Friday, August 21, 2009

なにも変わらない (2)

 あの人がカスティリャに行ってからしばらくして、私の両親が相次いで逝った。二人があの人に会うことはなかったけれど、その代わり、あの人の話はたくさんした。海のような目のことも、優しい声のことも、大袈裟な動作のことも、そして素敵な仕草のことも、みんな話すことができた。
 それもこれも、両親が生きているあいだに、サヴォナに戻ることができたからだ。本当に良かった。あの人に会わなかったら、一生奴隷のまま、サヴォナに戻ることも、両親に会うこともなかったのだ。まあそれを言うなら、私を騙して売り飛ばしたあの男に会わなければ、奴隷などにならずにすんだのだけれど。
 この世の中に、もしはない。もしあの時、私があの宴席に出なければ。もしあの時、あの人があそこの広場を通りかからなかったなら。そんなことならば、いくらでも浮かんでくる。でも現実は、そんな星の数ほどの想像を通り越し、私たちを翻弄し、ただひとつの未来へと連れて行く。
 あの人は子供の頃から、よく人の顔を描いたのだそうだ。笑っていたり、泣いていたり、怒っていたり、眠っていたり、一つとして同じ表情のものはなかったけれど、思い浮かべていたのはいつも同じ顔だったという。
 ある日あの人は、ざらざらした紙と炭ペンを用意し、私の隣に座った。誰なのかわからなかったし、うまく描けたこともないし、などと呟きながら、器用に顔を描き始めた。出来上がった顔は私の顔だった。そして、これが子供の頃から繰り返し描いてきた顔だ、と言った。
 私はその話を半信半疑で聞いた。たぶん本当の話なのだろう。でも嘘でもいいと思った。あの人が描いた私の顔はとてもきれいで、線の一本一本が特別なものに見えた。絵のどの部分からも、あの人の気持ちがとてもよく伝わってきた。
 奴隷だった頃、夜は辛い時間だった。嫌な思いをたくさんした後、涙にくれて眠りにつくと、決まって同じ夢を見た。男が現れて私を連れて行く。海を渡り、遠い遠いところまで。気がつくと、私が生まれたところに着いている。そんな夢だった。まさかそれが本当になるなんて、その頃は一度だって思わなかった。死ぬことばかり考えていた。
 よく考えてみれば、私を連れて行ってくれたのは、いつもあの人だった。今、あの人は私の隣にいる。一緒に生きている。あの夢はもう見ないけれど、私は今でもあの夢と共に生きている。夢のことは誰にも話さない。あの人に話すこともない。私だけの夢。
 そういえば、私はよくあの人に、夢の話をした。夢の中でこんな人に会った。その人とこんな話をした。そんなたわいのない話だ。そうするとあの人はいつも、夢は夢でしかないのにと言って笑った。
 私には、夢は現実と同じだけの意味を持っている。そんな簡単なことが、あの人にはいつまでもわからない。私の夢は、見た時点でもうすでに私のものになっていた。夢の中で起きることは、現実に起きることと同じ。私にとってそれは生活の一部だった。
 あの人がなにかを捉える時には、すべてがあの人の中に抽象的に入っていく。そしてあの人は、概念を操り、考えを組み上げる。
 私にはそういうことはできない。起こったことだけが、私の考えのもとになる。それが現実の世界のことだろうが、夢の中のことだろうが、起きてしまえば、もうそれは私の過去だった。そして私の考えは果てしなく広がる。誰からも何からも制約されることなく、自由にものを考える。
 みんなが知っていることだけれど、フランチェスカという名前には自由という意味がある。私は名前通り、いつでも自由だ。奴隷にされ自由が制約されていた時でも、頭のなかはいつも自由だった。
 だから、あの人が解放証書を取得しようと言った時は、とても悲しかった。解放証書を手にすれば、奴隷だったことを認めることになる。自分のことを奴隷だと思ったことはなかったから、解放証書は私には必要なかった。
 自由でいるというのは、結構難しい。私を買い私の所有者になった男たちの言うことを逆らわずに素直に聞いていれば、タブリーズにまで行くようなことにはならなかっただろう。でも私は、いつも自由を優先させ、誇りを持ち続けた。自分にも自由でいたかった。ただ、自由でいれば、当然、奴隷としては生きるのが難しくなる。結果として私はすぐに売りに出された。遠いところに売られ、最後にタブリーズであの人に買われた。
 あちらこちらに奴隷として売られ連れ回されたせいで、言葉をたくさん覚えたし、各地の事情にも明るくなった。だから良かったとは決して思わないが、つらい中でもいろいろ考えるもので、以前には考えもしなかったことが次から次へと頭に浮かんだ。そのなかでも一番気になったのが、連れ回された場所にはあってサヴォナやジェノヴァにはないものだった。
 下水施設を垣間見たときの驚きは忘れられない。下水のための管が陶器で出来ていて、そこに、見事な花柄の模様が施されていたのだ。浴場の素晴らしさは、入ったことのない人には説明できない。肉や魚の保存技術は高度で、料理の方法も洗練されていた。しかし、そういうことはあまり気にならない。施設や技術ならば、いつかは追いつくことができるからだ。
 はるか東のほうにはあって、このあたりにはないもの、それは長いあいだ漠然としていて、うまく説明できなかった。決定的に違うということだけはわかっていたのだが、ではそれがなにかというと、どうもよくわからなかった。でも、今はわかる。サヴォナやジェノヴァにないもの。それは人間を中心とする考え方なのだ。
 私が連れ回されるなかで見たのは、人間が共に暮らすための知恵と、論理的な規則、そして考えたことを口にすることのできる社会だった。それに引き換え、私が生まれ育った地にあるのは、神の名のもとに繰り返される権力闘争や、保守的な道徳に基いた意味のない規則、そして公正でない懲罰の執行だった。
 実際、キリスト教の国々の後進性には目を覆いたくなるほどで、東のほうの国々に追いつくためにいったいどれだけの時間が必要なのか、想像もつかない。そもそも教会に力はなく、人心は離れ始めている。ペストに冒された人々の絶望を和らげることも、ペストの恐怖に怯える人々の気持ちを救うこともできない。そんな教会に、人々はなにも期待しない。そして教会は、人々の気持ちとは関係なく動く。そして、各国の思惑が入り乱れた結果、教皇が複数存在するというような馬鹿げたことが、日常的なこととなっていた。
 残念なことに、キリスト教以前のギリシャやローマというような都市文化は、キリスト教の国々からは姿を消していた。思想や哲学だけでなく、文学や芸術までもが、宗教の名のもとに禁じられ、科学やその精神までもが跡形もなく消え去っていた。
 ギリシャやローマの文化はキリスト教の力の及ばない国々で生き続け、最近では北アフリカを経由してあの人が生まれ育ったイベリア半島に入ってきていた。そして、キリスト教のゴンザレス、イスラム教のアベロエス、ユダヤ教のマイモニデスといった強靭な精神を持つ学者たちが、それぞれの宗教から独立した、ギリシャやローマの時代に存在していたような自由な考え方を持ち、それを広め、将来への多少の希望を育んでいた。
 もっともあの人は、そんなのは皆、過去のことだという。近頃はキリスト教だけが強く、他の宗教はすべて排撃されている。イスラム勢力をイベリア半島から追い出そうという百年来の計画は、人々をキリスト教のもとに団結させ排他的にさせた。十数年前には、つまらない理由からユダヤ教徒を虐殺する運動が半島全体に広まったし、最近も、教会の呼びかけに呼応するかのように、若者の間でイスラム教徒に対する嫌がらせが流行ったという。あの人はそんな説明をした。
 キリスト教が強くなり過ぎれば、せっかくの自由の精神も消えていってしまう。私は思わずそんな意見を口にする。あの人はわかっているというふうな悲しい顔をする。でも、なにも言わない。
 違いを理由に弱者や少数派の人たちを排除していけば、短期的には安定した社会を作ることができるかもしれない。でも、社会から多様性が消えていってしまえば、活力や力強さといったものも一緒に消えてしまう。そして、そのあとには、停滞しか残らない。だから、教会が強くなれば社会が停滞する。私はそんなことを考えた。でも、あの人にそれを言うことはできなかった。
 あの人は宗教に関しては、とても純粋だ。私をひどい目にあわせたのがキリスト教徒だったというだけで、衝撃を受けたりする。だから宗教のことはあまり話題にできない。
 もちろん、私がなにも知らないから、なにも言えないということもある。実際、私には、神がいるかどうかさえわからない。だから神のことを話す資格はない。ただ、教会を食い物にしている連中に神のことがわかるとも思えない。あの連中にも、私と同じように、神のことを話す資格はないはずだ。
 私は、神よりも自由を信じたい。その気持ちは日増しに強くなる。思想家や哲学者が自由に発言し、作家や芸術家が自由な表現を許され、科学者が真実を探る自由を手に入れ、建築家や政治家が宗教から自由になり、詩人が自由に心の中を描く。誰もが皆、人間や自然の摂理に目を向け、その結果、豊かな社会が実現される。そんなことがあったって、いいではないか。
 私は決して特別な存在ではない。私のような普通の人間がこんなことを考えるということは、あちらこちらに、自由を望んでいる人たちがいるということなのかもしれない。
 つい最近、私たちは宗教画家と食事を共にした。自分の描きたいことや主張はもちろんのこと、自分の存在をすべて消し去って仕事をするのだという。あの人はやたらと感心していたが、私はその画家がかわいそうに思えた。自分の乗っている線から外れることもなく、線の外に面や空間があることに気づかないで暮らす人たちは、幸せだが、憐れでもある。
 自分を主張しなければ確かに楽だろう。選択の必要もないに違いない。しかし、それでは、機械ではないか。人は機械ではないはずだ。主張し、苦しみ、対立し、悲しむ。そして迷う。そう、人は迷うのだ。特に二つ以上のものがある時、人は迷う。迷いたくないために、人はひとつのことを真実と思いたがる。
 数年前、ピエ・モンテのある町の広場に、流行の機械時計が二つ置かれた。町の人たちは、皆、困惑した。二つの時計がいつも違う時間を示していたのだ。
 時計がひとつなら、時刻について迷うことはない。ところが、時計が二つあるために、どちらを信じてよいかわからなくなってしまったのだ。
 では、その町の人たちはどうしたか。解決策はひとつしかなかった。一つの時計を撤去したのだ。残った時計が正しい時刻を示すかどうかは問題ではなかった。人を惑わすことが問題だったのだ。
 私が、この二つの時計の話をしたとき、あの人が面白いことを話した。タブリーズに向かっていた時、ひどい吹雪に遭い、道に迷ったのだという。方位磁石を見ると、歩いている方向は、タブリーズとは逆の、東向きだった。あの人はそれを見て、方位磁石が壊れていると確信したという。従者のひとりも方位磁石を見ていて、やはり方位磁石が壊れていると確信していた。ところが、二人でその話をした途端、方位磁石が正しく二人が間違っているということがわかった。そのお陰で道を誤らずに済んだのだ。だから、二つの時計は困りものだが、二つの方位磁石は有難いと言った。
 それは違う、と私は言い返した。二つの時計が同じ時刻を示していればそれは役に立つし、二つの方位磁石が違った方向を指していればそれは困りものなのだ。いずれにしても、人は二つ以上の異なった真実の前で無力である。
 私は、真実は人の数ほどあると思っているので、神を必要としない。あの人が神を信じていることのほうが、むしろ不思議だった。私はまた、人はいずれにしても無力だと思っているので、真実が二つ以上あっても困ったりはしない。でも、あの人はひとつの真実を欲しがる。
 このように私たちは結構違った考えを持っていたが、それでも間違いなく、いつもお互いのことを思っていた。愛とは呼びたくない。ではなにかと聞かれれば、答えられない。とにかくそれは強い結びつきであり、どちらかが死ぬまでずっと一緒にいたいという、強い気持ちだった。
 そう、私はあの人を信じている。そしていつも、あの人のことを思っている。
 忘れもしない西暦千四百六年一月六日の水曜日、サヴォナの宿で、私はあの人とはじめて抱き合った。それは、私にとっては、いろいろな意味ではじめての体験だった。なにもかもが素晴らしかった。
 一月九日の土曜日、あの人が教皇に拝謁しに出かけた後、私はあの人に手紙を書いて、宿を出た。普通ならもう二度とあの人には会えないと考えるのだろうが、私は絶対にまた会うと思っていた。
 手紙にもそのことを書いた。私は両親の許に挨拶に行くのであって、帰るのではない。私が帰るところはあの人のところだけなのだということを書き、念のために両親の家の場所まで書いておいた。
 あの人はその後、両親の家に来ることもなく、二月一日の月曜日にジェノヴァを発ち、カスティリャに向かった。偶然同じ日に、母が逝った。胸の病だった。
 母は優しい人で、いつも私の側にいてくれた。私が間違っているときも母は私の味方だった。
 私が家に帰り、奴隷だったことを告げると、母は大層心配し、どういう目に遭ったのか、細かく知りたがった。私は母を安心させるために、彼の地では医者や土木技術者なども奴隷なのだと説明した。そして、私が見たり聞いたりしたいろいろな奴隷の話をした。
 母は、サヴォナで商社員といわれている人たちが、彼の地では奴隷だという話に変に納得し、私が普通の人間として扱われたという理解をしたようだった。
 私が実際に遭ったことといえば、人の前で恥ずかしいことを強要されたり、男たちに鞭で打たれたりといった、思い出すのもおぞましいことばかりだったが、それを母に話す必要はなかった。
 運良く母を看病することができ、三週間ほどの濃密な時間を過ごせたのは幸いだった。母が弱っていくのは辛かったが、逝った時の顔はとても穏やかだった。
 母が逝ってから一か月ほど経ったころ父の容態が急に悪化し、三月五日の金曜日に父が逝った。老衰ということだったが、母の死が重くのしかかっていたのは確かだった。
 父はサヴォナ有数の資産家の息子として生まれ、死ぬまで自由に暮らした。人からは学者だと思われていたし、実際そういう扱いを受けていた。死ぬ前に、私が帰って来てよかったと、何度も何度も呟いた。
 私は父の死を粛々と受け入れた。それより他にしようがなかった。父が死んで、私は文字通りひとりきりになった。両親の家は私が相続した。
 六月、私がまだ両親の死の後始末をしている頃、あの人がまたジェノヴァに現れたらしいという噂を聞いた。私はあの人が私のところに来たのだと思った。サヴォナで待っていればあの人に会える。そう思った。
 ところがあの人は、すぐにサヴォナに来てくれなかった。私を奴隷として売り飛ばしたカッファのジェノヴァ商人を探し出して、決着をつけようとしたらしい。復讐を企てたのだ。
 結論からいえば、それは意味のないことだった。私を奴隷にした男は、ジェノヴァやカッファをはじめ、貿易で繋がりのあるすべての場所で、権力者や要職にある役人たちと深い繋がりを持っていた。そもそも、そうでなければ、私を奴隷にすることなど不可能だったろう。聞いたところでは、サヴォナに仮住まいしていたベネディクトゥス十三世やヴィテルボにいるインノケンティウス七世とも通じていたという。用心深く暮らし、知らない人間には一切会おうとしなかった。カスティリャ人のあの人がなにをしようとしても、所詮無理なことなのだった。
 ジェノヴァとカッファの通商代表部が、私を奴隷にした件に絡んでいたとわかった時には、あの人は怒りを行動に移し、両通商代表部から侮辱罪で告訴されるような騒ぎを起こしてしまった。騒ぎを大きくしたくない相手方が告訴を取り下げたため牢に繋がれるような大事には至らずに済んだのだが、この騒動でジェノヴァの有力者の大半を敵に回すことになってしまった。あの人にとってはなんの益もない行為だったが、あの人らしい物事への処し方ではあった。
 二年前の三月二十二日に取り交わされたヴェネチアとの和平合意に基き、六月二十八日にはジェノヴァ・ヴェネチア協定が結ばれた。ジェノヴァの人々、特に商人や船乗りたちは、その協定のことでもちきりで、そのお陰もあって、あの人のことは大したニュースにならずに済んだ。
 私は七月に入ってからこの騒動の顛末を知り、あわててジェノヴァ行きの小さな船に乗り込んだ。私がジェノヴァに着いた頃、あの人が私の家に着いた。その時留守番をしていた洗濯女が言ったことが間違って伝わり、あの人は私がカスティリャに向かったと理解した。私がサヴォナに戻った時には、あの人はもうジェノヴァに向かって発った後だった。
 私たちは、何度ものすれ違いの後、八月十四日の土曜日にやっと会うことができた。私は、ジェノヴァの港で、カスティリャ行きの船の情報を取ろうと走りまわっていた。小麦の倉庫の前まで来た時、あの人が倉庫の中から出てきた。一瞬、事情が飲み込めず、あの人と見つめ合い、会えたのだとわかった時には、あの人に抱きついていた。
 あの人と私は、その日のうちにサヴォナまで船で移動し、私の家に落ち着いた。この家はもう私の手から離れていくことが決まっていた。あとは誰に売るのかを決めるだけだった。家を手放す前に、私が生まれ育ったこの場所で、あの人と一緒の時間を過ごすことができるのが、とても嬉しかった。
 目の前に海が広がっている。右の山のほうに日が沈んでいく。それを見てあの人は、あの先がカスティリャだと言った。帰りたいかと尋ねると、いいや、と短く答える。それでも、あの人の目は夕日の先のほうを見ているようだった。
 夕食の後、私は、茶色の革の鞄を持ってきて、あの人の前に置いた。鞄はそんなに大きなものではなかったが、ずっしりと重たかった。あの人は怪訝な顔をした。
 あの人が私を見る。私が開けてと言う。すると、あの人らしくないびくびくした様子で、鞄に触れる。
 なんだかおかしい。さあ、早く。私に急かされて、あの人が鞄を開けた。中には、タブリーズやペラなどで手に入れた本が詰まっている。どれも私の宝だ。
 そうだ、イブン・バットゥータの旅行記が二冊あったんだね、とあの人が言った。タブリーズで私を匿ってくれた本屋から貰ったペルシャ語版と、ペラであの人が買い求めてくれたギリシャ語版とが入っていたのだ。オリジナルのアラビア語版がないのが残念といえば残念だったが、もともと口述筆記で書かれた本だそうだし、何語で読んでもそうは違わないはずだ。
 実際私は、この旅行記を広げるのが、なによりも好きだった。東のほうに旅をするなどもう沢山だが、聞いたことのない地名を読み、見たことのない景色を想像し、訪ねたことのない町を頭の中で歩き回るのは、とても楽しい。バットゥータの行ったインドや中国には、不思議なことがたくさんあるような気がする。行きたくはないが、行ったことのある人に会って話を聞いてみたいとは思う。
 あの人は、辞書さえあればここにある全部の本が読めるのかと聞いた。私は読めなくてもいいのだと答えた。ペルシャ語で書かれたサーディの詩を、たとえ意味がよくわからなくても、声に出して読むと、なにかが伝わってくるのだ。読むだけでも十分なのだと説明した。そしてあの人のために、サーディの果樹園を読んだ。言葉が川になって流れていくような感じがした。
 私は本が好きだ。本のなかにはすべてが詰まっている。それをあの人にわかって欲しくて、いろいろな説明をする。説明はいつもうまくいかない。
 どの国もどの文明も、その繁栄の盛りに衰退と滅亡への第一歩を踏み出す。そして衰退や滅亡の後には、新しい興隆と繁栄が訪れる。そんな繰り返しのなかで、政治や宗教が自由を奪い、科学や芸術を破壊してしまう。
 ところが本のなかでは、自由が、政治や宗教にわずらわされることなく、存在し続けている。もともとギリシャやローマといった地で書かれたものが、それ以外の場所で読み継がれ、自由の精神が、科学が、芸術が、本のなかでずっと息づいて、受け継がれてきた。だから、そんな本があれば、疎かにはできない。長い時間のことを考えながら、ゆっくりと大事に読む。
 読みながら、このキリスト教に抑えられた地に、もう一度、自由にものを考えることのできる社会が訪れることを、夢見る。人に考えを押し付けられるのでなく、自分で考えたことを口にできる環境があれば、科学も芸術もすばらしいものになるだろう。
 あの人はどこにいる時も、私が喜びそうな本が見つかると、値段を気にせずに買ってきてくれる。カスティリャからも何冊か、私に会えるかどうかわからなかったはずなのに、私のために本を運んできた。アベロエスが書いたアリストテレスに関する本など、カスティリャでは発売禁止に違いない。裏道のいかがわしい本屋でしか手に入らないようなものばかり選ぶところをみると、私がなにを喜ぶのか知っているようにも思える。まあでも、たぶん、好みが似ているというだけのことなのだろう。
 夜も更け、本の話も一段落し、茶色の革の鞄を閉めると、あたりが突然静かになった気がした。あの人は私を見つめると、なにか言った。私はなにも聞きたくなかった。ただ抱いて欲しかった。
 その晩は、ずっと一緒に過ごした。なにもかもが覚えていたままだった。
 次の日、私たちは、これからの話をした。いろいろなことが浮かんできた。トスカーナやピエモンテのほうに旅をして、どこかに二人の場所を見つけよう。ここよりも自由な場所がどこかにあるはずだ。あったらそこに住もう。なければ旅を続けよう。とにかく行けるところまで行ってみよう。そんな夢のような話だった。
 私には、しなければならないことが沢山あった。家の中の家具や細々としたものをどうにかしなければならない。できることなら全部売ってしまいたかったのだが、父母の形見を処分してしまうわけにもいかず、その多くは誰かに預けるしかないように思われた。使用人の次の働き場所を見つけるのも容易ではなさそうだったし、遺産や家の売却代金をどこにどう預けるかということも大事な仕事のうちだった。
 私の家に次に住むのは、最終的に、医者とその家族ということになった。この医者は父のことを良く知っており、舞踏会や芝居見物といった道楽にも一緒に出かける仲だった。家を下見に来た時、家具をすべてそのまま譲り受けたいと言ってくれたので、私は喜んでその申し出を受けることにした。家と家具の分を合わせた額が、代理人を名乗るあまり聞きなれない名前の会社から、私の父が取引に使っていた交易商人に払い込まれた。
 使用人の引き取り手はなかなか見つからなかった。庭師と門番は、医者がそのまま使ってくれることになったが、残りの使用人についてはあまり良い話はなかった。結局、年老いた使用人たちには、長年の勤務に報いるかたちで功労金を渡し、それで一人一人の生活を立ててもらうことにした。比較的年の若い者たちには六か月分の給与を渡し、羊毛業者が経営している職業訓練所に入所して将来を考えてもらうことにした。そして、両親が特に目をかけていた男一人と女一人が、私たちについてくる事になった。
 私はその二人に、たぶんこれから旅をすることになるということを説明した。どこに行くのかもわからない。良い場所が見つかったらもうここには戻らない。そんなことを話した。二人はひるむどころか、顔を輝かせて喜び、ぜひ連れて行って欲しいと言った。二人の仲はとても良さそうに見えた。旅の間、ひとつの部屋に、二人で泊まってもらうことになるが、それでもいいか。そう尋ねたら、二人はお互いを見つめあって微笑み、同時に、もちろん、と言った。
 あの人に二人のことを話した。あの人は、それはいい、と言った。二人の仲を知っている様子だった。
 それより、この際、私たちがどういう関係なのかをはっきりさせておこう。そう言いながら、私のほうにゆっくり歩み寄ると、私の肩を抱いた。なぜか、あの人には、いつもの穏やかさがなく、思いつめたような感じが漂っていた。
 女奴隷とその主人では嫌なのかと言うと、あの人は私から離れ、鞄から一枚の証明書のようなものを取り出した。見るからに立派な二つのサインと、赤い蝋の上に押された印とが、公式文書であることを示している。よく見ると、二人が西暦千四百五年九月七日にアブニクで結婚した旨が、カスティリャ語の飾り文字で書かれている。そして証人の欄には、トルコ大使の名が記されていた。大使の署名はなかったが、驚いたことに、カスティリャ国王エンリケ三世の署名があった。
 あなたと私が夫婦というのは、なんだかおかしい。そう言って笑うと、あの人はなにもおかしくないと真顔で答える。この書類はここでも通用するのかしらと言うと、もちろん通用すると言う。念を押すようにこれでいいだろうと言うので、私はなにも言わず、少しだけ微笑んだ。あの人は複雑な顔をしたが、すぐにいつもの顔に戻った。それ以上、この話はしなかった。
 いざ出発となると、サヴォナの町が急にいとおしくなる。港のそばの賑やかな通りを行ったり来たりする。狭い裏道に入る。町のあちらこちらに、良い思い出と悪い思い出とが散らばっていた。町から南のほうに向かう海岸沿いの道には、両親との思い出がたくさん詰まっている。家から町まで、両親と、友達と、そしてひとりで、歌いながら、笑いながら、そして泣きながら、いったい何度この道を歩いたのだろう。
 町には挨拶をしなければならない人たちがたくさんいるような気がした。そんな人は一人もいないような気もした。両親が世話になっていた人たちのところにだけは挨拶に行かなければならないように思えたので、そのひとつひとつを事務的にこなした。
 ある日、あの人はペトラルカのカンツォニエーレを手に入れてきた。恋愛物の叙情詩だ。てっきり私に見せるために借りてきたのだと思ったのだが、なんと私のために買ってきたという。荷物は増やさないという約束をしたのに、と言いかけたが、その代わりに、ありがとうと言った。そして椅子に座り、二人で読む。恋愛物はあまり好きではないが、二人で一緒に読んでみると結構楽しめる。同じ一節でも、あの人と私とでは理解が違うのだ。話をすれば異なった見方があることがわかり、興味は深まる。
 忙しい筈なのに、あの人といるといつもこうなる。つい、ゆっくりしてしまうのだ。出発の準備を放っておいて本を読むなど、私ひとりだったら、絶対にしないことだ。あの人の時間はいつもゆっくり流れる。そしてあの人はいつも優しい。
 九月六日の月曜日の朝早く、私たちは、いくつかのやり残したことはあったものの、なんとかサヴォナを出発することができた。できなかった挨拶は、あとで手紙で済ませばいい。渡せなかったものは、家を引き継ぐ医者に託せばいい。あの人のそういう助言がなかったら、出発は何日も遅れただろう。
 とりあえず、目的地はトリノということにしていた。漠然とだが、そのあたりが私たちの落ち着き先に思えたのだ。父の所蔵していた本や、母が収集していた食器類は、トリノの商人宛に送り、保管してもらうことにした。サヴォナの交易商人たちは口々に、トリノで信頼できるのはその商人だけだと言った。財産の管理もそこに任せるのがいい。事故が起きた時の処理や、保証業務の的確さでは右に出るものはいない。おまけに、政治家との交渉に特に優れているという。信頼してよさそうだった。
 なにを処分し、なにを手もとに残すかという決断は、実は大変な時間を要するのだということを、私は今回のことで初めて知った。要らないものは捨て、要るものは残すという簡単な作業を、いろいろな考えが邪魔をする。とっておけば、また使うかもしれない。こんな珍しいものは、他のところでは買えない。そんな考えだ。でもそんな考えは、手放すという決断の邪魔はしない。本当に難しいのは、思い出の詰まった品々を手放すことなのだ。
 特に、あの人との思い出が詰まっているものは、どんなくだらないものも、手放すことができない。あの人がタブリーズで買ってくれたタオルは、どれももう、くたびれていたし、トレビゾンドで買ってくれた服も、このあたりではおかしくて着ることができない。沢山の本や紙の類も重いだけだ。結局、すべてが手もとに残ることになる。
 出発間際には、もうひとつの難題が私たちに降りかかってきた。手もとに残すと決めたもののひとつひとつについて、自分たちで運んでいくのか、トリノの商人宛に送るのかということを決めなければならないのだ。父の本や母の食器類は送るということで納得がいった。ところが、あの人との思い出の品々は、送りたくない。旅をする時には出来るだけ身軽なほうが良いということぐらい、よくわかっている。それでも決めることができない。
 トリノまでの旅に必要なものなど、たかが知れている。だから多少の荷物が増えても構わない。あの人は、優柔不断な私を見て、優しくそう言ってくれた。私たちは、旅の専門家なのだ。恐れることなどなにもない。
 言われてみれば、確かにそうだ。タブリーズ周辺に比べれば、このあたりはどこまでも平和だ。いつも戦争状態にあるとはいうものの、危険な感じなどどこにもない。どこかの町がサヴォア公国のものになろうと、どこかの国が神聖ローマ帝国の一部になろうと、人々の暮らしにはなんの関係もなかった。
 私たちは、現金を金貨に換え、自分たちで持っていく。そんなことは危険すぎて誰もしないが、タブリーズからの旅を経験している私たちにはそれが自然だった。トリノに着いたら、皆が信頼できるという商人に預けてもいいし、どこか他の所に落ち着いたら、信用のあるところを探し、そこに預ければいい。そんな軽い気持ちになれるほど、気分は落ち着いていた。
 一日目は上りばかりだったが、道は広く、歩き易かった。あの人と私、それに馬二頭が前を行く。馬に引かれた荷車が一台、真ん中で音を立てる。使用人の二人が後ろを守り進む。そのゆっくりとした様子は、暖かい陽の光の中で、のどかなものだったに違いない。
 午後になって宿を見つけようと思ったが、宿どころか道沿いどこにも人の住んでいる様子がない。日暮れ前になってやっと、道端にぽつんと建っている飼料小屋のような宿を見つけ、喜んで飛び込んだ。温かいスープがおいしかった。
 二日目からの道は起伏が多く、先にはいつも村が見えていたが、足元には大きな石が転がっていて馬が嫌がり、ゆっくりと進むしかなかった。標識が多く立てられていて、道に迷うことはなかったが、見晴らしが良いせいもあって、あまり前に進んだ感じがしない。毎晩、小さな村の小さな宿に泊まり、ぐっすり眠った。疲れているのか、あの人の口数は少なかった。
 九月十一日の土曜日、トリノまであと少しのところまで来て、馬に水を与えるために川辺で休憩した。土手に上がるとその先に農家が見える。農家には立派な門と大きな馬小屋があり、恰幅の良い女が笑顔でこちらを見ている。私が、こんにちは、と大きな声で叫ぶと、ちょっとだけ寄っていかないか、とこれまた大きな声が返ってくる。私たちは喜んでお邪魔することにした。
 門は金属で出来ていて、右の門には I という文字が、左の門には B という文字が、それぞれ大きく記されていた。馬小屋には馬が一頭もいない。石を積んで作った母屋には、壁一面に蔦が絡っていたが、隅々に至るまで手が行き届いている。母屋の両脇には小さな溝が掘られ、裏の山から水が流れてきている。あたりは静かで、水の音が心地良い。
 私たちが中に入ると、人の良さそうな白髪交じりの男が、私たちを奥の部屋に案内した。私たちを招き入れた女もやって来て座った。二人からトリノやアスティの話を聞いているうちに、すっかり意気投合し、私たちも気を許していろいろなことを話した。
 二人は私たちの使用人にも同じ食卓に着くように言った。初めは、そういうことには無頓着なのかと思ったのだが、使用人を下に見ていないという、ただそれだけのことだった。実際、自分たちの使用人とも、まるで家族と話すような感じで接していた。
 そういう使用人との関係を、あの人が好ましいといって褒めた。あの人はいつも平等な関係を好む。私はそんなあの人が好きだ。
 意外なことに二人は、こうなったのは黒ペストのせいだと言った。私たちがわからないでいると、二人は丁寧に説明を始めた。
 今から百年ほど前、農民が不足し、思うような収入が獲られなくなると、子供を多く生むことが奨励され、人口が爆発的に増加する。そこを、五十数年前に、黒ペストが襲い、ちょうど増えた分だけを殺していってしまう。あとに残ったのは、弱体化し信用を失った権力と、前にも増しての農民の不足だった。
 土地を持っている側は、農民から地代を取り立てなければならない。労働力を提供させたり、生産したものを持ってこさせたり、時には、生産したものを売って得たカネを納めさせたりする。以前だったら、地代を払わなければ土地を取り上げるぞと言えば、殆どの農民が言うことを聞いた。それが今では、脅しが通じないばかりか、交渉をしなければ働いてもらえない地主まで出てきている。そんな説明だった。
 時代が変わりつつあるんだ。二人はそう言って笑った。農民がひとりもいないということを想定して、葡萄の栽培を始めたところだという。数人の使用人さえいれば葡萄酒が作れる。おまけにおいしい葡萄酒がただで飲める。二人はまた顔を見合わせて笑った。
 葡萄を栽培し、虫にたくさん食べさせてあげて、残りを収穫して葡萄酒にする。そうすれば、ひどい目に遭わないで済む。葡萄だけでなく、芋でも人参でも、まず虫にあげる。虫は絶対に全部食べたりはしない。私たちの分を必ず残してくれる。黒ペストだって同じことだ。私たちみんなを殺したりしない。私たちの親たちは殺されずに残された。そのおかげで私たちがいる。なにごとも欲張らないことだ。そうすれば、そこそこに暮らせる。そんなことを穏やかに言う二人の落ち着いた感じが、少しだけ眩しかった。
 二人はどんな話題になっても意見が同じで、私たちに向かって同じことを口にした。同時に同じ単語を口にすることも、一度や二度ではなかった。黒ペストのことまでも自然に話す。
 これからのことを相談したときも、二人揃って同じ答えを口にした。私たちが望んでいるような場所はどこにでもある。それは場所ではなく私たちがどう考えるかなのだ。結局は頭の中のことなのだ。それが二人の意見だった。
 ただ、どうしても山に囲まれた湖の畔で静かに暮らしたいというのなら、サヴォアに行けばいい。そんなことも言った。サヴォアに行けば、そんなところは簡単に見つかるだろう。ただ、サヴォアに行くためには山を越えなければならない。雪が降り出す前にどこかの峠を越えることだ。
 あの人が、でもここもサヴォアなのでは、と言いかけると、二人は、違う違う、という。それはサヴォア公国。私たちが言っているのはサヴォア。
 話をしてもらちがあかないと思ったのか、あの人は鞄の中から地図を取り出し、机の上に広げた。二人は目を輝かせてその地図に見入った。そして、二人ほぼ同時に、アオスタの谷まで行き、小聖ベルナールという峠を越すのがいいと言った。
 そのとおりにしてみよう。あの人が私に囁くように言った。アオスタの谷とか、小聖ベルナールの峠というような名前が、私を夢の世界に連れて行ってしまう。あの人の目は優しく笑っていた。
 結局、居心地の良さに負け、この農家に二晩続けてお世話になり、大層豪華な食事をご馳走になってしまった。
 私たちは、この品のある夫婦とまた会う約束をして、農家を離れた。トリノまではすぐだった。
 トリノの町を見物していると、急に強い雨が降ってきたので、町なかに宿をとり休むことにする。翌日も雨は上がらず、父の本や母の食器類の保管を頼んである商人のところに行った以外は、私たちはずっと宿の中にいた。商人は不在だったが、どのような期間でも私たちの荷物を保管してくれるという。サヴォナにこんな商売をする所はなかったので、正直驚いた。
 次の日も小雨が降っていたが、私たちはリヴォリに向かって出発した。あの人がアオスタに向かう前に寄りたいと言ったのだ。トリノの町並みが途切れたあたりで雨は止み、気持ちの良い太陽が私たちを照らした。道は真直ぐで、起伏もなく歩きやすい。私たちは冗談を言い合いながら歩いた。そして、昼過ぎにはリヴォリに着いた。
 小高い丘の上に城があり、その手前の城よりやや低い位置に教会が見える。丘全体が町になっていて、なにもかもがこじんまりと美しく、あの人が寄りたいという気持ちになったのも不思議はない。
 町の中で、紐とか布とかの買い物をした。棒とも杖ともつかない護身用具や皮製の水筒も手に入れた。どの店も品揃えが豊かで、誰もが私たちに親切だった。
 リヴォリからの道もなだらかで、周りには平らな農地が続いている。正面に山が見え、それがだんだんと近づき、しまいには山の間に広がる谷に入って行く。左右に山を見ながら、比較的なだらかな道を歩くのは、とても気持ちがいい。
 所々の高台に城があり、その下を通るたびに税を請求される。地方の権力者とその下で働く役人ほど手に負えないものはない。逆らえば暴力に訴えてくるに違いないからだ。税を払うのは覚悟の上なので問題はない。ただ、街道を良くするためにとか、安全を保障するためにとかいうような、わけのわからない徴税の理由を長々と聞かされ、その挙句に根拠のない金額を申し渡されるのには、うんざりした。どこでも、どういうわけか、絶対に関わりたくないと思わせるような類の人間が、私たちを出迎えた。
 あの人は、通行料を払っているのだ、気にするな、と言う。無駄にする時間も理不尽な扱いも、劇場に出向いて劇を見ていると思えば、どんなことでも楽しめる。ここはティムールの帝国ではないのだから、なんの心配も要らない。余程のことがない限り、理由もなく殺されることはないだろう。そう笑うあの人には、余裕があった。とても頼もしく見えた。
 遠くに小さく見えていた雪山が、だんだんと大きくなっていく。心なしか空気がおいしい。通り道の宿で出される質素な食事も、上手く料理してあるためか、満足のいくものが多い。
 九月二十一日の火曜日、アオスタに到着した。私たちは、川沿いに宿をとるとすぐに、小聖ベルナールという峠の情報を集めに歩いた。まだ雪は降らない。心配はない。皆、口を揃えて、そう言った。
 アオスタの町のどこからも山が眺められた。四方を山で囲まれた感じだった。町の中の道は狭く、両脇から建物が迫っていた。建物はどういうわけか真直ぐに並んでいない。壁も軒も曲線を描いている。建物の間の道も、蛇行している。通りがかりの何人かに、建物がなぜ真直ぐに並んでいないのかと聞いてみたが、あっ、本当だ、なぜかなあ、というような答えしか返ってこなかった。誰もそんなことは気にしていようだった。
 この町の人間は、やたらと挨拶をする。お互いに知り合いなのだろう。挨拶をすれば、多少の会話が続く。お母さんの具合はどうなのか。あの医者のくれる薬は本当に効くのか。台所の工事は進んでいるか。そんな会話だ。お互いに気を許しあっているのがよくわかる。いい町だ。
 夜は宿で、スープ、チーズ、乾燥した加工肉、生野菜、それにパンを食べた。木の皿に盛り付けられた食事は何故か豪華に見え、普段は飲むことのない発泡酒も口にし、あの人も私も饒舌になっていた。
 翌二十二日、アオスタを出発し、先に進んだ。山が一番低く見えるところに向かって、道が伸びていく。たとえ道がなかったとしても、誰もが同じ方向に進んで行くに違いない。見上げれば万年雪を被った峰が私たちを見下ろしている。この景色の中で、私たちの存在はとても小さい。
 時々だが、動物に出会う。兎のような小さな動物が現れ、あっという間に姿を消す。猪のような大きな動物が列をなして歩く。みんなお互いを干渉せず、静かに暮らしているようにみえる。
 私たちは、峠に向かう急勾配の手前の集落で一泊した後、峠へのつづら折りの道を登った。景色が良いので、登りはさほど苦にならず、気が付けば、そこはもう峠だった。峠を越え少し下ったところに修道院とも宿屋ともつかぬ不思議な建物があり、神父とも宿屋の主人ともつかない大柄な男が私たちを迎え入れた。今日はもう、先に進まないほうが良い。そういう言葉には妙な説得力があった。
 ここはすべて一人部屋だという。あの人、使用人の男と女、そして私の四人に四つの部屋があてがわれた。他に客はいないようだった。馬のためには馬小屋があった。寒いので、馬小屋のなかにも暖炉が用意されていた。
 部屋に入っても、狭すぎて落ち着かない。まだ日は沈んでいないのに、外はなんだかんだいっても冷える。そんなこんなで、結局、みんな、食堂に集まって来て、暖炉の火を囲んで葡萄酒を飲み始めた。私たちを迎え入れた大柄な男が、私たちをもてなした。
 男は、私たちに葡萄酒やチーズを運んだりする間も、顔中に笑みをたたえ愛想よく振舞っていた。私たちの話に加わった後も、ずっとにこにことしていたが、あなたは神父なのかというような私たちの質問には、まったく答えなかった。この男は、自分の話したいことだけを話すのがもてなしであると考えているようだった。
 雪崩を知っているか。男が唐突に尋ねた。私たちが首をかしげていると、男は得意そうに説明を始めた。雪崩というのは、斜面に積った雪が重力によって滑り落ちる現象だ。斜面の上のほうで小さく始まった雪崩が下のほうでは途方もなく大きなものになり、なにもかもを流し去ってしまう。
 ここから麓までの間に雪崩の危険地帯というのが二カ所ある。冬の間も、いろいろな事情でここを通らなければならない人がいて、ひと冬に何人かは雪に呑まれてしまう。大雪の後や気温が急激に変化した時などに起こりやすいのだが、防ぎようはない。やられる時はやられる。やられない時はやられない。
 雪は公平に落ちる。決して選んだりしない。いま下にいる通行人は日頃の行いも良く死なすのは勿体ないから落ちないでやろうとか、近づいて来る男女は盗みをし人殺しまでしたのだから埋めてやろうなどとは考えない。雪崩は起きるときには起きる。ひとたび起きれば、下に存在するすべてを巻き込んでしまう。
 誰かが巻き込まれたからといって、それですべてが終わりというわけではない。雪に流され埋れて死ぬ者もいれば、雪に閉じ込められても生きている者もいる。そういうものなのだ。死ぬ者と死なない者がいる。そこにはなんの理由もない。
 男がそこまで言った時、あの人が突然話を遮った。死んだ人は死ぬべきして死んだのではないか。ちょうどそこで死ぬ時が訪れたのだとは考えられないか。そこで死ぬように運命づけられていたのではないか。あの人は男の顔を見ずに、いつになく低い声で言った。
 いや、違うと思う。男があの人を見つめながら答えた。たまたまなのだ。すべてが偶然のなせる業なのだ。誰にも運命などない。死ぬ者は死ぬ。死なない者は死なない。
 何人もの遭難に立ち会い、いくつもの理不尽を見てきた男の、正直な感想なのだろう。男に比べ、あの人は、より宗教的だった。私は最後まで黙って聞いていたが、雪崩というものを想像することができないでいた。大きな音を立てて雪が落ちてくるのだろうか。それとも、音もなく人を襲うのだろうか。いずれにしても恐ろしいものであることだけは確かだった。
 食後は、天国の話になった。立派な人たちだけが行く天国という所は、退屈に違いない。できれば行かずに済ませたいものだ。男がそのようなことを言うと、あの人が真顔で反論した。天国に行くかどうかは神様がお決めになることで、我々がどうのこうの言うことではない。そして、天国に行けた者はみんな幸せなのだと言った。
 その後自然の流れで宗教の話になり、議論は夜遅くまで白熱したが、私はずっと黙っていた。宗教があることを前提にして話すのは苦手だった。
 翌朝、早く起きた私は、ひとり外に出て、日の出を眺めた。あたりの静けさと大きく見える太陽とが私を興奮させた。こうしていると、大きな自然の力を感じる。からだの中から力が湧いてくる。
 支払いを済ませ、礼を言うと、男はあの人に、また寄ってくれなどと言った。意見が合わないようでいて、心は通ったようだった。
 峠からの下りは、一日がかりだった。途中、冬の雪崩を想像しながら歩いた。空の青がきれいだった。
 麓の宿では、暖かい野菜が私たちを迎えた。これまで何日かチーズやハムが続いていたので、煮ただけの野菜でも格別においしく感じられた。それからの行程は楽なもので、左右に山を見ながらゆっくりと進み、九月二十六日の日曜日にはアルベールヴィルに到着した。
 アルベールヴィルでは二泊し、私たちの行き先を探して歩いた。シャンベリーに行くことを勧める人が多かったが、町の中心にある教会の神父が親身になって相談してくれ、アヌシーの湖に行くよう助言をくれた。神父によれば、アヌシーの湖は、人間の争いから一番遠いところで、なぜか今でも戦いとは縁がないという。あの人はそれを聞いて、すぐに行き先をアヌシーの湖に決めた。
 神父は紹介状とも推薦状ともつかない手紙を何通か書き、私たちの滞在していた宿まで届けてくれた。これは必要がなければ使わなくてもいいのです。でも持っていれば、安心でしょう。私は宗教は嫌だと常々思っているのだが、こういう親切を施してくれるのはいつも宗教に関係した人なのだった。私はそういう親切を拒むほど傲慢ではない。親切は喜んで受けた。実際、知らないところに行く場合、紹介状ほど頼りになるものはない。
 私たちはアルベールヴィルの町から川沿いにアヌシー湖を目指した。途中、道を間違え、すこし遠回りをしたが、九月二十九日の水曜日の午後には、アヌシー湖の端に立っていた。
 アヌシーの町は湖の反対側の端にあり、ここからは見えない。殆どの旅人は湖を右に見て進むのだが、湖を左に見て進んでも同じような時間で着くという。私たちはここで泊まることにした。馬の世話を宿に頼み、荷物を整理し終わると、使用人の男と女は買い物があるといって宿を出て行った。
 あの人と二人、宿の庭に座る。水面はすぐそこにあり、靴を脱いで入りたい誘惑にかられる。水は澄んでいて、遠くに小さなさざなみが見える。私たちはなにも言わず、なにも飲まず、ただ見つめあった。赤く染まった雲が山の上に広がっていた。まだ時間が早いのに、太陽は山の端に沈もうとしていた。
 私たちは部屋に戻り、抱き合った。強く抱いて欲しいと思ったが、あの人はいつもどおり、私のことを優しく抱いた。その夜も、あの人は優しかった。言葉はいつもより少ないように思えた。
 次の日、あの人より早く起きてベッドの脇に座っていると、朝日が湖の向こうから昇ってきた。昨日山の端に沈んでいった時のように輝いてはいない。そのかわり、とても大きく見える。まるで大きな赤い月のようだった。私はあの人を起こすと、ねえ、日が昇るわ、と言った。あの人はしばらく、きょとんとしていた。
 ねえ、朝日が湖の向こうから昇るのと、夕日が湖の向こうに沈むのと、どちらがいい。私はあの人に、湖の西側に住みたいのか、それとも東側に住みたいのか、と聞いたつもりだったのだが、あの人はまだ完全に目覚めたわけではなかった。どちらでもいいけれど、私たちが住むのはここではないような気がするよ。そんな答えが返ってきた。
 九月三十日、木曜日、湖の端を出発。湖を左に見て歩き、正午過ぎに、タロワールに着く。そこでは、入り江となった小さな湖と、入り江の外の大きな湖とが望め、さざ波が静かに寄せ、目と耳を楽しませる。湖面は、濃い青と薄い青のだんだら模様になっていて、そのところどころが緑に見える。鳥がすぐそばまでやってきて、私たちと戯れる。あの人も私も、ここだと思った。ここが私たちの場所なのだ。
 タロワールには宿が何軒かあるようだったが、私たちは、はじめに見つけたところに泊まることにした。その宿は陸の突き出たところに立っていて、入口に立つと、入り江の先には修道院が見え、反対側の大きな湖の先には対岸の景色を眺めることができる。私たちが通された部屋の窓はそのまま一枚の絵になっており、湖と山と空とが今だけの光を放っていた。
 宿の女主人は、つい最近夫を亡くしたと言った。まだ若かったのに、急に熱を出したと思ったら、あっという間に神に召されて逝ってしまった。そのあと客はとらずにいたので、あなたたちが夫がいなくなってからの初めての客だ。そんなことを明るい声で言った。明るく振舞っているだけなのは、私にもわかった。
 夕飯の食卓に座る。湖がよく見える。口にするのは初めてというような乳製品や淡水魚が食卓に並ぶ。食事とともに外の暗さが増していく。まず山が黒くなる。つぎに湖が一瞬だけ輝いたあと黒くなり、最後に空が山を一瞬だけ際立たせたあと黒くなる。そしてすべてが黒い暗闇になる。食事を終え部屋に戻ると、私たちは深い眠りに就いた。
 その晩、私は夢を見た。あの人が私を揺り起こして言う。ここにずっといることにした。心の中のきみと一緒に、ずっとここにいる。でもきみは行くといい。きみの場所に。きみのことを待っている人たちのところに。私のからだは動かなくなり、一言も発することができない。そうこうしているうちに、あの人は背中を向けて立ち去ってしまう。
 うなされて目覚めると、まだ外は暗闇に包まれていた。ひとり、夢のことを考える。あの人は隣でぐっすりと寝ている。夢のことは話さないでおこう。そしてすぐに忘れよう。そう思った。
 翌日から、私たちはアヌシーに通った。サヴォア公国が発行する滞在許可を得たり、送金の方法や不動産売買についての情報を集めたりというようなことをしなければならなかったのだ。滞在許可の取得には、アルベールヴィルで神父が書いてくれた手紙が役立った。そういう土地柄なのだろう。
 今から五年前、千四百一年に、アヌシーはサヴォア公国のものとなった。それは不思議なくらい平和的な移譲だったという。町には新しい店が多く、人々は活気に溢れていた。トリノはもちろんのこと、ジェノヴァやサヴォナといったところならばどこにでも、簡単に送金したり郵便を送ったりすることができた。手数料を多く払えば、カスティリャへの送金も可能だった。
 問い合わせとか情報の収集とか、普通なら面倒なことも、なぜか楽しかった。朝早く宿を出て、タロワールの裏の丘に登る。そこからアヌシーまでの、湖を見ながらの上り下りは、天気さえ良ければ楽しい。アヌシーで用事を済ませ、夕方宿に戻る。そういうアヌシー通いが何日も続いた。もっとも、宿の女主人が今日は雨だと言った日には、実際の天気の如何に関わらず、私たちは宿で静かにしていた。アヌシーに行けば買い物をしたり食事をしたりというような楽しみがあったが、タロワールではそのようなこともなく、静かな一日が過ぎる。
 ある雨の日、朝食の後、宿の女主人とあの人と私とで、たわいのない話をしながら寛いでいると、使用人の男女がやって来て、アヌシーに行ってもいいかと言った。雨よ、と私が言うと、そんなことはわかっていると言って二人で笑う。好きにしなさいと言うと、二人は喜んで出かけて行った。
 二人が出かけるのを見届けてから、あの人は真面目な顔をし、女主人に向き直った。そして、私たちはタロワールに住みたいと思っているのだが、どこかないだろうかと尋ねた。女主人はそれを聞いて顔を輝かせ、宿の別館が空いているので、そこに住んだらどうだろうと言った。あなたたちに別館を譲れば、しばらくは宿の収入が少なくても困らない。そんなことも言った。
 別館は修道院の入口のところに建っていた。私たちは中を見せてもらい、すぐに金額の話をした。女主人が私たちに提示したのは、サヴォナだったら狭い部屋を買うことすらできないような金額だった。私たちに異存があるはずもなく、話は簡単にまとまった。
 夕方、使用人の男と女が帰ってきたので、ここに落ち着くということを告げた。別館も見せた。二人はなにか考えているようだった。二人はいつも一緒に行動していたし、なにについてもだいたい同じ意見を持っていた。
 夕食の後、二人は、私たちのところまでやって来て、もっと旅を続けたいと言った。突然だったので、私は驚いたが、あの人は驚かなかった。二人は、この先のサヴォア公国領内を見てきたい、できれば公国の外にも行ってみたい、というようなことを言った。
 私はすぐには答えなかった。ここまでついて来てくれたことには感謝していたし、できるだけ二人の希望をかなえてやりたかった。ただ、心配ではあった。戦争の噂はいろいろ聞いていたし、二人の知識は旅をするには不十分なものに思えた。
 私は二人に座るように言った。あの人と私も二人の前に座った。するとなぜか雰囲気が事務的になり、私が二人にいくら渡せばいいのかというような話になってしまった。すこし残念だったが、そろそろ別れる時期が来ていたのかもしれなかった。雇用契約は破棄せず、無期限の無給休暇ということで合意した。
 二人の目は輝いていた。翌朝には発つという。連絡をすると言ったが、たぶん連絡はないだろう。ただ心から、元気でいてほしいと思った。旅のあいだに注意をして欲しいこともいろいろ浮かんだが、それは口には出さなかった。
 次の日、二人の使用人を送り出した後、私たちは女主人と一緒にアヌシーに出かけた。宿の別館を私たちの名義にすることを公証人に届け、書類を作成してもらった。公証人は、金銭のことは宿の女主人と私たちとの問題だといって、手数料以外のことには興味を示さなかったが、私たちは公証人役場で宿の女主人への支払いを済ませた。驚いたことにすべての手続きが一回の訪問で終了した。この公証人に限らず、このあたりの人はみんな、手際が良い。
 宿に帰ると、私たちは早速、別館に移った。宿の女主人が荷物は少しずつ運べばいいと言ってくれたので、今すぐ必要なもの以外は、ゆっくり片付けながら移すことにした。この場所が私たちのすみかになるのかと思うと、急に愛着がわいてきた。窓から見える湖が、まるで私たちのもののように見えた。
 あの人がここを別館と呼ぶのは嫌だというので、いろいろ新しい名前を考えた。私は、私たちの小屋、私たちの場所、というような名前が良いと思った。あの人は、タブリーズの家、ペラの館、というような名前ばかりを思いついた。結局、二人が気に入る名前を見つけることができず、しばらくの間は、別館と呼び続けることにした。
 私たちの荷物を全部運び込んでも、別館はがらんとしていた。トリノに預けてある物のことや、サヴォナで人に譲った物のことを思い出した。それらがここに飾られるのを想像すると、なにか残念な気がする。想像は膨らみ、タブリーズに置いてきた物のことまで思い出す。そしてあの絨毯がこの部屋にあったら、この部屋はどんなに暖かく感じられるだろうなどと考える。
 でも、ないものはない。ここまで持ってこなかったことに、なにか意味があるなどとは思えないが、あったらいいのにとは思う。もっとも、そんな物のすべてがあって、あの人がいないというのよりは、あの人がいて、なにもないほうがいい。気に入ったものを、少しずつ買っていけばいい。いつかはここが、あの人と私の場所になるのだ。
 そこまで考えて、私は、はっとした。ここはもう、あの人と私の場所なのだ。いつかは、などとは考えないほうがいい。そう思った。すると、さっきまで味気なくがらんとしていた部屋の中が、急にいとしく思えてきた。
 別館に住むようになって三日目の昼過ぎ、あの人が隣の修道院に挨拶に行くというので、私はいろいろ気を付けてねと言った。あの人は、いや、挨拶するだけだから、なにも心配するようなことはないと言って出かけ、そして、十五分もしないうちに、腹を立てて戻って来た。私には腹を立てた理由は話さなかった。
 その夜、夕食後に二人でくつろいでいると、誰かが扉を叩いた。私は宿の女主人が来たのだと思って、どうぞと言った。扉が開き入ってきたのは、しかし、若い男だった。男はあの人に向かって直立した。私は修道院に絵を描くために来ているものです。あやしいものではありません。先程、あなたが門前払いにあっているのを見て、ご挨拶に来ました。そんなことをよどみなく言った。
 自分のことをあやしくないなどというので、私は思わず吹き出してしまったのだが、その後の、あの人が修道院で門前払いにあったという話で、私の顔からは笑顔が消えた。あの人は顔色ひとつ変えず、落ち着いた態度で、若い男に椅子を勧めた。
 あの人は男に興味をおぼえたらしく、いろいろな質問をした。あなたのような人のことを宗教画家というのではないか。絵はどこで覚えたのか。なにを描くのか。なにが得意か。将来はなにをしたいのだ。男は、さあとか、うーんとか言うだけで、殆どの質問に答えることができなかった。わかったことは、男が壁画専門の画家で、サヴォナで食事を共にした宗教画家とは違い、宗教の為に描いているわけではないこと、そして描くことが好きだということぐらいだった。落ち着かない目をしていたが、全体に生き生きとしていた。自分の仕事に誇りを持っているのがよくわかった。
 あの人はなにを思ったのか、私の顔を描く時のように、ざらざらした紙と炭ペンを取り出し、少しだけ描いて見せると、男にそれを手渡した。画家は紙を真直ぐに置き、しばらくは不思議そうに炭ペンで線を描いていたが、やがて意を決したように紙の上に屈みこみ、一心不乱に炭ペンを動かし始めた。紙の上には、教会などで見慣れたマリアが現れてきた。素晴らしい技巧だった。
 私は宿の女主人にも見せてあげたくて、宿まで呼びに行った。少しだけ興奮していた。外は思いのほか寒かった。冬はもうすぐそこまで来ていた。女主人は何事かという面持ちで私について来た。
 別館に戻ると、絵はもう出来上がっていて、画家はあの人と談笑していた。女主人は、その絵を見ていたく感激し、私のために、もう一枚描いてくれないかと言った。画家は戸惑った表情を顔に浮かべ、こんなものを欲しがる人がいるなんて、とひとりごとを口にした。
 画家はもう一枚、似たようなマリアを描くと、女主人にそれを渡した。女主人はことのほか有り難がり、押し戴くようにして受け取ると、なにか呟きながら宿に戻っていった。
 あの人は相変わらず穏やかな顔をしていたが、なにか考えるところがあるらしく、また画家を質問ぜめにした。宗教と関係ないものは描かないのか。なぜマリアなのか。それはすべて、なぜ描きたいものを描かないのか、ということを聞き出したいための、婉曲的な質問だった。
 画家の答えははっきりしたいた。教会や修道院で描くことほど、有り難いことはない。描く機会を与えてくれるだけでなく、画材まで買ってくれ、その上、小遣いまでくれる。描いたものはいつまでも飾られ、何年も何年も人が見守ってくれる。夢のような仕事だ。
 私は二人の会話を黙って聞いていた。聞きながら、この画家が自由に描きたいものを描く様を想像した。青い空を自由に飛ぶ鳥を、山から湧き出す水の音を、愛する女の軽やかな歌声を、タブリーズで見たような何百種類もの色の粉を、ふんだんに使って描く。いったいどんなものが出来上がるのだろう。
 二人が黙り私を見たので、私は自由について話した。気が付くと、私は画家に、自由に描くことを勧めていた。
 その後、この宗教画家が、私たちの別館に毎晩のようにやってくるようになり、私たちと一緒に絵の自由な制作を始めたのは、自然の成り行きだった。あの人も私も、そして画家も、話を続けたかったし、心からなにかを描きたいと思った。私たちが昼のあいだにアヌシーまで行って用意した画材を、画家はいつも驚きの目で見た。
 なぜか昼間は、私たちは自由の話はしなかった。絵を描くこともなかった。夜になって仕事を終えた画家が現れると、自由の話をし、絵を描いた。あの人は私の絵を、私は空と海の絵を、そして画家は風の絵ばかりを描いた。
 修道院は初めから私たちの敵だった。別館に住みだした頃は、私たちは間違いなく無視されていた。それはそれで良かったのだが、画家が出入りするようになると、心悪しきよそ者が隣に住んでいるという不快感を、露骨に見せるようになった。アヌシーの噂話などで、あの人がカスティリャ人だということを知り、私たちが異教徒の住む場所に旅してきたということを聞き、結婚証明書に記載された事項を登記所で見るに至って、修道院の人たちは、私たちを危険人物と考えるようになった。確かに、結婚した場所がアブニクという聞いたこともない場所で、証人がトルコ大使では、怪しく思わないほうがおかしい。
 修道院は宿の女主人に、私たちを追い出すように迫った。女主人は、別館の所有権はもうあの外国人に移っているのでどうすることもできない、買い取りの交渉をするのなら、あいだに入ってあげてもいい、というようなことを言ったらしい。
 画家には、私たちのところに出入りするのを止めるように言い渡した。画家はためらいもなく修道院の仕事をやめ、アヌシーに行く途中にある小さな村の工房で働き始めた。夜は、女主人と話をつけたのか、宿に泊まるようになった。
 こういう時の修道院は、とても狡賢い。決して個人が表に出てくることはない。下働きの男が、修道院から参りましたと言ってやって来て、書面を渡すのだ。書面には修道院の名前は書いてあるものの、誰かの署名があるわけでもなく、かといって修道院の印が押してあるわけでもない。あとでなにかあった時の責任逃れなのか、聖職者が私たちのようなものに関わることはできないということなのか、その辺の事情はわからなかったが、いずれにしても計算あってのことに違いない。
 アヌシーの公証人のところにも、私たちの不動産取得を無効にするようにという圧力をかけた。私たちのような反社会的で不信心なものに不動産を持たせるということは神の意思に反する、などと言ったのだそうだ。公証人は修道院をまったく相手にしなかったという。そんなこと以外にも、修道院からは、小さな嫌がらせをいろいろ受けた。まったく、わけのわからないことをする人たちだ。
 修道院にこちらから出向くような用事はなかったが、あちらからは時々、下働きの男が、塩などの足りないものを借りにやってきた。私たちに嫌がらせをしておきながら、平気で物を借りにくる無神経さに、少しだけ腹が立った。
 なんであなたのような人が、宗教を信じているのかわからない。ある朝、修道院から紐を一本借りに来たのを機に、私はあの人に言った。あの人は私に向かって穏やかに答えた。
 人はみんな弱いものだ。だから宗教が要る。悪いことをして気になっていることも、教会に行ってあやまれば許してくれる。こんな素晴らしいことはないじゃないか。
 そもそも、人の存在そのものが弱いものなのだ。道に転がっている石ころに躓いただけで死ぬことだってある。言葉が足りないだけで人を傷つけてしまうこともある。
 きみのように強ければ、宗教はいらないかもしれない。でも世の中の人の大半が私のように弱い。みんな宗教が必要なのだ。もちろん私にも、宗教が必要だ。大切なものといっていい。
 でも誤解しないで欲しい。教会ときみが対立したら、私はきみの側に立つ。たとえきみが悪いことをしても、きみが悪いとわかっていても、私はきみの側に立つ。私にとって、きみは宗教以上の存在だ。
 私はそれを聞いて心から嬉しかった。けれど、宗教のことだけは、はっきりさせておきたいと思った。宗教は弱い人を救ってはいない。思うに、私の知っている宗教はどれも人を苦しめている。宗教と宗教が無意味に戦う。ひとつの宗教の中でもいさかいが起きる。しまいには修道院と修道院が戦い、相手方の修道僧を処刑したりする。その野蛮極まりないやり方を見て、宗教が必要だとは思えない。そういうことを私なりに、あの人に向かって、思い切って言った。
 あの人は溜息をついて、宗教は本来、弱い人のためにあったのだと、小さな声で呟いた。それから何週間かのあいだ、私たちは宗教の話をした。結論の出る話ではなかったが、話しておかなければならない大切な話題だった。
 あの人は、病気や災害、戦争といった様々な状況を挙げ、宗教の必要性を説いた。ひとつの強い国が、武力において勝るというだけの理由で、他の国を蹂躙し、そこに暮らす人々の生活を破壊し幸せを奪う。正義はいつも強い国にある。そういう理不尽さのなかで、個人に残された道は宗教しかないのではないか。自分たちのものだと思える存在を信じることで、誇りを持って生きていけるのなら、それ以上のことはない。幸い私はきみに会えた。そして宗教からも少しだけ自由になれた。でも、皆が皆、きみに会えるわけではない。
 なるほど宗教の中にも問題はある。でもそれは、正していけば良いことではないか。あの人はいつも穏やかだった。
 私はそれは違うと思った。そして、問題を正すのでなく宗教それ自体を無視すればいいのだという私のいつもの考えを口にした。あの人はそれを聞いて、悲しそうな顔をした。
 ある日あの人は、私を正面から見つめ、不思議な話をした。なにかを閉じ、終わらせるのがあの人の使命で、なにかを開け、始めるのが私の使命なのだという。あなたがそう思うのかと聞くと、いや、空にそう書いてあったと顔色も変えずに答える。
 そして、この不自由だらけの仕組みを止めるのがあの人の役割で、自由の中でなにをしたらいいのかを示すのが私の役割だという説明を加える。
 私が、なんの話なのかさっぱりわからないと言うと、あの人は、心配しなくていいと言う。
 近頃こういう会話が増えてきた。あの人の言うことがよくわからず、話が続かない。あの人は、そのうちわかるからとか、自然とそうなるからとか言って、優しい笑顔を見せる。その笑顔を見て私が微笑む。そして、話がどこかに行ってしまう。
 空には毎日のように雲が被さり、やがて雪が降った。風は冷たく寒さには辛いものがあったが、空気や水の澄んだ感じが心地よかった。
 画家は相変わらず私たちを訪ねて来ては、話をし、絵を描いた。三人の描く絵には変化があらわれてきていた。あの人の絵の中には、私の他にもいろいろな人が描かれるようになってきていた。私の絵の中では、空には雲が、海には波が寄り添い、空も海も独りではなくなってきていた。そして、画家の絵のなかでは、風が音を立てるようになってきた。その音は、ある時は優しく、またある時は激しく響いた。
 私たちがアヌシーで手に入れてくる画材も、絵を描く意欲を高めるのに役立った。木、布、石、その他どんなものの上にも、絵を描くことはできたが、極上紙の上に描くのは誰にとっても快感だ。さまざまな色を出すための粉も、いろいろな産地のものが手に入るようになり、粉を見ているだけでも楽しくなる。青ひとつとっても、これまでに三十二種類もの粉が手に入り、それを混ぜ合わせれば、どんな青を描くことも可能に思われた。
 ある晩、画家があの人の後ろを通った時、あの人の絵を見て驚いた表情を浮かべた。私もあの人の後ろに回り、その絵を見た。それは競りにかけられている私だった。私の目は鋭くなにかを睨んでいる。髪は乱れ、肌も汚れている。それなのに、絵の中の私は、誇りすら感じさせるほど堂々として美しい。
 それは今までの絵とは全く違っていた。あの人が描いたとは思えない。それくらい素晴らしい絵だった。この絵は私のものよと言うと、あの人は満足そうに微笑んだ。
 そんなことがあった翌日、あの人は急に体調を崩し、寝込んでしまった。看病をしようにもなんの手立ても思いつかない。私は仕方なく、あの人の隣で横になった。あの人は優しい目で私を見続けている。窓の外では鳥が鳴いている。気がつかないうちに、春はすぐそばまで来ていた。
 今まで会ったすべての人を許してあげることができるか。枕元で看病している私に、あの人が尋ねた。私を騙して奴隷にした男や、私に暴力の限りを尽くした男のことを思うと、今はまだ許すような気持ちにはなれない。私がそう答えると、あの人はとても悲しそうな顔をして、許すようにと言う。私が、許す前にすべて忘れてしまうから心配しないでと言うと、あの人は目を瞑り、誰のせいでもない、誰も悪くない、と繰り返す。涙があの人の頬を伝う。暫くして私が、早く良くならなければと言ったとき、あの人は、もう、寝息を立てて眠っていた。
 アヌシーから医者に来て診てもらったが、容態は回復せず、これといった治療も受けないまま、西暦千四百七年、四月二十四日の日曜日、あの人は私の腕の中であっけなく死んだ。
 私はからだの中の力をすべて失い、なにをすることもできなかった。代わりに宿の女主人がすべてを取り計らってくれる。こまごました用事がたくさんあるようだった。
 ぼんやりとなにもわからず、小さな判断すらできない状態が続く。周りがやけに静かで、色の感覚もなくなっていた。
 夜が来る。夢にあの人が出てくる。涙でいっぱいの私に、泣かなくてもいいという。そして私を抱きかかえ、空を飛ぶ。振り落とされないように、私はあの人にしがみつく。町が見えてくる。潮の香りがしない。水の音も聞こえない。大きな町だ。気が付くと、私は誰かと並んで座っている。あの人は、どこにもいない。
 私を連れて行ってくれたのは、いつだってあの人だった。それなのに、隣には違う人がいる。あの人でなければだめなのに。他の人ではだめなのに。
 そんなふうにして、眠りから醒める。あの人にもう一度会いたくて、またすぐに眠る。眠れなくても、眠ろうとする。
 夢の中にまたあの人が現れる。いなくなってしまうのがいやで、私はあの人を強く抱く。するとあの人は、すっと消えてしまう。
 外で鳥がさえずっていた。夢の中でも鳥がさえずっている。現実が夢の中に入っていくと、あの人が夢から消えて行く。私はいつまでもあの人と一緒にいたかった。
 あの人が死んでから、別館を訪れるものはなく、表面上は、静かな日々だった。画家も姿を見せなかった。あの人がいなければ来ても仕方がないのだろう。その程度のことは考えた。でも、あの人以外のことはあまり頭の中になく、すべてがうわのそらだった。
 ひと月が経ち、食べ物が喉を通るようになったのを見て、女主人は私をアヌシーまで連れ出した。湖沿いを歩いていると、あの人のことばかり思い出してしまう。悲しさはなくなっていたが、小さな記憶が次から次へとよみがえる。あの人は私のところに来て幸せだったのだろうか。カスティリャにいたほうが幸せだったのではないだろうか。
 その日、別館に帰るとすぐに、私はあの人の随想録を開いた。随想録には紐がかかっており、開くのはこれがはじめてだった。窓辺に座り、なにかを考えながら丁寧に筆を動かす。そんなあの人の姿が浮かんでくる。ゆっくりと読む。忘れていたことが甦る。随想録は思いのほか温かく、報告書や日記などとは趣がだいぶ異なっているような気がする。思い出に耽りながら読み進む。目に涙が滲む。そして最後の頁に、山の麓、湖の畔に居を定め、二人で静かに暮らす幸いに恵まれた、と書いてあるのを見つける。
 あの人はここに来たことを後悔していなかったのだ。そう思うだけで私は幸せだった。
 同じく最後の頁に、とても嬉しい文章がある。あの人がサマルカンドまで行ったのは、ティムールに親書を渡すためでも報告書を書くためでもなく、私に会うためだった。そういう意味の文章だ。なんという感想だろう。そんな風に書いてくれたあの人のことを思うと涙が止まらなくなる。
 事実として、あの人はサマルカンドに行った。では、それでなにかが変わったのだろうか。私はぼんやりと考え続けた。そしてバビロンで発掘された壷のことを思い出した。
 壷には、近頃の若い者は、と書いてあった。それはそのまま、私の父の口癖だった。父は、私の友達がなにかをすると必ず、近頃の若い者は、と言って顔をしかめた。だから、バビロンの昔の人が同じことを言っていたのかと思うと、それだけでおかしかったのだ。おまけに、言うだけでは我慢できず、壷の上に書くなんて。
 私たちはいつも進歩の話をする。すべてが変わり、すべてが良くなっていくという類の話だ。確かに表面上は、すべてが進歩しているように見える。道具が進歩し、なにもかもが便利になる。それを認めないわけにはいかない。
 でも私たち自身は変わらない。そして、バビロンの昔の人と私の父とが同じことを言う。あの人がサマルカンドに行っても、私が奴隷になっても、なにも変わらない。
 あの人の不思議な話も思い出す。なにかを閉じ、終わらせるのがあの人の使命で、なにかを開け、始めるのが私の使命。不自由だらけの仕組みを止めるのがあの人の役割で、自由の中でなにをしたらいいのかを示すのが私の役割。そんな話だ。
 私になにを期待していたのだろう。なにかが変わりつつあるのを感じていたのだろうか。それとも、なにかが変わるのを待っていたのだろうか。私はなにをしたらいいのだろう。
 黒ペストがみんなを殺し、ティムールがすべてを破壊しても、私たちはこうして生きている。あの人がなにを思っても、私がなにをしても、なにも変わらない。
 私は眠れない夜を過ごした。
 翌日、女主人と雑談をしていると、表に使用人の男女が現れた。戻ってきたのだ。ここを出て行った日から半年以上が経っていた。あの人が死んだというと、二人は揃って大粒の涙を流して泣いた。私はその反応に驚いた。
 二人から旅の話を聞いた。信じられないくらい遠いところまで旅をしてきたようだった。アネシーの湖よりもずっと大きい湖。一年中雪を被った山々。知らない言葉を話す人々。そんな話を聞いていると時間が過ぎるのも忘れてしまう。飽きることなく、想像は大きく広がっていく。
 その晩は、この二人と女主人と私とで食卓を囲んだ。二人にこれからの事を聞くと、サヴォナに戻るつもりはないが、とりあえず来た道を戻り、トリノあたりで落ち着く所を探すつもりだという。それを聞いて私も、トリノに行きたいと思った。
 タロワールに留まり、あの人のことを思いながら暮らすというのも、ひとつの選択には違いない。そう考えた時、突然、タロワールに着いた晩の夢が甦ってきた。夢の中であの人は、ここにずっといることにしたと言った。そして私には、待っている人たちのところに行くといいよと、優しく囁いた。
 あの人がここにずっといるのなら、私はここを離れるわけにはいかない。でも、あの人は私に、待っている人たちのところに行けと、確かにそう言った。待っている人たちというのが誰なのか、私にはわからない。でも、あの人の言うことはよくわかる気がする。あの人の優しさが私を包む。行っていいよと後押しをしてくれている。
 実際、あの人がいなくなってから今迄、ここは寂しいだけの場所だった。私には、ここにいる理由がない。そう思えた。何人かの見知らぬ男が言い寄ってきたが、わずらわしいだけのことだった。
 女主人にこれからのことを相談すると、あなたはここの人ではないから、というような言い方をして、私が立ち去りやすいよう、気を遣ってくれた。ここを去ることを考えた時、あの人と女主人だけが未練だった。
 タロワールを離れる気持ちが強くなると、出発の準備や荷物の整理のことが気になりだす。あの人のものは、ずっと持っていたいし、捨てるなんて絶対にできない。それでも、なにを捨て、なにを送り、なにを持っていくかということは、一人で決めなければならない。私は仕方なく、荷物の整理を始めた。
 鞄の中から、金貨一袋と銀貨十袋が出てくる。あの人から預かったものの、結局、使うことはなかった。これからもずっと、私と一緒に旅をするのだろうか。そんなことを考えていると、しっかりと封のされた袋が目に入る。いつも金貨や銀貨と一緒に預かっていた袋だ。なにが入っているのか、だいたいの見当はついていた。袋の封を解く。予想したとおり、なかには奴隷売買契約書が入っていた。
 もっとも、奴隷解放証書までは、予想していなかった。証書は、タブリーズの裁判所で発行されたもので、日付を太陰暦から太陽暦に換算してみると、西暦千四百五年の五月中旬ということになる。あの人に買われた日から、半月ほどしか経っていない。そんな早い時期に、私を解放していたなんて。
 いろいろなことが、思い出される。私は、あの人に会えたことに、心から感謝した。湖も山も、いつもどおり静かで、私を慰めたりはしない。でも私は、湖や山に、あの人を感じていた。
 ある朝、あの人が死んでから一度も顔を見せなかった宗教画家が、突然現れた。女主人から、私がここを去るということを聞いたのだろう。私の前まで来ると、挨拶もせず、いきなり、連れて行ってくれと言った。
 あの人と私がアヌシーで買ってきた紙や布、さまざまな色を出すための粉、そして筆やへら等の画材が、この画家の製作に欠かせないものになっていた。しかし、あの人がいない今、私が画家のためにそういうものを買い揃えるといううことは、もうないように思われた。
 少し話してみて、画家が連れて行ってくれというのは、私についてきて、絵を描き続けたいということなのだとわかった。自由に描くということの意味を私から学びたい。そうも言った。
 自由ということなら私にも少しは考えがある。でも、自由に描くということになると話は別で、私は素人でしかなかった。
 私から学ぶことなどなにもないはずだ。私がそう言うと、画家は、周りを見回し、私と二人だけなのを確かめると、愛していると言った。不思議なことに、それを聞いてもなにも感じなかった。他人事にしか思えず、驚きもなかった。
 私は、愛していないと、画家の目を見てはっきり告げた。ついて来るならついて来てもいい。ただ、私があの人以外を考えることはないように思える。そう言った。
 画家はそういう答は期待していなかったようで、しばらく黙っていた。そして、決心したように、ついて来ないと言った。私は話が複雑になる前に、来ないということを事実として確かなことにしたいと思い、どこに落ち着くのか今はわからないが、落ち着いたら住所だけは知らせると言った。画家は、さようならと言って出て行った。私はからだ中に疲れを感じた。
 アヌシーに何日か通い、別館の所有権を女主人に移す手続きや税金などの支払いを済ませた後、私は女主人に別れを告げ、タロワールを出発した。ここを離れることに感傷を持っているのは私だけで、使用人の男女は先だけを見ているようだった。
 アルベールヴィルまで平らな道を進んだ。行きに通ったはずの道だったが、初めて通る道にしか感じられなかった。アルベールヴィルで一泊し、前に世話になった神父に挨拶に行った。
 神父は私のことを覚えていてくれた。あの人が死んだ事を話すと、私と一緒に祈ってくれた。神父に、アヌシーの湖が人間の争いから一番遠いところだと言ったのを覚えているかと聞くと、もちろんだという。
 私はタロワールの修道院の話をした。神父は、それはよくあることだといって、聖職者の権威主義について、説明をした。あまり気持ちのいい話ではなかった。
 私は話題を変え、あの人と交わした宗教の話をした。人はみんな弱い、だから宗教が必要なのだ、そういうあの人の言葉が思い出され、私はあの人になったような気分で話をした。神父は私の話を真剣に聞いてくれた。そして、人はみんな、本当に弱い存在だと、つぶやく様に言った。
 ひととおり話した後、私は実は宗教が嫌いだと言った。神父はさほど驚いた様子もなく、私を見た。宗教は弱い人を救うためにあるはずなのに、逆に人を苦しめる。私がそう言うと、神父は軽く頷き、神は我々を救うためにそこにいると言った。私に答えたのか、ただつぶやいたのかは定かでなかった。他の宗教のことはわからないが、きっとどの宗教も人を救うためにあるのだろう。そのようなことも言った。
 私が嫌いなのは、神ではなかった。人を救うとか世の中を良くするとか高邁なことを言いながら、実はすべての行動が自分のためだけにある人たち。自分は素晴らしい、自分だけは天国に行けると思い込んでいる人たち。そういう宗教の周りに群がっている人たちが嫌だった。その人たちが放つ独特の匂いが、私を宗教嫌いにしていた。
 私は神父に私が奴隷だったことを話した。私を騙した人、売った人、弄んだ人、そのすべてがキリスト教の敬虔な信者だった。あの人たちが、みんな、天国に行くのなら、私は天国などには行きたくない。あの人たちが好きな流行の音楽や高尚な文学などには関わりたくない。そういうことを素直に話した。そして神父が、すべての人を赦しなさいと言うのを待った。
 神父は、しかし、違うことを言った。神はすべてを知っている。一緒に祈ろう。それだけ言って、手を机の上で組んだまま膝をついた。
 私は隣で膝まづきながら、すべての宗教に関わっている人たちがこの神父のようだったらどんなにいいだろうと思った。包み込むような優しい気持ちで、なにも押し付けることのなく、人と同じ高さでものを見る。そんな感じが、この神父の周りに漂っていた。
 残念ながらそんな普通の感覚は、どの宗教の周りにも、あまり見ることはできない。宗教の権威、個人の栄達、そんなことがすべてを台無しにしている。私はこの神父を見ながら、そんなことを考えていた。
 別れ際に、私は神父に向かって、あなたのような人が沢山いたらいいのにと言った。そして考えたことをそのまま口に出した自分に驚いた。神父は私の目を見ながら、私の口真似をして、あなたのような人が沢山いたらいいのにと言った。目には涙が浮かんでいた。私はさようならとは言わず、ではまたと言って教会を辞した。
 アルベールヴィルからの山に挟まれた道は、どこも良く覚えていたが、あの人の笑顔がすべての記憶に被さってしまい、せっかくの景色も心から楽しむというわけにはいかなかった。
 ところが、小聖ベルナールの峠に向かって登り始めたあたりから、なにかが違ってくる。景色を素直に楽しむことができる。使用人の二人と軽口をたたくことができる。あの人がそばにいて、私を元気づけてくれている。そんな感じを持つようになったのだ。
 急勾配のつづら折りの道は、呼吸を荒げることなしには登ることはできない。万年雪を戴く山々は、神を感じないで見ることはできない。たぶんそんなこんなで、斜面を登っていくうちに、私の中でなにかが変わっていったのだろう。
 気がつくと、前に反対側から登った時と同じように、峠の少し手前にある修道院とも宿屋ともつかぬ建物の前にいた。私たちは今回も、この建物に泊まることにした。中には、神父とも宿屋の主人ともつかない男が待っていた。男があの人のことを覚えているというので、あの人は湖のそばで静かに人生を終えたと言う。男は大きな体を屈め、神妙な顔をした。そしてなにかに向かって祈った。
 私が、あなたの雪崩の話は良く覚えていると言うと、男は私を見つめ、あの人のことをいい人だったと言い、少し微笑んだ。あの人とだとあれだけ弾んだ会話も、私とでは始まることもなく、私たちは静かな夜を過ごすことになった。
 翌朝、早く起き、日の出前に宿を離れた。空気はすがすがしく、青空が気持ちいい。歩きながらあの人のことを考える。悲しくはない。さみしくもない。あの人と話をする。あの人がまるで私の隣にいるかのように感じる。峠から麓まで、あっという間のことだった。
 麓の村には小さな教会があった。神父が訪れることもあまりないような、慎ましい佇まいをしている。教会の周りの草は刈られ、木の一本一本に手が入っている。建物の中も清潔で、この村の人たちが大事にしているのがわかる、使用人の二人は、その教会に入ると、お祈りを始めた。それはとても自然で、好感が持てた。
 その村の宿は、大聖ベルナールの峠から下りてきた旅人たちでごった返しており、我々が泊まる雰囲気ではなかった。私たちは仕方なく、教会の隣の農家に泊めてもらった。夕飯の後、使用人の二人が農家の主人と教会の話を始めたため、なかなか就寝の時間が来ない。二人は農家の主人からいろいろ話を聞き、形式を重んじる教皇のやり方について、大いに憤っている。私はすべての話を黙って聞いていた。
 こんな田舎の人たちの、土着の信仰や迷信を誰が笑うのだろう。自然に囲まれ、人間の無力さをいやというほど思い知らされて来た村人たちに、なにを信じなにを守れというのか。形式を守れ。規則を曲げてはいけない。酒を飲むな。無駄は慎め。そんなことを言ったとしても、それはなんの意味も持たない。教皇のやり方に沿わなければ異端として処罰するというようなやり方で事を収めようとすれば、人の心は権威を認めず、押し付けられたものから離れて行く。使用人の二人と農家の主人はそんなふうに盛り上がり、共感しあい、夜更けまで話し続けた。
 私はその話を聞きながら、そして寝床に入ったあとも、宗教についてぼんやりと考え続けた。ユダヤ教が、キリスト教が、イスラム教が、そして数えきれないほど沢山の宗教が、それぞれに自分たちだけが正しいという。論理的にいえば、そのうちのひとつが正しければ、残り全部が正しくないことになる。例えば、キリスト教だけが正しいものだと思い、残りの宗教全部を否定し、キリスト教だけを信じている人間は、なんの矛盾も感じないのだろうか。神のような存在はあるかもしれない。しかしそれが、人間の考えの及ぶものと考えるのは、あまりにも安直過ぎやしないか。
 キリスト教が東の正統教会と西の普遍教会に分かれ、西の教会の中でローマの教皇とアヴィニョンの教皇に分かれ、それぞれが自分たちの正統性を主張しているのをみれば、宗教とは、神とは関係のない、人間の争いなのだと結論付けることができる。
 実際、どの宗教も、知識階級からは支持されず、田舎の素朴な人々の中には浸透していかない。そして、みんな、内部分裂と内部抗争を繰り返す。まさに人間の集まりそのものなのだ。
 どの宗教も、人を救うためにあるという。でも敵は、人の範疇には入らない。悪人も人ではない。他の宗教を信じる人などはもってのほかで、救う必要など、どこにもないという。そんな狭い了見にはとらわれない、この世のすべての人たちを救うような、寛容で自由な宗教というものはないのだろうか。どこかに本当の神がいて、私のようになにも信じない者をも救ってくれたりしてもいいではないか。
 そんなことを考えながら、私はいつのまにか眠りに落ちていたようで、気が付いた時には外はもう明るく、清々しい空気があたりを包んでいた。ゆっくり朝食をとり、私たちはアオスタに向かった。道は整備され、歩きやすく、景色を楽しみながら進む。このままずっと歩いていたいような気分になる。あの人にこの景色を見せたい。心から、そう思った。
 アオスタには予定より早く着いた。宿で、ふと、今日は何曜日なのかと考えた。いったい今日は何月何日なのだろう。考えてみると、あの人が死んでからずっと、日付の感覚がなかった。あの人はいつも、今日は何月何日何曜日、天気は晴れ、などと声を上げて書いていたので、私は意識せずにそれを知った。あの人がいなければ、そんなことは誰も教えてくれない。
 宿で聞くと、今日は六月二十四日の金曜日だという。あの人が死んでから二か月が経っていた。長いような、短いような、二か月。もうそろそろ、あの人が死んだことを認めなければならない。あの人は死んだのだ。あの人はいないのだ。
 アオスタを出発しトリノに向かう。以前通った時に比べ、城の数が減っている。いくつかの城は壊されてしまっている。城が残っている場所でも、そこで取られる税金は、前とは比べものにならないほど少ない。
 このあたりは、もう、私の国のような気がする。厳密にいえば、私たちはこのあたりでも外国人ということなのだろうが、言葉を苦労なく理解できる人たちに囲まれてすごすのは、なによりも気が楽で、落ち着く。
 山に囲まれて歩いている間は、風景が次から次へと変わり、あまり疲れることはない。この道は正面に見える山の右側を抜けていくのだろうか。それとも左側なのだろうか。あの山肌はなぜあんな模様をしているのだろう。そんなどうでもいいことを考えながら歩く。
 ところが、いつの間にか周りに山がなくなり、広い平地の中を進むようになると、歩くことが苦痛になる。人は、単調なことには耐えられないように出来ているのだろう。トリノが見えてきても、なかなか近づかない。遠くに小さく見える教会の塔も、いつまでたっても小さいままだ。道は広くなり、歩きやすく楽な筈なのに、気持ちはどんどん辛いものになって行く。もっとも、辛さが麻痺し、時間の感覚がなくなったと思った時には、もうトリノの町なかにいたのだから、人間の感覚などあてにならない。
 トリノでは、前と同じ宿に泊まり、毎日、朝から晩まで、落ち着き先を探しに走り回った。トリノの町は思ったよりも大きく、似たような建物が通りに沿って整然と並んでいた。どの建物も茶色で、同じ形の窓が等間隔に並んでいる。広場には、同じ大きさの石が敷き詰められている。このあたりの人たちの美意識が、規則性のある整ったものを求めているように感じられる。
 使用人の二人が住む場所は、すぐ見つかった。二人は、ここで仕事を見つけ、結婚し、子供を生み育てるという、二人共通の明確な考えを持っていたので、住む場所を見つけるのは比較的簡単だった。
 私は、とりあえずここまで来たものの、これからの展望とか、これといった計画とかがあるわけではなかったので、住む場所に関しても、どうしていいのかわからないでいた。
 ある日、教会までの道を歩いていると、一軒の空き家が目に留まった。表通りに面しているのに、なぜか、がらんとしている。近所の何軒かを訪ね、聞いてみると、もう何か月も空いているという。持ち主が金融業を営む町の有力者だということもわかった。私は心の中で、ここに住むことを決めた。
 私はすぐに、この家の持ち主に会いに出かけた。事務所に着いて、私は驚いた。そこは、父の本や母の食器類の保管を頼んである商人の事務所だったのだ。私は、預けてあるものがあったことすら忘れている自分に気づき、あきれた。奥から、金融業とか有力者とかいう言葉から想像したのとは正反対の、とても素敵な男が私を迎えた。
 私が本と食器類の話をすると、書類を調べることもなく、心配ない、いつでも引き渡すことができる、手数料は計算しておくなどと、事務的に、しかも丁寧に言った。家の話をすると、あの家は値段が少し張る、それに表通りに面しているので、それなりの人に譲りたかった、それで今まで空いていた、というような説明をした。
 私がそれなりの人という区分に入るのかと聞くと、男は少しだけ慌てたように、いや、その、そういうことは、その、あなたのような方になら、もちろん、喜んで、などと、しどろもどろになった。とても好感が持てた。売買契約はその場で成立した。本と食器類もそこに運んでもらうことにした。
 私は、家具を買う前に、家の掃除をすることにした。使用人の男女が来て手伝ってくれる。掃除をしてわかったのだが、この家は思ったよりも大きい。一人で住むのは、少し贅沢かもしれない。
 夜は宿に泊まり、昼は家に出かける暮らしを続けるうちに、宿にも家にも愛着を感じるようになった。運が良いことに、トリノの町は治安がよく、余計な心配はしないで済んでいた。
 内装を整え、家具屋を呼ぶ前の日、私はタロワールから届いた絵を飾った。階段や廊下の壁には私の描いた絵をはめ込み、部屋の中の壁にはあの人が描いた絵を吊った。あの人が描いた絵の大半が私の顔だったので、人の目に触れるようなところに飾るのはどうかと思ったが、あの人の絵に囲まれて暮らしたいという気持ちのほうが強かった。
 絵を飾り終え、椅子に座ると、あの人が死ぬ前に口にした言葉が甦ってきた。誰のせいでもない。誰も悪くない。その言葉は、あの人の声と共に私の耳に残り、離れない。
 私はまだ、そう思えないでいる。自分が被害を受けた時、加害者のせいではないと思えるのだろうか。価値観の違う人間が理解できない行動を取った結果、大切な人が殺されたとして、その原因となった人間は悪くないのか。本当に心から、誰のせいでもなく、誰も悪くないと、言えるのだろうか。私にはわからない。たぶん、いつまでも、わからない。
 家具を入れ、宿を引き払い、私の引越しは終わった。引越した晩、私はあの人の夢を見た。あの人は、はじめて会った頃のように、自信に溢れ、頼もしかった。暫くは、私の夢には出てこないという。なぜかと聞くと、もうひとりでも大丈夫だからだと答える。それでは困ると言うと、心配はない、必要な時にはいつでも出てくるからと微笑む。考えてみれば、騙されてサヴォナを出てから、今日この家に落ち着くまでの日々は、長い引越しのようなものだった。その間に、あの人に救われ、あの人と過ごし、あの人は逝ってしまったのだ。
 家のお披露目をしようと、まず使用人の二人に連絡をした。男には仕事の口がいくらでもあったが、女には良い話はなかった。あなたの家で働きたい。また使ってくれないか。女が真剣な顔でそんなことを言うので、私は少し驚いた。もちろん喜んで働いてもらうことにした。良い機会なので、男との雇用契約は正式に破棄し、女との契約は見直して更新することにした。
 お披露目は、夕方からの食事会。一週間先の土曜日ということにした。家を売ってくれた男に、二人で来てくださいという招待状を書く。長椅子に座る。誰か他に呼ばなければならない人はいないだろうか。そんなことを、ぼんやり考える。
 そうだ。私は突然、あの人と一緒に世話になった郊外の農家のことを思い出した。人の良さそうな男と気のいい女の顔が浮かんできた。懐かしかった。この二人にも招待状を書く。
 招待客は六人、私を入れて七人。長い食卓に椅子を七つ、工夫して置いてみる。どうも、しっくりこない。やはり八つ置くほうがいい。そんなどうでもいいことを考え続けた。それくらい、この食事会のことは楽しみだった。
 その日は、すぐにやってきた。使用人の女は、食事の下ごしらえをした後、一旦出て行き、暫くして、男と一緒に現れた。二人の姿を見て私は驚いた。いつもの二人からは想像もつかないような素晴らしい衣装に身を包んでいたのだ。
 農家の夫婦が到着し、私はまたもや驚く。この二人もフォーマルに着飾っていた。
 私はあの人が死んだことを農家の夫婦に報告した。二人に勧められたとおり、アオスタの谷から小聖ベルナールの峠を越え、サヴォアに行ったこと、アヌシーの湖の畔にあるタロワールという村に落ち着いたことなどを話した。二人はほぼ同時に、ご愁傷さまと言った。心のこもった言い方だった。
 家を売ってくれた男は、もう一人の男と現れた。頂いた招待状に、二人で来て下さいと書いてあったので、こうして友人を連れて来ました。そういうと、連れの男を紹介した。トリノでは建築家として知られているが、私にとってはこの男は詩人だ。毎日のように素晴らしい詩を書いている。内気な男なので、今でも独身でいる。好意溢れる紹介だった。
 その後、みんなの紹介が続いた。建築家が、家を売ってくれた男のことを、学者だといって紹介した。金融業も、町の政治に参加しているのも、すべて人に頼まれて仕方なくしているのだという。私の父もいろいろなことをしていたが、人からは学者と呼ばれていたと言うと、みんな不思議そうな顔で私を見た。
 農家の夫婦はそれぞれを働き者と紹介した。近頃、葡萄酒の醸造技術について学んだり工夫したりしていると言った。学者、つまり家を売ってくれた男は、特別の興味を示し、近いうちに見学に行きたいがいつ頃がいいか、トリノでの販売代理店はもういるのかなど、矢継ぎ早に質問をした。夫婦はどのような質問にも穏やかに笑いながら答えた。
 使用人の女が、小さな声で自己紹介の代わりに発表したいことがあると言って、隣の男を見た。男は立ち上がり、私たちは明日結婚する、と言った。一家を構え、子供を持ちたい。トリノには知り合いがいないので、今日、皆様に祝って貰いたいと思って来た。そして私のほうを向き、せっかくの家のお披露目なのに、私たちのことを祝ってほしいなどと都合の良いことを言い、大変申し訳ない。そう挨拶した。立派だった。
 学者が拍手をした。そしてみんなが続いた。笑顔が部屋に溢れ、幸せな気分に包まれた。結婚の話が出たおかげで、私は自己紹介をしないで済んだ。助かった気分だった。
 長い食卓の向こう側で、農家の夫婦が、明日結婚する二人を相手に大声で話し始める。諍いを起こしたくなくても、諍いの種はあちらこちらに転がっている。夫婦で力を合わせて灌漑用水路を造ったというのに、用水の権利は領主にある。水路の修繕費を負担するのはまだいいとしても、使用料まで払わされるのには我慢がならない。諍いは嫌だが、理不尽なことを黙って受け入れるわけにはいかない。だから諍いを起こす。人が集まれば諍いが起きる。残念だが、それが現実だ。そんなことを笑いながら話すのだから、皆、逞しい。
 食卓のこちら側では、学者と建築家が、私からいろいろなことを聞きだそうとしていた。二人とも心の垣根を取り外すのが上手く、気が付くと、私は気を許し、余計なことを話し始めていた。ギリシャやローマというような都市文化が、今でも世界のどこかで息づいている。私たちが知らないあいだに、東のほうの国々で科学や芸術が進歩し続けている。ここではキリスト教のせいで、すべてが停滞したままだ。そして、ペルシャ語で書かれたサーディの果樹園という詩は素晴らしいなどといって、好きな一節を諳んじたりもした。あの人以外には、見せたことのない私だった。
 私は自分がしたことを、すぐに後悔した。この二人のどちらかが、キリスト教の熱烈な信者で、私の言ったことで気分を害したりすれば、私はトリノには住めなくなってしまうかもしれないのだ。すみません、今日は気分が良くて、つい喋り過ぎてしまいました。お気を悪くしたかもしれませんが、どうかお許しください。私は誠心誠意、自分の気持ちを伝えようと努力した。
 建築家は私の目を見つめながら、気をつかったり、心配したりすることは、なにもないと言った。喋り過ぎなどと言わず、もっと話して欲しい。あなたのことをもっと知りたい。どこでなにをしていたのか。どこでそんなにたくさんの言葉を覚えたのか。私が答える前に、さまざまな質問が飛んできた。
 私は質問には答えず、それでもまた心を開いて、今度は自由について話した。二人は、私の話に違った反応を示した。学者は、誰も自由なんて欲しがってはいないと言った。建築家は、自由こそがこの世で一番大切なものだと言った。
 私はこの二人を見ていて、心配することはなにもないと思った。誰かの言ったことを曲がってとって、それで気を悪くするような人たちではなさそうだった。二人が私の心をとっても上手に開くので、私は自分を守ることすらできない。私がそう言うと、二人は顔を見合わせ、大きな声で笑った。食卓の遠い反対側にいた四人が、話を中断してこちらを見た。
 四人は自分たちだけで盛り上がっていては申しわけないとでも思ったのか、私たちのほうに椅子を持って近づいてきた。四人が話に加わると、話題は今日の集まりの趣旨に合ったものになり、家の内装とか家具とかについての、とりとめのない会話が始まった。すると突然、学者が、飾ってある絵について質問をした。
 この部屋に飾られている絵は誰が描いたのですか。絵のなかにいるきれいな人は誰なのでしょう。もしかしたら、あなたかもしれないと思って見ていたのですが、違いますか。廊下や階段に飾ってある空や海の絵は、誰が描いたのですか。
 私はなにも言えずに黙っていた。すると建築家が、まるで私を守るかのように話題を変え、絵を見て回りたいが席を立ってもいいか、と尋ねた。
 私は、丁度良い頃合いに思えたので、立ち上がり挨拶をした。今日は来てくれて有難う。これからもよろしく。それだけで充分のような気もしたが、ひとりひとりに私の感謝を伝えるために、多少の言葉を加えた。
 挨拶を終えて座ると、みんなが拍手をした。隣にあの人がいないのが不思議だった。家の中に飾ってある絵は自由に見てくれていい。それぞれの絵について説明することはできないが、感想は聞かせて欲しい。私がそう言うと、みんな、席を立った。
 食卓を片付け、果物や菓子などを用意していると、戻ってきた順に席に着き、私に向かって、どの絵も素晴らしいとお世辞を言った。特に二階の寝室に飾ってある絵が印象的だったと学者が言った。その絵の中では私は奴隷だった。
 唐突に学者が、ここを開放したらどうだろうと言った。家の中の絵を知り合いに見せるために時間を限って開放する。絵を見るために人が集まり、集まった人たちが自由に話しをする。絵が欲しいという人がいれば、交渉して売る。ここがそんな場所になったらどんなにいいだろう。
 しかし、家の中に知らない人たちが入ってくるのは、どうかと思う。建築家が、素直な感想を口にした。それに対して学者は、知っている人たち、それも気に入った人たちだけがやって来るようにすればいいと言った。宣伝もせず、誰にも知らせず、はじめはここにいる六人だけが集まるようにする。そうすれば、今晩のような愉快な晩を何度も過ごすことができる。
 学者は宙を見るようにして話し続ける。ここが開放され、今飾ってある絵が売りに出されたら、誰が二階の寝室に飾ってある絵を買うのだろう。いや、まて。私が手に入れる。どんな値段を付けられても私が手に入れるのだ。芝居がかった物言いはみんなの笑いを誘う。私が、その絵だけは譲れないと言うと、大袈裟に悲しむ真似をする。またみんなが笑う。学者は、それではと言って隣室に行き、一枚の絵を持ってきた。私の顔が大きく描かれていた。これを買う。学者は微笑んで言った。
 建築家は、入口に飾ってある絵が欲しいと言った。その絵の中では、空と海とが笑っていた。私が、一番気に入っている絵だった。農家の夫婦は階段に飾ってある海の絵を欲しいと言った。小さな帆船が大きな海を漂っていた。若い男女は、生活を始める身としては絵を買うことはできないが、この部屋の絵が欲しいと言った。私は、それぞれ気に入った絵を持ち帰ってくれるように頼み、楽しい集まりを笑顔で締め括った。
 気が付くと結局、私の家は開放され、人が集まる場所になっていた。学者は相変わらず、私が気に入った人たちだけが出入りすればいいなどといっていたが、実際はそうもいかず、私の家は夕方になるといつも人で溢れた。たまには嫌な人が混じることもあったが、そういう人は不思議とすぐに来なくなった。見えない空気がそういう人たちをはじき出していたのかもしれない。
 集まってくるのは人たちは、総じて、抽象的に考えたり夢を見たりすることのできる人たちで、話題は尽きることがなかった。
 あの人が死ぬ前に、キリスト教は弱い者や困っている者のためにある、と言ったのを思い出す。私の家にやって来る人たちは、みんな豊かな階層に属し、熱心なキリスト教徒は殆どいなかった。その中でも、新富裕層と呼ばれる人たちは、特に信仰心が薄く、知識欲に溢れていた。絵を買うのもそういう人たちだった。
 私の家に来れば絵が売れるという評判はアスティやミラノまで届き、絵を持った人たちが飾ってくれるだけでいいと言ってやってきた。私は対応に苦労したが、殆どの場合、熱情に押され、預かって飾ることになった。良い絵は売れ、そうでない絵は売れ残る。そういう現実を誰もが認めざるを得ない。
 音楽会も開かれた。私は決まって建築家と学者に挟まれて座った。演奏が終わった後、感想を言い合うと、学者と私とはいつも同じ事を言った。感性が似ているのだと思った。
 私の家の本棚に置かれた本に、建築家と学者、それに学者が連れてきた若い政治家の三人が異常な興味を示し、順番に借りていっては意見を述べ合った。建築家と若い政治家は私の父の本に、学者はあの人と私の本に、それぞれ興味を持っているようだったが、それぞれの本に、父の本とか私の本とか書いてあるわけでもないので、そういう傾向は私以外にはわからない。
 建築家は、詩人といわれるだけあって、フランス語やプロヴァンス語で書かれた父の好きだった詩集の数々に特に興味を持った。気に入った一節があると、それを紙に書き写し、何度も繰り返し、朗読した。
 新進気鋭の政治家は、トスカーナの言葉で書かれた大掛かりな叙事詩を好んだ。この野心家は、キリスト教とこの世のあらゆるものとがどのように調和していったらいいのかということで、いつも頭を悩ませていた。政治的にも宗教的にも、どこに属することが生き残るための最良の道なのかを考えねばならなかったし、そのためならば、私のような者の意見も素直に聞く。本を読むのも、勝ち残るという目的のためだった。
 学者は、遠い国の言葉で書かれた未知のものに好奇心を示した。ただ知りたいだけなのか、そこから商売の種でも探そうとしているのか、その辺のことは誰にもわからなかった。
 三人は、それぞれ興味が違うにもかかわらず、お互いの意見を求め合った。意見が合えば単純に喜び、意見が合わないと悲しむ。まるで子供が三人、集まったようだった。
 トリノで、私ははじめて、社交というものを持った。招待されれば、どこにでも出かけた。私の中にも快楽を全面的に肯定できない気分が残っていたが、踊ったり笑ったりはやはり楽しい。建築家は、内気ではあったが、女性の扱いが上手かった。政治家は誰とでもそつなく話しをしたが、いつでも主流派でいるために、意見を言うのは控えていた。学者は、誰とでも話す割には心の内は見せず、なにを考えているのかはわからなかったが、いつも明るく、感じが良かった。
 建築家のところで開かれる集まりや、学者のところでの討論会にも積極的に参加した。政治家のところにも、挨拶程度には出かけた。農家の夫婦のところには、時間を作っては出かけて行き、会話を楽しんだ。知り合いが少しずつ増えていった。
 建築家が催す集まりには、美しく着飾った男女が出入りし、慣れないうちは落ち着かず楽しめなかったが、四回、五回と、回を重ねると、それはそれで居心地の良い場所になっていった。上品さがすべてを包んでいた。
 建築家の家には素晴らしい庭があった。池があり、噴水があり、木々はきれいに刈り込まれ、夜でも月明かりの中を散歩できるように白い玉砂利が敷き詰められていた。家の中も清潔で全体に白い印象を与えた。書斎には建築関係の難しい本が並んでいたが、私は廊下の書棚の中に食器類に囲まれて置かれてあった三冊の詩集に心を惹かれた。
 詩集のなかの詩はどれも短かった。長い詩に慣れ親しんでいた私には、短い詩はものたりない感じがしたが、何度か繰り返して読んでみれば、短いものの良さがわかってくる。私はいつも集まりのことを忘れ、そこにある詩集を読み耽った。
 私が何度も世話になった学者の事務所は、町で一番賑やかな通りに面していた。立派な構えで、交易業、金融業、不動産業などを営んでいた。事務所の下の階は、税金や借金の相談に訪れる人々でいつも賑わっており、上の階では、契約の話や政治のことで来た客が静かに順番を待っていた。下の階のそのまた下、半地下になっているところが、学者の住居で、窓の上半分が通りよりも高く、下半分が通りより低かった。内装は木がふんだんに使ってあり落ち着いた感じがしたが、昼のあいだはうるさいだけの場所だった。
 夕方から半地下の学者の部屋で催される討論会では、不思議な問題が提起される。空が落ちてきたらどうなるのか。なにもないということはどういうことなのか。そういった質問が出てきても誰も嫌がらず、馬鹿にすることもない。その優しく好奇心に溢れた場所は、私には貴重なものに思えた。
 もっとも討論会といっても、基本的には経済的に安定している人たちの集まりで、どこか余裕と落ち着きが感じられる。自己顕示や言い争いといった討論会特有の雰囲気からは程遠い。誰もが参加するだけで楽しいと思っているようだった。
 ある日、私に問題提起の番が回ってきた。私は躊躇なく、人間を中心とする考え方について話をした。そして、人間を中心とした仕組みと考えたことを口にすることのできる社会はどうしたら実現できるのだろうか、という問題提起をした。
 政治も宗教も、いつも改革を口にする。しかしそれはいつも、改革を口にする人たちに都合の良いものでしかない。改革はいつも、政治や宗教の主導権争いの道具でしかない。そんなものとは違う次元で、科学や芸術が、社会を変え、みんなの考え方を変える。そんなことは、起こりえないのだろうか。
 学者が私の話を受けて、道徳のことを話した。政治的な道徳や宗教的な道徳には意味がない。人には、政治や宗教とは関係なく、それぞれに道徳が備わっている。道徳というような個人の問題に、政治や宗教が立ち入るべきではない。学者は、まるで私の心の中がわかるかのように、私が普段から考えていることを口にする。何人かが私の意見に異論を唱える。すると学者は、私の問題提起を論理的に説明し、異論を吸収してしまう。学者の目はいつでも笑っていて、何事についてもどこまで本気かはわからなかったが、とにかく私に対してはいつも優しかった。
 討論会の後はいつも、学者と問題提起をした人とが残り、討論の記録をまとめる。それは討論会の内容を忠実に紙の上に残すという類のものではなく、学者と問題提起をした人とが、討論会でなにを考え、なにを得たのかということを、他の参加者に回覧し伝えるという性格のものだった。討論会の後はいつも、その記録が家に届くのを心待ちにした。これほど楽しい読み物は他にない。
 その日、討論会の後、私は学者と二人きりで向き合った。あなたのことを少しでもいいから知りたい。そうしなければ今日の討論会の記録は書けないような気がする。今日は良いものを書きたい。学者は私の目を見ながら静かに言った。
 私には学者に隠すことはなにもなかった。ただ、とりたてて言うようなこともないように思われた。少し黙っていると、学者がいろいろな質問をする。私は尋ねられるままに、あの人のことや奴隷だった頃のことを話した。遠い国のこと。キリスト教でない宗教のこと。さまざまな文化が交じり合い、違った習慣がぶつかる中で、私たちとは違うことを考える人たちが増えているということ。そして、考えが違えば感じることも違ってくるのだということを説明した。
 遠い国ではどんな職業が重んじられ、いくらぐらいの賃金が支払われているのかというような話もした。東に行けば行くほど、実践的な職業に就くものが大事にされる。例えばティムール帝国では、土木技術者や医者が高給をとり、庭師や職人などの暮らし向きも悪くはなかった。それがここでは、官僚や商人が高給をとっている。どちらの制度がいいという話ではない。ただ、私たちがあたりまえだと思っていることも、遠くに行けばあたりまえでなくなるということが言いたかったのだ。
 私は、時間が経つのも忘れ、話し続けた。あの人は事実はひとつしかないと信じていたけれど、私は事実というものが人の数だけあると思うようになっていた。あの人は神を信じていたけれど、私には神よりもあの人のほうが大切に思われた。あの人にとって夢というものは不確かなものだったけれど、私には夢は見た時点で私のものだった。あの人は抽象的概念を操るのに優れ、私は具体的概念のなかでしか考えられない。なにかを閉じ、終わらせるのがあの人の使命で、なにかを開け、始めるのが私の使命。不自由だらけの仕組みを止めるのがあの人の役割で、自由の中でなにをしたらいいのかを示すのが私の役割。そんなことまで口にした。気が付くとそこには、あの人と私のことばかりを長々と話している私がいた。
 ごめんなさい。つまらない話ばかりして。私がそう謝ると、学者は、いや、とても面白い、今日は良いものが書けそうだ、などと言った。私は頃合いを見計らって家に帰った。学者が気を悪くしていないことを祈った。
 暫くして届いた討論会の記録を読んで、私は心から驚いた。そこには、私がいかに自由か、私がなにをしようとしているのか、というような、私の内面が書かれていた。それを読んでいると、何も知らず何もできない私が、誰かの役に立てそうな気がしてくる。奴隷ではない自由の身になった私に、なにができるのか。確かに私はそんなことばかり考えて暮らしていた。学者にはそれがわかるのだろうか。
 私はあの人のことを考えた。あの人とは心から思い合っていた。でも、わかり合ったことはない。あんなにも長い時間を一緒に過ごしたというのに、最後までお互いを誤解することが多かった。それはある意味驚きの連続で、新鮮でもあり、思い合っていることの確認でもあった。わかり合えないことになんの不都合もなかった。
 学者のことは、まだあまり知らない。学者も、私のことはあまり知らないはずだ。それなのに学者には、あの人でさえ見えなかった私の心の内が、見えてしまうのだろうか。
 ある朝、学者が信じられないような量の書類を持って現れ、私に署名をしてくれないかと言った。訳もわからず署名をするものなどいない。いったいなんの書類なのかまず説明して欲しい。私はそう言って机の前に座った。学者は私の隣に座り、これは市民としての登録を申請するための書類だと答えた。そして、この登録が私にとってどれだけ良いことなのかという説明を長々とした。私はよくわからないまま、ありがとうと言い、署名することに同意した。
 説明を聞きながら書類に目を通し、それぞれの項目の決められた欄に間違いなく署名をしていく作業は、思ったよりも大変だった。自分の名前を書くだけなのに、すぐには終わらない。実際、学者が用意した書類には腑に落ちないことがいくつもあり、署名をすることについて何度も躊躇した。しかし、この作業を早く終わらせてしまいたいという気持ちと学者の迫力とに負け、結局、すべての項目に署名をした。
 婚姻区分も学者の言うとおり独身とした。結婚証明書を取り出して学者に見せたのだが、それは使えないという。外国で発行され、しかも証人の欄に異教徒の名が記されている証明書では、例えその有効性が認められたとしても、審査には不利に働くというのだ。仕方なく、寡婦という欄ではなく、独身という欄に署名する。これでトリノでは、私が結婚していなかったことになってしまう。紙の上のことなど、どうでもいい。あの人が私の中から消えることはない。そう考えてみても、気分はすぐれなかった。
 なぜか学者の気分もすぐれないようで、時間とともに、必要なこと以外は口にしなくなっていった。この書類を通すのに誰かの世話になるのかとか、申請にはいくらぐらいかかるのかなど、いろいろ聞いてみたのだが、そういう私の質問には一切答えなかった。
 すべてが終わった時にはもう昼食の時間になっていた。学者は昼食の誘いも断り、足早に立ち去った。
 夕方、学者から短い手紙が届いた。昼間の不機嫌を詫び、申請は間違いなく受理されるだろうと書かれてあった。
 誰に聞いても三か月はかかるという書類審査が終わったのがその日から四日後、そしてその翌日には市庁舎への招待状が届いた。
 市庁舎には正装をして出かけた。学者が最初から最後まで付き添っていてくれたお蔭で、手続きや担当者のことで迷うこともなく、宣誓と署名の後、私は市民になった。市民になったということよりも、学者の厚意に対する感激のほうが大きかった。
 学者にありがとうと言う。学者はうなずくような動作をしたあと、下を向いて黙る。食事に誘っても、ずっと黙っている。よく見ると、目が潤んでいる。私はもう一度、ありがとうと言った。学者はなにも言わなかった。
 市民になった次の日、いつものように上の階にある寝室で本を読んでいると、使用人の女が現れ、私の知っている人が絵を売りたいといって玄関に来ているという。知っている人って誰だろうと思いながら階段を下りていくと、なんとあの男が、タロワールで毎日のように一緒に過ごしたあの画家が、玄関の内側に立っていた。
 画家は私を見るなり顔を輝かせ、私に近づくと、久しぶりと言って私に抱きついた。ところで、なぜここにいる。やはり、絵を売りに来たのか。売れたか。僕の絵は売れるだろうか。画家は興奮していた。私は、落ち着いたら住所だけは知らせるという約束をしたことを思い出し、少しだけ後ろめたい気持ちになった。
 私がこの家の持ち主だというと、びっくりしたのだろう、画家は少しの間、黙った。そして目を大きくして、私のことを見た。私が、さあ絵を見せて、と言うと、画家は気を取り直したように、今から運び入れるがいいかと尋ねた。
 画家は五十枚ほどの絵を持って来ていた。半分が宗教画で残り半分が風の絵だった。宗教画はどれもキリストやマリアが描かれたもので、教会の中に飾ってもおかしくないようなものばかりだった。風の絵は、私が知っていた頃とは比べものにならないくらいすばらしい出来で、絵のなかの風は、まるで生き物のようだった。踊っている風。戦っている風。苦しんでいる風。しかも、そのすべてが、画家独特の様式美のなかに収められていた。
 私は絵は買わない。ここに飾るだけだ。たとえ盗まれたり傷がついたりしても、私は責任を負わない。しかも絵が売れたら、代金の一部は私の取り分ということでこちらに頂き、残りがあなたのものになる。それでもいいか。私がそう言うと、画家は、それは聞いて知っている、と短く言った。
 それより僕の絵をどう思う。僕のマリアは光がよく当たらないところでも清らかに見えるだろうか。僕の風は絵の中で音を立てて吹いているだろうか。誰か買ってくれる人がいるだろうか。画家は不安そうだった。私はなんの心配も要らないと言った。
 私は画家の風の絵を、廊下と階段とに飾った。そこには風が本当に吹いているように思えた。キリストやマリアの絵は、広間の壁に吊った。
 少し高めの値段を付けたにもかかわらず、キリストやマリアの絵は瞬く間に売れた。風の絵もすべて買い手がついた。画家は、絵を売った代金を手にし、満足そうだった。
 安宿を引き払い、町外れの小さな家に落ち着き、朝から晩まで絵を描く生活を始めた。そして、絵が一枚描きあがるたびに、私の家に現れ、必ず食事をしてから帰った。私と二人だけになると必ず、愛していると言った。その度に私は、愛していないと言い返した。
 画家がしばしば私の家に顔を出すようになると、建築家は私の家に来なくなった。それが単なる偶然なのか、画家と私の関係を気にしてのことなのか、私にはわからなかった。
 私は建築家を夕食に招待した。建築家は私の家に入るなり、ご無沙汰して申しわけないと言った。市庁舎の改築工事の公募があり、その第一次審査に応募するために、毎日朝から晩まで計算ばかりしている。今ある建物の上に石を積み上げ、より立派な建物に見せようという馬鹿げた話なのだが、改築したら崩れてしまいましたというような例が過去にいくつもあるので、真面目に強度の計算をしている。そんな言い訳をした。
 私が、本当にそれが理由なの、と聞くと、建築家は答えられずに赤くなった。私は画家とのことを説明した。建築家はしばらくのあいだ黙って聞いていたが、そんなことより、と言って話題を変えた。
 建築が一番の芸術だと信じて建築家になったのだが、近頃、情熱が湧いてこない。詩を書いても気分は晴れない。なにかが違う。あなたやペトラルカのように旅をして、自由を手に入れ、私も芸術家の仲間入りをしたい。
 私はペトラルカと聞いて、あの人が持ってきたカンツォニエーレを思い出した。私の優しい運命と楽しい生活。私がそう口ずさむと、建築家の顔が明るく輝いた。
 ペトラルカも旅をしたのか。旅をすれば自由が手に入るのか。そういう私の疑問から、私たちの会話が始まった。
 私の疑問に対し、建築家は真面目に答える。ペトラルカはフィレンツェを追放された父親と共に各地を転々とした。そのせいか、法学を学び聖職者となった後も、文献の収集を理由に旅を続けた。ペトラルカが人の心のなかにある優しい部分に気づくことができたのは、巷で言われているように古典を読んだからではなく、旅をしたおかげなのだと思う。
 建築家は熱く話し続ける。旅をしなければ、違う価値があることに気づいたりはしない。旅をして、違う文化に触れ、違う暮らしをする中で、違う考え方の人たちと話し、違う価値があることを知れば、偏狭な考え方から抜け出し、自由になることができるのだ。そして私のことを、まるでペトラルカを大きくしたかのようだと言った。
 私が、少し買いかぶりすぎだというと、建築家は真顔でそれを否定した。建築家は長い間、キリスト教を信じないことに後ろめたさを感じていた。それが私に会って大きく変わる。私が、キリスト教を信じないことに、まったくと言っていいほど後ろめたさを感じていないことに驚き、どうすれば私のようになれるのか、真剣に考える。そして、私がしたような旅をしたいと思い、私のようになりたいと願うようになったのだという。
 宗教を信じるかどうかは個人的なことだし、人がなにを考えているかは結局はわからないのだから、信じるとか信じないとかはそんなに大事なことではない。そう私が言うと、建築家は、誰もそんな風に自由に考えることはできない、と呟いた。
 私のことを過大評価している。なんとなくだが、そう感じた。居心地はあまり良くない。私は雰囲気を変えようと、建築家にいくつもの質問を浴びせかけた。
 もし私が自分の意見を言い続けたら、宗教が私の大きな敵になり、この町に住めなくなったりするのだろうか。そんな私の疑問に建築家は簡単に答える。あなたはこの町の有力者を何人も知っている。キリスト教はいつでも主流派につく。従って宗教はあなたの側にある。
 宗教はいつかはなくなるのだろうかという質問には、みんなから無視されるようになれば間違いなくなくなるという答えが返ってきた。中心と周辺ということを考えるとき、中心がなければ周辺はない。体制がなければ反体制もない。宗教も対立するものがあるうちはいい。内部や外部に対立するものがあるうちは、宗教は生きのびると思う。でもいつか、みんなに無視され、教会に誰も来ないというようなことが起きれば、宗教はなくなってしまう。
 後ろめたさを感じながらも宗教を信じられないというのには、なにかわけでもあるのかと尋ねると、あたりまえのことをした人が排除されたり、考えていることを言った人が処刑されたりというようなことが、周りで頻繁に起こったからだと答えた。酒を飲むというような個人の楽しみまで規制されるのは、やはりどこかがおかしい。
 では、どうしたらいいのか。私は究極の質問をした。建築家は躊躇なく、みんなが自由のために生きる決意をすればいいのだ、と答えた。そして私に対して、愛していると言った。
 愛という言葉を聞いてもなぜか実感はなく、自由という言葉を聞くのと同じような感じでしかなかった。愛という言葉は、他の言葉の中に埋もれていた。
 私は建築家と海に浮かぶ小さな船のことを話した。空の大きさについても話した。建築家の想像は、私が実際に見たものより遙かに多くのことを見ることが出来るようだった。建築家には旅は必要なかった。
 私は建築家に出来る限り最高の食事を供し、もてなし、真面目に話を聞いた。良い晩だった。もしかしたら、その晩、建築家と私は、二人の間で話すことのすべてを話し尽くしてしまったのかもしれない。実際、同じ様な晩は、二度と訪れなかった。
 それから暫くして、私はあまり良くない場面に出くわし、あまり良くない気分を味わった。画家が使用人の女に愛していると言っていたのだ。私に言うのと一字一句が同じ。画家に誠意はなかった。
 画家は風の絵はもう描かず、キリストやマリアを黒色と金色を基調に描き、買った人たちからは有難がられ、その名前は、絵を一枚も見たことのない人たちにまで知られるようになっていた。出自は作られ、貴族の血が流れていると吹聴された。もちろんどの絵にも、とんでもない値段が付いた。宗教画家として教会や修道院で働いていた頃の面影はもうどこにもなかった。一流画家としての風貌を備え、それなりに振舞うようになり、私からは遠い存在になっていった。
 建築家は詩人の度合いを増し、詩集を何冊も出版した。それとともに建築の仕事でも成功していった。市庁舎の改築工事の公募に選ばれたのを皮切りに、公園の設計、教会の改築など、大きな仕事を任され、あちらこちらの町から招待されるようになった。私に宛てて、たくさんの愛の手紙を送ってきたが、私は返事をしなかった。すると、いつしか手紙は来なくなった。
 政治家は、私のことをなにも知らずに、私に求婚した。私が以前奴隷だったことを言うと、その日から、私の所には来なくなった。
 学者は一人だけ、ずっと変わらずにいた。気が付くと私の隣には学者しかいなかった。旅をするわけでも、特別なことを話すわけでもなかったが、自然な感じでそこにいた。
 あの人への気持ちが変わったわけではない。忘れたこともない。ただ、学者の存在を受け入れることができるようになったのは確かだったし、あの人なしの幸せな生活を送る準備も整っていた。
 私は家を売り、学者の許に嫁いだ。
 しばらくして私は、あの人の夢を見た。あの人が私の夢に現れたと言ったほうがいいのかもしれない。

   ―――――

 あの人の口づけは暖かく、本当のような気がした。優しい声は、静かで落ち着いていた。奴隷だった頃に見た夢と同じ、あの人が私を連れて行く。海が見える、白い波が砕けている。砂漠が見える、雪が降っている。随分遠いところまで来た、いったいどこまで行くのだろう。でも気がつくと、私はいつものように家にいる。

 もうきみを連れて行かなくてもいいんだね、あの人が言う。なぜそんなこと言うの、私がつぶやく。じゃあね、あの人が後ろを向いた。待って、私は大きな声で言う。待って、行かないで。あなたのところまで、連れて行って。今でもタロワールにいるんでしょ。うん、今もあそこにいる、きみと一緒に。

 あの人がまた私を抱き、夢の中を行く。山を越える、峠がすぐ下に見える。タロワールに着く、宿の女主人が見える。隣に見たことのない大男が立っている。あれは誰なの。さあ、結婚したのかな。知らないの。うん、知らない。ここにいても、きみのことしか見ていないからね。それを聞いて私はあの人にしがみつく。

 水辺に降りることはできないの。どこがいい。あそこの入り江はどう。風が湖のほうから吹いている。さざ波が次から次へと押し寄せる。初めてこの湖を見た時のように、水面はすぐそこにある。靴を履いたまま湖に踏み出す。子供のように走る、水に濡れる。水鳥が飛び立つ、空が広がる。あの人が優しくこちらを見ている。

 小船が岸に繋がれている。白鳥が二羽、水面を滑る。私はあの人と小船に乗る、沖に漕ぎ出す。アヌシーの湖、透きとおった水。見つめあう二人、小船のなか。気が付くと地中海、潮の香り。口づけまでが海の味。漕ぎ続けると黒海、どこに行くの。抱きあえば、小船は二人の寝台。ああ、ここは山のなか、川を行く。

 小船を棄てた私たちは、川に沿って山に分け入る。ひかりの滝をくぐる時、あの人が手を差し伸べる。私はあの人にからみつく、よろこびの水飛沫が風に舞う。暖かな白い雪が、私たちを狂わせる。茶色い土も緑の草も、真っ白なひかりのなかで色を失う。あの人だけが私を包み、周りの景色が消えて行く。なにも見えなくなる。

 もう行かなければならない、あの人が言う。待って、私は大きな声で言う。待って、行かないで。私をおいて行かないで。あの人はなにも言わずに私を抱き、遠いところまで連れて行く。いったいどこまで行くのだろう。でも気がつくと、私はいつものように家にいた。夜空に浮かぶあの人は、あっという間に消えて行く。

   ―――――

 私はこの夢の最後を、殆ど目覚めた状態で見た。探しても、あの人はもうどこにもいなかった。
 このあとすぐ、私は夢のことを学者に話した。学者は、良かったね、というような感想を言った。
 もしかしたら学者を傷つけたのかもしれない。そう思って、私は学者を抱きしめた。学者はいつもどおり、私を抱き返した。そして私を見つめ、こんなことをしていたら大使が嫉妬するだろうね、と心配そうに言った。
 時は流れ、過去は遠くに押しやられ、今という現実だけが私の周りを回っている。私は、文字通り学者の妻になっている自分を感じていた。
 学者はあの人のことに興味を示し、あの人が残した報告書やその下書き、それに日記やメモなどを、何度も読んだ。そして、あの人が私と会ってからのことを書いた随想録を、時間をかけて丹念に書き写し、絵や地図などを加え、一冊の本にした。大層立派な本が出来上がった。
 私が暇を見つけては書いているこの文章も、同じように本にしてくれるという。二冊の本が並んで置かれたら、きっと素敵だね。学者はそう言って、屈託なく笑った。
 そうかしら。そうしたらあなたはどこに行ってしまうの。私は学者に向かって意地悪く聞いた。学者は少しだけ下を向き、僕はきみの本の中にいればそれでいいんだ、と小さな声で言った。
 世の中は、間違いなく変わり始めていた。宗教が抑え付けていた人間の感情や自由な考え方が認められ、喜びや悲しみそれに人間の愛を表現できるようになってきていた。また、学者が、金融業などの仕事のなかで利益を追求しても、それを罪悪視したり批判したりする者は殆どいなくなっていた。
 そういった一連の変化は、安定だけを求める人たちにとっては苦痛だったに違いない。例えば教会には、絶対的な考え方が弱まることを危惧し、変化をただの混沌と捉えるものが多くいた。しかし私にはそれは心躍るなにかの幕開けに見えた。
 世界中のいろいろな地域との交流が深まれば、ひとつのことだけを信じることはできなくなり、世の中から嘘や妄信が減り、科学や芸術が自由な雰囲気のなかでその重要さを増していく。それは、極めて自然なことに思えた。
 世の中のなにもかもが変わっていく。人は変化を求め、明るい未来を夢見る。でも、と私は思う。人は変わらない。人が人であり続ける限り、結局はなにも変わらないのだ。平和を願い戦争を起こし、平等を願い私利私欲に走る。
 なにも変わらない。あの人が逝ったあとタロワールでそう思った。なにも変わらず残念だという気持ちだった。
 なにも変わらない。芸術や科学の大きな変化のなかにいる今でも、そう思う。ただ、今は、なにも変わらなくてもいいと思っている。すっきりした気分で、未来への変化を楽しんでいる。
 しばらくして私たちはフィレンツェに移った。学者の仕事は多方面に亘り、それにつられるようにして私の生活の中にも社会的な活動が増えていった。
 教会は世の中の変化を見過ごさず、新しい潮流を積極的に受け入れ、変化の恩恵を取り込んでいった。その結果宗教は、私の予想に反して、益々栄えていった。
 フィレンツェでの日々は決して静かとはいえなかったが、周りの人々に恵まれ、楽しい時を過ごすことができた。奴隷だった日々のことは思い出の中からすっかり消えていた。
 あの人のことを忘れることはなかったが、毎日の暮らしの中にあの人が入ってくることはなかった。
 私は学者と一緒に暮らし、平穏な毎日を送る幸せに恵まれた。

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