1985(昭和60)年当時は、G5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)の開催すら秘密だった。
米国は財政と貿易の赤字が膨らみ、黒字を稼いでいた日本などを狙う制裁法案提出の動きが議会で強まっていた。米政府内では、ドルの切り下げと、日本など黒字国に内需拡大を求める政策協調を組み合わせて貿易赤字を減らす戦略が考えられた。為替は市場に任せる非介入政策だったが、財務長官が代わり潮目が変わった。
会合当日、焦点の介入問題は昼食をとりながら議論された。米国が配った「ノン・ペーパー」と呼ばれる文書に介入戦略が記されていた。「ドルの下落幅10―12%」の目標や、「協調介入の期間は6週間、介入規模は総額180億ドル」などがその内容だ。
市場を意識した華やかな記者会見に続き、翌日の欧州市場を皮切りに通貨当局のドル売り介入が始まる。
米国側が“約束”通り内需拡大を実行するよう求め続け、金融の蛇口は緩め続けられ、市中にお金があふれた。バブルへの助走だった。そしてバブル崩壊後の「失われた20年」へと続く。
プラザ合意は日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から転げ落ちる分水嶺だった。
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Vol.113 プラザ合意
by 西井泰之、朝日新聞編集委員
http://doraku.asahi.com/earth/showashi/120918.html
歴史的な通貨調整の国際会議を伝えた朝日新聞の最初の記事は、9月22日の朝刊に20行ほどだけ。
ReplyDelete1985(昭和60)年当時は、G5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)の開催すら秘密だった。竹下登蔵相は「千葉にゴルフにいく」と前日の土曜朝、私邸をでるとゴルフを途中でやめて成田空港へ。澄田智日銀総裁も風邪を理由にゴルフをキャンセル。マスク姿のまま同じ飛行機に乗りこんだ。
「市場がどこも開いていない週末に気付かれないように集まり、共同歩調をとることを突然発表して市場にショックを与えようと。すべてが隠密行動。冷や冷やものだった」。当時、財務官をつとめていた大場智満さんはこう振り返る。米財務省のマルフォード次官補らとハワイやパリでひそかに会合を重ね、黒衣役を担った。
大場さんが初めて米国側から話を伝えられたのは数カ月前。米国は財政と貿易の赤字が膨らみ、黒字を稼いでいた日本などを狙う制裁法案提出の動きが議会で強まっていた。米政府内では、ドルの切り下げと、日本など黒字国に内需拡大を求める政策協調を組み合わせて貿易赤字を減らす戦略が考えられた。為替は市場に任せる非介入政策だったが、弁護士出身の実務派、ベーカー財務長官に代わり潮目が変わった。
会合当日、焦点の介入問題は昼食をとりながら議論された。米国が配った「ノン・ペーパー」と呼ばれる文書に介入戦略が記されていた。「ドルの下落幅10―12%」の目標や、「協調介入の期間は6週間、介入規模は総額180億ドル」などがその内容だ。
介入資金の分担や記者会見で発表する共同声明の文言で火花が散った。ドルを弱くするのは「望ましい」のか「期待される」のか。
結局ドルの下げ幅や介入規模の数字は声明文に残されなかった。いったんは合意した「ドルが他通貨に対して弱くなるのが望ましい」という文言も、「強いドル」に固執するレーガン大統領が報告を受けた際に了承せず、土壇場で「主要非ドル通貨の秩序ある上昇が望ましい」と書き直された。「円などを10%以上強くしなければいけないという認識は議論を通じて共有された。だが、ゴールをいくらの水準にするかはあいまいだった」と大場さん。
市場を意識した華やかな記者会見に続き、翌日の欧州市場を皮切りに通貨当局のドル売り介入が始まる。
一方、会見もそこそこに帰国した大場さんを待っていたのは宮沢喜一自民党総務会長からの電話だった。
「何時でもいいから連絡をほしい」
宮沢が鋭く気付いたのが、共同声明の英語と日本語訳での、日本の財政政策のニュアンスの違いだった。「財政出動に英文では積極的、日本文では消極的ですね」。財政出動は大蔵省内の抵抗が強いため、どうにでも読めるようにした大場さんの苦肉の策だった。後々、この食い違いが日米交渉に影を落とす。
竹下のあと蔵相になった宮沢は、止まらない円高を落ち着かせるため奔走する。
米国側が“約束”通り内需拡大を実行するよう求め続ける中、宮沢が頼ったのは日銀だった。金融の蛇口は緩め続けられ、市中にお金があふれた。バブルへの助走だった。そしてバブル崩壊後の「失われた20年」へと続く。
プラザ合意は日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から転げ落ちる分水嶺(ぶんすいれい)だった。