Friday, August 21, 2009

なにも変わらない (3)

 峠を過ぎた途端、鮮やかな紅葉が目に飛び込んできた。それまであたりを覆っていた濃い緑の鬱蒼とした感じから解き放たれ、青い空の下の広がりの中に走り出たのだ。僕はギアを変え、徐々に減速していった。
 隣で外を眺めていた女が、僕の視線に気がついたのか、こちらを向いて微笑む。僕は女の目を見て、少しだけ戸惑った。澄んだ目は穏やかで、落ち着いた笑顔に似合っている。こんなにも優しい目を見るのは本当に久しぶりのことだった。僕はブレーキを踏んだ。
「急いでいないんだったら、ちょっと外に出てみない」
「ええ、そうね」
 外の空気は思ったよりもずっと冷たかった。女は寒そうにして腕を前に組み、僕の脇に来た。僕は女の肩を抱き、ゆっくりと道に沿って歩き出した。太陽の柔らかな光が心地良かった。
「秋なのに、春みたいだ」
「なに言ってるの。もう冬の入口じゃない」
 女の目はどこまでも優しい。今日はじめて会ったとは思えないような、なにか懐かしい感じのする目だった。
「さっきのカフェの人は、お母さん?」
「ううん、違う。でも、ヴァレリィのことならなんでも知っているわ」
 山道に差しかかる前にカフェに立ち寄った。そこで給仕をしていた女のことだ。その女が僕に頼みごとをした。
「これから山に上っていくのなら、この人を湖のところまで乗せていってくれない?」
 そんな感じだった。
「なんで僕なんかに頼んだのかな」
「なにを?」
「だから、きみのことを乗せて行ってくれって」
「あっ、そのこと」
 女は立ち止まって僕の目を見た。僕は女の肩の上に置いていた手を静かに離した。
「あなた、カフェに来る前にパン屋に寄ったでしょ?」
「うん」
「そこで見かけたんですって。いつまでたってもあなたの順番が来ないのであきれたって言っていたわ」
「いつ、そんな話をしたの?」
「いつでもいいじゃない」
「それで?」
「それでって?」
「だから、なんで僕なんかに頼んだんだろう」
「あんなお人よしなら安全だって」
「お人よし?」
「そう。あとから来た人に順番を譲って、いつまでたってもパンが買えないなんて、人が良すぎるって」
「別に急いでなかったし、現にパンだって買えたし、言うほどのことでもないと思うけれど」
「まあ、いいじゃない。私、そういうの、好きだわ」
 僕は好きという言葉に弱い。特に意味がない時でも赤くなったりする。
「どれがモンブラン?」
 僕は動揺を隠すように話題を変えた。正面には雪を被った山並みが続いていた。
「あの円い感じのがそうだと思うわ」
「あの輝いているやつ?」
「そう、あれ」
 女が指差す方に、白い山が光っている。僕はその山に見とれた。飽きることのない眺めだった。空には飛行機雲が幾筋か走っている。鳥の鳴き声が聞こえる。僕はそこにずっといたいと思った。
 女は相変わらず優しい目をしていた。唇を少しだけすぼめ息をしている。寒いのだろう。僕は女を促して車のほうに歩き出した。静けさが辺りを包んでいた。
「どこに行くの?」
 女が目を細めて聞く。
「どこって?」
「私を降ろしたあと、どこに行くのかなって」
「降ろす?」
「ええ、この先の湖のところで降ろしてくれればいいから。で、その後、どこに行くの?」
 そう、いつもこんなだ。出会う。そして別れる。
「なんの当てもない。どこにも用事はないんだ」
 嘘だった。でも、それでいいと思った。
 車のドアはひんやりしていたが、中はまだ冷えていなかった。皮のシートにからだを預けると、なんとなくほっとした気分になる。
 アクセルを踏み込む。あっという間に加速する。
「こんな車に一度でいいから乗りたいと思っていたの」
 女が言った。
「こんな車って?」
「うーん、そう、こんなふうに、あっという間にスピードが上って、曲がる時にスピードが落ちなくて、それで、静かで」
「静か?」
「ええ、とても静かだわ。私がいつも乗っているのとは大違い」
「いつもなにに乗っているの?」
「うーん」
 女はそれっきりなにも言わなかった。
 僕は横を見た。女は相変わらず優しい目で前を見ていた。確かに車の中は静かだった。
 湖が見えてきた。
「どこに停めればいいのかな」
 女はなにも答えない。僕はギアを下げ、ハンドルを切り、湖の畔の駐車場に車を停めた。脇には役場と郵便局がある。目の前に湖が広がっている。
「ここでいい?」
「ええ」
 湖には反対側の山が映っている。僕が行こうとしているホテルも見える。ここでこの女と別れ十五分ほど走れば、待ちに待った休暇が始まるのだ。
 女は車から降りず、じっと前を見ている。
「ねえ、このままどこかに連れて行ってくれない?」
「えっ?」
 僕はなにかの聞き違いではないかと思った。
「連れて行ってくれるだけでいいの。帰りは自分でどうにかするから。探せばバスやタクシーだってあるはずだし」
 やっぱり聞き違いではない。夢でもない。僕を見つめる女の目は真剣だった。
「なんで、また」
「だって、さっき、この後の予定はないって言ってたじゃない」
「うん、でも、きみは、なにか用事があったんじゃないの?」
 女はなにも答えず、優しく微笑んだ。そうすることで僕が言いなりになってしまうのを知っているようだった。
 もっとも、どこかに連れて行けと言われても、なんのアイデアもない。車を走らせればなにか思いつくかもしれないけれど、行くあてもなく出発するのは気がすすまない。
「行き先はどこでもいいの?」
「ええ。あっ、それって、もしかして、連れて行ってくれるっていうこと?」
「うん。まあ、そんな感じかな」
 女はうれしそうに携帯電話を取り出し、誰かに向かって話し始めた。
「今日はちょっと行けそうにないの。たぶん明日。うん」
 僕はその通話が終わるのを待たずに車から出た。郵便局の前にある電話ボックスに向かう。僕も電話をしたほうがよさそうに思えたのだ。
「あ、僕。ちょっと用事が入って、行けそうにないんだ。また明日電話する。うん、そう。愛してる。うん。じゃあ。また明日」
 電話ボックスを出た僕は、湖を見た。湖面が鏡のように輝いていた。
「こんなところでいったいなにをしているんだろう」
 小さくつぶやいた。いつもの職場での口癖がこんな時にでてしまう。僕は車に戻った。
 シートに座ると、辺りの静けさがとても気になる。話すことが思いうかばない。女のほうを向くこともできない。
 僕は仕方なく車を走らせた。
「どうしたの?」
 女が聞いた。
「えっ?」
「なんにも話さないからどうしたのかなって」
「いや、べつに。きみだってなにも話さないじゃないか」
「そうかしら」
「そう。ところでさあ、なんでヴァレリィっていう人が、僕にきみを乗せていくように、頼んだわけ?」
「それ、さっき話したじゃない」
「だから、そうじゃなくて、なんできみが来ないで、その人が頼んできたわけ?」
「私がお願いしたの。頼んでみてって」
「ふーん、そうなんだ」
「あなたなら安全でしょ?」
「安全?」
「そう、私を傷つけたりしない」
 気が付くと、スキーリゾートとして有名な町の中を走っている。この時期、どの店も閉じていて、ゴースト・タウンみたいだ。
「安全だからいっしょに来たっていうわけ?」
「あら、安全って言われたのが気に入らないみたいね」
「うん、そう。正直なところ、あんまりいい気分じゃないな。男だったら、安全っていうのより、少し危険だっていうほうが嬉しいんじゃない?」
「そうかしら」
「ところで、このままずっと運転して行ってもいいのかな?」
「いいわよ、もちろん。でも、どこか開いているところがあったら少し休憩してコーヒーでも飲んでいかない?」
「うん、そうしよう」
 僕たちは山小屋としか言いようのないオーベルジュでコーヒーを飲んだ。客は僕たちだけだった。
「実は、あなたのこと、知っているの。そんな気がするの」
「どこかで会ったことがあるのかな」
「いいえ、でも」
「ん?」
「でも、言ってもわかってもらえないし」
「僕もきみの目が懐かしいなって」
「あっ、その言い方、なんだかプレイボーイっぽい」
「いや、ほんとうに懐かしい気がするんだってば」
「まあ、いいから、いいから。きっと、実際に会うのは今日がはじめてなんだし、あなたのことは夢の中でしか知らないんだし」
「夢の中?」
「そう、夜、毎日じゃないけど、夢にあなたが出てくるの。そして、涙でいっぱいの私に向かって、泣かなくてもいいと言ってくれる」
「僕がそんなことを言うの?」
「ええ」
 女の顔は笑っていた。
「それで?」
「それで、あなたは軽々と私を抱きかかえて、空を飛ぶの。私は振り落とされないように、あなたにしがみつく」
「ふーん」
「少し行くと、町が見えてくるの。潮の香りがしない。水の音も聞こえない。大きな町。気が付くと、私は誰かと並んで座っていてね、あなたはどこにもいないの」
「なあんだ、やっぱりね。きみは誰かと並んでいて、僕はどこにもいないって、そういう話なんだ」
「そう」
「そうって、なんだかバカみたいだな。きみのこと、ここで本当に抱きかかえてあげようか?」
「いいえ、いいわ」
 そこまで話した時、急に足音が聞こえ、オーベルジュの女主人が現れた。
「まあ、なんて仲のいいこと。抱きかかえるなんていう言葉、久しぶりに聞いたわ。なんなら今晩、ここに泊まる?」
「わあ。ねえ、そうしましょう」
「まだ昼にもなっていないのに?」
「なに言ってるの。昼も夜もここで食べればいいじゃないの。私の料理、最高よ」
「うーん。まあいいか」
「まあいいかなんて言わないで、もっと嬉しそうにして」
 女主人は部屋に案内するといって入口のほうから鍵をたくさん持ってきて、女と話し始めた。僕は黙っていることにした。
「マリリン・モンローの部屋なんてどうかしらね」
「マリリン・モンロー?やっぱりピンクなの?」
「ええ、そうよ。でも、なぜピンクだって思ったの?」
「だって、マリリン・モンローでしょ。ピンクよ」
「あなた、まるで、私の死んだ夫みたいなことを言うのね。私にはマリリン・モンローって白いイメージしかないんだけれどね」
「あの、その部屋見せてもらえないかしら?」
「ええ、もちろんよ」
 僕たちは、マリリン・モンローの部屋というのに案内された。ピンクはピンクだけれど、ピンクというよりはむしろ清潔な感じの部屋で、ベッドの上に置かれた大きな枕が印象的だった。
 その後、サッカー・ボールが転がっているジネディン・ジダンの部屋、ギターが鎮座ましますジョルジュ・ブラッサンの部屋、そして顕微鏡が意味もなく置いてあるマリー・キューリーの部屋に案内された。
「このオーベルジュ、ちょっとおかしくない?」
「なに、今頃になって言ってるの?」
 そんなことを言いあっていると、女主人が微妙な笑顔で、
「ねっ、泊まりたくなったでしょ?」
 と言った。
 結局僕たちは、マリリン・モンローの部屋に泊まることになった。
 軽い食事をとったあと、部屋に入る。部屋の真ん中にあるソファーに座る。そして黙り込む。沈黙が心地良いような、それでいてなんとなくきまり悪いような、なんだか不思議な感じだった。
 テレビもラジオも電話も電気もなんにもいらない。そう思えた。気がつくとなぜか僕は女に向かって通勤の話を始めていた。
「僕は毎朝、通勤にシャトル・バスを使うんだ。勤め先はウィルソン宮殿という湖沿いのビルで。あっ、ウィルソンって、アメリカの大統領だったウィルソンなんだけど。うん。どうでもいいね、そんなこと。で、そこの駐車場がいっぱいで、僕は仕方なくパレ・デ・ナシオンっていうところに車を駐車をして。そう、国々の宮殿。なんてセンスの悪い名前なんだろう。とにかく毎朝、アパートからパレ・デ・ナシオンのなかまで車で行って、そこでシャトル・バスを待つのが僕の日課なんだ。で、ある朝、いつものようにシャトル・バスを待っていると、目の鋭い怖い顔の男が僕のほうに来て挨拶をする。私が、イレネオ・ナンボカだ。そう言った。その日、さっそく職場でどんな男か聞いてみたんだけれど、どうも評判がいまひとつでね。ウガンダで大虐殺をしたイディ・アミンの右腕だったっていうんだよね。僕はどうりで怖い顔をしていると思ったんだ」
 そんな話をしていると、白い壁一面にイレネオの顔が映し出される。
「えっ、なにこれ」
「なにって?」
「なんでイレネオの顔が壁に映るわけ?」
「えっ?なにも映ってないけれど」
「あれ?そう?」
 イレネオも僕も、間違いなくシャトルバスのなかにいる。もっとも僕の姿は見えない。壁に映っているのは、まるで僕の目から見たイレネオの姿だった。
 僕は混乱していた。そんな僕に構うことなくイレネオが話しかけてくる。
「仕事はどうだ?面白いか?」
「面白いっていうか、うーん、やりがいがあるっていう感じかな」
「やりがいがある仕事って、いったい、なにをやってるんだ?」
「人権の普及のためにインターネットのページを作ったり、人権関係の公式文書の検索ツールを用意したり、それから、人権侵害のモニタリングのためのシステムを開発したりしてるんだけれど」
「なんだ、そりゃ。それがやりがいがある仕事なのか?」
「うん、だって、世界中の人に人権の情報を発信するのってなかなかいい仕事だと思うんだ。それに、人権を侵された人のためのシステムの開発まで任されているし。こんなにやりがいのあることってほかにはそうはないんじゃないかな」
「お前はバナナか?」
「えっ?」
「お前はバナナなのかと聞いているんだ。少なくとも俺は、オレオ・クッキーじゃないぞ」
「なんのこと?そのバナナとかオレオ・クッキーとかいうのは」
 壁の中のイレネオがにやっと笑った。白い歯がピンクの唇のあいだからのぞいている。
「オレオ・クッキーって、確か青っぽい袋に入っていて、黒いビスケットのあいだに白いクリームが挟まっている、あれだよね。そういえば、アメリカにいた時によく食べたなあ。僕、あれ、結構好きだったんだよね」
「なんだ知ってるんじゃないか」
「そういえば、あれ、外側が真っ黒で、中が真っ白で」
「そうだ、それがオレオ・クッキーだ。アフリカ人なのに、ヨーロッパや北アメリカで教育を受け、キリスト教を信じ、白人みたいに振舞うやつらだ」
「ああ、リチャードやクリスティンのことか」
 考えてみれば、そういうアフリカ人はたくさんいる。
「そうだ」
「じゃあ、バナナは?」
「外側が黄色くて、中が白い。でも、中は真っ白じゃなくてちょっと黄色っぽいから、オレオ・クッキーよりは見込みがあるかな」
「じゃあ、ナジャは?」
 僕は同僚のモルディブ人のことを引き合いにだした。
「あいつは、ココナッツだな」
「外側が褐色で、中が真っ白か。ナジャがココナッツで、僕がバナナ」
「ん、やっぱりおまえはバナナだったのか」
「あっ、しまった」
 僕は思わず笑った。イレネオは笑わなかった。
「人権のプロモーションっていったって、ヨーロッパや北アメリカの考え方を押し付けているだけだろ、違うか?」
「えっ、人権って普遍的な考え方じゃなかったっけ?普遍的人権宣言っていうのがあるくらいだから、普遍的なものなんじゃないのかなあ」
「おまえは、やっぱりバナバだ」
 今度はイレネオが笑った。僕は笑えなかった。
「いいか、俺はアフリカ人だ。アフリカにはアフリカの価値っていうものがあるのさ。道の脇で倒れてる奴がいたら歩くのを止めて助ける。俺たちはそれを人権とは呼ばない」
「じゃあ、なんて呼んだらいいの?」
「バカか、おまえは。助けるときに、私はこういう活動をしていますなんて言うか?私は民主主義を広めておりますとか、人権の普及に努めておりますなんていうのは、あいつらに任せておけばいい。おまえもアジア人だったらもう少しアジア人らしい考えを持つんだな」
 僕は溜息をついた。そして、あくびをした。毎晩寝不足だから、あくびは自然と出てくる。それを見てイレネオは声を出して笑った。
「おまえは本当に見込みのないやつだな。まあ、いい。それでいい。ところでおまえ、労働するときのモデルって知ってるか?」
「モデルって」
「ほんとうにおまえはバナナだな。模範っていったらいいのかな。まあ要は、働く時の手本だな」
「さあ」
 僕はなにを言われているのかわからなかった。
「母親さ」
「働く時の手本が母親だっていうの?」
「そう、母親だ。母親は昇進させてくれなんて言わない。残業代を払えとも言わない。子供が熱を出せば、誰も頼んでいないのに付きっきりで看病する。五時半だからって仕事を止めたりしない」
「そんなのあたりまえじゃないのかな」
「そう、あたりまえだ。おまえも働く時には母親のようにするんだ。昇進させてくれとか、残業代をよこせとか、絶対に言うんじゃないぞ。それを言っってしまったら、おまえはあいつらといっしょなんだからな」
「でも、僕は母親じゃないからなあ」
「あははは、おまえはやっぱりだめだな」
「バナナ?」
「そうだ。バナナだ」
 今度は二人いっしょに笑った。シャトル・バスはウィルソン宮殿の敷地にはいり、事務所の玄関に横付けされた。僕はイレネオの話をずっと聞いていたかった。でも、シャトル・バスを降りた僕は、また、マリリン・モンローの部屋にいた。
 女が僕に微笑んでいる。
「とてもよかったわ」
「よかったってなにが?」
「だから、あなたとイレネオが話していたことよ」
「聞いていたの?」
「ええ、もちろん」
「なんだか変だ。これってきみのせい?それとも部屋のせい?」
「なにも変じゃないわ。あなた、話が上手ね」
 僕はちょっとだけムッとした。そしてイレネオが、強姦され妊娠したために死刑判決を受けたナイジェリアの女性を、一人で奮闘して無罪にした話をした。
「へえ、イレネオって素敵ね」
「まあね。で、こんどはきみの番?」
「ええ、そうよ。でも、私の話はあなたの話の何百倍もつまらないから、そのつもりで聞いてね」
 女はそう言うと、カフェにいたヴァレリィのことを話し始めた。
「ヴァレリィがね」
「あっ、きみのお母さんのこと?」
「違うって言ったでしょ。からかうんだったら、なんにも話してあげないから」
「ごめん、ごめん」
 僕は素直に謝った。女の目は笑っていた。
「ヴァレリィはずっとアフリカで暮らしていたの」
「アフリカ?」
「そう、アフリカ」
「アフリカでなにをしていたの?」
 僕がそう言った途端、白い壁にヴァレリィが映し出された。今日カフェで見たのと違い、生き生きとしている。日に焼けていて、少しだけ若い感じがする。そのヴァレリィが、こちらを向いて、女に話しかけてきた。
「あなた、確か、ICRCで働いているんだったわよね」
「そう。覚えていてくれてありがとう」
「なに言ってるの?覚えているにきまってるじゃない。ICRCかMSFか忘れただけよ」
「そうかなあ。それより、仕事、どんな感じ?」
「どんなって、おカネが足りなくてね。もっとも、それ以外は全部うまくいっているけれど」
「ああ、そう。それならいいじゃない」
「それが、そうでもないのよ。ほら、あの世界一強い国。あたまにくるのよね」
「なにがあったの?」
「民主主義と人権と自由と平和のための戦いとか言って好き勝手なことをするじゃない」
「べつに今日始まったことじゃないとおもうけど」
「そりゃあそうだけれど。民主主義指向型政党の成長を推進するとかなんとか言ってあのどうしようもない独裁者の側近にカネをばらまいてみたり、責任あるジャーナリズムを強化するためとか言って金持ちの子供たちを集めてトレーニングをしてみたり、選挙プロセスを強化するためとか言ってわけのわからない本を配ってみたり、ほんとうにあたまにくるんだから」
「でも、あなたたち、あの国からおカネもらっているんでしょ?」
「そう、それで余計にあたまにくるの」
「なにそれ」
「だって、あの国の人たちに、なにが正しいかを決められてしまうのって、なんかいやじゃない?民主主義も人権もそうは嫌いじゃないけれど、あの国の人たちに言われるとなんかいやな感じがするの。少なくとも自由とか平和とかは、口にして欲しくないわね」
「そんなものかしらね」
「そんなものよ」
「ところでその袋、なにがはいっているの?」
 ヴァレリィのうしろには袋が山積みにしてある。
「ああ、これ、みんな食料。町外れの刑務所に持って行くためにわけておいたの。私たちが行かなければ、あそこの囚人たちはみんな死んでしまうわ。みんな政治犯でね。誰もなぜ刑務所に入れられたのかわかっていないの」
「政治犯?」
「そう、政治犯。独裁者と同じように考えない人は、みんな政治犯。わかるでしょ」
「そんなこと、わからないわ」
 二人は少しだけ黙った。あたりはなんとなくざわざわしている。
「そんなことよりも、ヴァレリィ、あなた、デプレッションだって聞いたけど、どうしたの?」
「あれ、誰に聞いたの?」
「誰だっていいじゃない。ねえ、本当なの?」
「いや、別に、どうってことないのよ。車を運転していたら、前に私の彼が運転している車がいたの。それで二台連なって行く感じになって、私、それで、とても嬉しかったのね。ところが交差点で左から来た車が、あいだに入ってきてしまったの。そうしたら、なんだかとっても悲しくなってしまって」
「それでデプレッション?」
「そう」
「なに、それ」
「そうよね」
 そう言うなりヴァレリィは壁から消えてしまった。女は私の方に向き直り、微笑んだ。
「どうだった?」
「どうだったって言われても、なんにも言えない。だってなんか変だし」
「なにが変?」
「変だよ、やっぱり。その壁、まるで時間や場所に関係なく、なんでも映してしまいそうだ」
「壁に映っているんじゃないの。あなたの心が見ているの」
「心?」
「そう。さっきあなた、これは私のせいなのか部屋のせいなのかって聞いたじゃない。でもこれはね、私のせいでも部屋のせいでもないの。あなたの心が見ているんだから」
「なんだかなあ。でもまあ、いいよ、そのことは、もう。うーん、えーと、ヴァレリィって、どこの国でなにをしていたの?」
「ルワンダで刑務所の訪問をしていたみたい」
「みたいって?」
「あんまりよく知らないの」
 僕は女の肩に手を置いて、女の目を見つめた。
「きれいだね」
 思ったことを口にした。
「ありがとう。でも、私、特別にきれいっていうわけじゃないの。普通よ。普通。これでもね、自分のことぐらいはよくわかっているつもり」
「いや、きれいだ」
 女は僕の目を見て笑った。
「あなたにきれいに見えるんだったら、うれしいけれど」
「きれいに見えるって、それじゃあ僕の目がおかしいみたいじゃないか」
「あなたの目はおかしくないわ。おかしいのはあなたの心」
「僕の心?」
「そう、あなたの心。何百年もずっと変わらないあなたの心」
「何百年?もしかして、この壁に何百年も前のことが映ったりするの?」
 僕がそう言った途端、壁に変な格好をした男女が映し出された。男も女も大きく長い布を身体に纏い、色鮮やかな紐帯をしている。長い髪の下に見えかくれする女の目はどこか遠くを見ている。男は日に焼けて精悍そうな顔をこちらに向けている。
「少しだけ黙って見ていましょうね」
 女の声がした。声の主は、どこにもいない。僕もいない。いるのは変な格好をした男女だけだ。
 目の前に湖が広がっている。二人は湖に向かって並んで座った。宿屋の庭のようだ。水面がすぐそこにあるのに、なにも聞こえない。水は澄んでいて、遠くに小さなさざなみが見える。
 二人はなにも話さない。男は女のほうを向き、女は男のほうを向き、ただ見つめあっていた。赤く染まった雲が山の上に広がっている。
 僕は、そのなにも話さない二人に、圧倒されていた。
 二人は静けさの中で、いつまでも見つめあっている。
「これが六百年前の私たちなの」
 不意に女の声がした。女はまた、僕の隣にいた。
「僕たち?」
「そう私たち」
「でも、この男と僕と、全然似てないと思うけど」
「そうかしら。私はそっくりだと思うけれど」
 そう言われて考えてみれば、隣の女と壁に映し出された女と、どこか似ている。僕とこのおかしな格好をした男も、似ているのかもしれない。
 壁の中の二人は、空を飛んでいる。女は男に抱きかかえられている。海が見える、白い波が砕けている。砂漠が見える、雪が降っている。山を越える、峠がすぐ下に見える。
 水辺に降りた二人は、また前のように湖に向かって立っている。水面はすぐそこにある。女が靴を履いたまま湖に踏み出す。水鳥が飛び立つ。男が優しく女を見つめている。
 白鳥が二羽、水面を滑っている。二人は小船に乗って沖に漕ぎ出して行く。透きとおった水の上で、二人は相変わらず見つめあっている。小船はいつか大きな海の中を漂っている。潮の香りがする。二人は口づけをする。
 二人は川を遡り、山にわけ入っていく。小船を棄てひかりの滝をくぐり、水飛沫のなかで手をつなぎ軽やかに歩く。二人は絡みつき風の中を舞う。暖かな白い雪が降りだし二人は抱き合う。茶色い土も緑の草も、真っ白なひかりのなかで色を失っていく。そしてなにも見えなくなった。
「ふう」
 僕は深く息を吸い、それを吐き出し、それから首を大きく振った。部屋の中は静かだった。
 女が僕を見て微笑んでいる。
「疲れているのね」
「えっ?」
「だって、ぐっすりと眠ってしまうんですもの」
 眠っていた。ぐっすりと。
 ということは、今のはみんな夢だったということになる。
「ねえ、きみの夢に僕が出てくるって言ってたよね」
「ええ」
「じゃあ、それは夢じゃないんだ」
「なにが?」
「いや」
 僕は立ち上がり、窓辺にある椅子に腰を下ろした。外には牛が見える。
「少し散歩しない?」
「ええ、いいわよ」
 僕たちは外に出た。日が落ちるまでにはまだ時間がありそうだったけれど、秋の山の空気は冷たく、そうは歩いてはいられない。結局、オーベルジュの周りをうろうろしただけで部屋に戻った。
「今日会ったばかりなんだよね」
「ええ」
「でも、そんな気はしないね」
「ええ」
 僕たちはベッドの縁に並んで腰掛けた。僕は女のほうを向き、女も僕のほうを向いた。そして、まるで壁の中の男女のように、見つめあった。
 どのくらいの時間が過ぎたのか、オーベルジュの女主人が、もうすぐ夕飯だと言ってドアを叩いた。それまで飽きもせず、ずっと見つめあっていたなんて、自分でも信じられない。
 食堂で席に着いてからも、僕たちは見つめ合っていた。アペリティフを飲んで、やっと口が開く。
「寒くない?」
 僕にはこんなことしか言えない。
「ううん。とても暖かいわ」
「そう」
 僕たちは黙りこんだ。今度は下を向いて。僕は幸せだった。
 女主人が小さな皿に小さく盛られた料理を持ってあらわれた。
「これでも食べて、待っていてね。すぐ出来るから」
「ありがとう」
 女はとても礼儀正しい。
「あなたたち、ここに来るのは初めて?」
 女主人が白ワインを注ぎながら聞く。
「ええ」
「なんだが初めてのような気がしないのよね。どこかで会ったような、そんな気がするの」
「たぶん、会ったことがあるんだわ」
「どこでかしら?」
「この先の湖の畔で」
「それ、いつごろのこと?」
「そうねえ、六百年くらい前かしら」
「なによ。からかわないで。あっ、いけない。せっかくの料理が焦げちゃうわ」
 女主人はあわてて調理場のほうに走っていった。
「六百年前?」
「ええ」
「きみ、僕の夢の中で、六百年前って言わなかった?」
「夢?」
「そう。言わなかった?」
 女はなにも言わず僕に笑顔を見せる。今も、このやりとりも、夢なのかもしれない。でも、それでもいい。夢だからまずいっていうことはなにもない。その笑顔を見ていることができるのならば、それが現実だろうが夢だろうが、そんなことはどうでもいい。そう思った。
 考えてみれば、こんな都合のいいこと、起きるほうがおかしい。なんの努力もしないでこんな笑顔に出会えるなんていうことが、僕の人生に訪れたりはしない。
「僕はまだ夢を見ているのかな?」
「夢だと思うの?それともまぼろし?」
「まぼろし?」
「寝ている時に見るのが夢だとすれば、起きている時に見るのはまぼろしなんじゃない?」
「まぼろしって、ありもしないものが見えるっていう、そういうことだったよね?」
「ううん、違う。ありもしないって決めつけるのはどうかと思うわ。少なくとも私には、夢もまぼろしも現実と同じだけの意味を持っているの。見た時点でみんな私のもの。夢の中で起きることは現実に起きることと同じだし、起きてしまえばもうそれは私の過去なの。まぼろしだって、生活の一部としか思えないし」
 女は少し怒ったような顔をしてそんなふうにまくしたてた。僕は少し驚いたけれど、その少し怒ったような顔に見とれていた。素敵だった。
「ごめんなさい。興奮したりして」
「いや、謝ることなんて、なんにもないよ」
 調理場のほうからなにかを炒める音が聞こえる。外は真っ暗で、目を凝らしてもなにも見えない。
「あのさあ、ほんとうは僕のほうが謝らなければいけないんだ」
「謝るって?」
「うん、あの、僕、今日から休暇で、それで、湖沿いのホテルで恋人と待ち合わせをしていたんだ」
「それで?」
「それで、湖沿いの電話ボックスから、行けないって電話した」
「それで?」
「だから、なんの用事もないって言ったの、あれ、嘘だったんだ」
「それで?」
「それでって?」
「だから、今すぐ、恋人のところに飛んで行きたいって、そういうこと?」
「違う違う。嘘ついて悪かったなって」
「そういうの、嘘っていうのかな?」
「えっ?」
「あなたに約束があったことも、あそこから電話したことも、みんなわかっていたんだし」
「そうなんだ」
「ええ。だから、それは謝るようなことじゃないの。今は、とにかく、この食事を楽しみましょう」
「うん」
 僕たちは、女主人が次から次へと運んでくる料理を、すべて残さずに食べた。チーズはトム・ドゥ・サヴォアとブリ。デザートはタルト・タタン。そしてエスプレッソ。
「おやすみなさい」
 いい気分で部屋に戻る。二人とも少し酔っている。
「過去のことはもういいから、未来の話をしましょう」
「未来?」
「そう。あなたと私の明日とか明後日とか」
 壁には風景が浮かんできた。それを見ても、僕はもう驚かない。
 僕の恋人が泊まっているホテルが見える。道に沿って並んでいるホテルやレストランのなかで、このホテルだけが輝いている。
 この辺りのホテルやレストランは、何十年にも亘って料理や風景を競いあっていた。ところが、ミシュランがそのうちの一軒に良い評価をした途端、そこだけが流行り、他が廃れた。ミシュランのお墨付きを貰ったホテルのレストランだけが高級レストランになり、残りは皆、鄙びた雰囲気を漂わせるようになっていた。
 ホテルの前は、小さな入り江になっていて、風の強い日でも水は静かだった。湖の反対側は急斜面で水際まで木が生い茂っていた。
 レストランには、僕と僕の恋人がいて、入り江を見下ろすことのできる席に座っている。
 入り江では、女とその友達らしい男とが、影で遊んでいる。
「きみの友達?」
 僕が聞く。
「ええ」
 女が答える。
 入り江にいる男がホテルのレストランを見上げている。いつかはこの女をあんなところに連れて行ってあげたい。そんなことを考えているのがわかる。
 僕は向かいにいる恋人の話に飽き飽きしている。世界情勢、人口、食糧、援助。そんな話になにか意味があるのだろうか。そう思っている。
 入り江の男と目が合う。よく見ると、その男は僕の若い頃にそっくりだ。髪はボサボサ、頬はこけている。
 その男の目から、僕が見える。良いものを、まるでスーパーで買ったものみたいに、ラフに着ている。隣では、綺麗な女が楽しそうに話している。赤いイブニングドレスがその女を際立たせ、金色のイヤリングやネックレスが夜目にも光り輝いている。
「わーい」
 すぐそこで、女がなんだかムキになって影を踏んでいる。僕はそれに見とれる。
「どうしたの?」
 向かい側の恋人が聞く。
 僕は完全に混乱していた。僕はレストランで恋人と食事をしている。もうひとりの僕は入り江からそれを見上げている。
 入り江で影とはしゃいでいる女は、若い僕の友達なのだろうか。それとも今の僕の友達?あれっ、今日会ったばかりなのに、友達?
 そんなことを考えていたら、
「そう。友達」
 という女の声がした。
「私たちは、もうずっと長いあいだ、お互いを待ち続けていたの」
「僕たちが友達?」
「恋人って言ったほうがうれしい?」
「僕たちが恋人?」
 そこはまた、オーベルジュのマリリン・モンローの部屋だった。女はベッドの上で寝る支度をして横になっている。
 僕はベッドに腰を掛け、黙って女を見た。澄んだ目は穏やかで優しい。女が息をしているのがよくわかる。手を伸ばし、女の手を握る。それから指圧をするみたいに指や手首を触る。
「気持ちいい」
 女は落ち着いた笑顔でそんなことを言った。
 僕は調子に乗ってからだ中を触ったり、揉んだり、擦ったりした。どこもしなやかで、胸はまるで新鮮な林檎のような感じだった。
 気がつくと、女は寝息をたてて寝ている。僕はその寝顔を見つめる。髪にそっと触れてみる。
 なんて運がいいんだ。そう思った。僕は幸せだった。そして女が起きるのを待った。何時間も、ずっと。


「朝食の支度が出来ているんですって」
 僕は女の声で目を覚ました。
 いつの間にか寝てしまったらしい。
 僕は昨日のことを考えてみた。どこからどこまでが夢なのか、わからない。確かなことは、女がそこにいるということだ。今は夢ではない。きっと。
 食堂には僕たちの朝食が用意されていた。女主人は、にこやかにおはようと言い、なにを飲むかと聞いた。女がカフェ・オ・レをお願いと言ったので、僕もカフェ・オ・レを頼んだ。
「今日はどうするの?」
「うん、そうだね。どうしよう」
「もう少しだけ私といてくれる?」
「もう少し?」
「そう、どこかに連れて行って」
「どこに?」
「どこでもいいわ」
「それで?」
「それでって?」
「だから、それで、そのあと、僕は用済みっていうわけ?」
「そうね、今日の夕方にはお別れかしらね。私、明日には、あの湖の所にいなければならないし、あなただって、恋人のところに行かなくてはならないでしょ?」
 僕は恋人と言われて、言葉が出なくなった。
 オーベルジュのホールで会計を済ませ、僕たちは朝の空気のなかに出た。腕を上に上げ大きく伸びをする。心から気持ちがいい。女を見ると、相変わらず優しい目で前を見ている。
「少し高い所に行こうか?」
「歩いて?それとも車で?」
「どっちがいい?」
「そうね、少しだけ車で移動して、それから歩くっていうのはどう?」
「うん、そうだね」
 僕たちはゆっくりと車に乗りこんだ。
「なにか音楽はないの?」
「えーと、きみにぴったりというのはないかもしれないけれど」
「あなたは今、なにが聴きたい?」
「そうだなあ」
「よく、考えてみて」
「聴きたい曲はあるけれど、CD、持って来てないし」
「じゃあ、これかけて」
 女がCDを差し出す。僕がそれをプレイヤーに入れる。アコスティック・ギターとボーカルだ。わあ、懐かしい。僕は車を走らせる。
「これ、ステアウェイ・トゥ・ヘブンだよね」
「そうかもしれないわね」
「そうかもしれないなんて、知っているんでしょ」
「さあね。私、音楽のこと、よくわからないし」
 女は前を見ながら、からだでリズムを刻んでいる。
 それにしても、いい演奏だ。でも、なんだかおかしい。声がロバート・プラントとは違うし、ギターもジミー・ペイジではない。
「あれ?これ、フレディー・マーキュリーの声だ。ということは、ギターはブライアン・メイなのかな?」
 レッド・ツェッペリンがクリームのクロス・ロードを演奏したのは聴いたことがあったけれど、クイーンがレッド・ツェッペリンの曲を演奏していたなんて。
 気が付くと、ギターはアコスティックではなくなっている。ベースが勝手な旋律を奏でる。ドラムがリズムを外す。ジョン・ディーコンやロジャー・テイラーがこんなことをするはずはない。
 そんなことを考えていると、曲が変わり、今度はダイアー・ストレイツのテレグラフ・ロードが始まった。でもこれもなんだか変だ。声はマーク・ノップラーなんだけれど、ギターはまるでエリック・クラプトンじゃないか。
「音楽が好きなのね」
 女が言った。
 僕は女が隣にいることすら忘れて、音に集中していたみたいだ。まずい、そう思った。右手を伸ばして音楽を消す。
「あら、つけておいてもいいのに」
「うん、いや、ごめん」
 僕は隣を見た。女は前を向いて外の景色を見ている。その優しい横顔を、記憶に刻み込む。
 景色が変わり、道は細くなっていく。空がどこまでも広がっている。登りのつづら折が途切れ、平らな道になると、もうその先には登っていく道はなかった。
「少し歩く?」
「ええ」
 ここが峠だという標識があり、山の名前がいくつか書いてある。
「あっ、湖があるんだ」
 標識を良く見ると、確かに「湖」と書いてある。名前はないらしい。一時間半の行程ならそうきつくはないだろう。
「どうする?」
「どうするって?」
「湖まで行ってみる?」
「ええ」
 道端には、金属のような光沢の銀色の花が咲いている。向こうには緑の山が見える。麓は見事なほどの紅葉で、点在する家々までもが色彩を持っている。
 緑の山の向こうには雪山が輝いていて、青い空には飛行機雲が伸びている。
 急な登りを覚悟したのに、道は拍子抜けするほどなだらかだった。女のうしろを歩く。するとお尻が目の前に来る。
「なにを考えてるの?」
「えっ?いや、なんにも」
 小さな角を曲がると、人の気配のしない小屋があり、その周りを何十頭かの牛が取り囲んでいる。子牛が寄って来る。女がなにか話しかける。僕は女に見とれている。
「どうしたの?」
「どうしたって?」
「なんか、変」
「そうかな」
「なにか話して」
「うーん、GDPが一番の国の話でもしようか?」
「それって、今一番強い国のこと?」
「うん、そうだけど」
「ティムールやオスマンより強いのかしら」
 女は顔を輝かせた。
「さあね。でも、世界中に民主制度や人権を広めようとしている」
「民主制度って、デモスにクラティアを持たせるっていう、あれね。でも人権ってなに?」
 どうも会話がかみ合っていない。話の内容も周りの景色に似合っていない。
「人権というのは」
 その先が続かない。女が不思議そうな顔で僕を見ている。僕は頭をフル回転させた。
「えーと、人権というのは、人間の尊厳っていうか、えーと、人間が人間でいるために要るものなんだ」
「なにそれ?」
「えーと、だから、人間が自由でいるために必要な権利っていうか、その、要するに、人間の権利のことなんだ。そう、人間の権利」
「ふーん。それで?」
「それでって?」
「だから、なんでその国はそんなわけのわからないものを世界に広めようとしているの?」
「うーん、そうすれば、世界が良くなるからじゃないかな」
 何頭かの牛が同時に、むうーという鳴き声をあげた。まるで僕が言ったことを嘲笑うかのような間の抜けた音があたりに響き渡った。女は相変わらず不思議そうな顔で僕を見ていた。
「それで、世界は良くなったの?」
「まだこれからかな」
「その国は今まで何年ぐらい、その人権っていうのと民主制度とを広めようとしてきているの?」
「そうだなあ、よくわからないけれど、六十年以上かな」
「そんなに長いあいだやってきてまだ駄目なんだったら、これからどんなに頑張っても駄目なんじゃない?」
「うーん、そうかな?」
「違う?」
「でも、民主制度や人権を広めようとしている国って、なかなかいいんじゃないかな」
「世界で一番強い国が、良い国なわけないじゃない」
「そうかな?」
「そうよ。正義は勝つっていう言い方、知ってるでしょ?」
「うん」
「でも、本当は、勝ったほうが正義なの」
「その国に正義があるから勝つんじゃないの?」
「違うわ。その国が勝って、その結果として正義があるように見えるだけなんだわ」
 僕はまた女に見とれている自分に気がついた。女の目はまるで小動物の目のようにくりくりと動く。髪が風になびいている。まわりにいる牛たちも、みんな女のほうを向いている。なんだか不思議な光景だった。
 少しの沈黙のあと、僕たちはまた歩き出した。正面に見える白い山が太陽の下できらきらと輝いている。
 夕方が来れば、この女とはいっしょにはいられない。この太陽が沈めば、別れ別れになるのだ。どうしたら、この女といっしょにいることができるのだろう。
 鳥の声が響く。飛行機雲が音もなく伸びていく。女はずっと遠くを見ながら歩いていた。
 ほどなく湖に着く。これを湖と言っていいのだろうか。池と言ったほうがいいのではないか。反対側の斜面の緑が反射して、湖面は緑色に輝いている。
 女が笑って僕を見ている。僕はなぜか下を向く。
 女が空を見上げる。僕は周りを見回す。
 草が波打っている。海の波は知っていたけれど、草の波を見るのは、たぶんこれがはじめてだ。風のせいで草が作りだす幾何学模様に、僕は見とれていた。
 ふと思いついて、僕は女に、風を描こうとしている画家の話をした。
 どうしても風を絵のなかに閉じ込めたくて、画家はいろんなことをした。木や草が風になびく様子を描いてみた。土ぼこりを描いたり、水しぶきを描いてみたりもした。でも風は、絵のなかに留まらず、いつもどこかに行ってしまった。
 画家は意地になって風を描き続けた。ある時は渦巻きを、ある時は一本の線を描いた。それでも風は絵のなかにはいなかった。
 ある時、画家は少女を描いた。少女の髪が風になびいている。画家は、絵のなかの少女に、風をしっかりつかまえていていてくれと頼んだ。少女は、でも、風をつかまえるかわりに、走り去ってしまう。
 画家は風を描くのを諦めた。そして湖の絵を描いた。すると、不思議なことに、湖の上には心地良い風が吹いていた。
 そんな話だった。
 女は黙って聞いていた。そして、六百年前に、とても上手に風を描く画家がいたと言った。
「六百年前?」
「そう」
「なんていう画家?」
 女はそれには答えず、僕にもとてもいい絵が描けるはずだと言った。
「どうしてそう思うの?」
 女は優しく微笑む。
「試しに描いてみたら?」
「僕に描けるのは平面まで。立体は絶対に描けない。動いているものを描くなんて夢のまた夢だ。たとえばこの草の波。僕には絶対に描けない」
「あら、それは、動いていないものなら上手に描けるって、そういうこと?」
 僕はそれには答えなかった。絵を描くのは好きだし、描くことに多少の自信はあるけれど、それを言うのはなんだかしゃくだった。
「この湖、反対側から見たらきれいなんじゃないかな?」
「あっ、また話を変えたわね」
 女は優しく笑いながら言った。
 僕たちは草の上をゆっくり歩く。少し高い所から湖を見ると、空を映しているせいか湖面は真っ青で、輝きはなく、なにか吸い込まれるような感じが僕を少しだけ不安にする。振り向くと、女が相変わらずの笑顔で歩いている。それを見てなんとなく安心する。
 僕は女の手を取った。女は少しだけ戸惑った表情をしたあと、僕の手を握り返した。
 遠くに白い山が輝いている。風が気持ちいい。そして、隣には女がいる。僕は深く息を吸い込み、そして吐き出す。静かだ。そう思った。
「さっきから、僕ばかりが話しているような気がするんだけど」
「そうかしら」
「なにか話してくれない?」
「なにを?」
「なんでもいいから」
「なんでもいいって、なにも思い浮かばないわ。うーん、じゃあ、質問。人間にとって最高のことってなんだと思う?」
「最高のこと?」
「そう」
「さあね、喜んだり、感激したり、欲しいものが手に入ったり、そんなことかな。きみはなんだと思うの?」
「私は、与えることだと思うの」
「与える?」
「そう、与えること。与えて、与えて、与えるものがなくなったら、死ぬの」
「それが最高なの?」
「ええ、そう。今のあなたたちは得ることばかり考えているでしょ。違う?」
「得ることって?」
「お金とか、物とか、仕事とか、地位とか、そんなのを得るのが成功だと思っていない?」
「違うの?」
「違うわ。持っているものを与えるのが成功なの。物でも知識でも、なんでもいいから、すべて与える。そうすればきっと後悔したりしない」
「そうかな?」
「そう」
「でも、まず得なければ、与えることはできないんじゃない?」
「いいえ、なにも得なくたって、与えることはできる。だって私たち、生まれた時からたくさん、いろいろなものを持っているのよ。身体を少し動かしたり、言葉を少し発しただけで、なにかを与えることはできる。与えるって、そんなに難しいことではないの」
「たとえば?」
「痛くて苦しんでいる人を擦ってあげれば元気を与えることができるし、頑張ってって言えば勇気を与えることだってできる」
「それが最高のことなの?」
「そう。そして、得ることばかり考えているのが、最低っていうことね」
「得ることばかり考えているのが、最低か」
「そうは思わない?」
「うん、そうかもしれないね」
「自分の権利ばかり主張して思いやることができない人とか、自分の意見は言えても人の意見を聞くことができない人とか、なんだかちょっと残念な人って多いわよね」
「僕も、そんなかな?」
「違う。あなたはとても素敵よ」
「そうかな?」
「ええ、素敵」
 僕は少し赤くなっている自分を感じていた。
「僕はね、あたりまえのことをいう人たちが苦手でね。そういう人たちがいわゆる正しいことっていうのを口にすると、ムカッとするんだよね。それを押し付けてきたりしたら、もうだめなんだ」
「だめって?」
「いっしょにいられないっていう感じかな」
「そういう人たちとは付き合わなければいいじゃない」
「うん、そうなんだけれどね」
 なぜか僕はその時、この女とずっといっしょにいたい、と思った。それも、心から。
 そう思った瞬間、女が急に走り出した。僕も仕方なく走る。風が僕たちを揺する。
 女の走るあとには残像が長く伸びている。少なくともそんなふうに見える。そんなこと、気のせいかもしれないけれど、僕にはそう見える。不安になって、走りながら後ろを振り返る。あたりまえだけれど、僕のうしろには残像はない。
 女の走る姿を僕の目が追う。残像も景色も含めてみんな、僕のなかに記憶されていく。女は動物のような軽快な動作で先を行く。僕は遅れないようにスピードを上げる。
 そして僕たちは、車まで一気に駆け下りた。まるでクロスカントリーのレースのように。
 息を切らしながら、ずいぶんなことをするね、と僕が言うと、女は、なにが、と言って僕を覗き込んだ。
「急に走り出したと思ったら、ここまで一度も止まらないんだもの。ああ、疲れた」
「疲れた?」
「えっ、きみは疲れないの?」
「疲れる。そう、疲れるんだったわね」
 そういえば、女の呼吸は乱れていない。
「あっ」
 女が指をさした。その先には黄色い小さな花が咲いている。
「確か、これ、プリマベールよね」
「まさか、プリマベールって雪が融けた頃に咲く花じゃなかったっけ」
「じゃあ、これ、なんていう花なの?」
「知らないけど、秋だから、オウトゥンヌなんていう名前でいいんじゃない」
「なにそれ」
「まあなんていう名前でもいいじゃないか」
 小さな黄色い花は、健気な感じで咲いている。
「きみみたいだね」
「あっ、また、プレイボーイっぽい言い方して」
 僕はそう言われて笑った。女はずっと笑顔だった。
「ねえ、あの山、あの白く輝いている山、今、この瞬間に、いろいろなところからたくさんの人が見ているのかしら」
 遠くには、白い山がきれいに見えている。
「そうは思わないけれど」
 なんだかよくわからないけれど、女はさっきから、花だとか山だとか、どうでもいいことばかりを話題にする。なにか、もっと大事なことを話さなければいけないはずなのに。
 僕たちは車のなかに座り、お互いを見た。車を走らせ、もと来た道を戻れば、別れが待っている。
 女の目は、笑っていた。僕の目はたぶん、尖がっていただろう。
「車のなかは暖かいわね」
「そうかな」
「そうよ」
 僕は車のエンジンをスタートさせた。ここを下り、オーベルジュの前を過ぎ、しばらく行けば、そこが別れの場所だ。そう思うと、なかなかスピードが上らない。遠回りをしようにも、山のなかではそれもできない。こういう時、時間は容赦なくあっという間に過ぎる。
 小さな村を通り過ぎようとした時、僕は反射的に車を停めた。目の前には小さな教会があった。
「ちょっと入ってみない?」
「ええ」
 女は笑顔を消し、真面目な表情を見せた。
 教会に入る。中には誰もいない。女の目はくりくり動く。僕はその女を見つめる。
「ねえ、これ見て。これ、すごいと思わない?」
 女は柱を見ている。僕にはなにがすごいのか、わからない。
「なにがすごいの?」
「あのね、これ、太陽の動きを線にしたものなの。そしてこれが上のほうに伸びていって、ほら、あそこで次の柱と結びついているでしょ。次の柱にも太陽の動きが線として刻まれていて、そしてまた次の柱につながっている。すごいとしか言いようがないわ」
「ふーん、すごいんだ」
「あっ、ねえ、これ見て」
「なに?」
「この絵。ほら、真ん中の捕えられている人の服が紫で、その脇の人の服が緑じゃない。これって、この辺りの言葉の影響かしらね」
「え?」
 僕にはなんのことなのか、さっぱりわからない。
「ヴィオレ、つまり紫という言葉が、ヴィオランスという暴力を意味する言葉を連想させ、ヴェール、つまり緑という言葉が、ヴェリテという真実を意味する言葉を連想させる。そんな感じの色づかいだと思うのよね。これって、キリスト教会が本来使ってきた色の意味とは少し違うじゃない。こういうのって、なんだかいいわよね」
 いいわよねと言われても、よくわからない。考えたことのないことばかりで、なんとなくという感じでしか理解ができない。
「あの、そうやって、いちいち、意味を考えなければならないものなの?」
「ええ、教会のなかでは、なにもかもが意味を持っているの。光とか色とか、そしてひとつひとつの線や面にも意味があるの」
「そうなんだ」
「ほら、たとえば、あのステンドグラスの左下のところにある赤地に白の十字はサヴォアのしるしだし、その上はブルゴーニュのしるしじゃない。政治的よね。ああいうのって」
「政治的?」
「ええ」
「ええって、なんでそんなに詳しいの?」
「詳しくなんかないわ。教会ってどちらかといえば退屈じゃない。だからいつも、いろいろなことを考えるの」
「ふーん」
「あら、ごめんなさい。退屈だったわね」
「いや、面白いけれど、でも、きみに教会は似合わない」
「そうかしら」
 女は真面目な顔をした。そして姿勢を正した。
「ねえ、隣に来て」
 そう言われて僕は、女の横に立った。
「こうして並ぶと、まるで結婚式みたいね」
 僕は女を見た。女の瞳は少し潤んでいる。僕はなにも言えない。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。僕たちはただ見つめあっていた。
 なんにでも始まりと終わりがある。僕は教会から出る時、ふとそう思った。車に乗る。車が走り出す。僕が運転しているのに、まるで車が勝手に動いているように思える。
 なんとなく見たことのある景色が続く。なにも話すことができない。女は隣で微笑んでいる。僕は笑顔にはなれそうにない。
 僕は女のことばかり考えていた。なにもかもが不思議に思えた。
 程なく僕たちははじめの目的地だった湖の畔に戻った。僕は前と同じ場所に車を止めた。役場も郵便局も、もう閉まっていたし、湖はひっそりとしていた。
 女がさようならと言った。まるで明日また会うかのように明るい感じで。僕もさようならと言った。こちらはまるで葬式のような感じだった。
 僕は車から出て女のほうに回り、ドアを開けた。中から出てきた女は夕闇の中で輝いていた。なにか気の利いたことが言えればいいのだけれど、言葉が浮かばない。女はなにも言ってくれない。
 辺りは静かで、なんの音もしない。二人は向かい合って立った。なにがどうしたのか、ぜんぜんわからない。とにかく僕たちは見つめあい、そしてキスをした。長い長いキスを。
 キスがこんなにもいいことだなんて、知らなかった。キスはたぶんもう何千回もしただろう。それはどれも、とても良かった。でもこのキスは違う。全然違う。
 女は優しく微笑んでいる。僕の心は痛い。なんでこれで別れなければいけないのか、わからない。
 女は突然踵を返すと、道に沿って歩き出した。うしろ姿が遠ざかって行く。姿勢を崩さず、足を交互に前に出し、なにも言わずに。
 僕は車に戻ると、後ろを見ずに車を走らせた。これで湖の反対側まで行けば、恋人との休暇が始まる。それでいいのだろうか。車をUターンさせて女のところに行けば後悔しないで済む。それが自分にとって一番素直で正直なやり方なのではないだろうか。でも、それでどうするというのだ。僕になにができるだろう。誰も幸せにできないのに、あの女となにかを始めることなんてできるわけがない。僕はこのまま恋人のところに行く。それでいい。いや違う。女のところに行かなくては。
 そんなことを考えているうちに、車はホテルに近づき、減速のあと、駐車場に入った。
 ホテルには恋人が待っていた。赤いドレスを着ている。口紅の色も赤い。イヤリングやネックレスは金で統一されている。いつものことだけれど、僕の目には彼女はとてもまぶしい。
 遅くなったことをなじるでもなく、いつものように話し始める。それは有難いことなのだけれど、でもこんな時は、なんで遅れたのとか言われたほうが、ずっと楽に違いない。
 シャンパンがバケツの中で冷えている。僕の好きな銘柄だ。白ワインもある。。
「私たちの休暇をこれで祝おうと思って。もしよかったら、開けてくれますか?」
 グラスを持ってソファーに座る。そして昨日と今日のことを考える。あの女と、目の前の恋人とでは、なにもかもが違う。あっ、まずい。比べている。
「あの、今日、ここに来る前にね、とても面白い曲を聴いたんだ。レッド・ツェッペリンのステアウェイ・トゥ・ヘブンなんだけど、フレディー・マーキュリーが歌っていて、ブライアン・メイがギターを弾いているんだ」
「あなた、まだそんな雑音を聴いているの?」
「雑音?」
「そう、古くさくて、うるさくて。あなたって、とても大人の部分があるかと思うと、とても子供っぽい部分もあって、なんだかよくわからないけれど、不思議よね。そういうところ、嫌いじゃないけれど、でももう雑音を聴くのはやめにして、もっとあなたに似合ったものを聴いたら?」
「似合ったものって?」
「音楽」
「音楽?」
「そう、音楽。今からかけてあげるから」
「あっ、ちょっと待って。オペラとかだったら、今はいいから」
 恋人は僕を無視するように立ち上がると、音楽のスイッチを入れに行った。
 ラクマニノフが始まる。これが僕に似合っている音楽なのだろうか。
 僕はそのうるさい音楽のなか、女のことを思う。横顔が浮かぶ。かすかに微笑んでいる。
「お腹はすいてないの?」
 不意に恋人が言う。
「そうだね、食事にしようか」
 なにもなかったかのような返事をする。
 この恋人と僕とのコンビネーションだと、食事を作ろうという発想は湧いてこない。食事といえばレストランに行くことしか考えつかない。
 僕はジャケットを、彼女はカーディガンを、それぞれはおり、部屋を出た。
 レストランに入ると、顔見知りのギャルソンが僕たちを見つけ走り寄ってきた。
「お食事ですか?」
「そう、二人」
「では、こちらに」
 僕たちは、湖側の大きな窓の前のテーブルに案内された。
 座るとすぐ、僕の目は下の入り江に釘付けになった。入り江には女とその友達らしい男がいて、影で遊んでいる。これでは食事どころではない。
 女は、まるで僕に挨拶するかのように、手を振った。女の脇で若い男が僕を見ている。デジャ・ヴュの感じだ。昨日の晩に見たのと、まったく同じことが起きている。
 僕の向かいでは赤いイブニングドレスを着た恋人が難しい話を始めた。アメリカとヨーロッパの外交政策の違い、ギリシャ時代の人口抑制策、WFPの食糧管理システム、UNDPの援助の限界。そんな話になにか意味があるのだろうか。僕はそう思って長い話を聞いていた。
 入り江の男と目が合う。目まいがする。
「どうしたの?ねえ、どうしたの?」
 そう繰り返す恋人の声が遠くに聞こえる。


 気が付くと、入り江に立っている。レストランが見える。僕がテーブルの上にうつぶせになって倒れている。
 わーいという女の声がする。すぐ脇でなんだかムキになって影を踏んでいる。僕はそれを見つめる。
 女がこちらを見る。どうしたのと聞く。なにが起きたのかわからない、説明してくれないかな、そんなふうに僕が言う。
 僕はさっきまであそこで恋人と食事をしていたんだ。でも気が付いたらこっちにいる。おまけにあそこの僕は倒れている。
「そうね、こっちね」
 女はおかしそうに僕を見て笑った。
「こっちの僕はだれなの?」
「あなたよ」
「名前は?」
「名前?名前なんてどうでもいいの。あなたはあなた。でもって、私は私」
「パスポートは?」
「そんなもの要らないんじゃないかしら」
「運転免許証は?」
「うーん、だから、要らないの。だって私たち、誰からも見えないんですもの」
「それって、もしかして、死んだっていうこと?」
「うーん」
「違うの?」
「だって、あなた、こうして私と話しているのよ。なんで死んだって思うの?」
「でもここはどこなの?天国とか地獄とか、そういう場所?」
「さあ」
「違うかな」
「なんで違うと思うの?」
「天国ってクラシック音楽が流れていて退屈なところっていうイメージだし、もしここが地獄だったらハードロックがスピーカーのボリュームをいっぱいにした感じで鳴り響いているはずだし。でも、ここは、そのどちらでもないみたいだ」
「そうね、そういうことなら、ここはそのどちらでもないわね。だいたい音楽なんて流れてないし、とても静かだしね。あの、うまく言えないけれど、ここはとても良いところよ。そして、なぜか好きな人しかいないの」
「うん?でも、きみしかいないみたいだけれど」
「そうね、あなたと私しかいない。お互い、好きな人が一人しかいないなんて、なんだか寂しいわね」
「きみが僕のことを?」
「ええ」
「好き?」
「そう」
「でも、僕たちはまだ会ったばかりだけど」
「いいえ、もうずっと昔に出会ったの。タブリーズで」
「タブリーズって、イランのタブリーズ?」
「イラン?ああそう、イランね」
「なんだか頼りないんだね」
「ええ、そうね」
 女は微笑を絶やさない。僕もつられて笑顔になる。
 ここではなにをして暮らすのかという僕の疑問に、女はなにもしないのだと答えた。食事もしない。仕事もしない。本を読んだり、テレビを見たりもしない。スキーもしないし、山に登ることもない。要はなんにもしないのだ。
 いつも二人で過ごすのだという。いやになるまでずっと。そして、ある日お互いが必要でなくなったら、二人ともここを出て行くのだ。永遠にお互いを必要とするのなら、いつまでもずっといっしょだという。
 いつまでもずっと。
 どうしてこうなったのかと聞いても、なにも答えてはくれない。なにか深い訳でもあるのか。それとも、女も知らないことなのか。
 花が咲いている。さっきまでそこになかった花が、きれいに咲いている。見たいと思うだけで、いいらしい。
 突然、女が裸になった。僕は瞬間、まずいと思った。見たいと思ったのは確かだけれど、でも、これはまずい。
 よく見ると、女は前と同じように服を着ている。白いブラウスにグレーのスカート。あれ?なんだ。また服を着てしまった。
 僕が残念に思っていると、また女は裸になっている。
「なにをいろいろ考えているの?あなたの頭のなか、なんだか忙しいのね」
「うん、あの、ちょっとまだ、慣れていないもんで」
 女は僕を見て笑っている。白い肌が少し赤味を帯びている。
「そういえば、ここは寒くないんだね」
「寒い所でこんな格好させられたら、風邪ひいてしまうわ」
「うん、そうだね」
 僕は急いで服を脱いで、女を抱きしめた。立っているのか、ベッドの上にいるのか、よくわからない。ふわふわした所にいる。女の重さは感じるけれど、他のものはなにもなかった。床に寝そべった感じでもなければ、宙に浮いた感じでもない。しいていえば、雲の上とか、海の中とかいう感じだ。
 二人のからだが絡み合う。どこからどこまでが女のからだで、どこからどこまでが僕のからだなのか、よくわからない。なんだか溶け合ってしまっている。肌を感じるというよりは、なにかの鼓動を感じている。
 キスをする。いい。なかに入る。ひとつになる。あっという間に終わる。
 終わったのに、女は離れない。ずっとそのままにしている。
「こんなに早く終わったの、たぶんはじめてだと思う」
 僕が照れ隠しのようにそう言うと、女は人差し指を僕の唇にあて、なんにも言うなというような仕草をした。
「終わってないわ」
「えっ?」
「ここでは始まりもなければ、終わりもないの」
「じゃあ僕たち、ずっとこうして抱き合っているの?」
「いいえ、そういうことじゃなくて、終わってないって言ってるの」
 女は、どうしようもないなあという顔で僕を覗き込んだ。
「私たち、六百年かかって、やっとここまで辿り着いたの。だから、終わったとか言わないで」
「だって実際終わってしまったんだから仕方ないじゃないか」
「違う。あなたが終わったって思えば、それは終わり。終わったって思わなければ、終わりじゃないの。わかる?」
「わかるって言われても、困るんだ。だって、僕はもう終わったって思ってるんだから」
 女は、もう、と言って笑い、僕から離れた。
「さっき、きみと僕とがなんだか溶け合っていっしょになってしまった感じがしたんだけど、どうしたんだろう」
「きっとあなたがそうなりたいって思ったからだわ」
「僕が?」
「そう、あなたが」
 なんだか変だと思った。女は、ここではなにもしないと言った。それなのに僕たちは抱き合った。
「さっき、ここではなんにもしないって言ったよね。食事もしないって」
「ええ」
「でも、お腹がすいてきたんだけれど。食事はできないの?」
 女はおかしそうに笑った。
「心配しないで。なんでもできるから」
「だって」
「まだ慣れてないから無理もないわね。なんでもできるの。でも、しばらくすれば、なにも要らなくなる。だから、欲しいうちになんでもしておいたら?」
「あれ」
 目の前にパスタがあらわれる。フォークもナプキンも胡椒も、そしてグラスに入った白ワインまで、丁寧に置かれている。
 女はなぜかまた裸で、僕の前で微笑んでいる。確かに食欲はない。お腹がすいていたはずなのに。
 僕はパスタには手を付けず、女の胸に手を伸ばした。それは小さく硬く、リンゴのような感じがした。これまで僕が知っていた大きく柔らかい胸とはまったく違う。僕の指先が素直に喜んでいる。
 気が付くとパスタは消えている。フォークもなにもない。そして女は、服を着ている。
「なんだかなあ」
「なに?」
「あっ、いや、なんでもない。慣れるのは、なかなか難しいって、そう思ったものだから」
「ううん、すぐ慣れるわよ」
「そうかなあ?」
「そう、すぐ慣れるわ」
 僕は、自分が置かれた状況を、というか、この場所のことを考えてみた。どうなってしまったんだろう。ここはいったいどこなのか。
「心配しなくてもいいの」
「えっ?」
「だから、心配しないで」
「ねえ、本当に、ここはどこなの?」
「本当に?」
「いや、だから」
「どこだと思う?」
「それ、僕が聞いてるんだってば」
 女は笑っている。
 僕は手を伸ばして女の髪に触れる。女は僕の手を取って、優しく握る。僕はそれを握り返す。
 なんの音も聞こえない。過去もない。未来もない。考えてみれば今もない。
 でも、なにかがおかしい。女は昔のことを憶えている。僕はなにも憶えていない。女はここがどこなのか知っている。僕はなにも知らない。
「あの、ちょっと気になったんだけど、なんできみだけが、永い記憶を持っているの?」
「永い記憶って?」
「きみ、よく、六百年前って言うじゃない」
「ああ、そのこと」
「きみは憶えていて、僕は覚えていない」
 女はいつになく真剣な目で僕を見た。
「それはね、私がずっとこだわってきたからなの」
「こだわってきた?」
「そう、こだわってきたの。あなたといっしょになることに」
 僕は女の目を見た。話すことが浮かばない。
「いつもあなたを探して生きてきたの」
「僕を探すって?」
「あなたを探すのってそんな簡単じゃない。いつだって大変なの。やっと見つけたと思ったら、あなたはもう誰かといっしょにいたり、赤ちゃんだったり、お爺さんだったり」
 女はため息をついた。
「でも、どうやって僕だってわかるの」
「ずっと遠くにいれば、どんなに感覚を研ぎ澄ましても絶対にわからない」
「わからないんだ」
「そう、わからないの」
 女は悲しそうに言った。
「でも、近づいてくればわかる。うーん、なぜかわからないけれど、近づいてきたなって」
「近づくって、そんなにうまい具合に会えたりするもんなの?」
「うまい具合って?」
「だから、この地球の上には何億もの人間が住んでいるんでしょ。そのなかで二人が出会う確率ってすごく低いんじゃないかなって」
「そうね、確かに大変ね。でも、私はいつでも会いたいって思っていたわ。他の誰もこれだけ強くあなたに会いたいなんて思わないでしょ。だからいつかは会えると思っていたの。会いたいって強く思えば会える。そういうものだと思う」
「ふーん、結構、都合よくいくんだ」
「都合よく?」
 女はとても悲しそうな顔をして下を向いた。
「こうして会うまで、六百年もかかったのよ。それのどこが、都合がいいっていうの?」
 僕はしまったと思った。
「怒った?」
「いいえ」
「ごめんね」
「いいえ、そういうことじゃないの。謝ることはなにもない。怒ってもいない。だいたい、怒るっていう感じはどこかに置き忘れてしまったみたいっだし。私には怖いという感じもないし」
「でも、ごめん」
「ごめんなんて言わないで」
 女が悲しそうな顔のまま笑った。僕は下を向いた。
「うーん、少し悲しかっただけ。えーと、なんだっけ。あっ、そうだ。近づいてくればわかるって、そういう話だったわね。あのね、山を隔てたぐらいのところまでくれば、いるっていうことがわかるの。そして、見えるところまでくると、わかるわからないの次元ではなくなる。あなたのところだけにひかりが当たっていて、私はただ、ひかりのほうに行けばいいの。でも、いつも、悲しい思いをする。だって、いつだって、あなたにはあなたの暮らしがあるんですもの」
 僕はずっと黙っていた。
「今度だって、そう。あなたにはあの人がいたじゃない。だから、まただめだったなあって、そう思ったの。また何百年か待たなければってね。だから、あなたの前から消えようって。でもその前に、あなたと話がしたいなって。それで、あなたの車に乗せてもらって、そしたら、思いもかけず、いっしょになれて」
 そう言って、女は黙る。
 僕は沈黙が苦手だ。なにか適当なジョークでも言ったほうがいいのかとも思ったけれど、それもおかしい。
「ねえ、会うのに六百年かかったんだよね」
「ええ、そうよ」
「僕たちは、六百年前に出会った」
「そう」
「その六百年前のこと、話してくれないかな。そして、それから今までの六百年のことも」
「それは無理ね」
「なんで?」
「だって、そんなこと話してたら、六百年かかってしまうもの」
「だから、かいつまんで」
「冗談よ。話すわ。あのね、前にも言ったけれど、私たち、タブリーズで会ったの。私はそこで奴隷として売られていた。それをあなたが買ったの。あなたはカスティリャからサマルカンドまで行って、その帰り。私はサヴォナの両親の許を出てから騙されて奴隷になり、何回か転売されてタブリーズで売られていた。あなたがなぜ私を買ったのか、それは私にはわからない。偶然なのか、会うべくして会ったのか。あなたが私に興味を持ったのは確かだけれど、なぜ法外な金額を出して私を買ったのかは知らない。私たちはそこで会うように運命付けられていたんだって思いたい。実際、私は今までずっとそう思ってきた。会った日の晩、あなたは私の足を取り、暖かい湯で洗ってくれたの。そしてふんわりとしたタオルで拭いてくれたわ。辛いことばかりの毎日の後で、あの優しさは特別だった。心に沁みたわ。あの時から、私はあなたのもの。あの頃のあなた、よく私のことを散歩に誘ってくれたわ。二人だけで歩く道はどこも新鮮で、なにもかもが輝いて見えた。歩きながら話をしたんだけれど、話が途切れることは殆どなかった。あなたは私の話をよく聞いてくれたし、あなたの話は面白かったし。それから、私たちは旅をしたの。長い長い旅。タブリーズから黒海に出るまでは、毎日が命がけだった。黒海から地中海に抜け、私の故郷のサヴォナに着くまでだって、そんなに楽ではなかった。でも、私はあなたといたから、なんの不安も感じないですんだの。少しのあいだ別々に過ごしたあと、私たちはまた旅をした。ある神父の、人間の争いから一番遠いところ、という言い方に惹かれ、アヌシーの湖の畔のタロワールに落ち着いたの。私は幸せだった。あなたが逝ってしまうまでは」
「タロワールって、この先のタロワール?」
「そう、この先の、あのタロワール」
「僕はそこで死んだの?」
「ええ」
「それで?」
「それで、私はまた旅をした。それから、トリノに落ち着いて、そこで違う人と結婚して、フィレンツェに移って、そこで死んで、それから」
 女は深く息を吸った。
「それから、ずっと、あなたを探し続けたの」
 僕は女の目を見た。色とか形とかではない、その微妙な表情が、そのひとつひとつが、僕は好きだった。その時の目も、僕は絶対に忘れない。悲しいとか優しいとかそういう言葉では括れない、なんともいえない目だった。
「それからずっと?六百年のあいだ?」
「そうね、それから、六百年。さっきも話したけれど、なかなか会えないものなのよ。あっ、そうそう、一度だけ、とても面白いことがあったの。もう百年以上前のことだけれど、やっと見つけたあなたは、赤ちゃんだったの。かわいくてね。で、どうにかそばにいられないかって考えて、あなたのお父様に近づいたの。そしたら、なんと、あなたの世話係として雇ってくれて。私はもう、本当に嬉しかったわ。毎日、あなたに話しかけることができて、幸せだった。ところが、赤ちゃんに向かってまるで大人に話すようなことばかり話していたものだから、怪しまれてクビになってしまったの。そう、なにが言いたいかっていうと、やっとのことで見つけても、それだけではいっしょにはなれないっていうこと。今度だってあなたはあの人といっしょだったしね。とにかく六百年のあいだ、あなたは私のことを忘れ、私はあなたのことを思い続けた」
「なんで僕はきみのことを忘れてしまったんだろう」
「忘れるのが普通なの。あなたは過去に縛られることもなく、普通に生きることができた。それはいいことなのよ」
「でも、きみは憶えていた」
「私はあなたに会いたいと思い、あなたを探し続けたの」
「なぜ?」
「うーん、性格かな。私、しつこいほうだから。それとね、あなたが本当に私のことを忘れてしまったのかどうか、知りたかったし」「そのことなんだけど、きみのこと、なんか知っているような気がするんだよね。なにか懐かしい感じが、きみの周りに漂ってるし」
「あはっ」
 女は軽く笑った。
「無理しなくていいのよ。優しくすることもないわ」
「本当だってば」
 女のことは、なんとなくだけれど、懐かしい。
「いいから、いいから」
 女の目はずっと笑っている。
「でも、憶えているって、どういう感じなのかな。きみだけが死なないで生き続けたっていうわけではないんだよね?」
「まさか。あのね、どちらかというと、思い出す感じかしらね。生きている途中で、だんだんとね。なにかのきっかけがあって、六百年の記憶が甦ってくるの。特に六百年前のことは、まるで昨日のことのように思い出すことができる。不思議といえば不思議なんだけれど、私が憶えているというよりは、記憶が受け継がれてきたっていう、まあ、そんな感じかしらね」
「じゃあ六百年前のきみは、今のきみとは、関係ないっていうことなの?」
「関係ない?うーん、そのあたりの事は私にもよくわからないの。でも、なんとなくだけれど、六百年前の私と今の私とは同じではないかなって、そう思う。ちょうど、昨日の私と今日の私とが同じだって思うようにね」
「僕は?六百年前の僕と今の僕とではなんとなく違うような気がするんだけれど。だいいち僕は、スペイン人ではないしね」
「ええ、そうね。でも私には、同じ人にしか思えない。なにもかもが同じ。なにも変わらない。変わる必要もないし、変わることもできない。そんなふうに思えるの」
 女の言うことに嘘はなさそうだ。だとすると、僕はこの女のことを六百年前から知っているということになる。そしてそのことを憶えていない。
 ここがどこなのかも知らない。
「さっき聞いた時はなんとなくごまかされたけれど、いったい僕たちは、どこにいるの?」
「どこだと思う?」
「海のなかみたいな感じなんだけれど」
「じゃあ海のなかっていうことにしましょう」
「しましょうって、そんな。本当はどこなの?」
「だから海のなか。あなたと私は海の水」
「水って一滴っていうこと?」
「いいえ、違う。私たち水に溶けているから、一滴とか、そういうことはないの。だから、どこからどこまでが私たちでとか、そういうこともなくて、なんていうのかな、私たちは水の一部で、それでいて水の全部なの」
「うーん、よくわからないけれど、要するに僕たちは海なんだ」
「そう、私たちは海なの」
「ふー。なんだかなあ。また、ごまかされている感じだな」
「うん、そうかもね」
 女は笑った。
 僕たちは海。まあ、それでいい。なんだかそれが本当のような気もするし。
 僕たちは水の一部。そして、僕たちは水の全部。わかったような、わからないような、それでいて、それはみんな嘘に思える。そして、そんなことはどうでもいいような感じになってしまう。
「要するに、僕たちはいっしょってことなのかな」
「そうね、そういう言い方のほうがわかりやすいかもね」
「うーん、なんだかなあ。たとえば僕がここは空の上みたいだって言ったら、きみは、じゃあ空の上っていうことにしましょうなんて、そんなこと言いそうだし」
「そんなこと言わないわ。でもここがどこかなんて、どうでもいいことなの。大事なのは、あなたが私のなかにとけて、私はあなたのなかにとける。そして、あなたと私の区別がなくなって、あなたが私を好きだとか、私があなたのことを好きだとか、そんなこともなくなってしまうの」
 僕は女を抱きしめた。いっしょになんかなりたくない。こうして女を感じていたい。そんなふうに思った。
「あのね、あなたはあまり意識していないみたいだけれど、この世の中のものは、みんな生きているの。動いているものも、動いていないものも」
「動いていないもの?」
「ええ」
「それって、草とか木とか、そんなもののこと?」
「草や木はいつだって動いているわ」
「じゃあ、水とか雲とか、そんなもの?」
「水だって雲だって止まっていることはあまりないんじゃないかしら」
「じゃあ、動いていないものって、なに?」
「土は?」
「ああ、動いてないね」
 女は笑っている。
 草や木が生きているっていうのは、そうかなって思うけれど、水や土が生きているっていうのは、なんだか抵抗がある。でも実際に僕たちが海の水なのだとしたら、生きていないというのも認めたくない。
「水は生きているんだよね?」
「ええ」
「土も生きている」
「そう」
「そして僕はきみといっしょで幸せだ」
「本当?」
「うん」
「私も幸せ」
 僕は女を抱き続けていた。
「きみにはじめて会ったときのことを、僕は憶えていない。そのあとのことも、なにも知らない。それなのにきみとこうしていっしょにいることができる。そしてこれからもずっといっしょ」
 女は僕を柔らかく抱き返した。
「ずっといっしょ?」
「うん。だって、いつまでもずっといっしょなんでしょ?」
「お互いが必要だったらね」
「それ、どういう意味?」
「お互いが必要だったら、いつまでもずっといっしょ。でも、もういいの」
「えっ?」
 女は優しく微笑んでいる。
「もういいの。私、とても、幸せだわ」
「もういいって?」
「もういいの。ありがとう」
「それって、まるで、どこかに行ってしまうみたいな言い方だね」
「そうね、まるで、どこかに行ってしまうみたいね」
 女は僕から離れた。白いドレスを着て、白い手袋をしていた。
「白い色、きみに似合うね」
「ありがとう」
 女はうしろを向いた。
「あっ、あの、どこにも行かないよね」
「ううん、これで、さようならなの」
 女は僕の前から消えた。


「ああ、よかった。どうなることかと思ったわ」
 恋人の声がする。赤いドレスが目に入る。そう、僕はまた、ホテルのレストランにいるのだ。まわりには人が集まっていて、みんな心配そうに僕を見ている。
「あれ、どうしたんだろう」
 ぼくのそんな言い方は、まがぬけている。そのせいもあったのだろう、みんなばかばかしいと思ったのか、心配するんじゃなかったという感じで次々といなくなった。
 恋人がひとり、僕の前で心配そうにしている。僕はなにかうしろめたい気がした。
「大丈夫、心配しないでいい」
「そんなこと言っても」
「本当に大丈夫だから」
 僕は窓の外を見る。もう外は薄暗い。下には湖が見える。でも入り江には誰もいない。僕は女のことを思った。
 なんだったんだろう。全部が全部、夢だったとは思えない。女は僕のことを六百年探し続けたと言った。今度は僕が探し続ける番なのかもしれない。六百年でも、六千年でも、探さなければならない。
「部屋に戻ります?」
 恋人が言った。
「うん、でも食事は?」
「部屋に運んでもらいましょう」
「そうだね。それがいい」
 恋人はギャルソンの方に食事のことを頼みに行く。僕はもう一度入り江のほうを見る。誰もいない。
 恋人は僕の脇に来て、まるで病人に接するような感じで僕をいざなう。僕は素直に従う。
「どうしたの?」
「べつに」
 部屋に帰った僕にはもう、何日か前のように振舞うことはできない。
 恋人は心配そうにしている。
「なにがあったのかしら?」
「なにも」
「あの、こんな言い方、本当はいけないんだけれど、さっき、あなた、このまま死んでしまうのじゃないかって思ったの」
「うん、死んだのかもしれない」
 僕は気のない言い方で、そんなことを口にした。
 食事が運ばれてきた。ホテルの部屋で食べるのは、あまり好きでない。食欲もない。でも、そんなことは言えない。
「私たち、これから、どうなるのかしら?」
 フォアグラを口に運びながら、恋人が言った。
「どうなるって?」
「別れるのかしら、ずっといっしょにいるのかしら」
「ずっといっしょ?」
「ええ。たとえば、結婚したりして」
「結婚?」
「ええ」
「この僕と?」
「ええ」
「こんな僕と?」
「こんな?」
「えっ、いや、なんでもない。結婚か」
「いやかしら?」
「うーん。でも、きみも僕も、料理の作り方さえ知らないし」
「誰かに作ってもらえばいいじゃないですか」
「子供は?」
「あら、あなたも私も、子供の作り方さえ知らないって、そういうことかしら?」
 僕は思わず笑った。こんな時でも笑うことができる自分が、なんとなくおかしかった。
「いや、そういうことじゃなくて、別れるっていうのは、これからはもういっしょじゃないっていうことで、ずっといっしょにいるっていうのは、どちらかが死ぬまでっていうことだよね?」
「えっ、なに?なんのことですか?」
「死んだあとは、別々だよね」
「なに言ってるの?死んだら無よ。なにもないの。いっしょも別々もないと思いません?」
「うん、そうだよね」
「あなた、やっぱり、変ね」
「いや、なにも変じゃない」
「今日は、食事が終わったら、なにもしないで寝ましょう」
「なにも?」
「そう、なにもしないで」
 僕はその晩、眠れずに、ずっと女のことを考え続けた。

   ―――――

 きみにはじめて会ったとき僕は、タブリーズなんていうところでいったいなにをしていたのだろう。いったいどんな気持ちできみを買ったのだろう。僕たちはほんとうに、会うべくして会ったのだろうか。その前に会ったことはないのだろうか。

 六百年のあいだずっと探し続けたというのなら、なんで会ってすぐに、いなくなってしまったのだろう。いなくなる前にきみが口にした「もういいの」という言葉には、どんな意味があるのだろう。これからすぐに、どこかで会うのだろうか。

 でもなぜ、急にいなくなったのだろう。どこかに行かなければならなかったのか。それとも、僕に会ってがっかりしたからなのか。探せばまた、きみに会えるのだろうか。百年後にきみのことを憶えていて、探し続けることができるのだろうか。

 六百年探し続ければ会えるのか。それとも、六千年とか六万年とか待たなければならないのだろうか。やっとのことできみに会えたとして、いっしょになることはできるのだろうか。また二人して海の水になることができるのだろうか。

 僕はこれから、どうするのだろう。きみを探すのだろうか。それともこのまま、恋人といるのだろうか。きみにとって僕はいったいなんなのだろう。僕にとってのきみは。なんなのだろう。なにもわからない。どうしてなのか。なにもわからない。

   ―――――

「起きてる?」
「ええ、よく眠れなかったみたい」
「えーと、きのう話したこと、憶えてる?死んだあとは、別々っていう話」
「ああ、またその話?あなた、いつから死んだあとのことなんて考えるようになったのかしら?」
「結婚の話は?」
「ええ、もちろん」
「本気?」
「ええ、そろそろかなって」
「ふーん、じゃあ、どちらかが死ぬまでっていうことで、それまで一緒ということで、結婚しよう」
 それを聞いて恋人は、まるで一気に眠気から醒めたみたいにして、がばっと起き上がった。
「なんだか、嫌々ね。でもいいわ。あなたの気が変わらなければ、近いうちに結婚してあげる」
 恋人はベッドから出て、僕を見ずに洗面室のほうに歩いて行った。鼻歌が聞こえてくる。聞き慣れたメロディーなんだけど、なんの歌かは思い出せない。なにもかもを思い出せるわけでもない。 
 そう、なるようにしか、ならない。あの時、あのカフェに立ち寄らなければ、あの女に会うこともなかった。そして六百年前なんていうことも、考えずにすんだのだ。
 これはみんな夢だったんだ。そう、とてもいい夢。


 しばらくのあいだ、本を読むこともなく、ギターに触ることもなかった。恋人との関係はなんとなく続いていたが、結婚という話はそのままになっていた。仕事にはあまり集中できず、女のことばかりを考え続けた。
 暇を見つけては、あの山の麓の町に出かけた。町の人たちによれば、カフェはもう長いあいだ閉まっていて、僕が寄ったこともおかしなことのようだった。山に上って湖の畔に車を停めたり、恋人と泊まったホテルに寄って入り江を眺めたりもした。女と泊まったはずのオーベルジュを尋ねたのだが、女主人はいなかった。結局、女を探す手がかりになるようなものは、なにもみつからなかった。
 簡単に忘れられると思った。でも、日が経つにつれ思いは募っていった。


 休日の前の晩、僕は女の夢を見た。もっと正確にいえば、やっとのことで女の夢を見ることができた。長いあいだ会わなかった女があらわれて、僕に向かって微笑んだのだ。
「あれからずっと、気になっていたんだけれど、あなた、あの人とどうなったの?」
「どうって?」
「うまくいってる?」
「うん、まあ」
「あれ、あなた、あの人と結婚するんじゃなかったの?」
「うん、そうかな」
「私、あなたがあの人といっしょになるのを邪魔しようなんて思ったことは一度もないのよ」
「うん」
「さっきから、うん、ばっかり」
「うん、そうだね。あの、僕も気になっていたことがあるんだけれど。きみと僕って、なんなの?」
「なんなのって?」
「だから、二人のあいだには、なにか特別なことがあるのかな?」
「特別なこと?」
「そう、例えば、愛とか、恋とか、そういう特別なことがあるのかな?」
「愛とか恋とかって、私にはよくわからないけれど。でも、そういう言葉には、少し抵抗があってね。考えてみれば、すべての悪いことや醜いことは、みんな愛から始まるじゃない。私が奴隷になったのだって、私が誰かを愛したからなのだし」
「でも、僕たちのあいだには、なにか特別なことがあると思うんだけれど」
「特別なこと?」
「うん、二人だけの特別なこと」
「特別なことなんて、なにもないわ。だいいち、あなたにはあの人がいるじゃない」
「あの人?」
「そう、あの人に集中したら?」
「集中って?」
「あの人のことだけを考えて暮らせば?」
「うん。あの、それよりも、今日は急に消えたりしないよね?」
「あっ、また話を変えるんだから。でも、そうね、今日は、急に消えたりはしないわ。あなたが私に消えてほしいと願うのなら、話は別だけれど」
「まさか、消えてほしいなんて思うわけがないじゃないか」
「でもあなたにはあの人がいて、私の居場所はないんだけど」
「そんなこと、今は関係ない。とにかく消えないでほしい」
「私は消えたりしない。どこにも行かない」
 僕の夢がそこまで来たとき、なにが起きたのか、急に目が覚めた。そして、起きたばかりだというのに、僕はいきなり考え込んでしまった。
 長い時間が経ったのだろう。ようやくのことで、結論のようなものに辿り着いた。
 こうして毎日を続けていくわけにはいかない。恋人となんとなく続けていくのはずるいことなのだ。女が言ったことを頼りに、そして自分を信じて、女を探し続けてみよう。会えなくてもいい。探し続ければそれでいい。何百年かあと、その時の僕が、まだ女のことを憶えていて、出会うことができて、女が僕を受け入れてくれたら、僕たちは海の水になって、今度こそずっといっしょにいるのだ。


 僕はさっそく着替えをして恋人に会いに行った。
 恋人は、ガウンを纏っただけの姿で戸口に現れた。
「やあ」
「あら、久しぶり」
「ちょっと、いい?」
「あ、あの、いま、お客がいて。えーと、そう、いとこ。いとこなの。あの、申しわけないのだけれど、映画館の隣のカフェで待っていて下さらない?」
「うん、いいよ」
「ありがとう。すぐ行くわ」
 僕はカフェに行って恋人を待った。恋人はすぐに現れた。
「ごめんなさい。急にいとこが現れたもので。あっ、あの、彼、本当にいとこなのよ。そのいとこが昨日の夜遅く、ロンドンから来たものだから」
「僕のほうこそ、ごめん。電話もしないで来たりして」
「なに言ってるのよ。でも、珍しいわね。あなたが連絡もしないで来るのなんて」
「うん、ちょっと話があってね」
「ちょうど良かった。私のほうも話があったの」
「きみも?」
「ええ。で、あなたの話ってなに?」
「あっ、先にきみの話を聞きたいな」
「なによ。あなたが話をしに来たんでしょう?」
 恋人は鏡と口紅を取り出すと、唇に赤を加えた。僕に話をしろという合図だった。僕は飲み物が運ばれるまで黙っていた。 
「さあ、話して」
 給仕の女がいなくなるのを待って、恋人が言った。
「うーん、あの、僕たちのことなんだけれど。もう終わりにしないか?」
「終わり?」
「そう。別れよう」
「別れる?」
「うん」
「結婚は?」
「結婚?」
「ええ、結婚」
「別れたら、結婚はしないんじゃない?」
「別れたって結婚はできるわ。そして私は、あなたとの子供を生んで育てるの」
「子供?」
「ええ、あなたと私の子供」
 僕はまた黙った。女はなにも言わず、下を向いた。しばらくして、今度は僕に背を向ける。からだが小刻みに震えている。僕はひとが泣いたりするのに弱い。どうしたらいいのかわからない。窓の外を眺める。年老いた女が買い物籠と格闘している。その脇を少年が自転車で走り去る。僕はまた恋人の方に目を向けた。恋人の見慣れた背中がいつもより小さく見えた。
「あはっ」
 恋人はこちらを向くと、堪えきれなかったかのように笑った。
「うん?」
「うふっ。だってあなたの顔、おかしくて」
「おかしい?」
「ええ、結婚とか子供とか言ったら、あなた、本当に困った顔になってしまって」
「それで笑いを堪えてたっていうわけ?」
「ええ」
 僕はなんだか気が抜けてしまった。恋人のこういうところは嫌いではなかった。
「いいわ。別れてあげる。でも、終わりにはしてあげない」
「えっ、なにそれ?」
「別れてあげる。だから心配しないで。でも、二度と会えないとか、そういうようなことは、言わないでね」
「なんで?」
「なんでって?」
「だから、なんで別れたあとで会ったりするわけ?」
「だって」
 女は下を向いた。今度は笑いを堪えているわけではなさそうだった。居心地は悪かった。
「ところで、きみの話って、なに?」
 僕は間を持たせる感じでそう言った。
「ああ、そうだった」
 女は顔を上げた。笑顔だった。それを見て僕はほっとした。きれいな笑顔だった。
「あの、結婚式の披露宴、どのホテルにします?」
「えっ?」
「だから、結婚式。私の話って、結婚式の披露宴の場所をどこにするかっていうことだったの」
「本当に?」
「冗談。本当は子供ができたっていうことを報告しようと思って」
「えっ?」
「それも冗談。もう、いいわ。車はどこに停めたの?」
「きみの家の前」
「じゃあ、いっしょに行きましょう」
 僕は恋人と肩を並べて歩く。
「もう、何年になるのかしら」
「なにが?」
「あなたとこうして歩くようになってから」
「七年、いや、八年かな」
「いいコンビネーションだと思ったんだけれどね」
「うん、そうだね」
 車を停めた場所にはすぐ着いた。
「それじゃあ」
「ああ、じゃあね。そうそう、きみのいとこによろしく」
「あっ、彼、本当にいとこなのよ。私の母方のいとこ。ロンドンに住んでいるの。それに、あなた、彼のこと知らないでしょ。よろしくっていうのも、なんだか変だわ」
「そうかな。じゃあ、そういうことで」
「どういうこと?」
「いや、あの、じゃあね」
「ええ、またね。ねえ、なにか言ってくれないの?」
「なにか?」
「今までありがとうとか、愛しているよとか」
「そうだね。ありがとう」
「それだけ?」
「いや、本当にありがとう」
「別れる理由とかは?」
「それは」
「誰か好きな人ができたのかしら?」
「うーん、わからない」
「きっと、そうね」
「いや、たぶん違うと思う。でも、そう思ってくれても構わない」
「なにそれ?」
「いや、あの、とにかく、今までのこと、全部、ありがとう」
「私も、ありがとう」
 それで終わった。


 不思議なもので、恋人と別れたら、他の人とも出かけなくなってしまった。仕事のアウトプットは、自分でもわかるくらい、良くなった。
 女への気持ちはますます強くなっていったが、だからといって、会えるとか、いっしょになれるとか、そういう期待を持つことはなかった。女を探すのは止めた。それと同時に、忘れようとするのも止めた。
 昼休みとか、仕事の終わりとかに、女のことを思い出す。仕事をいい加減にしていたり、自分に嘘をついたりしている時には、なぜか女のことは思い出せない。他の人と食事に出かけて良いムードになったりした時には、まる一日思い出せず、売春婦を買った時には、なんと一週間も女のことを思い描けない。そんなわけで、生活は自然とストイックなものになって行った。
 僕の日常が変わっても、みんなのなかの僕のイメージは変わらず、相変わらずいい加減な男友達とばかばかしい会話を続けていた。それはそれで良かったのだ。
 時間は容赦なく流れて行く。女のことを考える時間が減ることはなかったが、会うことへの期待はだんだんと薄れ、いっしょになることへの希望は殆んどなくなりかけていた。
 ある日、軽い感じのタイ人が電話をしてきた。カネがあり、大きな家に住み、美人の奥さんとなに不自由のない毎日を送っていた。昼休みにはテニスをし、夕方にはダンスに出かけるという生活のおかげで、外見は僕などよりはるかに良かった。
「どうだい、うまくやってるかい?」
「ああ、まあまあっていうところかな」
「さっそくだけどさ、おまえの働いているビルにいい女がいるって聞いたんだけど、今度紹介してくれないか?」
「また、女の話かよ。で、そのいい女って、いったい誰のことなんだ?」
「おまえ、また、とぼけてるんだろ。俺が誰のこと話しているのか、知ってるんだろ?」
「知らないよ。趣味だって違うだろうし。どこの部署か知ってるのか?」
「うん、なんでも人権侵害の申し立てを受け付ける部署とか、そんなことを聞いたけど。部屋はアントゥル・ソルだってさ」
 アントゥル・ソルというのは、レ・ドゥ・ショセという地上階と一階とのあいだの中間階で、機密やプライバシーに関ることを扱う人たちが働いていた。
「名前は?」
「それがわかれば、おまえに電話したりしないよ。とにかく探し出して紹介してくれよ」
「忙しいんだけどな」
「そんなこと言うなよ」
「まったく、しょうがないな。で、若いのか?」
「そんなには若くないらしいんだけれど。まず行って見てきてくれないか?」
「あー、仕方ないな。名前だけ探しておいてやるから、あとは自分でどうにかしろよな」
「おう、それでいい。恩に着るよ」
「じゃあな」
「おう」
 なんてことだ。このタイ人とは九八年のワールドカップの決勝をいっしょに見に行った仲だった。もっともその時も、試合のあと繰り出したシャンゼリゼで喧嘩をし、ホテルには別々に戻ったのだけれど。とにかく、それらしい職員の名前を見つけなければならない。
 僕は仕事が終わったあとで、アントゥル・ソルに行ってみた。みんなもう、帰ってしまったのだろう。どこもひっそりとしている。ひとつだけ鍵のかかったドアがあったので、ノックしてみる。返事があり、ドアが開く。
「えっ?」
「あら」
 あの女だった。
「なんでこんなところにいるの?」
「なんでって?」
「だからなんで?」
「私、ここで働いているの」 
「いつごろから?」
「もう七年近く前から」
「まさか、そんな」
「どうかしたの?」
「もしかして、僕のことは前から知っていたの?」
「ええ」
「ええって、そんな」
 呆然というのは、こんな感じなのだろう。女はそんな僕に微笑んで言った。
「ところで、なにか用?」
 その声はどこまでも懐かしい。
「いや、別に」
 僕は、これが夢でないことを祈りながら、女を見た。
「この部屋に来るのは、はじめて?」
「うん、たぶん、はじめてだと思う。でも、それにしても、同じ職場で働いていたなんて」
「あら、何度も会う機会はあったの。あなたが気付かなかっただけのこと」
 あの時からずっと、僕はこの女のことを考え続けてきた。どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが夢だったのか、今でもよくわからない。
「僕たち、会ったことあるんだよね」
「ええ」
 女は優しく答えた。僕は嬉しかった。
「山の麓から湖の畔まで、僕の車で送って行った」
「そうだったわね」 
「そして、途中、オーベルジュに泊まったんだ」
「ええ」
「僕たちは六百年前に出会った」
「そうね」
「その時から今まで、きみは僕のことを憶えていたのに、僕はきみのことを忘れてしまった」
「そう」
「やっぱり、みんな、現実のことだったんだ」
「現実のこと?」
「うん。夢じゃなかったんだ」
「さあ、それはどうかしら。夢も現実も、そうは変わらない。私は、そう思っているの。みんなまぼろし、みんな夢、きのうのことも、あしたのことも」
「うん、なんとなく、それ、わかるような気がする」
「そう?」
「うん。いつか僕たちは、いっしょになる」
「そんなにうまくいくかしら?」
「いくさ。これからは僕がきみのことを憶えていて、ずっときみを探し続ける。でもいつまた会えるのかはわからない。そうだよね」
「ええ。そう思ってくれるのは嬉しいけれど、でも先のことは、誰にもわからないの。あなたが私のことを憶えているかどうかも、私があなたのことを憶えているかどうかも、わからない。確かなことはなにもないのだと思う。でも、ひとつだけ確かなことがあるの。それは、たとえお互いがお互いを憶えていたとしても、そう簡単には会えないっていうこと。そして、いっしょになるなんていうのは、奇跡でしかないっていうことなの」
 憶えていること、待つこと、そして探し続けること。それはとても辛いことのようにも思えるし、とても幸せなことのようにも思える。でも、せっかく会えたのだから、せめていま、こうして生きているあいだだけでも、いっしょにいることはできないのだろうか。
 僕には、この女と離れて過ごすことが、想像できなかった。
 女を見つめる。かけがえのない大事なものが、目の前にある。どうしても失いたくないものが。
「せめて死ぬまでのあいだだけでいいから、いっしょにいてくれないか」
 僕はやっとの思いで、そう言った。
 女はなにも言わずに頷く。目が輝いている。
 僕たちはオフィスを出ると、夕闇のなか、手をつないで歩き始めた。いつもの街並みが、まったく違って見えた。

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