Monday, January 3, 2011

草森紳一 (I)

……「わかりやすい」というのは、一つの詭計である。古今、あらゆる宣伝は、この「わかりやすい」というトリックを用いている。だが、この世に「わかりやすい」ものなど、あるはずもない。「わかりやすい」と思ったとしたら、はめられたのである。
……そもそも、宣伝は、成功か不成功かであって、善い宣伝悪い宣伝などというものはない。善悪の色をつけるのは、いつだって人間であって、しかも、それまた宣伝の種となるだけである。宣伝そのものは、むなしいまでに透明である。とすれば、成功不成功をめぐっての一喜一憂さえも、むなしい人間の判断にすぎないといえるが、それこそが「生きる」ということなのだろう。
……中国共産党のスローガンは、総じて抽象に終っている場合が多い。共産党独裁だから、そのままパスするが、自由主義諸国のPR観念からすれば、この抽象性は失格である。もともと民衆に抽象も具体もない。このような分別は、悪しきインテリの習性にすぎない。民衆のイメージは、抽象=具体、具体=抽象、つまり一体として受けとめる。
……中国人は、たかが人間のオリジナリティなどというものを信用しない。だから詩ひとつ作るにも、積極的に先人の語句を借りて構築する。これもまた「子々孫々無窮」の発想と通底している。問題は、借りかたであり、それによって自分の世界をつくりあげることだ。中国の引用術は、先人を尊ぶという要素の他に、自分の好きなように我田引水するという、冒涜的な要素とがせめぎあっている。
……「毛沢東万歳」のスローガン化は、権力側の誘導によるものだが、それに応えるかどうかは、民衆の知恵に属す。応じるなら、政治宣伝の成功である。毛沢東神格化を認めてもよい、神とあがめてもよい、そのほうが生きやすい、という知恵が、「純真」という子供たちにも働いているといってよい。

1 comment:

  1. 『中国文化大革命の大宣伝』 草森紳一

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