部族と部族の争いは部族神と部族神との戦いでもあった。いくつもの部族のうえにたち、天皇部族が宗教的、政治的勢力を拡大して統一的国家形成に向けて歩み始めたころ、天皇(ヒコ)は自らの政事権力を飛躍的に強めていき、それまで巫女王として皇女(ヒメ)が把持してきた祭事権力の核心部分を奪取したばかりか、その祭事権力との訣別を開始していた。
王権内部で政事権力が祭事権力を凌駕していく過程は、『日本書紀』のなかの、かつて天照大神に仕えてきた巫女王がやがて宮中から追いやられて漂泊の旅に出立し、ようやく伊勢にたどり着いたときに、天照大神の神託が降りて、都から遠いこの聖地にとどまることになったという物語に照応している。
神樹と巫女と天皇 初期柳田国男を読み解く
ReplyDeleteby 山下 紘一郎
大正四年の晩秋、貴族院書記官長であった柳田国男は、大正の大嘗祭に大礼使事務官として奉仕していた。一方、民俗学者として知見と独創を深めてきた彼は、聖なる樹木の下で御杖を手に託宣する巫女こそが、列島の最初の神聖王ではなかったかと考えていた―。フレーザー、折口信夫を媒介にして、わが国の固有信仰と天皇制発生の現場におりたち、封印された柳田の初期天皇制論を読み解く。
【天皇と祭祀】『神樹と巫女と天皇 初期柳田国男を読み解く』
ReplyDeleteby Teru Sun
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柳田國男が“日本民俗学の父”であることは誰もが知ることで、スピリチュアル(精神・心霊的)な分野に興味を持っている人なら知っていて当然な常識。もし知らない場合、知識を広げる意味でも興味を持ってみるとよいかもしれません。
“妖怪”の話などで“民族学”の権威的学者 というイメージが先行する柳田ですが、その前半生は農商務省、法制局参事官、宮内書記官を勤めた高等官僚でした。彼がその傍らで天皇の行う祭祀(大嘗祭・新嘗祭・神嘗祭など)や天皇制(天皇観)にたいして深い知見で探究を行っていたことを本書『神樹と巫女と天皇 初期柳田国男を読み解く』を通じて初めて知りました。
本書では、柳田が「呪術・宗教研究書」で有名なジェイムズ・フレーザー著『金枝篇』に影響を受け、そのなかで語られている西欧呪術祭祀の風習にみられる“王(祭司)殺し”“神殺し”“樹木神崇拝” に着目し、皇室祭祀のなかに見受けられる同様の呪術宗教的な共通点と相違点とを考察しています。
『金枝篇』におけるフレーザーは、王権の呪術的・宗教的発生の起源を、祭司=王殺しに求めていた。まさしくこの祭司王は、聖なる樹木そのものに宿る豊穣をもたらす神霊の表象であったから、衰えた王殺しによる生命の更新は、自然界・人間社会の再生に繋がることになる。未開社会における王殺しとは、神殺しのパラレルであり …中略… 柳田自身、わが列島社会の未明においても、祭司殺しが行われていたと推測していたのである。だが、この王殺し、神殺しは、柳田の採るところではなかったのである。 p106
西欧的な「王」の概念では、「王」は人民から担ぎあげられるとともに、ひき降ろされる存在でもある。社会的に好事が続けば、「王」のもつ威力であるとされ、「王」はますます高みに担ぎあげられる。しかし、凶事が続発すれば、「王」には神をなだめるだけの威力がないため …中略… 殺害されてしまう。王殺しは、万能神への宗教的な犠牲とみなされる。「王」が高く祭りあげられることと簡単に殺害されることとの間には矛盾は存在せず、西欧的な「王」の概念のなかには、この二つが前提として包括されていた。
これに対して「天皇(制)」の場合は、「王」としての政治支配において、担ぎあげられるかわりに、自然神への犠牲として、殺害されるという両価性をはじめからもたなかった。柳田が「天皇(制)」に即して重視したのは、権力の交替ではなく、親和と継承であった 。 p107
著者が述べるとおり柳田は天皇制のなかに含まれる西欧的な王殺しの風習 を公には考慮していません。しかし、その柳田独自の皇室観にみられる矛盾を本書は深く探っています。
また現代の皇室制に残されていない男女(兄妹・姉弟)による「天皇(天皇)・女性天皇(巫女王)の二重支配体制」=「ヒメ・ヒコ体制」 が古代王権時代には存在した背景を考察しながら、現在の皇室祭祀でも重要視されなくなっている「巫女」の存在を考慮しています。神道祭祀に残る「巫女」の存在が古代の名残だともいうわけです。
部族と部族の争いは部族神と部族神との戦いでもあった。いくつもの部族のうえにたち、天皇部族が宗教的。政治的勢力を拡大して統一的国家形成に向けて歩み始めたころ、天皇(ヒコ)は自らの政事権力を飛躍的に強めていき、それまで巫女王として皇女(ヒメ)が把持してきた祭事権力の核心部分を奪取したばかりか、その祭事権力との訣別を開始していた。
王権内部で政事権力が祭事権力を凌駕していく過程は、『日本書紀』のなかの、かつて天照大神に仕えてきた巫女王がやがて宮中から追いやられて漂泊の旅に出立し、ようやく伊勢にたどり着いたときに、天照大神の神託が降りて、都から遠いこの聖地にとどまることになったという物語に照応している。 p236
皇室の祭祀研究を行ってきた柳田独自の「天皇観」を浮き彫りにしてゆくことで“柳田が語らなかったこと”を深く読み解く作業が行われている ので本書を読み終えたあとは、柳田国男の見方も変わることだと思います。公に語らなかった柳田の本音を垣間見た思いがします。
柳田 國男の不思議な人生
ReplyDelete1875年(明治8年)7月31日 医家の松岡家(儒者・松岡操、たけ)の6男として生まれる。
1897年(明治30年)第一高等学校卒業。東京帝国大学法科大学入学。
1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学卒業。農商務省農務局農政課に勤務。
以後、全国の農山村を歩く。早稲田大学で「農政学」を講義する。
1902年(明治35年)法制局参事官
1907年(明治40年)島崎藤村、田山花袋、小山内薫らとイプセン会を始める。
1908年(明治41年)兼任宮内書記官。
1910年(明治43年)兼任内閣書記官記録課長。
1911年(明治44年)南方熊楠との文通始まる。
1913年(大正2年)雑誌『郷土研究』を刊行。
1914年(大正3年)貴族院書記官長。
1915年(大正4年)大正天皇の即位式に奉仕、提言を残す。折口信夫と出会う。
1919年(大正8年)貴族院書記官長を辞任
1920年(大正9年)東京朝日新聞社客員となり、論説を執筆。全国各地を調査旅行。
1921年(大正10年) 渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。
英語と仏語のみが公用語となっていることによる苦労を目の当たりにする。
1922年(大正11年) 新渡戸稲造と共に国連でエスペラントの教育決議を可決に導く。
1923年(大正12年) 帰国。フィンランド公使グスターフ・ラムステッドと交流。
1924年(大正13年) 慶應義塾大学文学部講師となり民間伝承を講義。
1926年(大正15年) 財団法人日本エスペラント学会設立時の理事に就任。
1940年(昭和15年) 朝日文化賞受賞。
1946年(昭和21年)枢密顧問官就任。日本国憲法審議に立ち会う。
1947年(昭和22年)自宅書斎隣に民俗学研究所を設立。帝国芸術院会員。
1949年(昭和24年)日本学士院会員に選任。日本民俗学会初代会長に就任。
1951年(昭和26年)國學院大學教授となり、神道に関する講座を担当。文化勲章受章。
1962年(昭和37年)心臓衰弱のため自宅で死去。