星と月以外、
何物をも持たぬ沙漠の夜、
そこを大河のように移動してゆく民族の集団があった。
若者の求愛の姿態は未だ舞踊の要素を失わず、
血腥い争闘の意欲はなお音楽のリズムを保ち、
生活は豪宕なる祭儀であった。
絡繹とつづく駱駝たちの背には、
それぞれ水をいっぱい湛えた黒漆角型の巨大な器物が、
振り分けに架けられてあった。
名はなかった。
なぜならそれは生活の器具というより、
まさに生活そのものてあったから。
漆胡樽、
後代の人は斯く名付けたが、
かかる民族学的な、
いわば一個の符牒より他に、
いかなる命名もあり得なかったのだ。
とある日、
いかなる事情と理由によってか、
一個の漆胡樽は駱駝の背をはなれ、
民族の意志の黯い流れより逸脱し、
孤独流離の道を歩みはじめた。
ある時は速く、
ある時はおそく、
運命の法則に支配されながら、
東亜千年の時空をひたすらまっすぐに落下しつづけた。
そして、
ふと気がついた時、
彼は東方の一小島国の王室のやわらかい掌の上に受けとめられていた。
正倉院北庫の中の冷たい静かな、
しかし微かなはなやぎを持った静止が、
そのびょうぼうたる歴程の果てにおかれてあったのだ。
さらに二千年の長い時間が流れた。
突如、
扉はひらかれ、
秋の陽ざしがさし込んできた。
この国のもった敗戦荒亡の日の白いうつろな陽ざしであった。
日ごと群がり集う人々の眼眸は徒らに乾き疲れ、
悲しく何ものかに飢えていた。
傲岸な形相の中に一抹の憂愁を沈めた漆胡樽の特異な表情は、
それと並ぶ華麗絢爛な数々の帝室の財宝のいずれにも増して、
なぜか人々の心にしみ入って消えなかった。
巨大な夢を燃焼しつくした一個の隕石の面にただよう非情の翳りだけが、
ふしぎに悲しみをすら喪失したこの国の人々のこころに安らぎを与えるのであった。
『漆胡樽』 井上靖
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