Wednesday, November 17, 2010

川端康成

作家の香住庄介のもとに、五十を少し過ぎたぐらいの婦人が訪ねてくる。彼女は、三十年ほど前に、九州の弓浦という町で香住に会ったことがあると言う。しかし、香住には、まったく覚えが無い。彼女は当時新聞記者をしていて、香住を自分の部屋に招いた日のことを情熱的に語る。香住は、何も思い出せないまま、はあ、はあ、と聞いているのだが、帰り際に「結婚しないかとおっしゃってくださいましたわ。わたしの部屋で」と言われ、ええっ、と仰天してしまう。婦人が帰ってから、地図で調べてみても、九州に弓浦という地名は存在しない。きっとさっきの話は婦人の妄想にちがいないということに落ち着くのだが、それにしても薄気味悪い、と香住は思う。「香住自身には忘却して存在しないが、他人に記憶されている香住の過去はどれほどあるかしれない」と。

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