Friday, June 22, 2012

高橋容子

戦後も過去が継続してしまった日本に対し、ドイツは過去との決別を図ろうとした。総統ヒトラー、宣伝相ゲッペルス、ゲシュタポ長官ヒムラーの3人は自ら命を絶ち、連合国に逮捕された残りの指導者達はニュールンベルク軍事法廷で、ナチの犯罪について何も知らなかったか、強制された関係だったと反論した。日本では、天皇制を円滑な占領政策と反共政策に利用したい米国が、東京裁判で他国の反対を押し切り、開戦の最高指導者であった天皇を不起訴と決めた。また天皇自身も、道徳的な責任をとって退位することはなかった。それが日本人全体の責任論回避につながったと言えるだろう。
日本では、原爆と東京大空襲による死者を加えて計36万人の非戦闘員が犠牲になったが、ドイツではその10倍に上る380万人の一般市民が命を落とした。戦後ドイツは4分の1の領土を失い、また国民国家の概念が生まれる以前から数世紀も東欧に住んでいたドイツ人たちは、先祖の土地を追われて難民になった。日本では沖縄を別にして「本土決戦」はなく、戦禍を空襲と広島・長崎の名前で語る以外には直接的な戦闘体験がないまま、玉音放送の後に占領がやってきた。日本人に敗戦の実感が欠け、強い被害者意識だけが育った理由がそこにある。
米国にのみ占領された日本と違い、ドイツは米英仏ソの4カ国に分割され、ソ連占領地区にあるベルリンがさらに4カ国に分割された。やがて1949年、米英仏占領下のドイツはドイツ連邦共和国、ソ連占領下のドイツはドイツ民主主義共和国として独立する。分割ドイツはこのときから東西冷戦の前線に立ち、外交で多方面の配慮が必要になった。対米追随型外交で50年を過ごしてきた日本とはかなり違う。
ヨーロッパの中央に位置するドイツは、中立国スイスを除く全ての隣国を侵略した。謝罪と補償を明確にしなければ、地続きの周辺国とともに歩む未来はなかったのだ。極東のはずれ、それも島国である日本は、その地理的条件と米国の傘によって、アジア諸国への謝罪と関係修復を怠ってくることができたわけだ。

2 comments:

  1. 50年の重み:ドイツの戦後処理

    日本とドイツ 過去の検証

    by 高橋容子

    http://www.geocities.jp/takahashi_mormann/Articles/50jahre1.html

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  2. 日本とドイツは第二次世界大戦でともに敗北した。それで平和を勝ち取ったと人は言う。もしその通りだとしても、50年前の破局は現在も両国に重い問いを投げかけている。この連載でドイツの戦後処理を検証することにより、日本における歴史認識の混迷を解くカギになればと思う。

    ナチ戦犯の永久訴追を決めたドイツには、戦後50年を経た現在でも ナチズムの過去に時効はない。だが一方で「普通の国」ドイツを望む国民が多くなっているのも事実だ。ヘルツォーク大統領の就任演説の言葉を借りれば、そろそろドイツは自国とその過去、および他の国々と「硬直しない」関係を結べるのではないか、と。その真意と賛否が、この記念の年に問われようとしている。1995年が記念式典で埋まることは間違いない。アウシュビッツ解放、ベルリン陥落、ナチスドイツの降伏、広島と長崎への原爆投下、そして大日本帝国の降伏。数々の式典は過去の記憶とどのように符合し、そこから何が結論されるのだろうか。

    冷戦が終わるまで、戦後処理にふたをしておくことができた日本と比べ、確かにドイツは「過去の克服」のために最大の努力を払ってきたように見える。それはなぜなのか。ドイツは日本とどう違っていたのか。

    まず最大の違いは、戦後も過去が継続してしまった日本に対し、ドイツは過去との決別を図ろうとしたことだろう。総統ヒトラー、宣伝相ゲッペルス、ゲシュタポ長官ヒムラーの3人は自ら命を絶ち、連合国に逮捕された残りの指導者達はニュールンベルク軍事法廷で、ナチの犯罪について何も知らなかったか、強制された関係だったと反論した。おかしなことに1945年5月8日以降のドイツには、ナチが一人もいなかったことになる。

    国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP=ナチス)と他の関係機関に所属していた百万人以上のメンバーたちは「軽級」や「伴走級」戦犯容疑に逃げ込み、責任を「ナチス=絶対悪」に転嫁した。それは「ナチス千年帝国の12年」をあたかもドイツの歴史とは無関係であったかのようにみなす試みでもあった。が一度決別したかに見えた過去は、イスラエル政府によるアイヒマン裁判(1960年)をきっかけに再びドイツの法廷に引きずり出され、ユダヤ人虐殺に対する裁判が始まる。日本では、天皇制を円滑な占領政策と反共政策に利用したい米国が、東京裁判で他国の反対を押し切り、開戦の最高指導者であった天皇を不起訴と決めた。また天皇自身も、道徳的な責任をとって退位することはなかった。それが日本人全体の責任論回避につながったと言えるだろう。

    第2の大きな違いは、ドイツの敗戦の形態が完膚なきまでに徹底していたことだ。日本では、原爆と東京大空襲による死者を加えて計36万人(注1)の非戦闘員が犠牲になったが、ドイツではその10倍に上る380万人の一般市民が命を落とした。敗戦時、ナチ政権はシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州北部から北海に沿う地方とオーストリアの一部、そして現チェコ共和国のプラハ地域を支配するのみだった。戦後ドイツは4分の1の領土を失い、また国民国家の概念が生まれる以前から数世紀も東欧(現ハンガリーやルーマニア)に住んでいたドイツ人たちは、先祖の土地を追われて難民になった。ドイツ人は、まさに全土を覆う瓦礫と混乱によって敗戦を自覚したことになる。日本では沖縄を別にして「本土決戦」はなく、戦禍を空襲と広島・長崎の名前で語る以外には直接的な戦闘体験がないまま、玉音放送の後に占領がやってきた。日本人に敗戦の実感が欠け、強い被害者意識だけが育った理由がそこにある。

    占領の形態の違いも日独の戦後を分けた。米国にのみ占領された日本と違い、ドイツは米英仏ソの4カ国に分割され、ソ連占領地区にあるベルリンがさらに4カ国に分割された。ゆえに戦犯の処罰が地区ごとに違ったり、例えばアメリカ地区のフランクフルトからイギリス地区のデュッセルドルフへ転居するにも許可が要った。やがて1949年、米英仏占領下のドイツはドイツ連邦共和国、ソ連占領下のドイツはドイツ民主主義共和国として独立する。分割ドイツはこのときから東西冷戦の前線に立ち、外交で多方面の配慮が必要になった。対米追随型外交で50年を過ごしてきた日本とはかなり違う。

    さらに地理的条件が戦後処理に大きな役割を果たした。ヨーロッパの中央に位置するドイツは、中立国スイスを除く全ての隣国を侵略した(注2)。謝罪と補償を明確にしなければ、地続きの周辺国とともに歩む未来はなかったのだ。極東のはずれ、それも島国である日本は、その地理的条件と米国の傘によって、アジア諸国への謝罪と関係修復を怠ってくることができたわけだ。

    こうしてみると、ドイツが戦争によって被った軍事的、政治的、倫理的混乱は、日本とは比較にならないほど複雑だったことが分かる。だからこそ過去の清算と克服に真摯に取り組まざるを得なかったドイツには、戦後50年を経て語れることがあるだろう。

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