないほうがいい。現に案内人だって逃げてしまったではないか。反対されたせいもあってか、多少興奮気味に声を荒げる。私はアロンゾと女を促し、みんなから離れ、三人だけで話すことにした。
 アロンゾの言うことはよくわかった。この先、今までよりも厳しい山道を進めば、馬はすべて死んでしまう。盗賊に遭えば、物はすべて奪われ、我々も皆、死んでしまうだろう。だから街道を行ったほうがいい。私はアロンゾの意見のひとつひとつに頷いた。
 女の言うことは少し違った。どんな山道も、どんな盗賊も、王や首長、領主などに比べればより安全だという。今、街道を荒らしまわっているトルクメンの首長の前に出れば、我々の持ち物はすべて没収され、我々は皆殺しにあってしまう。
 アロンゾは、女と二人にしてくれと言った。私はみんなのところに戻った。二人の話はなかなか終わらなかったが、私は邪魔をせず、気長に待った。
 やっと話が終わったのか、二人は笑いながら戻ってきた。アロンゾが意見を変え、山道を行くことに賛成だと言う。女は黙っている。どういう話がなされたのか説明のないまま、また、他の者の意見を聞くこともなく、街道には出ないことになった。
 不思議なことにこの時から、アロンゾと女とは、お互いを尊重するようになった。なにを話したのかはわからないままだった。
 アスプリの町で領主に会い、贈り物をし、窮状を訴えると、領主は我々に食料を与え、案内人を呼んでくれた。案内人はトレビゾンドまでの山道を知っていたが、上り下りの多い大変険しい道だという。
 私が、それは覚悟のことだと言うと、案内人は、では出発しようと言って、腰を上げた。領主は泊まっていったほうが良いのになどと誘ってくれたが、私は皆の気が変わらないうちに山道に出るほうが良いと判断した。領主にはうやうやしく礼を言い、先を急ぐことを告げた。礼の言葉として、イスラム教を信じる領主がキリスト教を信じる我々にまでこのような親切を施すことに敬意を表すると言うと、領主は、困った人を助けるのは人間の道理であって宗教とは関係ないだろうにと、困惑して言った。私はもう一度、礼を言った。
 山道は思いのほか険しく、馬は何頭も死んでいった。盗賊があちらこちらに出没し、そのせいで進路を変えることも一度や二度ではなかった。食料は底をつき、誰もが小さな傷を負い、通りがかりの村々で救いを求めるよりほかに生き延びる方法はなかった。村々の住人は、グルジア人だったり、アルメニア人だったり、私たちが知らない人種だったりした。言語も、宗教も、そして考え方までもが違う人たちではあったが、皆、親身になって我々の世話をしてくれた。天気も良く、運も味方した。誰もが疲れていたが、皆、元気を装っていた。明るいうちはとにかく前に進み、距離を稼いだ。そして私たちは、やっとのことで、黒海の見える所に辿り着いた。
 山の上から海が見えてきた時の感激は、いつまでも忘れられないだろう。あの海が我々をカスティリャまで連れて行ってくれるのだ。そう思うだけで、足場の悪さや盗賊の危険といった、それまで存在していたいろいろな問題が、あっという間に消えていく。私は、なにもかも忘れ、じっと海を見た。
 海には半日もあれば着くことができそうに思えた。しかし、そんな私の気持ちとは裏腹に、現実は最悪だった。馬の数は減っていた。残った馬には余計な負荷がかかり、これからの急な下り坂を耐えられるかどうか疑問だった。かといって馬なしで運ぶことのできる荷物の量でもなかった。おまけに、誰もが疲れ果てていた。
 海を見ながら休んでいると、なにか周りに人の気配を感じる。女が、あっ、という。女の視線の先には、男が二十人ほど見える。なにも言わず、岩陰からじっとこちらを見ている。盗賊だ。
 私は正直なところ、もうだめだと思った。盗賊たちの視線は、鋭く強い。海が見えてきた時の感激は、とうに失せていた。
 その時、なにを血迷ったのか、神父のアロンゾが盗賊たちのほうに向ってにこやかに歩き出した。そして、良い所でお会いすることができて嬉しいなどと、カスティリャ語で話しだす。
 女がアロンゾを追って走り出る。女は盗賊たちに、私の知らない言葉で話しかける。通じる言葉を見つけたのか、急に明るい声になり、こちらもなにかを話しだす。通訳をしているようにも見えるし、通訳をするふりをして勝手なことを言っているようにも見える。
 盗賊たちは、女の手の合図に合わせて岩陰から飛び出し、機敏な動作で私たちが持て余していた荷物を持ちあげると、海のほうに向かって歩き出した。私たちは、皆、ただ呆然とそれを見ていた。
 気が付くと、神父と女は、もう盗賊たちと歩き出している。私たちはあわてて後を追った。
 海までの下り坂で私は女に向かって、あいつらは本当に盗賊なのかと尋ねた。女は、知らない、と短く答える。アロンゾにも同じことを尋ねた。アロンゾは、たぶん盗賊なのだろう、と答える。私の頭は混乱し、周りの景色から現実感が失せていくのを感じていた。
 十七日の木曜日に、やっとのことで黒海沿いの町トレビゾンドに到着。まず小船を一艘借りてきて、盗賊たちが運んでくれた荷物をその船に載せる。次に宿を見つけ、盗賊たちに食事を振舞う。女が言うには、盗賊たちは何度も感謝の言葉を口にしているという。
 私にはなにも理解できなかった。私たちを助けてくれた盗賊たちが、私たちに感謝している。私は、明の使節から貰った赤い小袋を用意し、袋いっぱいに銀貨を入れ、それを盗賊たちにうやうやしく渡した。盗賊たちはなにやら話し合っていたが、突然全員で立ち上がり、私たちに抱きついてきた。感謝の表現のようだった。
 その後、盗賊たちは銀貨を分け、あっという間に町の中に消えて行った。
 私たちは宿に部屋をとった。みなそれぞれに体を洗ったり、汚れた服を洗濯したり、体を伸ばして寝転んだり、思い思いに寛いだ。身なりがみすぼらしくなっていたので、服を買い足そうと市場に足を伸ばしたのだが、私に合うものは見つからなかった。そのかわり、ヴェネチア風の女物の洒落た服と、先の尖った靴があったので、女のために買った。
 夜、二人だけになった時に、贈り物だと言って服と靴を渡した。女はそれを見て、怒ったような顔をした。この顔を見るのは久しぶりだった。お願いだ、それを身に付けて見せてくれないか。私がそう言うと、女は服と靴を胸の前に抱え、部屋から走り去った。しばらくすると、女が扉の隙間から上気した顔をのぞかせた。そして私を見て微笑み、静かに部屋に入ってきた。ヴェネチア風の服も先の尖った靴もとてもよく似合っていた。
 盗賊のことや、しばらく書けなかった報告書のことが、気になっていた。できることなら部屋に落ち着いて、皆と話をしたり、書きものをしたかったのだが、私は船便の情報を得るために、町なかを走り回った。
 買い物をしている時に、店番の男から、どうもこのあたりにジェノヴァ船が来ているらしいという話を聞く。確かめてみると、ヘーゼル・ナッツを積んでペラに向かう船が、プラタナに停泊しているという。我々は急いで荷物を載せた小船でプラタナに移動した。船長と直談判し、乗せてもらえることになった時には、私は狂喜し、海に飛び込んだ。ぶざまだったが、それくらい嬉しかった。船は、九月二十八日にプラタナの港を出発し、順調とはいえない航海の後、十月二十二日にペラに到着した。
 ペラでは、カッファからジェノヴァに向かう途中の大型帆船を見つけ、乗せてもらう交渉に成功した。カッファというのは黒海北岸クリミア半島にあるジェノヴァの拠点で、スラブの若い娘たちを攫ってきては奴隷として売り、また若い男たちを言葉巧みに登録させては傭兵として売るという、私の趣味にはまったく合わない下品な町だった。五十数年前にヨーロッパ全土を絶望の淵に追いやったペストをヨーロッパに持ち込んだのも、今麻薬を世界中に撒き散らしているのも、カッファのジェノヴァ商人だった。できればそんな町から来た船に乗りたくはなかったが、そんな贅沢なことを言っている場合ではなかった。
 この大型帆船は十一月四日にペラの港を出た。船は、香辛料、絹織物、綿織物などで一杯で、今にも沈みそうな気がするほどの、大量の物資に囲まれての航海になった。我々の荷物も増えていたが、この物資のなかにあっては、埃のような存在でしかない。
 この船の航行は順調で、十一月三十日にはシシリアに着いた。しかし、十二月に入ると悪い天候が続き、なかなか前に進めず、船員は皆、苛立ち、我々はわけもなく気をもんだ。ジェノヴァに着いたのは、翌西暦千四百六年、一月三日の日曜日のことだった。
 船が着いた桟橋で、子供たちが走り回っている。旅の間、こんなに大勢の子供たちを見たことがあっただろうか。ぼんやりとそんなことを考えた。子供のいない町など、あるはずがない。気がつかなかっただけなのだろうか。それとも子供たちの存在が私の目には入ってこなかったのだろうか。
 本当に私は旅をしてきたのだろうか。そんなことも考えた。不思議なことに、サマルカンドも、タブリーズも、遠い幻にしか思えなかった。
 形ばかりの検疫の後、下船し、早速、港の近くに宿をとった。それぞれの部屋に落ち着き、からだを伸ばしたり髪を洗ったりしてから、全員で宿の隣にある料理屋に向かった。どの顔も輝いていた。ジェノヴァに着いたことが、なんともいえない喜びだったのだ。使節団員全員が心から楽しんでいるのは、この旅で初めてのことのように思えた。その晩は遅くまで、気持ちのいい宴が続いた。
 宴のあいだじゅう、タブリーズを出てからの四か月余りのことが、次から次へと思い出された。良い思い出ばかりではなかったが、どれもこれも懐かしかった。途中で会った人たちの顔が浮かんだ。何百、いや何千という数の顔だった。
 我々を助けたところで、なんのいいこともないのに、助けてくれた人たち。多くの見ず知らずの人たちが、異国の異教徒に理由もなく手を差し伸べてくれ、道を教え、船を探し、宿を与えてくれた。ティムールやオマルが理由もなく人を殺めたのと同じように、見ず知らずの人たちが理由もなく我々を助けてくれたのだ。
 私は、女と二人だけになると、ずっと気になっていた盗賊のことを聞いてみた。あの時なにが起きたのか説明してほしい。盗賊たちはなぜ我々を助け、なぜ我々に感謝したのだ。
 女は私の質問に直接は答えず、盗賊のほうが、国の威信などと言っているような人たちよりも、少しだけ質が良いという、ただそれだけのことだ、と静かに言った。
 女のこういうやり方に慣れていた私は、それ以上は聞かなかった。人間というのは不思議だ。あなたを奴隷として売ったり、訳もなく他人を殺したりするかと思うと、なんの縁もない通りすがりの我々を救ってくれたりする。
 女はふっと笑い、主人が奴隷に向かって、あなた、と呼ぶのはおかしいと言った。私は、苦笑いのような曖昧な笑いを返した。いつだって、あなたと呼んできたはずだ。なんで今頃になってそんなことを言うのだろう。ふと見ると、女は真面目な顔をしていた。私もつられて真面目な顔になった。
 私は、タブリーズで話して以来なんとなくごまかしてきた奴隷解放の話題に戻らなければならないと思った。女は、私が裁判所に行って解放証書を取ってきたことを知らない。今でも自分のことを奴隷だと思っている。私は解放証書などという紙切れとは別の次元で、女に自由になってほしかった。ここはタブリーズではない。ジェノヴァなのだ。しかし、それをどう切り出したらいいのか、わからなかった。
 女は、タブリーズで預けた金貨一袋、銀貨十袋、それに厳封された袋を、手荷物から取り出した。そして、私を解放して自由にするという話をしたいのか、と静かに言った。いつものことだが、心は見透かされている。そんな気がするだけかもしれないが、女の勘は鋭い。袋の中に奴隷売買契約書が入っていることぐらいは、感づいているのだろう。でも、解放証書が入っていることまでは、わかるまい。
 私は、女と向かい合う決心をして口を開いた。ジェノヴァまで来たんだ。もう奴隷でいる必要はないだろう。奴隷売買契約書があるといっても、私が効力を主張しない限り、意味を持つまい。それよりも、あなたのことが知りたい。どこで生まれ育ち、どんなことがあって、あんなところで奴隷として売られていたのだ。それが言えないのなら、せめて名前だけでもいい、教えてくれないか。
 女は、今まで一度も見せたことのない表情を浮かべ、私の目を凝視した。私はあなたに買われた。私はあなたのものだ。だから、なんでも話す。なんでも話すから、私を売ったり捨てたりしないでほしい。そう言って私を見つめた。そして、生まれてから私に買われるまでのことを話し始めた。
 生まれたのは、なんと、ジェノヴァから海岸沿いに五十キロほど行ったところにあるサヴォナという町だという。人さらいにでもさらわれたのかと思って聞いていると、どうもそうではないらしい。不自由なく恵まれて育ち、結婚の話が舞い込むようになった頃、ある宴席でカッファのジェノヴァ商人と出会い、恋に落ち、親にも言わずカッファ行きの船に乗る。その後は、聞かなくてもいいような、どこにでもある話だった。
 女の話は明瞭で、よくわかった。サヴォナを出てから今に至るまで、七年の歳月が経っていた。話し終えてから、女は、ひとつだけわからないことがあると言った。なぜ、私を買ったのだ。今まで一度たりとも私と寝ようとしなかったのは、なぜなのだ。
 私はそれには答えず、女の名前を尋ねた。女はそれには答えず、もう一度、なぜ買ったのだと尋ねた。そして、なぜかおかしくて、二人で笑った。
 私はサヴォナに行かなければならないと思った。
 翌一月四日の朝、港に出ると、我々を乗せてきた大型帆船の船長が、桟橋の上に大げさに設えた食卓で朝食をとっているのに出くわした。私が丁寧に礼を言うと、二月一日にカスティリャのサン・ルカールに向けて出るジェノヴァの船があるので、口を利いてやろうという。私はまた丁寧に礼を言い、船長が食事を終えるのを待って、一緒に交渉に出かけた。
 二月一日出港の船に乗せてもらう手筈は簡単に整った。前金を払い、簡単な契約書のようなものに署名をするだけだった。私は大型帆船の船長に謝礼を渡し、宿に戻った。昼食兼会議ということで皆を集め、二月一日に出港すること、それまでは自由行動とすることなどを提案した。誰にも異存はなかった。一月二十九日にこの宿に集合ということで、皆の意見がまとまった。
 私は、その日の午後をジェノヴァ見物にあて、青空の下、寒風に吹かれながら、女と二人、目的もなく歩き回った。人がいないところで私が女の肩に腕を回すと、女は私の腰に手をやった。
 港のまわりは雑然としており、事務所や倉庫、それに宿屋や料理屋などが立ち並び、一日中、人が絶えなかった。アルプスのほうからは毛織物が、またアルプスの向こう側からは銀が集まってきていたし、外国からは、絹織物、綿織物といった繊維製品をはじめ、ナツメヤシ、イチジクといった食料、薬剤とも香辛料ともつかない粉や豆、真珠やミョウバンといった宝石や鉱石などが、運ばれて来ていて、カネさえ出せばなんでも手に入りそうな雰囲気が漂っていた。
 品数や珍しいものの数ではタブリーズより少なかったが、量ではジェノヴァの港のほうがはるかに多かった。見上げるようなコショウの山を見た時にはそれがコショウだと理解するのに数分かかり、そのあとくしゃみがとまらなくなった。葡萄酒の貯蔵場の前を通った時には、そのあまりの量に地獄の池だと思い込み、思わず走って逃げ出した。絨毯の倉庫の中では、そこにある絨毯の総額を計算しようとして、軽い頭痛に見舞われた。そんなように、自分でも情けないくらい、量に圧倒され続けた。
 港の喧騒から少し離れると、庭園とも果樹園ともつかない緑に囲まれて、美しい家々が並んでいる。このあたり特有の落ち着いた雰囲気が、私たちの気持ちを和らげる。歩くだけでも気持ちがいい。驚くようなものはなにもないから、刺激を求める人たちは寄ってこない。そんな平和な空間が、どこまでも続いているのだった。
 その晩も、女は、なぜ私を買ったのだという質問を繰り返した。私も女の名前を尋ね続けた。女は名前なんてなんでもいいのだと言った。売られる度に名前が変わったとも言った。なんなら、新しい名前を付けてもらってもいい。できたら、あなたの国の名前がいい。そんな事も言った。
 一月五日の火曜日の朝、神父のアロンゾと一人の従者が、真面目な面持ちで私の前に現れた。ぜひとも話したいことがあると言う。二人とも、そういうもったいぶったことをするタイプではないので、私は何事かと身構えた。
 アロンゾは、教会がアヴィニョン側とローマ側とに分裂しているのは知っているだろうと言って、説明を始めた。アヴィニョン側とローマ側のそれぞれに教皇が立てられていたのだが、アヴィニョン側教皇のベネディクトゥス十三世は二年以上前にアヴィニョンから追い出され、ローマ側のインノケンティウス七世は去年ヴァティカンから追い出されていた。それぞれに後ろ盾を失い、正当性を疑われた結果だった。
 カスティリャはいつもアヴィニョン側に付いてきたのだが、近年諸勢力が一斉に教皇再統一に動き出したため、その立場を決めかねていた、というあたりまでは聞いていたが、あとは頭に入らない。さすが神父、よく知っている。しばらく聞いているふりをしていると、いきなり結論がやってきた。現在、インノケンティウス七世はヴィテルボに、ベネディクトゥス十三世はサヴォナに居られるというのだ。
 私は、サヴォナと聞いて正直驚いたが、できるだけ無表情に、では、ベネディクトゥス十三世にご挨拶に伺おうではないか、と言った。サマルカンドに至るまでの各地の諸事情や、それぞれの土地を統治する各勢力について、奏文を献上し、拝謁してご説明申し上げたほうがよかろう。自分でもなんだか言葉遣いが変になっているのを感じたが、そんなことはどうでもいい。サヴォナに行く良い理由ができたのだ。
 アロンゾと従者に、サヴォナに行きたいのかと聞くと、アロンゾは、たとえ教皇に拝謁できなくても行くと言う。従者が、他の皆も行きたいに違いないと付け足す。私はたいして考えもせず、では明日出発としよう、と言った。
 一月六日の水曜日、自由行動と決めたはずなのに、全員が集まり、サヴォナに向け出発した。海岸沿いの道は起伏がある上に歩き難く、夕方、薄暗くなった時点で、先に進むのは諦め、海沿いの宿に一泊した。波の音が聞こえ、風が雨戸を叩き、よく眠ることはできなかったが、この季節は暖かいだけでもありがたい。
 翌日は、日が昇らないうちに出発した。女は朝から殆ど口をきかず、私の傍を離れることもなくなった。そして、サヴォナが近づくと、頭から布を被り下を向き、前を見ずに歩いた。
 サヴォナでは、町の中央に宿をとった。港からそう遠くない場所だった。外で走り回る子供たちの声が、部屋にいてもよく聞こえる。子供たちの明るい笑い声が、町じゅうに溢れているのだろう。
 少し休んだ後、宿の料理屋で昼食をとったが、女は私の部屋に入ったきり出てこない。皆は私にそのわけを尋ねたが、私はひたすら笑ってごまかした。教皇に拝謁を求める件はアロンゾに任せ、従者たちには町の見物を勧め、私は部屋で女と向かい合った。
 どうする。私はそう切り出した。ここまで来て、奴隷でもないだろう。家族のもとに帰るにしても、そうでないにしても、ここでなら自由になっても困らないはずだ。仕事だって見つかるに違いない。
 女は私を見つめた。そして、私が嫌いか、と言った。私がそういう問題ではないと言うと、女はそういう問題だと言った。私はあなたのものなのだ。だいたい、勝手に家を出て船に乗り、挙句の果てに奴隷にされてしまった人間が、どういう顔をして家に帰ればいいのだ。
 頭で男を愛したことがある。許婚だ。親に最高の男だと諭され、そう思い込んだ。心で男を愛したこともある。私を騙した男だ。愛していると言われ、私もその気になった。でも今は、私の全部があなたを欲しがっている。
 私は欲しがっていると言われて動揺した。私はこの女を愛していた。ただ、女が私を愛しているとは一度も思わなかった。それが今、変わった言い方で愛していると言われたのだ。動揺を見せまいと、私は女の目を見続けた。
 そうはいっても皆に会いたいだろう、と私が言うと、女は、それは、と言ったきり黙りこんだ。
 私は重苦しい雰囲気から逃れようと、今日はここでゆっくり休もうと言った。女は少しだけ微笑んで小さく頷いた。この日はじめての微笑みだった。
 時はゆっくりと流れていた。髪をなで、服の紐を解き、この世で一番美しいからだを見た。女のすべてを包みこむように抱くと、女はなにもかもを私に預けてきた。長い口づけの後、私は愛していると言った。
 夕方になってアロンゾが戻ってきた。そして、教皇にはいつでも拝謁できると、いとも簡単に言った。
 でも、だからといって、明日、早速、拝謁を願い出るというわけにもいかないだろう。拝謁のための正式な手紙、各地の諸事情を説明するための資料、カスティリャ使節からの贈り物、サマルカンドからの土産物などなど、それなりに用意し、包むものは包み、紐をかけるものは紐をかけ、蝋で封印しなければならない。私はいろいろと考えた。
 用意にはどれだけの日数が必要か、と皆の前で尋ねてみると、アロンゾは、一日、と答えた。私が、それは少し短かすぎないか、と返そうとすると、アロンゾはそれを制して、明日、一日かけてすべてを用意し、明後日、教皇に拝謁するということでどうだろうかと、皆を見渡した。そして誰も意見を言わないのを見てとり、ではそういうことで、と言って私を見た。
 一月九日の土曜日、寒空の中、それが教皇に拝謁するのに適した日かどうかもわからないまま、我々は教皇が仮住まいされている館まで、静々と出かけた。館は港を見下ろすことのできる高台にあったので、大きな荷物を抱えて狭い坂道を上って行かなければならなかった。一人でも多いほうが良いだろうというアロンゾの提言で、全員が出かけることになっていたのだが、直前に私の命令で、女と従者一人は一行から外れた。女は宿から出たがらなかったし、私が外した従者は長い旅の後で信仰心を失っていた。
 なんの予備知識もなく出かけたのだが、ベネディクトゥス十三世は、なんと、カスティリャの隣国、アラゴンの生まれだった。教皇にしては終始落ち着きがなく、サマルカンドまでの行き帰りの出来事や、それぞれの土地を統治する各勢力についての説明を、すべて途中で遮った。私はなにも説明できなかったかのような印象をもって御前を辞した。唯一の収穫は、ベネディクトゥス十三世からエンリケ三世宛の親書と贈り物を託されたことだったが、たとえそのことでアロンゾが上機嫌だったとしても、拝謁がうまくいったとは言えない気がした。
 なにか腑に落ちない。どこか落ち着かない。いやな感じがする。あの威厳のない男が本当に教皇なのだろうか。人々が尊敬し、敬愛し、畏怖するような存在でなくても、教皇がつとまるのだろうか。威厳がない。明るさもない。ティムールやオマルと比べるのは間違っているとしても、この旅の先々で出会った責任ある立場にある男たちの誰に比べても、まわりを圧する気に欠けていた。敵国との交渉や少人数の部下たちの命を任されることになったトルコ大使や、狭い地域を治めるという運命を持たされたアブニク城主といった、教皇よりはるかに小さな責任を持たされた男たちのほうが、格が上だった。少なくとも私には、そう感じられた。
 そんなことを考えながら宿に戻ったのだが、ここで私たちは困った問題を抱えることになる。一行から外れた二人、つまり女と信仰心を失った従者とが、我々が教皇に拝謁に行っている間に、姿を消してしまったのだ。夕食の際の話し合いで、一月二十九日にジェノヴァの宿に集合、それまでは自由行動、という以前の約束を確認し、失踪した従者はアロンゾが、女は私が、それぞれ責任を持って探すということになった。
 女が宿にいないというつらさは、考えもしなかったほど大きく、考えはなかなかまとまらなかった。女は自分が生まれたところに戻り、自由になり、幸せを取り戻すのだ。これは良いことなのだ。そう自分に言い聞かせる。私がつらくても、女が幸せならそれでいい。探して連れ戻す必要などどこにもない。そう思うと、つらさは悲しさになる。その晩、私は、一睡もできなかった。
 次の朝、部屋がぼんやりと明るくなってきた頃、私は女の手紙を見つけた。今まで気が付かなかったのが不思議なくらい、机の中央に真直ぐに置かれていた。ルイ・ゴンザレス様とある。はじめに私の筆記用具を無断で使うことの非を詫び、次にカスティリャ語でなくラテン語で書くことを私が快く受け入れることを願い、契約を破ることの間違いをあなたが許してくれるかどうかわからない、という書き出しで、文章のなかに女の気持ちがしたためられていた。
 女の書いた字を見るのはこれがはじめてだった。温かみのある字が整然と並ぶ様は、女そのものだった。どの行も真直ぐで、行の間隔は定規で測ったかのように等しく、字と字の間隔も計算し尽くされているかのようにあけられていた。文は韻を踏み、単語は選ばれて使われ、たぶん他の誰にも書くことのできない不思議な文章だった。何か月もかかって書かれた詩のようでもあったが、これはまぎれもなく女が私に宛てて急いで書いた手紙なのだ。

   ―――――

契約を守らぬことの間違いをあなたが許してくれるかどうか
わからないあなたに買われ気がつけば生まれた場所で息をしている
出て行けば奴隷だという契約を破棄するような無視するような
契約に意味などないと思えども破ってしまえばそれは過ち
間違いを犯したのだというのなら私が奴隷と認めることに
責任はどんなことでも引き受ける覚悟はあるか迷いはないか
なにをしても許すことのない神に私のことは見ないでいてと
行くことをもしもあなたが許すなら親に会いたいもう一度だけ
良心に従っていればいいのだと私の中のあなたが笑う
何をしても許されないのは神の国あなたといれば行けなくてもいい

奴隷として売られてからの運命を神が与えた試練だなんて
思えない神が本当にいるのならなんなのだろう私の見たもの
信心の無いところでのことならば仕方がないと神は言うのか
騙されて船で運ばれ連れられて気づいてみれば奴隷の身分
私が見た酷いことの数々は神を信じる人によるもの
敬虔な信者が私を玩具にし飽きれば次に売り渡すだけ
脅かして売春婦にして働かせ暴力振るう胸に十字架
忌わしく思い出される醜男の神への祈り悪魔の囁き
キリストの気持ちを知っているのならなんで略奪なんで強姦
堪らない気持ちが重く積もっても神をうらむ気持ちにはなれず

絶対に神などいないと思いし日にあなたに出会う私の運命
桶の湯で足を洗ってくれた晩部屋に戻って一晩中泣く
買ってくれた服を抱いて寝るうちにあなたのことを夢に見ている
懐かしい優しい夢を思い出す私を抱いて連れて行く人
神を信じられなくても構わないあなたを信じ幸せでいる
この町で生まれ育ったはずなのに帰ってみれば知らない景色
突然に私がいなくなってから母は病に父は虚に
噂を聞きもう会うこともないものと諦めていた父母がいる
宿にいる女は我の娘かと人を遣いに出した両親
使用人を入口で待たせこれを書く静かな心不安な気持ち

書くほどにあなたの心は遠くなりわかってくれることを祈るだけ
両親の許に行くのは見舞うため帰るところはあなたのところ
カスティリャへ向かう運命のあなたでも私のなかのあなたはここに
必ずやあなたのところに帰るから待っててくださいなにがあっても
次に会う時はすべてがありのままあなたにとって私は女
わがままな私が泣いても怒っても優しく包むあなたは不思議
いつまでも離れることなくそばにいて欲しいというのが私の願い
ここを出て一キロ南の海岸にサンタヴェネーレの家は佇む
海風が嫌な思い出を吹き飛ばすあなたのことはなにがあっても
忘れないではまたお会いする時にいつもあなたのフランチェスカ

   ―――――

 これだけをあっという間に書いていなくなってしまった女のことを、不思議だと思った。そして私はなぜだか、落ち着かない気持ちになっていた。女が私のところに帰ってくる。私のところに。
 女をひどい目にあわせたのが、皆、キリスト教徒だったというのは、意外な気がした。女は常々ティムール達のことをとても悪く言っていたので、私は勝手にチャガタイの風貌をした男たちの残酷な行為を想像していたのだった。
 私は、一行一行に目を止め、その意味を考えた。いろいろなことを思った。なぜ名前を書いたのか。サンタヴェネーレというのは苗字なのだろうか。家の場所を書いたということは私に来て欲しいからなのか。考えても、答えは浮かばない。
 女が出て行ったことは悲しく、しかし、女が私のところに帰ってくると書いたことは嬉しく、私はその日ずっと、揺れに揺れた。
 翌日、アロンゾ、一人の従者、私という三人を残し、使節団員の大半はジェノヴァに向かった。行方不明の従者からは、なんの連絡もなかった。もっとも、アロンゾと一人の従者がここに残ったのは、いなくなった男を捜すためなどではなく、ベネディクトゥス十三世と少しでも強い繋がりを持ちたいという欲望のためだった。この二人は、教皇との繋がりということの意味と、そのことがカスティリャに帰ってからどのような価値を持つのかということを、よく知っていた。
 アロンゾと一人の従者は、毎日のように教皇のところに出かけて行った。私のところにも意見を求めに来たが、たいした意見も言えず、また助言もできなかった。私には女がいないという現実があった。私は久しぶりに一人だということを感じた。女がいなくなってからのサヴォナでの二週間半の滞在は、考えるということの繰り返しだった。いろいろなことを考えた。考えはぐるぐると回り、答えはでない。これが考えるということなのか。考えるということに意味はないのだろうか。
 旅のことを考えた。旅のあいだ、ずっと、私は人間の多様性に驚嘆し続けた。誰一人として同じ人間がいないという不思議さに打たれた。顔も、声も、好みも、すべてが違う。何万、何十万、いや、何百万という個体の違い、その特性の差異に私は驚き続けた。ティムールは二人いない。あのような力を持った人間には二度と会うまい。正直な顔、狡賢い顔、素朴な顔、狂信的な顔、日焼けしていたり、青白かったり、笑っていたり、怒っていたり、そういうたくさんの顔に出会ってきた。同じ顔を持った人間はどこにもいなかった。
 報告書のことも考えた。タブリーズで、事実とはなにかを考え、挙句の果てに一行も書けなくなってしまったことを思い出した。トルコの大使に、書くということは命に関わることなのだと言われたことや、女に事実などどこにもないのだと言われたことが、昨日のことのように甦ってくる。あの頃から、書くことには責任を持とうという覚悟ができてきた。おかげで、タブリーズを出てからの記述はしごく簡単なものになってしまっていたが、私はそれでいいと思うようになっていた。
 そもそも私の使命はなんだったんだろう。サマルカンドまで国王の親書を携えて行ってティムールに拝謁してくること。旅のあいだに見聞きしたことを使節報告書にまとめ提出すること。本当にそんなことのためにこんな旅をしたのだろうか。
 ティムールが人を殺す時には容赦がなかった。戦闘から逃れるために家を捨てる人々に躊躇はなかった。それに比べ、カスティリャで名誉が傷つけられたなどと言って大騒ぎする人たちの、なんと生ぬるいことか。
 ティムール帝国の交通や情報伝達の仕組みには無駄がなかった。タブリーズの上下水道の設備には明確な意思が感じられた。旧態依然としたやり方に疑問を感じることもなく、変化を嫌い、意味のない儀式や手続きを覚えることだけに一生を費やす人たちに、その素晴らしさはわかるまい。
 そうなのだ。国のなかのことにしか興味のない人たちに、なにを言っても意味はない。女が言うとおり、私が見てきた景色のどれひとつも見たことのない人たちに、わかることなどなにもないのだ。なにかを伝えたくても、伝えたいことのひとつも伝わるまい。
 どんな説明をしても、たとえ素晴らしい報告書を提出したところで、なにも伝わらない。この使節が成功しようが失敗しようが、もっと言ってしまえば、この使節があろうがなかろうが、なにも変わらない。こんな風にすべてを否定的に考えてしまうのも、女がいないからかもしれない。
 そこまで考えて、私はまた女のことを思った。いつからこのように無くてはならない存在になったのだろう。そもそもなぜ買ったりしたのか。買ったということのなかに、所有したいという欲望があったのだろうか。両親に会えて、幸せなのだろうか。手紙を書いた時の気持ちは、今でも変わらないのだろうか。私は女を待ち続けた。
 一月二十五日にはアロンゾとその従者が出発して行った。私はぎりぎりまでこのサヴォナの宿に留まったが、女はとうとう現れなかった。女の家を訪ねることも何度か考えた。ただその度に、女が両親と幸せに暮らしている姿が浮かび、その邪魔をすべきではないという判断が働いた。
 ジェノヴァの宿には、約束の二十九日に戻った。誰もが女がいないことを気にしていたが、誰もそのことに触れようとしなかった。本当に良いやつらだと思った。長い旅が他人だった私たちを仲間に変えたのだろう。
 食堂で、行方不明だった従者が、皆と一緒に談笑していた。私は正直驚いたが、失踪の理由などを聞いたりする必要はなさそうだった。
 二月一日の月曜日、サン・ルカール港行きのジェノヴァ船でジェノヴァ港を発ち、三月二日の火曜日に、ようやくカスティリャの土を踏んだ。出発から三年近くが経過していた。
 その後、徒歩でアルカラ・デ・エナレスに行き、そこで報告書の仕上げをした。体裁についてはアロンゾに相談し、その指示に従った。神を称えとか、神の御加護がありますようにとかいう文章は、アロンゾにしか書けなかった。
 書きためておいた下書きや、旅のあいだに準備してあった清書のおかげで、大層立派な報告書があっという間に出来上がった。タブリーズから後の記録は殆どなかったが、それはよしとした。
 途中で帰らぬ人となった二人の供養を済ませ、すべての準備が整い、三月二十四日の月曜日、国王に拝謁する運びとなった。
 国王の前に出れば緊張するものとばかり思っていたのだが、不思議なほど落ち着いた気持ちで拝謁に臨むことができた。
 もっとも、拝謁はすんなりとは始まらない。私が、今は亡き皇帝ティムールからの親書を読み上げると言うと、側近が、そういうものは文書係に提出すればいいと言って遮る。贈り物や土産物などを目録とともに差し出そうとすると、それは事務係にと言われる。報告書は文書係に。出納帳は出納係に。することなすこと、うまくいかず、国王との会話のきっかけがつかめない。そこには、他国の儀礼儀典や所作には詳しくなったというのに、自国のことにはまったくといっていいほど疎くなってしまっている、憐れな自分がいた。
 仕方がないので、私は国王に直接話しかけた。側近は嫌な顔をしたが、国王は喜んで話に乗ってきた。ティムールのことには特別な興味を示し、次から次へと難しい質問をした。
 そんなにも残酷になれるものであろうか。国王はそう言った。私はティムールの残酷さの意味を説明した。勝つことに本気で、ひとつひとつの戦闘を大事にする。人の目を気にせずに決断する。誰に対しても態度がきっぱりとしている。そう話すと、ひとつひとつの勝利がそんなにも大切か、と聞いてくる。それがティムールの強さなのだと答えると、大きく頷く。ティムール帝国の交通や郵便の制度について意見を述べると、国王は身を乗り出し、我が国でも導入できるように思えるのだが、などと言う。
 国王は好奇心旺盛で、知識欲に溢れ、刺激と変化を心から求めているように感じられた。
 しまいには個人的なことにまで話が及び、私は女のことも話した。国王はなにを思ったか、私と女との結婚を正式に受理するよう、側近に指示した。私はこの国王のことがとても好きになった。
 一時間近い会談の後、私は無事に退出した。帰りがけに、文書係、事務係、出納係などに必要なものを提出し、私は役目を終えた。
 長いあいだ覆い被さっていた重いものが、あっという間に消えていく。前を塞いでいた壁が音も立てずに開き、青空が広がる。私は違った気分で町に出た。
 この旅に出るまで私のものだった家を見ても、とても自分が住んでいた所とは思えない。昔の知り合いに呼び止められて話をしても、話が噛み合わず気持ちは伝わらない。私は歩きながら、女のことを思った。会いたかった。
 立ち止まり、空に女の面影を探す。すると、砂漠で見た幻が甦る。そうだ。道に迷った時に現れ、我々を正しい方向へと導いていったあの幻は、実は女だったのだ。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。女は、私が苦境に立つと、必ずといっていいほど助けに現れた。私は、だから、会うより前に女のことを知っていた。それで、はじめて見た時、懐かしい感じがしたのだ。
 子供の頃からよく紙の上に描いた顔も、よく考えてみれば、女の顔だった。顔だけではない。女の小さな動きや特徴のある仕草を、私は長いあいだ見続けてきていた。
 女のいろいろな表情を求めて空を見続ける。すると、今までよくわからなかったはずの私の使命というものが、ぼんやりと浮かんでくる。なにかを閉じ、終わらせること。空にそう書いてある。そしてその脇に、女の使命が、これもぼんやりと浮かぶ。なにかを開け、始めること。抽象的ではあったが、なにか真実に近いものを見た気がした。私はすっきりした気分で、また町のなかを歩いた。
 無事に帰国したことで、使節団員には特別賞与が与えられ、出発前よりもはるかに良い役職が用意された。神父のアロンゾは旅で得た知識を買われ、異教徒対策担当補佐官という国王直属の官僚となり、トルコ大使を招待した際に活躍した料理のできないコックは、国際的な料理を司る王立レストランの料理長に推挙され、また、暴漢どもに持ち物すべてを没収された時に気を利かせて金貨や銀貨を床下に隠したあの気の利く男は、語学力を買われて、東方情報管理役兼交渉役という大層重要な役職についた。他の従者たちも、出発前には考えられなかった仕事を得て、それぞれ活躍することになった。
 ティムールが死に、遠い東にあった強大な勢力が弱まった今、使節の意味は完全に失われていたが、帰り着いた使節団員が活躍しているのを見る限り、使節が失敗だったなどと思う必要はなさそうだった。むしろ、カスティリャ国内に国外に対する興味を芽生えさせ、官吏たちに異教に関する議論を始めさせたという点で、使節は成功だったと考えていいのかもしれなかった。
 私は、賞与は有難く頂いたが、仕事の誘いはすべて固辞し、女の許に行くことを選んだ。私にとっての使節は、皇帝ティムールに拝謁し親書を渡すということでもなかったし、事実だけを報告書にして書き残すということでもなかった。女と出会ったこと、それがこの使節のすべてだった。
 私は誰にも言わず、カスティリャを出発した。女とは、少しばかりのすれ違いの後、ジェノヴァで無事再会した。ゆっくりと二人の場所を探し、山の麓、湖の畔に居を定め、二人で静かに暮らす幸いに恵まれた。女の笑顔はいつまでも美しかった。

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