父親が家計の主要な負担者であることは、彼が夜ごと家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される。ものをいうのもつらげに不機嫌に押し黙り、家族のことばに耳を傾ける気もなく、自分ひとりの快不快だけを気づかっている人間のあり方、それが彼が「労働し、家族を扶養している」事実の歴然とした記号なのである。
妻たちがが夫に対して示しうる最大のつとめは「夫の存在それ自体に現に耐えている」ことである。彼の口臭や体臭に耐え、その食事や衣服の世話をし、その不満や屈託を受け容れ、要請があればセックスの相手をする。これは彼女にとってすべて「苦役」にカウントされる。この苦役の代償として、妻たちは夫婦の財産形成の50%について権利を主張できる。現代日本の家庭では「苦痛」が換金性の商品として流通しているのである。
子どもたちも事情は同じである。彼らは何も生産できない。生産したくても能力がない。親たちの一方的な保護と扶養の対象であるしかない。彼らに要求されるのは、「そんな暇があったら勉強しろ」とか「塾に行け」とか「ピアノの練習をしろ」という類のことだけである。これらはすべて子どもに「苦痛」を要求している。そこで彼らは学習する。なるほど、そうなのか。苦役に耐えること、他人がおしつける不快に耐えること、それが労働の始原的形態なのだ。彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのである。
不快という貨幣
ReplyDelete内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/archives/001572.php
讀賣新聞の西部本社から取材が来る。
ReplyDelete「労働について」という硬いテーマである。
そういえばこのテーマで講談社から書き下ろしを出すことになっていたのであった。
よい機会であるので、問われるままに「なぜ若者たちは学びから、労働から逃走するのか」という問題について考える。
苅谷剛彦さんが『階層化日本と教育危機』で指摘していたことのうちでいちばん重要なのは、「学業を放棄することに達成感を抱き、学力の低下に自己有能感を覚える」傾向が90年代にはいって顕著になったことである。
苅谷さんの文章をもう一度引いておこう。
「比較的低い出身階層の日本の生徒たちは、学校での成功を否定し、将来よりも現在に向かうことで、自己の有能感を高め、自己を肯定する術を身につけている。低い階層の生徒たちは学校の業績主義的な価値から離脱することで、『自分自身にいい感じをもつ』ようになっているのである。」(有信堂、2001年、207頁)
苅谷さんはこれが90年代の傾向であること。中教審のいわゆる「自分探しの旅」イデオロギーと深く連動していることを指摘している。
グローバリゼーションと市場原理の瀰漫、あらゆる人間的行動を経済合理性で説明する風潮を考慮すると、「学ばないこと」が有能感をもたらすという事実は、「学ばないことは『よいこと』である」という確信が、無意識的であるにせよ、子どもたちのうちにひろく根づいていることを意味している。
「学ばない」というあり方を既存の知的価値観に対する異議申し立てと見れば、それを「対抗文化」的なふるまいとして解釈することはできない相談ではない。
彼らはそうやって学校教育からドロップアウトした後、今度は「働かない」ことにある種の達成感や有能感を感じる青年になる。
だが、どのようなロジックによってそんなことが可能になるのか。
骨の髄まで功利的発想がしみこんだ日本社会において、「働かない」という選択をして、そこからある種の達成感を得るということは可能なのか?
どう考えても不可能のように思われる。
だが、現にそういう若者たちが増え続けている。
としたら、こちらの発想を切り替えるしかない。
彼らが考えている「労働」はおそらく私たちの考えている「労働」とは別のものなのだ。
以下は「労働」の定義変更にかかわる私の仮説である。
私の仮説は「働かないことを労働にカウントする」習慣が気づかないうちに社会的な合意を獲得したというものである。
働かないことが労働?
どうして、そんなことが可能なのか。
このヒントをくれたのは諏訪哲二さんの『オレ様化する子どもたち』である。
この中で諏訪さんもまたたいへんに重要な指摘をしていた。
この本は去年出た本の中でもっとも重要な教育論の一つなのだが、メディアではほとんど話題にならなかった。先進的過ぎたのかも知れない。
諏訪さんが報告している中で印象深いのは「トイレで煙草を吸っているところをみつかった高校生が教師の目の前で煙草をもみ消しながら『吸ってねえよ』と主張する」事例と、「授業中に私語をしている生徒を注意すると『しゃべってねえよ』と主張する」事例であった。
これはどう解釈すべきなのだろう。
諏訪さんはこういう仮説を立てている。
彼らは彼らが受ける叱責や処罰が、自分たちがしたことと「釣り合わない」と考えている。
「彼および彼女は自分の行為の、自分が認定しているマイナス性と、教師側が下すことになっている処分とをまっとうな『等価交換』にしたいと『思っている』。(・・・)しかしここで『商取引』を開始する立場にはないし、対等な『等価交換』が成立するはずがない。そこで自己の考える公正さを確保するために、事実そのものを『なくす』か、できるだけ『小さくする』道を選んだ。これ以降、どこの学校でも、生徒の起こす『問題』の展開はこれと同じものになる(今もそうである)。」(諏訪哲二、『オレ様化する子どもたち』、中公新書ラクレ、2005年、83-4頁)
キーワードは「等価交換」である。
商品と対価が釣り合うこと。それが市場経済の原理なのである。
だが、この等価交換のやり方を彼らはどこで学んだのか?
もちろん家庭においてである。
だが、家庭内というのは通常の意味の市場ではない。
少なくとも家庭におけるサービスの交換は貨幣では精算されない(はずである)。
だから、子どもたちは家庭内で貨幣を使うことを通じて市場経済の原理を学習したわけではない。
貨幣を知るより前に、彼らは家庭内で「労働価値」をはかる貨幣として何が流通しているのかを学んだ。
現代の子どもがその人生の最初に学ぶ「労働価値」とは何か?
それは「他人のもたらす不快に耐えること」である。
こう書くと驚く人が多いだろうが、考えてみると、まさにこれ以外にないのである。
現代日本の家庭内で貨幣の代わりに流通させているもの、そして子どもたちが生涯の最初に貨幣として認知するのは「他人が存在することの不快に耐えること」なのである。
ReplyDelete現代日本の典型的な核家族では、父親が労働で家計を支えているが、彼が家計の主要な負担者であることは、彼が夜ごと家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される。
ものをいうのもつらげに不機嫌に押し黙り、家族のことばに耳を傾ける気もなく、自分ひとりの快不快だけを気づかっている人間のあり方、それが彼が「労働し、家族を扶養している」事実の歴然とした記号なのである。
これに対して主婦は何を労働としているのか。
かつての主婦(私の母親の年代の主婦)にとって家事労働は文字通りの肉体労働であった。
家族の洗濯物を洗濯板と石鹸で手洗いし、箒とはたきと雑巾で家の中を掃除し、毎食ごとに買い出しに出かけ、風呂の水を汲み、薪で風呂を沸かし、練炭を入れた七輪で調理し、何人もの子どもを育てるというような家事はしばしば彼女の夫が会社でしている仕事以上の重労働であった。
子どもは母の家事労働の価値を、さっぱりした衣服や清潔な室内や暖かいご飯の享受というかたちでわが身をもって直接経験することができた。
けれども、家庭の電化が進んだ今、主婦の家事労働は驚くほどに軽減された。
育児を除くと、「肉体労働」に類するものは家庭内にはもうほとんど存在しない。
育児から手が離れた主婦が家庭内において記号的に示しうる最大の貢献は「他の家族の存在に耐えている」という事実である。
現代日本の妻たちがが夫に対して示しうる最大のつとめは「夫の存在それ自体に現に耐えている」ことである。
彼の口臭や体臭に耐え、その食事や衣服の世話をし、その不満や屈託を受け容れ、要請があればセックスの相手をする。
これは彼女にとってすべて「苦役」にカウントされる。
この苦役の代償として、妻たちは夫婦の財産形成の50%について権利を主張できる。
現代日本の家庭では「苦痛」が換金性の商品として流通しているのである。
子どもたちも事情は同じである。
彼らは何も生産できない。
生産したくても能力がない。
親たちの一方的な保護と扶養の対象であるしかない。
その「債務感」のせいで、私たちは子どものころに何とかして母親の家事労働を軽減しようとした。
洗濯のときにポンプで水を汲み、庭を掃除し、道路に打ち水をし、父の靴を磨き、食事の片づけを手伝った。
それは一方的に扶養されていることの「負い目」がそうさせたのである。
だが、いまの子どもたちには生産主体として家庭に貢献できるような仕事がそもそもない。
彼らに要求されるのは、「そんな暇があったら勉強しろ」とか「塾に行け」とか「ピアノの練習をしろ」という類のことだけである。
これらはすべて子どもに「苦痛」を要求している。
そこで彼らは学習する。
なるほど、そうなのか。
父親は疲れ切って夜遅く帰ってきて、会社から与えられた苦役に耐えている様子を全身で表現しているが、それこそが彼が真の労働者であり、家産を形成していることのゆるがぬ証拠である。
母はそのような不機嫌な人物を配偶者として受け容れている苦役に耐え、私のような手間のかかる子どもの養育者である苦役に耐えていることを家事労働のメインの仕事としている。
両親は私にさまざまな苦役に耐えることを要求するが、それはそれが私にできる唯一の労働だからなのである。
苦役に耐えること、他人がおしつける不快に耐えること、それが労働の始原的形態なのだ。
という結論に子どもたちは導かれる。
そして、子どもたちは「忍耐」という貨幣単位をすべての価値の基本的な度量衡に採用することになる。
「忍耐」貨幣を蓄財するにはどうすればよいのか。
いちばんオーソドックスなのは「不快なことを進んでやって、それに耐える」ことであるが、もうひとつ捷径がある。
それは「生活の全場面で経験することについて、『私はこれを不快に思う』と自己申告すること」である。
そうすれば、朝起きてから夜寝るまでのすべての人間的活動は「不快」であるがゆえに、「財貨」としてカウントされる。
つまり、「むかつく」という言葉を連呼するたびに「ちゃりん」と百円玉が貯まるシステムである。
朝は「いつまで寝てるの!」という母親の叱責でまず100円。
「げっ、たるいぜ」とのろのろ起きあがり、朝食の席で「めしいらねーよ」と告げて「朝ご飯くらい食べなさいよ!」と怒鳴られて50円。
「なんだその態度は、おはようくらい言え!」と父親に怒鳴られて200円。
「うぜーんだよ」と口答えしたら、父親が横面をはり倒したので、おおこれはきびしい1000円です。
けっと家を飛び出して、家の玄関のドアを蹴り飛ばしたら足の爪を剥がしたので、これは痛いよ500円。
そんなふうにして一日不機嫌に過ごすと、この子の「不愉快貯金」は軽く一日10000円くらいになる。
「ああ、今日もたっぷり苦役に耐えたな」と両親そっくりの不機嫌顔で彼は充実した労働の一日を終えるのである。
たぶんそうだと思う。
現代日本の「逃走する子どもたち」は実は彼らなりに一生懸命に働いているのである。
だから、彼らにむかって「どうして労働しないのか?」と問うても無駄なことである。
労働することは神を信じることや言語を用いることや親族を形成することと同じで、自己決定できるようなことがらではない。
労働するのが人間なのだ。
だから、労働しない人間は存在しない。
はたから労働しない人間のように見えたとしても、主観的には労働しているはずなのである。
私の仮説は、「労働から逃走する」若者たちは、大量の「不快の債権者」としてその債務の履行を待ち焦がれているというものである。
彼ら彼女らは幼児期から貯めに貯め込んだ膨大な額の「苦役貯金」を持っている。
それは彼らの幼児期の刷り込みによれば、紛れもなく「労働したことの記号」なのである。
ときどき預金残高が知りたくなる。
そういうときは、とりあえず「彼らの存在がもたらす不快に耐える人々」の数を数えてみる。
彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのである。
たいへんよく出来たシステムである。
問題は、彼らの債権が社会的威信や敬意や愛情といったかたちでは決して戻ってこないことである。
けれども、とりあえず彼らのまわりに彼らが存在することの不快に耐えている人間がいる限り、彼らは生きて行ける。
不快と忍耐だけが通貨であるような世界での勤勉なる労働者たち。
逆説的な存在だ。
しかし彼らの自己完結した世界において、これはたいへん合理的な存在仕方なのである。
下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち
ReplyDeleteby 内田樹