Thursday, July 12, 2012

山本七平

アメリカはアメリカの債務国に対しては「お前の責任だから何とかしろ」と要求しつつ、一方、アメリカの債権国に対しては、「お前の方でこの黒字を何とか解消しろ」という。これはまことに得手勝手な話であって、その態度には論理的な一貫性はない。
ではそれに応ずるのはなぜか。似たような問題はしばしば出て来ているが、その間、一貫しているのが、次の言葉であろう。政府の弱腰、アメリカベったり、対米媚態外交、等々。
だがそういいながら多くの場合、日本は屈伏する。
すると屈伏の連続が屈辱感となり、それがある程度たまって来ると、どこかで爆発する。
これは簡単にいえば、そのとき自分がなぜそれをしなければならないかを明確に意識せずに、「無理難題に屈伏させられた」「外圧に敗れた」と受けとっても「自分がそれによって発展して来た環境を、その発展のゆえに破壊することがあってはならない」と考えないからである。
日本人は、言葉にはならなくてもカンは鋭いから、何となく、納得できないという気持は抱いている。だが、それがしだいに蓄積して来ると、いつかは爆発する。日本人がよく口にする「今度という今度はがまんならない」が出てくるのである。これが出てくるのは非常に危険だから、。。。

2 comments:

  1. 危機の日本人―日本人の原像と未来

    第四章 未来への課題

    (1986/10)

    山本 七平

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  2. ◆一貫性のないアメリカの主張

    確かに、アメリカはアメリカの債務国で赤字国である国に対しては「お前の責任だから何とかしろ」と要求しつつ、一方、アメリカの債権国で黒字国である日本に対して、「お前の方でこの黒字を何とか解消しろ」という。

    これはまことに得手勝手な話であって、その態度には論理的な一貫性はない。

    だが、この矛盾を徹底的に追究したらどうなるであろうか。

    もちろん双方にさまざまな言い分があるであろうが、要約すればそのときの相手の言い分は、「そう主張するなら、お前は自由主義世界の安全と秩序に全責任を負う『御威光国』になれ」ということ、簡単にいえばアメリカの肩がわりをせよということである。

    だが日本はその責任を負う気はないし、負うことも不可能である。

    まことに残念なことだが、「今の掟」では、経済力だけでは御威光国にはなれず、軍事力を持つことを要請される。

    では日本はアメリカの軍事力を肩がわりする気はあるのか。

    全然ないし、第一それは不可能であり、そんなことをすれば経済的に破綻して、元も子もなくしてしまう。

    ということは、自らの責任において秩序を保持し、それをあたかも自然的環境のように自分の責任で守る意志は日本にないということである。

    その場合は「御無理、御もっとも」として、御威光国の秩序維持に協力すること以外に、方法がない。

    日本は決して過去の失敗を繰り返してはならない。

    「御威光国」は経済力と軍事力のみならず科学技術をも含めた総合的国力を要請される。
    過去の日本は経済力なしに、軍事力だけで「御威光国」になれると夢想した。

    否、妄想をしたと言ってよい。

    現在もしその逆、すなわち軍事力なく経済力だけで「御威光国」になれると妄想したら、同じ失敗をくりかえすであろう。

    もちろん、そんな妄想は今の日本人には毛頭ない、という人もあろうし、事実、ないのかも知れない。

    しかし、経済力は持っても政治には一切無関係といいうるのは個人のみであって、国家はそうはいかない。

    というのは、自らにその意志がなくても、日本の経済力がアメリカの御威光を損ずる結果になれば、日本がまるで自然的環境のように依存している現在の体制を崩壊させる恐れがあるからである。

    もちろん、崩壊させて、自らの意志に基づく新しい体制を樹立する意志と計画があるなら別だが、そうでないなら、自らも発展しつつ同時に、その発展を可能にしている政治的・経済的環境を維持していくにはどうすべきかを考えるべきで、そのためには、実に矛盾した相手の要求を受け入れる覚悟をしておくことが必要であろう。

    というのはその矛盾は、実は日本に内在しているからである。

    だがこういっただけで反発を生ずるかも知れぬ。
    というのはこういう考え方は、日本人の伝統的な機能至上主義的発想とは相容れない。

    というのは、機能すること自体に価値を置くから、最大限に機能を発揮してきたことを一転して否定され、その成果も努力も無にされることに日本人は耐えられない。

    それまで高く評価されていたことが、一転して罪悪視されるという結果を招くことを、日本人は理解しないし、しようともしない。

    また、相手のきわめて非論理的な態度に、強者の圧力を感じて釈然としないが、それに変る自らの提案もしない。

    確かにベン=アミ・シロニー教授の指摘するように、アメリカの態度はまことに論理的に一貫しないのである。

    ではそれに応ずるのはなぜか。

    過去において似たような問題はしばしば出て来ているが、その間、戦前・戦後を通じて一貫しているのが、次の言葉であろう。

    政府の弱腰、アメリカベったり、対米媚態外交、等々々。

    だがそういいながら多くの場合、日本は屈伏する。
    すると屈伏の連続が屈辱感となり、それがある程度たまって来ると、どこかで爆発する。

    これは簡単にいえば、そのとき自分がなぜそれをしなければならないかを明確に意識せずに、「無理難題に屈伏させられた」「外圧に敗れた」と受けとっても「自分がそれによって発展して来た環境を、その発展のゆえに破壊することがあってはならない」と考えないからである。

    ではそう考えずに、屈伏・屈伏の屈辱感から、あくまでも屈伏せず、外圧をはねのけたらどうなるか。

    自らがそれに即応することによって維持・発展してきた環境を自ら破壊して、自らも崩壊する結果になってしまうことになる。

    ◆論争をしない日本

    もっとも現代の日本にはまだその徴候は現われていない。
    現われていないから安心だと言えるであろうか。

    実はそれが言えないのである。

    ベン=アミ・シロニー教授の言う通りアメリカの主張は理不尽である。

    こういう場合ユダヤ人なら徹底して相手に論争を挑むであろう。
    そして一つでも譲歩すれば、別の面で相手に何かを譲歩さす。

    だが日本人はそれをしない。
    またはっきり言って出来ない。

    シロニー教授のように、相手の理不尽を相手の論理でつかむという術にたけていないからである。
    彼らはこれを反射的に行いうるが、それは伝統の違いであって、日本人にこのまねはできない。

    しかし日本人は、言葉にはならなくてもカンは鋭いから、何となく、納得できないという気持は抱いている。
    だが、それがしだいに蓄積して来ると、いつかは爆発する。

    日本人がよく口にする「今度という今度はがまんならない」が出てくるのである。

    これが出てくるのは非常に危険だから、以上のように整理して、日本が何が故に理不尽な要求に従わねばならぬかを、はっきり納得しておく必要があるであろう。

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