東京の繁華街で黒々とした衣服の群衆が縦横に歩いているのを目のあたりにしたとき、黒い魚の群れを連想し、私もまぎれこんで遊泳してみたくなったんです。そうすれば、まるで姿を消したように自由になれそうだったから。
つい最近のことですが、演技の教室で数十人のドイツ人に「お魚の群れのように動いてみて」と指示したら、まるでうまくいかなかった。個々人と集団の間合いがなかなかつかめず、一体、だれが群れ全体の動きを決めるんだ、という議論になってしまうんです。
しかし、東京を歩く人びとは自然に調和のとれた集団になっています。私も最初は、その物静かに流れるような動きに入りこむ勇気がなかった。他人とぶつからないためには、意識せずとも、集団の存在を常に感じていなければならない。でも、いったん、そこにまぎれこんでしまえば、まるで、隠れみのを身にまとったように自分の姿かたちを消し去ってしまえる安心感に浸れる気がしました。
群れのなかでどう動くのかは私にとって、ある意味、哲学的な問いかけになっていたんです。
フロントランナー
ReplyDeleteどらく
映画監督 ドーリス・デリエさん
日本は自由になれる故郷
http://doraku.asahi.com/hito/runner2/121225.html
非難がましいまなざしを振りむけながら長女は訴える。
ReplyDelete「お父さんとお母さんをどこかへ観光に連れてってよ」
いいわけがましい口ぶりで長男はぼやき続けている。
「仕事が忙しくて、それどころじゃないんだ……」
「ただでさえ、うちに泊めているのに」と彼の妻――。
演出をてがけた2008年の映画「桜の花」の序盤、冒頭のような家族の憂わしげな対話の場面がある。
事の起こりは、年老いた両親が片田舎からいそいそと、大都会で生活する子どもたちに会いにやって来たことだった。しかし、手放しで歓待されず、むしろ持てあまされ、ひりつくような疎外感にまとわりつかれてしまうのだ。
映画ファンなら、めくるめく既視感が渦巻くであろうこの物語の展開は、いうまでもなく小津安二郎監督の「東京物語」を基にしている。
東京は現代のベルリンに置きかえられ、失われかけた家族のきずなの再生が語り起こされる。あっけなく連れあいに先立たれた老父は、次男が暮らす東京を桜満開のころ訪れ、さらに富士山をめざす。日本をさまよう、魂のロードムービーでもあるのだ。
軽妙でほろ苦くもあるタッチで、大人の恋愛や、くたびれかけた人生の機微を描くコメディーを本領とする。しかも、ドイツ映画界では、ポップなカリスマのようにもてはやされる存在だ。
1985年、30歳のときに公開した監督作品「男たち」は、当時の西ドイツでは破格の500万人を越える観客を動員するメガヒットとなった。小説もエッセーもこなすベストセラー作家でもある。
そんなきらびやかなキャリアのなかで監督した約20本の劇映画のうち、日本を舞台とした作品がすでに3本を数え、いまも新作の構想を煮詰めているのだという。
日本で最初にロケした99年の作品「悟りは保証つき(邦題はMON―ZEN)」は、わけありの中年ドイツ人兄弟がひょんなことから2人連れで来日し、石川県輪島市にある曹洞宗大本山、總持寺祖院の道場で禅の修行にはげむ喜劇だ。2人の俳優とわずか5人のスタッフでひと月近く寺で寝起きし、朝4時に目覚めてから夜9時まで終わらない修行を俳優と一緒に進んで体験している。
「日本はハイマート(故郷)」とためらいもなく言ってのける。そう直感する原体験は、85年に第1回東京国際映画祭に招待され、初来日したときだという。
「東京の繁華街で黒々とした衣服の群衆が縦横に歩いているのを目のあたりにしたとき、黒い魚の群れを連想し、私もまぎれこんで遊泳してみたくなったんです。そうすれば、まるで姿を消したように自由になれそうだったから」
とっさに遠出したくなり、ヒッチハイクしながら約3週間も東京近郊の旅をした。
「日本語も分からず、手足をもぎとられたように無力だったはずなのに、なぜか安心しきっていられた。見ず知らずの人たちと心地よい距離感で触れあえたからでした」
「物の哀れ」を日本語のまま、もはや口癖のように引き合いに出す。
映画「桜の花」の副題も、「HANAMI」と、あえて日本語にした。「はかなく、うつろう人生のメタファー(隠喩)」として、花見の光景を織りこみたかったのだ。
私生活では96年に、映画カメラマンで8年連れ添った夫を病で失い、絶望に打ちのめされたこともある。
心に激痛が走るほど、「物の哀れ」は身にしみている。
ドーリス・デリエさん 「隠れみのをまとったように安心感に浸れる」
ReplyDelete――27年前に初めて来日したとき、なぜ、「黒い魚の群れ」に溶けこみたいと思ったのですか。
同じようであっても、東京のまっただなかを歩いている群衆とドイツで見かけるそれは、まるで性質が違うものに思えるんです。
つい最近のことですが、演技の教室で数十人のドイツ人に「お魚の群れのように動いてみて」と指示したら、まるでうまくいかなかった。個々人と集団の間合いがなかなかつかめず、一体、だれが群れ全体の動きを決めるんだ、という議論になってしまうんです。
しかし、東京を歩く人びとは自然に調和のとれた集団になっています。私も最初は、その物静かに流れるような動きに入りこむ勇気がなかった。他人とぶつからないためには、意識せずとも、集団の存在を常に感じていなければならない。でも、いったん、そこにまぎれこんでしまえば、まるで、隠れみのを身にまとったように自分の姿かたちを消し去ってしまえる安心感に浸れる気がしました。
群れのなかでどう動くのかは私にとって、ある意味、哲学的な問いかけになっていたんです。
「物の哀れ」
――それから約10年後の2度目の来日は、当時5歳のひとり娘と2人連れだったそうですね。どんな旅になりましたか。
東北の山あいの温泉地へ行き、民宿に泊まりました。共同の大浴場にも入りましたよ。このときは母親の立場だったので、たくさんの日本女性と知り合う機会に恵まれました。つまり、女たちの群れに入りこめたのです(笑)。
2度目の日本体験で心がうち震えるほど感動したのは、人びとがなにをするにつけても、きちょうめんに細やかさと丁寧さを動作にゆき渡らせていることでした。
それは、なにかの品物を包んだりとか、だれかに名刺を渡したりとか、そんな、ちょっとしたしぐさにも表れていて、わけへだてなく物をおろそかにしない態度が感じとられたんです。
愛撫(あいぶ)するがごとく、小さきものまで神々しくあつかうことにかけて日本人はマイスター(名人)だと確信しました。と同時にこれが、かねてから聞きおよんでいた「物の哀れ」という考え方の発露なのかと思うようになったのです。はかなく、うつろうものへの愛惜に喜びを見出しているのだと。
――その体験は、ご自身の映画観にも影響をあたえましたか。
帰国してから、真っ先に小津安二郎監督の映画を見たんです。
じつは、ミュンヘン・テレビ映画大学の学生時代、講義で見せられた小津監督の映画はテンポがゆっくりし過ぎていて気に入らなかったんです。ところが、見直してみると、やはり、「物の哀れ」の情感が全編にあふれていることを再発見しました。それだけではなく、小津監督が何度も繰り返し描いている「家族」が、私自身の映画のテーマにもなりました。
夫との死別
ReplyDelete――ドイツ人に「物の哀れ」を分かってもらえますかね?
ドイツと日本、それぞれの文化に共通するのが「秩序志向」「ロマンチシズム」「非合理主義」です。私の解釈では、この三つの要素がぶつかりあうところに「物の哀れ」が生じる。感受性は日本人ほど発達していませんが、ドイツ人にも受け入れられるはずです。
――日本に深入りすることで、あなたは変わった。もうひとつの人生のターニングポイントが、夫との死別だったわけですね。
ガンをわずらった夫が1996年春に亡くなったときは、もう二度と映画なんか撮れないと絶望してしまいました。人生のパートナーであるとともに、カメラマンだった彼は、私の「目」でもありましたから。事実、映画を1本撮る契約があったのに、まったく手をつけられなくなってしまった。
そのとき、亡夫の友人だったカメラマンに、毎日、ハンディサイズのビデオカメラを持って外へ出かけるように説得されたんです。気分次第で少しずつ撮りためた、ありのままの日常の映像は、「瞬間」と題した映画になりました。
それは極私的なドキュメンタリー作品でしたが、物事の本質を一直線にわしづかみにする表現力がみなぎっていた。それ以後、私は、あえて綿密なプランを組み立てずに、なりゆきに身をまかせて映画を撮るようになりました。その最初の劇映画が「MON―ZEN」だったんです。
――来年、ふたたび日本を舞台にした映画を撮るそうですね。
じつは最初、若いころに教わった松尾芭蕉の「おくのほそ道」を題材にしたドキュメンタリー映画を撮ろうとしていたんです。
ドイツで暮らす日本人舞踏家と日本で暮らすドイツ人俳優の2人の男性に、「おくのほそ道」の旅の道ゆきをさせて、芭蕉が詠んだ句のモチーフの残像を探し求める作品になるはずでした。ところが、福島の原発事故で断念せざるを得なくなってしまった。
いまは頭を切りかえて、京都をロケ地にした別の映画を撮るつもりです。テーマは「亡霊」。
――コメディー仕立てのホラー映画ですか?
そうじゃなくて、日本の近代化にかかわったドイツの痕跡をあぶり出してみたい。歴史の闇からドイツと日本の「亡霊」を現代へ呼びよせるドラマにするつもりです。