Friday, August 21, 2009

なにも変わらない (4)


 私は袋小路に迷い込んでいた。壁にぶつかり先に進めない。仕事も私生活も、なに不自由なく満ち足りているはずなのに、私がいるのは間違いなく先のない道で、明日への希望はない。
 後戻りできればいいのだが、時計を反対に回すことはできない。そして毎日確実に悪くなっていく。昨日のほうが今日より良かった。そう思う日が続く。
 同志を募って行き止まりの壁の下に穴を掘るか、ひとり壁をよじ登り乗り越えて進むか、それとも、あの人が現れて掘削機で壁をぶち抜いてくれるのを待つか。
 いや、たぶん、そのどれも、起きはしまい。私は壁にもたれてそこにいる自分を楽しむか、壁の前に佇みただ時間が過ぎるのを待つのだろう。周りはなにも変わらず、私だけがひとり、このジュネーブという小さな町でゆっくりと老いて行く。
 私が身を任せるのは、あの人だけ。もう長いあいだ、そう決めていた。それなのにあの人は現れない。いつまでたっても私の夢の中にいるだけで、そこから出てきてくれない。あの人のことは半ば諦めかけていたし、夢を信じる子供っぽさも失いかけていた。
 国際赤十字委員会を辞めてから、いったい何年経ったのだろう。今は国連の人権高等弁務官事務所で働いている。ビュロクラシーのなかで毎日を過ごすのは耐え難いけれど、赤十字を辞めなければよかったなどとは考えないようにしている。
 人権侵害の申し立てを受け付けるというような地味な仕事ばかり担当しているせいか、事務所のなかに知り合いは少ない。数少ない友達と、何人かの同僚以外、話をすることはなかった。自分の仕事が世の中の役に立っているのかも定かではなかったし、将来のプランも立てようという気になれなかった。私のキャリアーを羨ましいという人もいたけれど、自分で納得していたわけではない。
 住むところにも恵まれなかった。どこに住んでも、すぐに友達がたむろするようになり、挙句の果てには私が出て行くことになる。その時も、私は住むところを探していた。
 大きな不動産屋は、どこも敷居が高い。ビルの前まで行ってもなぜか気後れして、入口の前を二、三回行ったり来たりしただけで戻ってきてしまう。そんなことを何度か繰り返した後、私は駅裏のごみごみしたところにある不動産屋に出かけた。口利き屋に毛が生えたような、小さくていかがわしいところだった。
 ドアを開けると、いきなり、なにか用か、という声が響いた。小さな事務所の中には、少ない髪を整髪料で撫で付け、肩にパットの入っていないスーツを着たラテン系の男が、ひとりぽつんと座っていた。こちらを見る目は、おまえのようなのが、こんなところに、いったい何をしにきたのだ、と言っていた。私はひるまずに、家を探していると言った。
 男は急に態度を変え、ぴったりの物件があると言って私に近づいてきた。私のことを何も知らずに、ぴったりの物件だなんてよく言えたものだ。そう思ったが、男のほうが私より何枚も上手で、こちらの予算とかを上手に聞き出し、あっという間に私に合った物件のファイルを机の上に並べた。
 男はそのうちのひとつのファイルを手に取り、中から写真を取り出して私に見せた。立派な家だった。どうだ、すごいだろ。この家をあなたが買うんだ。もっとも今買ったとしても、家はすぐにはあなたのものにはならない。そこに住むマダムのものであり続ける。ただ、そのマダムが死ねば、その瞬間からその家はあなたのものになるっていうわけだ。
 それまでは、あなたがそのマダムといっしょに住んで、あれこれ面倒を見ることになる。まあ、介護だな。でも、心配はいらない。そのマダムは、もうよぼよぼだ。もうすぐ召されるさ。こんな良い条件は他にはないと思うが、どうかな。男が値段などを書いた紙を示した。驚いたことにローンを組まずに買える値段だった。
 なんだか騙されているような感じがしたが、次の日に私はその家を訪ね、マダムに会った。本当によぼよぼだったが、人の良さそうな顔をしていて、いっしょに住んでもいいと思わせるなにかを持っていた。あまり深く考えもせず、また同じ不動産屋に行き、私はその家を買った。買った後で行ってみると、よぼよぼの筈のマダムは急に若返り、元気にしていた。家が私のものになるのは、遙か先のことのようだった。
 いっしょに住み始めてわかったのだが、マダムは、介護どころか、何の助けも必要としていなかった。私が逆に面倒を見てもらう側になった。マダムの食事はおいしく、洗濯や掃除はプロ並みだった。友達にこの新しい生活を壊されたくなかったので、この家のことは誰にも話さなかった。
 ある日マダムは、私を地下室に案内した。まるで図書館みたいに棚が平行に並び、角にはさらに下に降りる階段があった。私は促されてその階段を下りた。ワインの貯蔵室だった。暗闇の中にいくつかの電球が頼りなげに光っている。貯蔵室の広さとワインのビンの数に圧倒されはしたが、ワインのことは何もわからなかったし、興味もわかなかった。マダムは、何を説明しても反応がないので、少しがっかりした様だった。でもまあ、しょうがない。私たちは、地下室に戻った。
 ワインの貯蔵室への階段に近いところにあるひときわ立派な棚には、銀やガラスでできた食器類が並んでいる。私が熱心にワイングラスを見ていると、マダムがそばに来ていろいろと説明してくれた。それにしても、中に注ぐワインには興味がなくてワイングラスには興味があるなんて、なんて変わっているのでしょう。まさか、料理には興味がなくて皿には興味があるなんていうのではないでしょうね。そんなことを言った。その通りだったが、黙っていた。
 本が並んだり積み上げられたりしている棚の端に、ひとつだけ、古ぼけた小さな行李があった。私がそれは何かと聞くと、イタリアから流れてきたマダムの祖父母が持って来たものだという。開けてもいいかと尋ねると、どうせたいしたものは入っていないわよ、開けてもいいけれど埃に気を付けてね、と言う。私はおずおずと行李を開けた。
 行李の中には、布に包まれて、本が何冊も詰まっていた。一番上に置かれたものだけが、紙を束ねて括っただけの簡易綴じの本で、残りはどれも立派な表紙の付いた装丁本だった。簡易綴じの本を手にとってみた。古いものであることだけは確かだったが、そこに書いてある文章は難解で、なんのことだかさっぱりわからない。マダムに渡して見てもらうと、ラテン語ともフランス語ともつかない言葉で書いてあるという。マダムが、行李ごと上に運んでくれれば読んで説明してあげてもいい、と言うので、私はその行李を応接間まで運んだ。
 その日から、夜になると、マダムの講義が始まった。マダムは語学に堪能で、まず自分で一度読み、大体のことを私に話し、次に一行ずつ読んでは私に説明してくれた。私も歴史や地理が好きだったので、大概の事ならわかる気がしたが、マダムとの知識の差は思ったより大きかった。新しいことを理解する能力も、マダムのほうが上だった。
 実際、簡易綴じの本の内容がわかるまで、一週間以上かかった。最後の頁に、この本を書いた男の署名と、千四百十八年六月七日という日付が記されている。今から六百年程前にフィレンツェで書かれた文章だった。本の中には、筆者自らが清書し装丁した二冊の本の由来が書かれていた。一冊はスペイン人の男が書いたもの、もう一冊はサヴォナ生まれの女が書いたもので、探してみると、それらしい本が二冊、同じ行李の中にあった。
 簡易綴じの本の筆者によれば、その二冊がいつもいっしょに置かれ、共に読まれることが相応しいという。何の事情かはわからないが、その筆者は、二冊の本が離れずにいることを願っている。
 マダムと私はその二冊を読むことにした。とはいっても実際には、マダムは私を相手にゆっくりと読み聞かせなければならなかったし、理解の遅い私にわかりやすく説明しなければならなかった。そして結局、読み終えるのに数か月を要した。そのあいだ、毎日夜が来るのが待ち遠しく思えるほど、私はその話にのめり込んだ。当たり前だけれど仕事には身が入らず、インボックスに見ていないEメールがたくさん溜まった。
 実は、読み始めてすぐ、なんで私がこの家を買ったのか、わかったような気がした。この二冊に出会うためだったのだ。そう思った。マダムには言わなかったが、六百年前のサヴォナ生まれの女はとても他人とは思えず、実際、その女と私との距離はどんどんと縮まっていった。読み終えた時には、その女が私で、私がその女だというような、不思議な感じがしていた。
 そのスペイン人こそが大切な男なのだということも、心のどこかでわかり始めた。その男に会わなければ。私はそんな夢のようなことを真剣に考え始めていた。
 説明はつかないのだが、この二冊の本に書かれていることは、なにもかもが懐かしく、景色には見覚えがある。マダムが説明しただけで、人の顔が浮かび、その声まで聞こえてくる。
 私は、間違いなく、この二冊の本に巡り合ったのだった。
 そして私は、この数か月を心から楽しんだ。宗教、自由、愛、そんなことについて、マダムの話を聞きながら考えるのは、本当に贅沢な時間だった。昼にあった事とマダムの話とがシンクロしたり、随想録の内容とマダムの意見とを混同してしまったり、自分でもあきれるほど、二冊の本が暮らしの中心にあった。他の事はなにも考えることができなかった。でも、それは、突然終った。読み終えてしまったのだ。
 感想はなかった。マダムに読後感を聞かれたが、うまく話すことはできなかった。
 それよりも、話のなかの女と私とが同一人物なのではないかという、そのことのほうが、私には重要だった。昼間、ひとりになって考えてみると、不思議なくらい、六百年まえのことが甦ってくる。そして、今までの、六百年のあいだに起こったことも、すべてが昨日のことのように浮かんでくる。
 あの人との出会いは、もっと正確にいえばあのスペイン人との出会いは、本当に夢のようだった。そして、それからの六百年にわたるすれ違いの数々は、私を絶望の淵に追いやり、どんなことでも受け入れてしまう性格を作り上げていた。
 私は、生まれ変わるということについて、何日も何日も考え続けた。生まれ変わるなどということは信じていない。でも私は、六百年まえのことも、それからのことも、みんな憶えている。
 私の感じでは、それは生まれ変わったというのではなく、ただ記憶が受け継がれてきたのだということなのだが、ではそのひとりひとりが別人なのかといえば、どれも私なのだというしかない。
 それは人の一生に似ている。人は毎日変わり続けるのに、一生のあいだ記憶だけは持ち続け、誰もがその一生のすべてを自分のものだと思うのだ。私の場合は、それが少しだけ長くなっただけで、記憶が、一生という範囲の中だけでなく、六百年にわたって受け継がれ、いま私の中に甦ってきたのだ。
 では、あの人の記憶も、受け継がれてきたのだろうか。たぶん、違うのだろう。六百年にわたるすれ違いのなかで、あの人が私に気付くことはなかった。あの人はいつも誰かといて、幸せそうにしていた。
 あれ、でも私は、なんでそれがあの人だと思ったのだろう。やはり、私たちは生まれ変わってきたのだろうか。
 私はいつも、あの人を探していた。あの人を探して大変な苦労をしてきた。会う確率を高めるために旅をした。旅はいつも簡単ではなかった。でも、会えると思えば、どんな理不尽なことも受け入れることができた。
 あの人が近づくと、たとえばあのひとが山を二つ越えたあたりにまで来れば、私はあの人を感じることができた。見えるところまでくると、わかるわからないの次元ではなくなる。あの人のところだけにひかりが当たっているのだ。
 私はただ、ひかりのほうに行けばよかった。たとえいつも、悲しい思いをするにしても、あの人に会えるのは喜びだった。
 ある日、信じてもらえないとは思ったのだけれど、いろいろなことをみんな、マダムに話してみた。マダムは椅子に座り、黙って私の言うことを聞いていた。話すことがなくなり、私が黙ると、マダムは窓の外を眺めながら、この本たちはここであなたが来るのを待っていたのね、と静かに言った。
 本の中の二人が六百年前に存在していたということは、マダムと私の他には誰も知らない。というより、それは誰にとってもどうでもいい、些細なことなのだ。でも私は、この二人が残した随想録のおかげで自分のことを知り、これからの生き方をつかみかけている。少なくとも、そんな感じがしている。
 私も誰かを愛して死んでいく。私がいようがいまいが、なにも変わらないだろう。それでも私は、誰かを愛して幸せになる。そして最期に、すべてを受け入れて、良かったと思う。それでいい。きっと、それでいいのだ。そして、愛する相手というのがあの人だったら、もうそれ以上のことはない。
 暫くしてから、マダムと私はいっしょに旅をした。私はあの人に会いたかった。あの人を探さなければいけない。探せないまでも、なにかの手掛かりが欲しい。
 マダムとは親と子供以上に年が離れていたが、歩く速さもほぼ同じだったし、困ることは何もなかった。マダムはある時は母親のように、またある時は友達のように接してくれた。
 ジュネーブを出発し、アヌシー、タロワール、アルベールヴィル、ブール・サン・モーリスと随想録の主人公たちが通ったであろう道を車でゆっくり辿った。ロジエのスキー場に泊まり雪崩のことを思い、アオスタの谷から白い山を眺め、トリノでは街じゅうを歩いてみた。サヴォナやジェノバを訪ね風景を心にしまい、私たちはジュネーブに戻った。
 この旅の後、マダムと私は、どうしてもタブリーズに行ってみたいと思うようになっていた。もっとも、マダムは微熱を出して床に伏せることが多くなり、私も友達の用事で頻繁に出かけるようになり、旅の実現は困難のように思えた。ところがある日、マダムが知り合いのトルコ人と話を付け、切符を手配してきた。私たちはコワントラン空港からイスタンブールに向けて飛び立ち、そこから船でボスフェラス海峡を通って黒海に出た。その後、多少の苦労の後、タブリーズに辿り着いた。
 タブリーズでは残念ながら、随想録に書いてあることの欠片すら見つけることが出来なかった。そう思えるほど、何もかもが違っていた。そして私は本の内容を疑った。市街地も郊外も、そして周りの景色までもが、二冊の本から想像したものとは、まったくといっていいほど違っていた。もしかしたら、書かれていることはすべて創作ではないのだろうか。あの人も私も、実はいなかったのではないのだろうか。
 マダムはでも、本の内容を心から信じているようだった。六百年も経てば、なにもかもが違うのは当然だ。大事なのは建物や景色ではなく、漂っている空気なのだ。人が変えることのできないもの、何年経っても変わることのないもの、そんなものを感じればそれでいいのだ。そんなことを言った。
 そして最後に、私たちはスペインを旅行した。これはおまけのようなものだったが、マダムも私もこの旅を十分に楽しんだ。マダムはこの旅の後、暫くして、あっという間にこの世を去った。私はまた、ひとりになった。家が私のものになったが、嬉しくはなかった。
 結局、あの人には会えなかった。遠いところに旅をしても、探す手掛かりさえ見つからなかい。そう思うとなぜか悲しく、私は諦めのような感じを持って毎日を過ごすようになった。そして数年が過ぎた。
 そしてあの日。
 あの日、勤務中に、私はあの人がそばにいるのを感じたのだ。それは突然のことだった。しかもその感じはとても強いものだった。私はオフィスに居続ける自分がもどかしくなり、仕事を中断し、廊下に飛び出した。早くあの人に会いたい。そう思うと、仕事どころではなかった。そして、あの人を感じる方向に走った。
 階段を駆け下りる時、私はこのまま一生が終わってしまうのではないかと思った。それぐらいゆっくりと、時間が流れたのだ。一段を下りるあいだに、1年分ぐらいの出来事が思い出される。やっとあの人に会える。そう思うと、足が前に進まない。そしてやっとのことで、あの人が見えるところまで来た。
 それはある意味、ショックなことだった。ビルの入口にはひとりの東洋人が立っていて、そこだけにひかりが当たっていたのだ。なぜだか、近寄ることはできない。仕方なく、遠くから眺める。
 誰なのだろう。新しくこの事務所に加わった人なのだろうか。それともなにかの会議に参加している人か。なにを想像しても確かめる術はなにもない。
 とにもかくにも、ひかりの中にいるのがあの人なのだ。身を任せると決めていたあの人。もう会うことはないのだと諦めていたその相手が、目の前に立っている。
 それは夢の中のことのようだった。あの人が誰かを待っている。そこに外から金髪の女がやって来て、書類袋をひとつ、事務的に渡す。あの人はそれを受け取ると、エレベーターの中に消える。私はその一部始終を、ただぼうっと見ていた。そのあいだ、あの人が私に気付くことはなかった。
 興奮状態でオフィスに戻った私は、向かいの同僚にその男のことを尋ねた。私は普段からあまり無駄なことは話さない。感情を表すこともない。そんな私が興奮してひとりの男のことを尋ねたのだ。同僚は驚いたに違いない。
 ああ、それは、新しいITチーフに違いないわ。その答えを聞いて私は電話機に手を伸ばした。ITの部署にひとり、友達がいた。私はその友達をお茶に誘った。
 残念ね。あのチーフにはもう恋人がいるわ。私がなにも説明しないうちから、その友達が言う。金髪の、とても素敵な人。どこかの専門機関でディレクターをしているそうよ。
 さっき、ビルの入口まで書類袋を持ってきた女に違いない。やっと会えたというのに、あんな女がいたのでは近寄ることさえできない。いっしょになるなんて、夢のまた夢。
 よっぽどがっかりしたのだろう。私はその夜から次の夜まで、ひたすら寝続けた。夢の中に、あの人が出てきた。そして隣には、書類袋をもってきたあの人の恋人がいた。夢の中でその恋人は、私がいちばん苦手なタイプの女を演じていた。この世の中はみんな私の周りを回っている。街の男たちはみんな私に注目する。仕事のことなら私がいちばんよく知っている。そういう態度のひとつひとつに、私はいちいち腹を立てた。あの人の恋人だから目の敵にしているというわけではない。なんとなく敵わないからと嫉妬しているわけでもない。あの金髪のストレートという嫌味っぽい髪型や、真っ白い顔の上に真っ赤なルージュという化粧。それに男の気を惹くためだけにあるような光る素材でできたワンピース。そのどれをとっても私がいちばん嫌いなタイプのだった。
 無断欠勤の翌日、勤めに出ると、怒られたり注意されたりするかわりに、私はみんなに心配されてしまった。どうしたの、顔色が悪いみたいだけれど、病気なの、それともなにかあったの。私はなんでもないわよと笑顔でとおしたが、みんなが出した結論は、私が男にふられたというものだった。
 私はあの人との接点を探ろうとした。部署のITフォーカル・ポイントになろうとして失敗。わざとPCを壊して近づこうとして失敗。IT関連のプロポーザルを出そうとして失敗。IT部門の空席に応募しようとして失敗。すべての企ては失敗に終わった。
 それよりなにより、私という存在があの人の目のなかには入らないという事実が、私を落胆させた。廊下ですれ違っても、カフェテリアやレストランでそばに座っても、私のことが目に入らないようなのだ。
 あの人の噂が聞こえてくる。良い噂、悪い噂。いずれにしても、あの人は注目される存在なのだ。聞きたくないのに、あの人の恋人のことまで聞かされる。美しい、頭がキレる、性格が良い。なんだか頭にくる噂ばかりだった。
 時間が経つにつれ、私はそんなことに慣れていった。仕方がない。そう考えれば、なんでも受け入れることができる。でも、なにかがおかしい。あの人は私に会うためにここに現れたのではなかったのか。
 仕事場では、あの人のことを忘れるために、仕事に没頭した。行き帰りはバスもトラムも使わないで毎日歩くようにしたし、ランチはできるだけ同僚と食べた。家に帰るのはできるだけ遅くして、家は寝るだけの場所にした。
 週末も家にいるのがいやで、毎週アルプスに出かけ、山のなかを歩きまわった。私はだんだん健康になっていった。
 その日曜日も朝早くからアルプスに出かけた。私の車は4WDで、山に行ってこそ力を発揮する。山の麓の町までは高速道路を飛ばし、町からの細い坂道はすごい音を立てて上って行った。そして、もうこれ以上は行けないというところまで車で進み、駐車した。
 そこからは徒歩で登る。息が切れてきた頃、見晴らしが良くなる。ひと休みしてから頂上を目指す。誰もいない。青い空の下、山が輝いている。私だけの景色だった。
 頂上に着く。少しだけ風が気になるが、太陽が優しく照っていて気持ちがいい。これだけの見晴らしには、そうは出会えない。せっかくなので、もう少し歩くことにした。
 標識には地図で見慣れた山の名前が並んでいる。私は尾根になっているほうに向かって歩き出す。大きく回って車のところまで、三時間もあれば辿り着ける。そう思った。
 緩やかな下りが続く。走るようにして進む。のどかな景色のなか、ハングライダーが飛んでいる。空を見上げる。その時だった。私は足を滑らせ、バランスを失った。
 私は頭を下にした無様な姿で斜面に倒れていた。ゆっくりと頭が上で足が下になるようにからだを移動させる。腰と足首のあたりが痛い。立ち上がることができない。
 動かないで様子を見よう。冷静でいればなにか良い考えが浮かぶに違いない。時間が経てば痛みも治まるだろう。そんな考えは、でも、みんな間違っていた。
 時間が経つにつれ足首の痛みは増し、太陽は西のほうに傾いて行く。意を決し、立ち上がろうとする。でもそれは、無駄なことだった。とにかく動けない。ただの捻挫ではなさそうだ。
 山道が一筋、どこまでも伸びている。どちらの方向からも誰も現れない。このあたりの山道を歩く人は、あまりいないかもしれない。いたとしても、週末に何人かが通る程度だろう。
 ああ、そうだ。今日は日曜日だ。ということは、次に誰かが通るのは土曜日。六日後まで誰も通らないとしたら、それまでどうしたらいいのだろう。後悔が押し寄せる。ひとりでこんなところまで来なければよかったのに。頂上から引き返せばよかったのに。下り坂だからってあんなに早く歩かなければよかったのに。空を見上げたりしなければよかったのに。携帯電話を持っていればよかったのに。考えてもどうしようもないことばかりが、頭に浮かぶ。
 太陽が沈んで行く。静かだ。風の音もしない。私はいったいどうなるのだろう。
 あたりは暗くなり、まわりにはさっきまでとは違う世界が広がっている。なにも見えない。私は仕方なく目を瞑る。瞼の裏にあの人が浮かび、少しだけ微笑む。あの人がどうしたのかと聞く。声を出そうにも、答えが声にならない。
 あの人は私を抱えあげると、空を飛んだ。振り落とされないように、私はあの人にしがみつく。海が見える、白い波が砕けている。砂漠が見える、雪が降っている。随分遠いところまで来た、いったいどこまで行くのだろう。目を凝らしていると、遠くに町が見えてくる。大きな町だ。気が付くと、私はベッドの上に寝ている。あの人は、どこにもいない。
 目を開けると、そこはほんとうにベッドの上だった。横には、人の良さそうな中年の女が心配そうに座っている。なにもかもがぼんやりとしていて、現実味がない。
 あっ、気がついたのね。女のその言葉で、私はすべてを悟った。気を失っていたというよりは、寝ていたという感じだった。だからその時も、朝起きたような気分だったのだ。
 あとで聞いた話では、その女が倒れていた私を見つけたのだという。携帯電話で町の消防団に連絡をとってくれたのも、病室で付き添ってくれたのも、その女だった。
 日にちの感覚はまるでなかった。職場に連絡しなければ。このあいだも無断欠勤したの。そんな言葉が口をつく。女は笑って私を見る。今は夜だから、そんなことは出来ない。それよりも、早く良くならなければ。それはまるで母親のような言い方だった。
 倒れた時から足首のことばかり気になっていたのだが、実際は腰のほうがまずかったようだ。事実、腰のせいで、入院が長引いた。
 助けてくれた女は、ヴァレリィと名乗った。ヴァレリィは、片道一時間もかかるのだとか言いながら、毎日見舞いに来てくれた。私の親兄弟はみんな遠いところに住んでいたので、親切が身に沁みた。
 ヴァレリィは山の麓の小さな町でカフェを経営しているのだと言った。私が倒れていたその日も夕方までカフェで働いていたのだという。店を閉めてからランプを持って山に登った。そう言われても、素直にそうですかとは言えない。もう若くない女がひとり、夕方から登山だなんて、どう考えても不自然だ。しかもランプを持って。でもそのおかげで、私は助かった。
 四週間後、私は職場に戻った。職場では私についてのいろいろな噂が流れていたが、それもすぐに消えた。私はみんなの興味の対象にはなりえなかった。そもそも私のことを知る職員の数は限られていた。
 もっとも、この事故と入院騒ぎで、改めて職場の良さを思い知った。減給もされず、仕事を失うこともなかったのだ。
 元気になった私は、毎週末、アルプスに行く代わりに、ヴァレリィのところへ行くことにした。カフェを助けるというのが口実だったが、話をするのが楽しみだった。ヴァレリィは限りなく逞しく、聡明で、明るかった。
 初めのうち、土曜の晩はヴァレリィのところに泊まった。しばらくして、ヴァレリィの暮らし方というか、秘密というか、まあそんなことがわかってしまうと、無神経に邪魔をするのがいたたまれなくなり、私は週末のために小さなアパートを借りることにした。ちょうど山を上ったところに良い物件があった。
 その小さなアパートで週末を過ごすようになると、私のなかで小さな変化が起きた。あの人のことを考えることが少なくなり、食欲が増した。体重が増え、肌がなめらかになり、そして気分が明るくなっていった。
 アパートから一時間半ほど歩いたところに小さな湖があった。他にすることもなかったので、毎週末、湖まで散歩した。湖畔に一か所だけ気に入った場所があり、そこまで行ってから帰るということを繰り返した。その場所は小さな入り江になっていて、風の強い日でも水は静かだった。湖の反対側は急斜面で水際まで木が生い茂っていた。後ろを見上げると高級レストランが目に入ったが、レストランからこの入り江に下りてくる道はなさそうだった。
 湖沿いの道沿いにはレストランが建ち並んでいた。地元の人によると、何十年か前には何軒ものレストランが料理や風景を競っていたという。ところが、ミシュランがそのうちの一軒に良い評価をした途端、そこだけが流行り、他が廃れた。ミシュランのお墨付きを貰ったレストランだけが高級レストランとして有名になり、残りのレストランが鄙びた雰囲気を漂わせるようになるまで、そうは時間がかからなかったようだ。
 とにかく私は、毎週末を静かに過ごすようになった。金曜の夕方仕事を終えたあと、山の麓のカフェに行き女に会う。アパートに泊まり、本を読み、気に入った場所を散歩する。私はそんな週末が気に入っていた。
 ある週末、私は国際連盟のアルバムという題の古ぼけた本を手に、ベッドの端に座っっていた。もう何度見たかわからない写真や説明文をぼんやりと眺める。もう八十年も前のことだというのに、今となにも違わない。パレスチナにイラク。軍縮、食糧、環境。それに薬物や女性の売買。まるで今の問題を集めたかのような本だった。
 私はその本を手にアパートを出た。車の調子が悪いので、山の麓のガレージに預ける。そこからカフェまで歩く。山を見上げると、頂上の辺りには、もう冬が来ている。それなのに私の感じはまだ夏の終わりだった。カフェに着き、いつもと同じヴァレリィの笑顔を見る。私はカウンターの椅子に腰を降ろし、深く息をする。そこでほっとしている自分が、なんだかおかしかった。
 人のやることはいつまでたっても変わらない。進歩しているようで、全然していない。この本を見れば、そういうことが良くわかると思う。私はそう言って、古ぼけた本をヴァレリィに渡した。
 ヴァレリィはその本をとても喜んで見た。でも、私に賛成はしなかった。たった八十年というスパンで同じとか違うとか言わないで。この辺に住んでいる人たちは、皆、二千年も前に誰かが言ったことを、今だに信じているのよ。人は何万年も何十万年も生きてきたの。そのなかで八十年なんて誤差にもならないわ。だいいち、人は皆違うの。時と場所が違えば、皆違ってしまう。それはもう、理解できないくらい、大きな違いなの。
 その日、私は、負けてはいなかった。二千年以上前の中国のことを例に、反論したのだ。難民が大勢いて、難民を救うために働く人たちがいたこと。川を戦争の道具として使うのを禁止する為の軍縮会議が開かれたこと。鉄の製造に伴って環境が破壊され、環境保護のための会議が開かれたこと。コンサルタントが国々を渡り歩いて、いろいろなことに口を出していたこと。そんな例を挙げながら、その頃の中国と今の世界とがとても似ていること、そして結局はなにも変わらないのだということを、強く主張してみた。
 ヴァレリィは、時には相槌をうちながら、私の話を注意深く聞いてくれた。そして最後に少しだけ微笑んで、でもね、誰もわかり合えないのよ、と言った。人の声がみんな違うように、人の顔がみんな違うように、頭の中もみんな違う。人は皆違う。それだけではない。同じ人でも、時が違えば考えていることも違い、言うことだって全然違ってくる。だから、誰もわかり合えないの。そういうことを静かに話した。
 私はなにも変わらないと言い続け、ヴァレリィは人はわかり合えないと言い続けた。私たちはお互いに譲ることなく、噛み合わない不毛な会話を続けた。意味はなかったけれど、楽しかった。こういう意味のないことを話すなかで、ヴァレリィのことが少しずつわかっていく。
 そういえば、偶然なんだけれど、ヴァレリィは、私がいたのと同じ頃、ルワンダにいたらしい。結構知られたNGOに所属し、ルワンダに派遣されたのだという。その頃、ヴァレリィの頭の中は人助けのことでいっぱいで、そのために世界中を飛び回っていた。
 でも、と言ってヴァレリィは悲しそうな顔をする。誰も幸せにすることはできなかったの。そう、そしていつも忙しがっていたの。
 国際機関やNGOが集まる現地のことをフィールドという。私はフィールドのことを少しだけ話した。フィールドで働くのは大変だ。フィールドに行く人には良い人が多い。ニューヨークやジュネーブでふんぞり返っている人たちとは全然違う。そんなステレオタイプにことを口にした。
 ヴァレリィの観察はちょっと違った。フィールドって、そこだけで自由な男とそこだけで自由な女が、映画の主人公みたいに愛を語る場所。いってみればニューヨークのシングル・バーがそのまま引越したようなところ。人助けと言いながら、自分を助けることに血道をあげる人たちが集まる所。そんなふうにしか思えないと言った。
 不思議な人だった。年の割にはきれいだけれど、洋服のセンスはちょっとどうにかしてほしいっていう感じだったし、知的な雰囲気を漂わせているけれども、なんにでも批判的だった。仕事のストレスのせいで太ったり痩せたりするので、いろいろなサイズの洋服を持っていたのだという。でもそれは、一昔前のことなのだろう。
 私はひとりで過ごすのが得意で、人に囲まれているよりは、楽器や本に囲まれていたほうが落ち着くタイプだ。友達はそんなにはいないけれど、ヴァレリィとだったら仲良くなれそうな気がした。
 ヴァレリィは、カフェのあるその小さな町のことを、隅から隅まで、なんでも知っていた。裏道も抜け道も、通路や階段も、みんなからだで覚えているようだった。
 NGOに長かったせいか、救急、救命、救護、監視といった資格はたくさん持っているみたいだったし、お金に不自由した感じもなかった。おいしいものを食べたいとか、いいものを着たいというようなことさえ考えなければ、どんな収入だって多いと感じることができるものだ。そんなことを静かに話す。
 大学ではバイオの勉強をしたのだという。それがなぜ、フィールドで働くようなことになったのだろう。大学とか研究所とか、そんな職場もあっただろうに。そのほうがヴァレリィの雰囲気に合っているのに。
 もっとも、決められた時間に職場に行き、言われたことを予定時間内に仕上げ、退職して年金で暮らすのを夢見て暮らすなんていうことは、ヴァレリィに似合わない。社会的成功なんていうことには魅力を感じていないだろうし、金に興味があるわけでもなさそうだった。だから、まあ、フィールドで働くというのでよかったのだろう。
 私のなかにも、ヴァレリィに似たところがあったので、話はいつも盛り上がった。ただ、なにかが決定的に違っていた。ヴァレリィの中心をなす批判精神のようなもの、それか私には欠けていた。そんなものの欠片すらなかった。そもそも私は物事に対して真面目でなかった。どんなことでも、基本的なところで間違っていなければ、なんでも受け入れるというのが私のやり方だった。
 ヴァレリィは違う。民主主義とか人権とかいうような考え方についてさえ、批判的な態度は緩めなかった。
 国際連盟のアルバムを見せたことへのお礼なのだろう。ヴァレリィは夜遅く、ある国の国務省民主主義人権労働局が出版した報告書を本棚から取り出して、私に見せた。どうしてそんなものを持っているのかはわからなかったが、表紙の裏に、ヴァレリィへ、という文字と、誰かのサインとが書かれていた。
 私があまり興味を示さないのを見て取ると、ヴァレリィはその報告書を読み始めた。どこどこの国の指導者を対象に民主主義、人権、市民教育などについての研修訓練を行い、民主的な改革を支援し、反対勢力を抑える。どこどこの国における民主主義指向型政党の成長を推進する補助金を提供することにより、その政党の成長を促す。どこどこの国の自由で独立した情報へのアクセスを確保するために、プリンターを供与する。どこどこの地域における責任あるジャーナリズムを強化するためにいくらいくらの援助をする。どこどこの民主主義活動家に政治コンセンサスの形成テクニックを教える。どこどこの選挙管理委員会に技術援助をして政治改革を支援する。どこどこの選挙プロセスを強化し投票率を高める。
 読むにつれ、ヴァレリィの顔は紅潮していった。国務省民主主義人権労働局は、外国における民主主義や人権政策の調整と発展に責任を負っている。政治的な自由およびすべての人々の人権を守り、公民権の剥奪や疎外の環境を変化させるため、フォーラム、プログラム、外交活動などを通して、全世界において民主主義制度の強化と人権の推進に取り組んでいる。
 いったい何様だと思っているんだろう。ヴァレリィが言った。余計なお世話だとは思わないか。
 私はそれを黙って聞いていた。なにも言いたくなかった。六百年前のティムールは苛酷だった。ティムールのあとも、理不尽なことはずっと続いた。それを言えばヴァレリィは、巧妙になっただけよ、今のほうがずっと苛酷よ、と言うだろう。でも私は、今のほうがいい。
 私が黙っているので、ヴァレリィは話題を変えた。ところで、あなた、今、好きな人がいるの。
 私は、しまったと思った。そんな話題になるのだったら、民主主義や人権の話でもしておけはよかった。そういう話題は苦手だった。私は答えるのを躊躇した。
 ヴァレリィは優しく微笑んで、言いたくなければ言わなくていい、と言った。あんな山のなかでひとりで倒れていたんだから、好きな人はいないか、片想いか、そんなところよね。
 私は、そんなことを言うヴァレリィの顔を、じっと見つめた。この人だったら、あの人のことを、聞いてくれるかもしれない。信じてくれなくてもいい。話してみよう。
 話し出すときっと、とても長くなる。でも、聞いて欲しい。私はそう言ってから、話し始めた。二冊の本のこと。六百年前のこと。今のこと。そして、あの人のことと、私のこと。
 二冊の本の内容は、ほとんど全部、憶えていた。それを順序立てて話したのだから、聞くほうは大変だったに違いない。でも、ヴァレリィは、真剣に聞いてくれた。話してよかったと思った。
 ヴァレリィはため息をついて、切ないわねと言った。私にはその切ないという言葉の意味がわからなかったが、とりあえずいっしょにため息をついた。
 今晩はここに泊めてね、と私が頼むと、なにを言ってるの、もうすぐ朝よ、という返事が帰ってくる。時計を見ると、もう午前三時を回っている。私はおやすみなさいと言って、勝手に客用の部屋のベッドにもぐり込んだ。
 次の朝、私はヴァレリィに起こされた。ねえ、聞いて、聞いて。今、パンを買いに行ったんだけど。そう、あの交差点のところのパン屋。そこになんだかとても身なりのいい東洋人の男がいてね。スポーツタイプの車に乗っていたから、これから山に上るんだろうけれど。その男ったら、パンが買えないのよね。
 私は東洋人という言葉を聞いて、いっぺんに目が覚めた。あの人のことを思い出したのだ。
 あのね、休みの日の朝だもの、次から次へといろんな人がパンを買いに来るじゃない。そのひとりひとりに順番を譲るもんだから、いつまでたってもその男の順番が来ないの。まったく、あきれてしまったわ。今どき、あんなお人よしって、珍しいわよね。ヴァレリィはそこまで言うと、カフェのほうに走り去った。
 私は寝坊したことに気付き、あわてて起き上がると、洗面を済ませ、着替えをした。なぜか、どきどきしていた。薄く薄く、化粧をした。
 カフェはまだ静かだった。休日の朝はいつも、十時を過ぎると混み始め、昼近くになると人でごった返す。私がカウンターの椅子に座ると、ヴァレリィが近づいて来た。
 その時、カフェの入口の扉が開き、あの人が入ってきた。窓際に座る。
 ヴァレリィが嬉しそうにウィンクする。あれがパン屋で見かけた東洋人だ、そんな感じのウィンクだった。
 私はヴァレリィを呼んだ。あれが、あの人なの。やっとのことでそれだけを口にした。いつもながらヴァレリィは、事情を呑み込むのが早い。短く、まかせておきなさいと言うと、あの人の前まで行く。なんとなく迫力が感じられる。これから山に上っていくのなら、この人を湖のところまで乗せていってくれないか。そう言って、私のほうを見た。
 あの人は立ち上がり、初めましてと私に声をかけた。間違いなく、初めましてと言った。そう、思ったとおり、私のことなど眼中になかったのだ。でもそれにしても、私の存在すら知らないなんて。
 ヴァレリィは私をカウンターのうしろまで連れて行くと、これはチャンスなのだと言った。チャンスは、二度は訪れない。大事にするのよ。ヴァレリィの目は真剣だった。
 これはチャンスなのだ。それはわかった。でも、なにも考えられない。私には、どうしていいのか、わからなかった。
 あの人は、コーヒーを飲み終わり、支払いを済ませ、私にもう行けるのかと聞いた。私は、ええ、と短く答え、薄手のコートを手に取った。あの人は私のことを、とても上手にエスコートした。気が付くと、私は車のなかに座って外を見ていた。
 いつもの景色がまったく違うものに見える。この道がこんなにも狭く、勾配がこんなにも急で、木がこんなにも生い茂っているなんて、今の今まで知らなかった。それに、なにもかもが暗い。
 私のアパートがある村を過ぎる。ありがとうと言ってそこで降りるというのもひとつの選択だけれど、とてもそういう気にはなれない。せっかく会えたのだし、ヴァレリィが言ったように二度と訪れないチャンスなのだし。それに、ここで降りたって、車を取りにまた山の麓まで戻らなくてはならないんだし。私は自分自身に降りないことの言い訳をしていた。おかしかった。
 私がひとりで笑うと、隣であの人が笑う。なんでだろうと思ってあの人を見ると、あの人もこちらを見る。運転中には前を見るものよと言うと、運転中はすべてのものに注意を払えって教わったんだという答えが返ってくる。あの人はとてもリラックスしていた。
 鬱蒼とした森から抜け出し、峠を越えると、赤や黄や緑に彩られた葉が目を捉える。こんなに明るい景色を眺めるのは久しぶりのことだった。空はどこまでも青く広がっている。
 心がうきうきしてくる。こんな景色のなか、あの人とふたり。できればいつまでも、運転し続けていてほしい。ところが、そう思った途端、あの人が車のスピードを落としてしまう。ああ、いつもこうだ。私がなにかを望むと、絶対に叶わない。
 そんなことにはお構いなしに、あの人は私を見て微笑む。そして車を脇に止め、私を車の外に誘った。
 外は寒い。あの人が私の肩を抱いてくれる。そして道に沿って歩きながら私に話しかける。六百年前のことが甦ってくる。あのタブリーズの散歩道が。そしてそこで話したことの数々が。
 なにもわからない。なにが起きているのか、どうしてこうなったのか。そもそも現実味がない。夢なのだろうか。考えてみれば、今日は、あの人のまわりに光が当たっていない。
 ただひとつだけ確かなこと。それは、あの人がなにひとつとして憶えていないということだった。六百年まえのことも。そしてそれからのことも。あの人の記憶の中に、私はいない。
 私はあの人のことを憶えている。でもあの人は私のことを憶えていない。私はあの人のことを知っている。でもあの人は私のことを知らない。私が同じ勤め先で働いていることも知らない。この人はなにも知らない。
 この人がほんとうにあの人なのだろうか。そう思ってみた。でも今は、そんなことはどうでもよかった。隣にひとりの男がいて、それで幸せな私がいる。私は改めてそこにいる男を見た。なにもかもが私の好みだった。やっぱりこの男が、あの人なんだ。それは確信に近かった。そう思うだけで私の心は落ち着いた。
 どれがモンブランなの。あの人の突然の質問に、私は少しうろたえた。私たちの正面には、雪を被った山々が続いている。あの円い感じのがそうだと思う。私はいい加減なことを言った。実際そんなことは、どうでもよかった。
 あの人は山に見とれている。私のことなど、どうでもいいように。そして私は、隣にいるあの人のことばかり考えている。それだけがたったひとつの大事なことのように。
 静かだった。あの人が車のほうに戻る。私はそれについて行く。車でまた少し先まで行って、そこで別れれば、それで終わり。そんなのは嫌だ。でも、どうしたらいいのだろう。
 私を降ろしたあと、どこに行くの。私は思い切って聞いてみた。私はこの先の湖のところで降ろしてくれればいいから。そのあと、どこに行くの。
 あの人は、どこにも行かない、なんの用事もないと言った。用事がなくてこんな山のなかに来るわけがない。おまけに、それを言う時に目がうつろになっている。嘘をつくのが下手なんだ。きっと。
 でも、私は、その嘘が嬉しかった。もしかしたら、少しのあいだ、いっしょに過ごせるかもしれない。車に戻り、座席にからだを埋めると、私は急に元気になった。
 車が高原を走る。カーブも直線もまるで空を飛ぶみたいに滑らかに進む。静かな車内にあの人と私だけ。あの人が息をするのまで伝わってくる。それは夢のような時間だった。
 でも、私の夢は長くは続かない。湖が見えた途端、あの人が私の夢を打ち砕く。どこに停めればいいのかな。そんな短くて冷たい言葉が、私からすべての力を奪ってしまう。
 私が答えられないでいると、あの人は車を湖沿いの駐車場に入れ、ここでいいか、と聞いた。私は、ええ、と答えた。他になんと言えばいいのだろう。
 湖には山がきれいに映っている。私の気に入っている入り江も見える。私はなにも言わず、次を待った。でも、なにも起きない。私は勇気を出さなくてはと思った。一生に一回だけの勇気を。
 このままどこかに連れて行ってくれない。私は必死だった。連れて行ってくれるだけでいい。帰りは自分でどうにかするから。この後の予定はないって言ってたでしょ。だったら、お願い。
 あの人は、なにかを考えているようだった。無理なことを言っているのだろう。なにを言ったところで、なにも変わらない。ここで別れるしかないのだ。そう思った。とても長い時間が過ぎていった。
 行き先はどこでもいいのか。あの人が突然言った。私は耳を疑った。あの人が私をどこかに連れて行ってくれる。私の気分は最高点にまで達した。
 私はうれしくて、あの事故の後に買った携帯電話を取り出し、ヴァレリィに電話をした。今日はもう行かないわ。そう、たぶん明日には顔を出せると思うけれど。それがもっとずっと後だったら、最高なんだけれど。そうね、これが私のただ一回のチャンスなのね。
 あの人は私が携帯電話を取り出すと、遠慮したのか車から降り、離れていった。電話を切って外を見ると、あの人は湖を見ている。湖は静かに輝いている。
 私が合図をすると、あの人はこちらに向かって歩き出す。優雅な動作でドアを開け、運転席に座る。車は静かに走り出す。
 あの人は前を見ている。なにも話さない。無理なことを頼んだのかもしれない。もしかしたら私のことを持て余しているのかもしれないし。でも仕方ない。これが私のチャンスなのだ。
 どうしたの。私はそう尋ねた。すると、あの人の口が開く。ああ、よかった。あの人が話す。どうでもいいことばかりだったけれど、次から次へと話題は変わっていく。私はほっとしていた。
 どれだけ走ったのだろう。私の知らない景色のなかを車が進む。ひとりで帰らなければならなくなった時のことを考えて、町や村の名前をひとつひとつ確かめる。手持ちのお金のことや、交通機関のことを考えれば、あまり先に進まない方が賢明かもしれない。
 どこかで休まないかと言ってみる。するとあの人は洒落たオーベルジュの前に車を寄せる。なんてスマートなんだろう。私は変なことに感心していた。
 オーベルジュはとても静かで、明るい感じだった。私たちはコーヒーを頼んだ。
 ここが私の場所なのだ。ここであの人にすべてを伝えるのだ。そう思った。そして、私があの人のことを知っているのだと言った。
 あの人は、どこかで会ったのかなあとか、私の目が懐かしいとか言って私をからかう。私は仕方なく、夢の中のことを話した。
 夜、毎日じゃないけど、夢にあなたが出てくる。そして、涙でいっぱいの私に、泣かなくてもいいと言ってくれる。あなたは軽々と私を抱きかかえて、空を飛ぶ。私は振り落とされないように、あなたにしがみつく。少し行くと、町が見えてくる。潮の香りがしない。水の音も聞こえない。大きな町。でも気が付くと、私は誰かと並んで座っていて、あなたはどこにもいないの。
 私がそこまで言うと、あの人が、きみは誰かと並んでいて僕はどこにもいないなんてバカみたいだな、とまぜっかえす。そして、ここで本当に抱きかかえてあげようか、とからかう。あの人はどこまでも軽い感じだ。六百年前のあの人とは全然違う。
 私たちのそんな会話は、突然現れたオーベルジュの女主人に遮られた。女主人が、今晩ここに泊まったらどうかと言う。私はすぐに賛成する。あの人も仕方なく同意する。
 このオーベルジュの部屋には、それぞれ有名人の名前が付いていて、内装もそれぞれに凝ったものだった。例えば、マリリン・モンローの部屋というのに泊まれば、とても素敵なピンクのベッドに横になっていろいろな映画を見ることができるのだという。ジネディン・ジダンの部屋に泊まれば、サッカーの本や雑誌を夜明けまで読み耽ることができ、ジョルジュ・ブラッサンの部屋に泊まれば、ミュージック・スコアを見ながら音楽を聴くことができる。そして極め付きはマリー・キューリーの部屋で、そこではなんと勉強することができるのだという。他にも、カール・ゼロの部屋とか、コルーシュの部屋とかもある。不思議なオーベルジュだ。
 こんなに早い時間でもチェック・インできるのかと尋ねると、女主人は、ええ、部屋が空いていればね、と言って笑った。季節外れのせいかどの部屋も空いていたので、その言い方は確かにおかしかった。私も笑った。でもあの人は笑わなかった。
 私たちは、マリリン・モンローの部屋にチェック・インした。昼のメニューを食べる。とてもおいしい。あの人は冗談を言ったりしていたが、なんだか眠そうで、少しかわいそうな気がした。疲れているに違いなかった。
 食事の後、あの人は急に話すのを止めた。余程疲れているのだろう。部屋に入ると、すぐにベッドに倒れこみ、あっという間に熟睡してしまった。なにか寝言を言っている。
 私は、部屋の隅に大きなコンソールがあるのを見つけ、いろいろ触ってみる。映画の画像や音をコントロールするためのものらしい。私は映画のリストのなかから、なんとかの財宝という題のいちばん下らなそうな映画を選び、それをセットした。
 部屋の白い壁一面に映画が映し出される。私はあわててカーテンを閉める。あの人が、なにこれ、と言う。寝ぼけているみたいだ。私が、なんでもない、心配しなくて言い、そう言うと、また二言三言寝言をいってから、静かになる。
 あの人はきっと寝不足なのだ。少しそっとしておいてあげなくてはいけない。私はその下らない映画に見入った。壁全体に、アフリカの中年の男が映し出される。あの人の顔が、壁の方を向く。眠っているのか、見ているのか、良くわからない感じだ。夢の中でうなされているのか、なにか話している。
 映画が終わり、私がカーテンを開けると、あの人が目を開け、不思議そうな顔で私を見る。
 私が、どんな感じ、と聞く。あの人が、なんにも言えない、と答える。だってなんだか変なんだもの。そう言いながらも、あの人はまだとても眠そうにしている。
 変って、なにが変なの。そう私が言うと、あの人はなにも言わず、私をぼんやりと見つめ、きれいだね、とだけ言った。
 私は、ありがとう、と言った。自分がきれいかどうかぐらいは、わかっているつもりだ。でも、あの人にきれいに見えるのだったら、それはそれで嬉しい。
 あの人にとって特別な存在になりたい。あの人の心に憶えていてほしい。そんなことを考える。あの人は、朦朧としている。
 壁に、なんとかの財宝という映画の主人公たちが映し出される。男も女も黙って見詰め合っている。その二人はまるで、六百年前の私たちのようだ。
 壁の中の二人は、空を飛んでいる。女は男に抱きかかえられている。海が見える、白い波が砕けている。砂漠が見える、雪が降っている。山を越える、峠がすぐ下に見える。
 水辺に降りた二人は、また前のように湖に向かって立っている。水面はすぐそこにある。女が靴を履いたまま湖に踏み出す。水鳥が飛び立つ。男が優しく女を見つめている。
 白鳥が二羽、水面を滑っている。二人は小船に乗って沖に漕ぎ出して行く。透きとおった水の上で、二人は相変わらず見つめあっている。小船はいつか大きな海の中を漂っている。潮の香りがする。二人は口づけをする。
 二人は川を遡り、山にわけ入っていく。小船を棄てひかりの滝をくぐり、水飛沫のなかで手をつなぎ軽やかに歩く。二人は絡みつき風の中を舞う。暖かな白い雪が降りだし二人は抱き合う。茶色い土も緑の草も、真っ白なひかりのなかで色を失っていく。
 私には、この映像は、少しばかり辛すぎる。私が欲しいもの、でも現実にはないもの、そんなものを見せられて、誰が喜ぶというのだろう。私は立ちあがり、コンソールのスイッチを切った。
 急に静かになる。するとなぜか、あの人が目覚める。私が、疲れているのね、というと、あの人がまた不思議そうな顔をする。
 なにか夢でも見ていたのだろう。私の夢にあの人が出てくるって本当かと聞く。私がそうだと答えると、なんだか納得したふうに立ち上がり、窓辺の椅子に座った。
 外には暖かい景色が広がっている。あの人がその景色に見とれている。そして、私はあの人に見とれている。
 私はあの人に誘われるままに外に出た。でも外は、部屋の中から眺めるほど暖かくはなく、冷たい空気が肌を刺す。私たちは一言も話すことなく部屋に戻った。
 今日会ったばかりなんていう気がしない。あの人がそう言った。私は、ええ、と生返事をする。私たちが、六百年前からの知り合いだなんて、どう説明すればいいのだろう。
 ベッドの縁に並んで座る。そして見つめ合う。長い時間が過ぎる。
 私は幸せだった。これで十分だとさえ思った。
 隣に、あの人がいる。あの人の瞳の中に私がいる。私の心が、あの人を感じている。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。夕飯ができたということを知らせにオーベルジュの女主人がやって来るまで、私は幸せを感じ続けた。
 食堂には二人分のテーブルがきれいにセットされていた。ピンクのテーブルクロス。ピンクのナプキン。使い古された銀製のナイフとフォーク。大きさの違うワイングラス。
 座るとワイングラスに暖炉の火が映る。テーブルの中央には、粗塩とオイルとバターが、とても上品に置いてある。私は女主人のセンスに感動していた。
 あの人が寒くないかと聞く。暖炉のせいで食堂は暖かい。なぜ、そんなことを聞くのだろう。具合でも悪いのだろうか。あの人を見つめる。なんとなくだけれど、向かい合って座ることにも慣れてきたような気がする。見つめ合うことにも。
 前菜もメインディッシュもとてもおいしかった。ついでに言えば、アペリティフもワインもちゃんとしたものに思えた。私は、六百年前の、あの湖畔の宿の女主人のことを、思い出していた。あの女主人も、手を抜かない人だった。
 六百年前のこと。それをあの人は憶えていない。たとえ憶えていたとしても、それは、夢とか、まぼろしとか、そういうものに違いない。でも私には、それは実際に起こったことなのだ。
 私が勝手に想像を広げていると、あの人はいきなり、自分の恋人の話を持ち出した。湖沿いのホテルで待ち合わせているという。私は、そんなこと、考えたくない。あの人の恋人のことなど、聞きたくもない。
 お腹がいっぱいになった私たちは、部屋に戻る。あの人は酔ったのか、部屋に入るなり、ベッドに横になった。
 今度は、この辺りの観光振興協会が作ったプロモーション映像をセットする。どうせつまらないのだろうけれど、ちょっと見てみたい気もする。
 壁いっぱいに、湖が映る。それは、私の好きな場所だった。あの小さな入り江が映る。水は静かに輝いている。その景色を見て、私は幸せだった。
 次に、入り江を見下ろす所に建っている高級そうなレストランが映る。そこでは、いかにもという感じのカップルが食事をしている。いつも思うことだけれど、どうしてもっと普通の感じのカップルを使わないのだろう。
 入り江では、子供が二人、影で遊んでいる。こちらの方は、たぶん、この辺りの子供たちを連れて来て撮影したのだと思えるような、自然な感じが漂っている。
 入り江にいる子供たちがレストランを見上げる。レストランのカップルが入り江を見下ろす。なんとベタな演出なのだろう。私だって、もう少し気の利いたものを作ることができる。そんなことを考える。
 ベッドの上のあの人が、なにか寝言を言う。私がどうしたのかと聞いても、まともな返事は返ってこない。私はシャワーを浴び、Tシャツだけを身に纏ってベッドに滑り込んだ。
 あの人が目を覚ます。起き上がってベッドの端に腰を掛ける。あの人の視線を感じる。でも、どうしたらいいのか、わからない。今さら、寝たふりをするのもおかしいし、かといって、あの人を見つめ返すだけの勇気はない。
 あの人が、私の手を握る。どきどきする。あの人が私のからだに触れる。とても気持ちがいい。私の胸を手のひらで包む。私は覚悟をする。
 でも、あの人は、それ以上なにもしなかった。そして朝が来た。
 女主人が、朝食の用意が出来たと伝えに来る。外は明るい。あの人を起こす。あの人は、なんだかぼんやりしている。
 私たちは食堂に座り、カフェ・オ・レを飲みながら、今日の相談をした。私が、どこかに連れて行ってほしいと言うと、あの人は少し困ったような顔をした。
 会計を済ませ、外に出る。そして、車に乗りこむ。
 私はとっておきのCDをあの人に渡す。あの人が好きなミュージシャンや曲の題名をITの部署にいる友達から聞き出して、インターネットでダウンロードして作ったCDだった。いつもポケットに入れて持ち歩いている、私の宝物だった。
 あの人がそのCDをセットする。曲が始まる。車の音響システムが良いためか、いつも聞いているのとは、だいぶ違う感じがする。ステアウェイ・トゥ・ヘブン、そして、テレグラフ・ロード。あの人は、私のことなど忘れてしまったかのように、音楽に聞き入る。
 音楽が好きなのね。私は音楽に嫉妬しながらそんな嫌味を言った。あの人は、音楽を消して、私を見る。私は外の景色を見る。この時間が永遠に続くことを祈りながら。
 風景を遮るものがなくなり、空が広がる。あの人がハンドルを器用に操る。その度に、私のからだが左右に揺れる。癖なのか、あの人はハンドルを強く握らない。良く動く指は、細くて長い。
 なにか楽器を弾くのだろうか。私はその疑問を口にした。楽器を触るのは好きだけれど、あんまりうまくは弾けない。ティーンエイジャーの頃はもっとうまく弾けたんだけれど。そう言う顔は輝いていた。
 なんの楽器を弾くんだろう。ギターが似合っているかな。それともキーボードかしら。あの人は、私のそんな想像を見透かしたかのように、私を見る。いちおうどんな楽器でもやるけれど、歌うのは全然だめだという。僕が歌いだすと、みんな逃げて行ってしまう。そう言ってから、みんなが逃げて行ってしまう様子を面白おかしく説明する。私だったら喜んで聞くのに。そう思ったけれど、口には出さなかった。
 絵は描くの。ついでだったので、聞いてみた。描くのは好きなんだけれど、褒められたことは一度もない。たぶん下手なんだと思う。あの人独特の言い方だ。
 どんな絵か、見たいなあ。私がそう言うと、やめて置いた方がいいよという答えが返ってくる。キャンパスが青一色で覆われている空という絵とか、同じようなので海という絵とか、白地に金色の細い線が一本あるだけの風という絵とか、僕が真面目に描けば描くほど、みんなが笑ってしまう。そんな感じなのだという。子供の頃、写生に行って、柱の台座をスケッチして笑われたことのある私には、その感じがよくわかる。ほんとうにどんな絵か見てみたい。
 道はどんどん細くなり、ついには行き止まりになった。あの人は静かに車を止め、少し歩こうと言った。私は嬉しくて下を向いた。
 あの人が歩き出す。私はあの人を追い越す。あの人が私の右側に並ぶ。私はあの人の右側にまわり込む。なにをしても、あの人は白い歯を見せて笑う。その笑顔が眩しい。
 歩く先に山が見える。遠くの山は白く輝き、近くの山は緑が眩しい。山の麓には紅葉が広がり、そのあいだに家が点在する。あの人は信じられないくらいゆっくりと歩く。
 牛が何頭か寄って来る。子牛に話しかけてみる。子牛が私を見る。あの人も私を見ている。なにを考えているのだろう。
 なにか話して。そう言うと、あの人はなんと、世界で一番強い国のことを話し始めた。私は、ティムールやオスマンより強いのかというようなふざけた質問で話題を変えようとしたのだけれど、あの人は、民主制度や人権を世界中に広めるためにその国がいかに努力しているか、というような話を始めてしまった。
 そんな話題で気まずくなってもつまらない。私は気をつけて、民主制度ってデモスにクラティアでしょとか、人権ってなあにとか、話を違うほうに持っていこうとした。そんな私にあの人は、人権というのは人間の尊厳のことで、人間が人間でいるために要るものだと言う。人間が自由でいるために必要な権利、それが人権なのだよ。あの人は諭すように言った。
 私は少しだけムッとして、なぜその国はそんなわけのわからないものを世界に広めようとしているのか、と言ってしまった。あの人は私がムッとしたのに気付くこともなく、そうすれば世界が良くなるからじゃないかなと答えた。あの人はどこまでも真面目で単純だった。
 それで、世界は良くなったと思うの。私はそんなことをからかうように言ってしまった。まずい展開だった。その国は今まで何年ぐらい、その人権っていうのと民主制度とを広めようとしてきていると思うの。もうずっと長いあいだやってきてまだ駄目なんだから、これからなにをしても駄目だとは思わないの。そもそも、世界で一番強い国が、良い国なわけないじゃない。戦争に勝ったからって、正義を振りかざしていいのかしら。そんなことをまくしたててしまった。
 私は、こんな感じに意味のないことを喋っては、人生を駄目にしてきていた。あの人の前でこんなことを言って、なにになるのだろう。私は深く落ち込んだ。まわりの牛を見る。牛までもが私を笑っている。あの人が、あっけにとられたように私を見ている。
 空には飛行機雲が真直ぐ伸びている。どうして私はこうなのか。あの人と一緒の時間を過ごしている時に、なんでこんなことを言ってしまうのだろう。あの人はなにも言わず、私の隣を歩いている。気を悪くしたのだろうか。
 鳥の声が聞こえる。私に、なにも気にしなくて良いと言ってくれている。前に小さな湖が見えてくる。湖面が輝いている。私は気分を変えようと笑顔を作り、あの人を見た。あの人は下を向いたままだ。私は上を向く。真っ青な空が見える。
 あのね。あの人が言った。その優しい声が私を救う。あのね、僕の友達なんだけれど、風を描こうとする画家がいてね、風をキャンパスの中に閉じ込めようと思って、いろいろなことをしたんだって。でも、それは、とても難しいことで、結局諦めるしかなくて、それでね、諦めて、湖の絵を描いたんだって。そしたら、その絵には風が吹いていたっていう、そういうことなんだ。私はその話を聞きながら、風を感じていた。目の前の草が、風になびいていた。
 六百年前のあの画家も、風を好んで描いた。絵のなかで、風が音を立てていた。優しい風も、激しい風も、みんな絵のなかに収まっていた。私はあの人に、六百年前の画家のことを話した。思いつく限りのことを、口にした。
 あの人はびっくりした顔をした。顔には、なんで六百年前のことなんて言うのだろうということが、書いてあった。あなたは絵を描かないの。私がそう言うと、あの人は、立体的なものや動いているものは上手に描けない、というような言い方で謙遜した。あの人が素晴らしい絵を描くことぐらい、調べはついていた。
 私たちは、少し高い所に登る。湖は真っ青だったが、輝きはなかった。あの人が振り向いて、私を見る。私の笑顔に、あの人が答える。あの人が私の手を取る。心臓がどきどきして、胸のあたりが弾む。
 気持ちがいい。でも、どんなことにも、終わりがあるということを考えなければならない。こうしてあの人といっしょにいるのも、たぶん昨日と今日だけの奇跡なんだろう。もう二度とない、とても貴重な時間なのだ。そう思うと、一分たりとも無駄にできないと思った。
 あの人が、私になにか話をしてくれと言う。頭の中にいくつもの引き出しを持っていて、それを開けては面白い話をする人がいるけれど、私にはそんなことはできない。
 植物園の話をしようかと思った。図鑑を片手に木の名前を探したのだけれど見つからない。仕方なく木のことは諦め、木の下にいる虫のことを調べたら、その虫はなんとかという木の下に集まると書いてある。そのなんとかが私が探していた名前だった。探しているあいだは見つからず、諦めたら見つかる。さっきあの人が話していた風を描く画家の話に似ている。
 子供の権利の話をしようとも思った。条約を批准した国で子供が働いていたらどうするのか。あなたの国は条約を批准したのだから、今すぐに働かせるのを止めなさい。そんなふうに言って、働いていた子供を収容所に送るのか。それとも、早く子供が働かなくてもいい状況を作りなさいと言って、生活や学校を取り巻く環境を整備していくのか。答えは簡単ではない。これこそはという正答があるわけではなかった。
 でも私は価値観の話をすることにした。少しでもいいから、私のことをあの人に知ってほしい。そう思った。
 人間にとって最高のこと、それは、与えること。与えて、与えて、与えるものがなくなったら、死ぬ。得ることばかり考えるのではなく、お金とか、物とか、仕事とか、地位とか、そんなのを得るのが目的とは思わず、持っているもののすべてを与える。物でも知識でも、なんでもいいから、すべて与える。そうすればきっと幸せになることができる。身体を少し動かしたり、言葉を少し発しただけで、与えるということは簡単にできる。与えるって、そんなに難しいことではない。痛くて苦しんでいる人を擦ってあげれば元気を与えることができるし、頑張ってって言えば勇気を与えることだってできる。ものが溢れかえったなかで得ることばかり考えているなんて、最低のことだ。自分の権利ばかり主張して思いやることができない人とか、自分の意見は言えても人の意見を聞くことができない人とか、なんだかちょっと残念な人って多い。私は、そんなようなことを、真剣に話した。
 僕がそんなふうにみえるのかな。与えることなんて考えないで、得ることばかり考えているような人間に見えるの。あの人がそう聞く。まずい。また地雷を踏んだのかもしれない。いいえ、あなたはとても素敵よ。私は慌てて言った。
 僕は、あたりまえのことをいう人たちが苦手でね。あの人がそう続けた。そういう人たちがいわゆる正しいことっていうのを口にすると、ムカッとするんだよね。それを押し付けてきたりしたら、もうだめで、いっしょにいることすらできなくなるんだ。
 私はその時、嫌われてしまったのだと思った。悲しかった。私は走り出した。転べばまた病院かもしれないとは思ったけれど、そんなことよりなにより、あの人に嫌われてしまったのかもしれないということが、私の背を押していた。スキーをするときの要領で、上体は斜面の下を向きあまりぶれないようにして、腰から下だけの動きで岩を蹴って降りていった。気持ちは良かった、そのうちに走ることに熱中し、嫌われたかもしれないということさえ忘れていった。
 気が付いた時には、車の前まで来ていた。あの人も走り降りたのだろう。しばらくすると、あの人が、息を切らして現れた。そして、疲れた、と言った。その顔を見て私は、なんとなくなんだけれど、嫌われてないかもしれないと感じた。あの人の目は優しかった。
 そばに黄色い花が咲いている。プリマベールに似ている。遠くには白い山が連なっている。あの山を今、いったいどれだけの人が見ているのだろう。私のように、あの山の美しさをを目に刻もうと思っている人が、いったい何人いるのだろうか。
 もうすぐ、あの人と別れる。別れた後で、私はこの二日間を、思い出にしなければならないのだろうか。
 私たちは車のなかに座り、お互いを見た。車のなかは暖かかった。あの人はあまり口をきかない。機嫌が悪いのかもしれない。やっぱり嫌われたのかもしれない。もっとも、そんなことは、もうどうでもよかった。別れなければならない絶望が、私の頭の中を真っ白にしていた。
 あの人はなにを思ったのか、小さな村の教会の前に車を止めた。なかに入ろうと言う。私は少しだけ緊張した。
 教会のなかは、とても静かだった。柱には素晴らしい彫刻がなされ、太陽や月の運行を表す線が下から上に伸びていた。その線は、他の柱から伸びている線と頭の上で交わり、永遠を感じさせていた。
 飾ってある絵も、この地方独特の特徴を備えていた。この辺りの言葉では、ヴィオレ、紫、という単語と、ヴィオランス、暴力、という単語が、連想で結びついてしまう。同じように、ヴェール、緑、は、ヴェリテ、真実、と結びつく。そして絵のなかで、捕えられている人たちが紫の服を着て、それを裁く人たちが緑を身に纏う。これは、キリスト教会が本来使ってきた色の意味とは違うのだが、この辺りでは普通のことになっていた。こういった意味の持たせ方には好感が持てるのだった。
 反対に、この辺り独特の政治的な飾りには、うんざりしたものを感じる。ステンドグラスの下のほうには、赤地に白の十字というサヴォアのロゴが配され、その上にはブルゴーニュのロゴが大きな場所を占めている。これでは、宗教の場なのか、政治の場なのか、わからない。
 私は突然、六百年前にアブニクの城で、あの人と並んで立ったことを思い出した。トルコの大使はあの時、私たちを並んで立たせ、あの人には、この女を一生愛せと、そして私には、この男を愛し続けろと、静かに言った。
 今、ここには、私たちのほかには誰もいない。誰も私たちに一緒になれなどとは言わない。でも私は、一緒になりたかった。
 少し躊躇した後、私はあの人の隣に立った。そしてやっとのことで、こうして並ぶとまるで結婚式みたいね、と言った。あの人は、は私を見た。そしてなにも言わずに、ただ見つめあった。
 長い時間が流れた。私はこの時間を持っただけで幸せだった。二人だけの時間。静かな時間。
 教会を出てから、私たちのふりだしの場所までは、あっけないほどすぐだった。あの人はまた前と同じ場所に車を止めた。役場も郵便局も、そして湖も、みんな静かだった。
 私がさようならを言う。あの人がさようならを返す。私が車から降りないでいると、あの人は車から降りて私のほうに回りドアを開けた。降りたくなかったけれど、降りるしかなかった。あの人にはこの先の用事があるのだ。
 私は車の前に立ち、あの人を見つめた。あの人は私の目を見なかった。私が目を瞑ると、あの人は私を抱きしめ、そしてキスをした。長いキスだった。憶えているような、忘れていたような、あのキスの味がなぜか懐かしかった。
 やっぱり、私にはこの人しかいない。そう思わせるようなキスだった。
 私は思い切ってあの人に背を向け、道に沿ってまっすぐに歩き出した。何かを期待して、神経を後ろに集中させて歩いた。でも、あの人が声をかけてくれることも、追ってきて抱きしめてくれることも、なかった。車が走り出す音が聞こえた時には、体が震えた。そして、車の音が遠ざかっていくのがわかると、私は声を出して泣いた。
 寂しい道をひとりで歩き、私は自分のアパートに向った。真っ暗になる前にはアパートに辿り着けるのではないか。そんな計算だった。ところが私の足は、ひとりでに、大好きな入り江に向っっていた。
 ほどなくして入り江に着いた私は、涙顔を湖の水で洗った。そして、自分を元気づけるために、歌を口ずさんだ。あの人が生まれた国の Lily という歌手が作った愛という歌だった。

 sky is alone, sea is alone, i am alone by myself
 but
 sky is with clouds, sea is with waves, living and loving together
 taking care of each other and staying happy together
 why am i alone with full of tears in my mind
 i have to live without a love in such a loneliness

 見上げると、一組のカップルが席に着くところだった。私はそのカップルを見て息が止まるかと思った。あの人と、その恋人だった。私はあの人のほうを見ながら、体操をしているふりをした。あの人が私の視線に気付く。私は小さく手を振る。
 あの人の向かいに座っている女は、遠目にもきれいだった。私がたちうちできる相手ではなかった。
 あの人が私を見ている。そう思った瞬間、あの人はテーブルの上に倒れ込んだ。
 私は反射的に走り出した。そして、階段をかけ上った。あの人になにもないことを祈りながら。でも、階段を上りきったところで、私にはなにもできないことを悟った。真っ赤なドレスを着たあの人の恋人が、あの人の肩を抱いている。まわりには人が集まっていて、みんな心配そうにあの人を見ている。私が入り込む場所はどこにもなかった。
 私は遠くから様子を見ていた。あの人はテーブルの上に倒れ込んだままでいる。動く様子はなかった。時間がゆっくり流れる。心配だ。でも、なにもできない。
 ああ、よかった。どうなることかと思ったわ。あの人の恋人が大きな声を上げた。あの人が頭を上げる。私はほっとした。そしてそこを離れた。
 私は泣きながら歩いていた。私の脇に車が止まる。車のなかからヴァレリィが現れ、私のことを抱きしめる。私が電話したのだろう。でも、電話をしたのかどうかも、電話ででなにを話したのかも、まったくといっていいほど覚えていなかった。
 私は平気。もう大丈夫。そんなことを言えば言うほど、涙が溢れる。私は、ヴァレリィが持ってきてくれた大きなタオルで、顔を覆った。
 その晩はヴァレリーのところに泊まった。そして翌朝、ガレージまで行き、預けてあった車を引き取った。私はアパートに着くと、すぐにベッドに倒れ込んだ。
 しばらくして職場に電話をした。からだの具合が悪いので休みたいのですが。丁寧に言ってみる。ああ、いいよ、お大事に。そういう言葉を期待する。ところが、ボスは、すぐ来い、と言った。パニック状態らしく、声がうわずっている。データベースのなかのデータが全部なくなってしまった。どうしたらいいのか誰にもわからない。だからすぐ職場に来てほしい。
 前の日までのデータを、データ・センターに頼んでリストアしてもらえばいいじゃないですか。そこまで言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。はい、今すぐそちらに向います。ちょっと時間はかかるかと思いますが。はい。ご迷惑をおかけしてすみません。どうやら私には感傷に耽る自由すらないみたいだ。
 データ・センターに電話をする。思ったとおり、データベースにはなんの問題もないという。まったく、みんな、なにをしているのだろう。
 私は車に飛び乗った。高速道路に入り、運転が単調になると、あの人のことが思い出される。あの人には恋人がいる。私よりも、あの恋人のほうが似合っている。あの人の顔が浮かぶ。
 ところが、しばらくすると、また、職場のことが気になってしまう。データベースのなかのデータが全部なくなるなんていうことが起こるわけがない。いったい、なにが起きたのだろう。
 昼前にオフィスに着いた。ログ・インしてみると、いつも通りのスクリーンに、いつも通りのデータが表示される。ボスを呼んで、画面を見せる。ボスは、なんだ、なにもなくなっていないのか、と言って、すぐにいなくなった。こうして私はまた、いつもの日常に入っていった。
 毎日、仕事に追われ、一日一日があっという間に過ぎて行った。夜になると、食事もそこそこにベッドの中に倒れ込み、あの人のことを思った。
 週末になっても、ヴァレリィのカフェに行くことはなかった。ヴァレリィもなにか問題を抱えたらしく、カフェは休み、私のオフィスのそばに引越してきた。
 ヴァレリィとはよく会ったが、あの人の話をすることはなかった。ヴァレリィは優しく、私の気持ちを逆撫でするようなことは、口にしなかった。
 私の気持ちが落ち着いてきた頃、あの人が結婚するらしいという噂を耳にした。相手はもちろん、あの恋人。そして、あの人の幸せな様子が耳に入ってくる。私の気持ちは揺れ、仕事に集中できない日が続く。それでも私は、どうすることもできなかった。
 あの人のことを忘れることはないだろう。私はきっと、いつまでも、あの人のことを思い続けるのだろう。でも、あの人が結婚してしまえば、それで一緒の時間を持つチャンスはゼロになる。それは、また、何百年ものあいだ、記憶を繋ぎ続け、待ち続けることを、意味した。
 私はあの人がこのビルにいることを知っている、でも、あの人は、私がここにいるのを知らない。
 私はいったいなにを欲しがっているのだろうか。あの人と二十四時間いっしょにいたいのだろうか。これからずっと、いっしょに過ごしたいのだろうか。ラジオから聞き慣れた曲が流れる。抱いて欲しい。朝から晩までずっと。ああ。でもそれが、私の欲しいものだとは思えない。
 いっしょになってしまえば、それで終わり。そう思った。いっしょにならなければ、私の記憶は誰かに受け継がれ、私はあの人のことを思い続け、探し続けるに違いない。でもここで、いっしょになってしまえば、私の気持ちは満足し、彷徨うことなく空に消えてしまうに違いない。
 なぜそんなことを考えたのかはわからない。直感かもしれない。
 私はあの人といっしょに水になって、海に溶けてしまいたいたかった。
 でももしこのままいっしょになれば、海の水にはなれない。あの人も私も空に消えてしまう。あの人への気持ちもどこかにいってしまう。
 空にはなにもない。あの人も、私も、そしてありとあらゆるものが、空に行けばなくなってしまう。
 それはいやだ。そう思った。
 私はあの人といっしょに、海になりたい。空には行きたくない。そう思い続けた。
 いつのまにか春が来ていた。職場の休日と年次有給休暇、それに週末を合わせて、私は小さな旅に出た。ヴァレリーを誘ったのだけれど、都合がつかないといって断られた。
 旅の一日目の晩、山の上のホテルで、私はあの人の夢を見た。暖かいキスが、気持ちよかった。
 夢の中では、私は度胸がいい。あの人に向かって、言いたいことが言える。恋人とどうなったのか。結婚するのか。そんなことを笑顔で聞いた。あの人は、曖昧な返事に終始した。
 それよりも、とあの人が言う。それよりも、僕たち二人のあいだには、なにか特別なことがあるのかな。例えば、愛とか、恋とか。なにか特別なこと。
 そんなこと、自分で思い出して。私がそう言うと、あの人はなにも言わず、あっという間に消えていった。
 次の晩も、また次の晩も、あの人の夢を見た。旅のあいだあの人のことを考え続け、景色も夢の中のあの人と分かち合った。何日でもない旅だったが、久しぶりに旅らしい旅をした。そして私は、幸せな気分で仕事に戻った。
 そして、その週の木曜日の夕方、予期しないことが、本当に予期しないことが、起きた。私はいつも通り、その日に来たEメールの整理をし、返事を書いていた。ドアをノックする音がする。遠慮がちにドアを叩く音は優しく聞こえる。こんな時間に誰だろう。私は立ち上がり、ドアに向かう。ドアの向こうにあの人を感じる。まさか。私は息を詰め、ドアを開ける。
 そこにはあの人が、ずっと待っていたあの人が、まっすぐに立っていた。私を見て驚いたのだろう。あの人はしばらく黙っていた。
 なんでこんなところにいるのか。あの人が、やっとのことで、それだけの言葉を口にした。私はずっとここにいたのよと答える。前から僕のことを知っていたのかと聞くので、そうだと答える。あの人はあきらかに動転していた。私はなぜか落ち着いていた。
 私はあらためて、なにか用かと尋ねた。あの人は、別に用はないと言って、私を見つめた。そして、いろいろなことを、次から次へと話した。僕たち、会ったことあるんだよね。山の麓から湖の畔まで、僕の車で送って行った。そして、途中、オーベルジュに泊まったんだ。僕たちは六百年前に出会った。その時から今まで、きみは僕のことを憶えていたのに、僕はきみのことを忘れてしまった。
 私はただ頷くだけだった。
 やっぱり、みんな、現実に起きたことだったんだ。あの人がそんなことを言うので、私はいつも考えていることを口にした。夢も現実も、そうは変わらない、みんなまぼろし、みんな夢、きのうのことも、あしたのことも。
 今度はあの人が頷いた。そして二人はいつかいっしょになるんだよね、と言った。これからは僕がきみのことを憶えていて、ずっときみを探し続ける。でもいつまた会えるのかはわからない。
 私はそれを聞いてとても嬉しかった。でも、先のことは、誰にもわからない。あの人が私のことを憶えているかどうかも、私があの人のことを憶えているかどうかも、わからない。確かなことはなにもない。でも、ひとつだけ確かなことがある。それは、たとえお互いがお互いを憶えていたとしても、そう簡単には会えないっていうことだ。そして、いっしょになるなんていうのは、奇跡でしかない。
 憶えていること、待つこと、そして探し続けること。それはとても辛いことのようにも思えるし、とても幸せなことのようにも思える。でも、せっかく会えたのだから、せめていま、こうして生きているあいだだけでも、いっしょにいることはできないのだろうか。
 私には、あの人と離れて過ごすことが、想像できなかった。
 あの人を見つめる。かけがえのない大事なものが、目の前にある。どうしても失いたくないものが。
 せめて死ぬまでのあいだだけでいいから、いっしょにいてくれないか。あの人が夢のようなことを言う。私はその言葉が、その情景が、信じられなかった。
 私たちはオフィスを出ると、夕闇のなか、手をつないで歩き始めた。いつもの街並みが、まったく違って見えた。
 たとえあとから空になってもいい。いっしょになりたい。今だけでいい。そう思いたい。隣にいて同じ景色を見たい。分かち合いたい。同じ景色を見てあの人が感動しているのを隣で味わっていたい。同じことで、映画とか、音楽とかで、同じ感動を味わいたい。たとえそれがチープ・トリックでもいい。
そう思った。その思いは強かった。
あの人と過ごすことができれば、たとえそれが短くても構わない。その先になんにもなくてもそれでいい。
 いっしょにならなくていいだなんて思った私がどうかしていた。
でもそういうことだったら、私はすでにあの週末をもったではないか。それで十分だというのだろうか。
 いや、やっぱりいやだ。あの人と私は永遠なんだ。複雑に考えることはない。
 私は涙を流す。隣を見ると、あの人が目に涙を溢れさせている。それを涙でいっぱいになった私の目が追う。
 今までの六百年に決着をつける
夢も幻も、描くことも、現実の前には何の意味もないと思う。
 あの人はいつまでも大事だ。愛している。でも、あの人の記憶はもう誰にも受け渡さない。
 この世界でだけいっしょになれれば、それでいい。
 もう私には永遠はない。それは絶望とは程遠い気分だった。
 二人がひとつになるということを知ってしまえば、あとはどうでもよかった。


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