Monday, February 4, 2013

煎茶

もともと中国での煎茶の歴史は長く、茶葉を煮て抽出したものを薬用として利用していた記録が3000年以上前、実に紀元前からあると言います。
しかし、日本が唐や宋時代に大陸に大使を送り、文化を吸収し始めた頃には、その文化は廃れていて、代わりに抹茶の文化が栄えていたため、日本に最初に伝来したのは抹茶でした。
お茶の文化が広く普及したきっかけは、安土桃山時代の著名な茶人、千利休が日本の茶道を大成させたことに集約できるでしょう。
中国では利休の活躍する以前から明の時代に入っており、製茶法が発達したことで再び抹茶が廃れ、煎茶の文化が盛んになってきていました。
中国から伝来したこの煎茶の文化が、千利休によって起こされた日本のお茶文化の流行の波に乗り、大きく各地に飛び火したというのが一般的見解ですが、隠元禅師や石川丈山、高遊外賣茶翁という様々な説があり、最初に誰の手によって広められたのかは未だに謎のままです。
江戸時代中期には現代の製法の基礎に通じる宇治製法が永谷宗円によって開発され、焙炉による乾燥技術も進み、茶葉の色、香り、奥深い風味を損なわずに加工することが容易になったほか、これを受けて蒸された後に茶葉を揉む工程が追加され、おおよその形が江戸末期には整うようになりました。
現代とほぼ同じように製法や評価基準に統一感が見られ、機械化が進んで等級毎に大量生産が始まったのは明治時代のことです。
そう考えれば、狭義の煎茶の歴史がとても浅いことに気付くでしょう。

1 comment:

  1. 煎茶道

    ウィキペディア

    http://ja.wikipedia.org/wiki/煎茶道

    煎茶道は、広義には茶道の一種。ただし、一般的には茶道は抹茶を用いる抹茶道を指すことから、急須等を用いて煎茶や玉露などの茶葉に湯を注いで飲む形式を採る煎茶道は、茶道とは別のものとして捉えられている。

    日本における煎茶道の開祖は、江戸時代初期に禅宗の一つである黄檗宗を開いた隠元隆琦とされている。このことから、現在も全日本煎茶道連盟の事務局は京都の黄檗山萬福寺内に置かれ、同連盟の会長は萬福寺の管長が兼務することが慣わしとなっている。

    この頃既に茶道の世界において形式化が進みつつあったことへの反発に加え、煎茶自体が当時最新の中国文化であったことなどから、形式にとらわれずに煎茶を飲みながら清談を交わすいわゆる「煎茶趣味」が文人の間で急速に広まった。江戸中期になると売茶翁により、それまで中国文化の模倣の域を出なかった煎茶趣味の世界に独自の方向が示され、さらに煎茶は江戸や京都・大坂を中心に上流階級に広く普及した。

    この動きの中で、主に「より美味しいお茶を味わうため」の技術を追求する目的に加え茶道の流儀などを参考とし、一定の形式や礼法を定めた「宗匠派」と呼ばれる一派も生まれる。

    その後明治・大正期の文明開化の流れの中で西洋文化がもてはやされたことから、中国文化に由来する煎茶道は一時衰退を余儀なくされるが、昭和に入り煎茶道を復興しようとする動きが各地で盛んとなり、1956年には全日本煎茶道連盟が設立される。1960~1970年代には煎茶道は一時隆盛を迎えるが、近年煎茶の大衆化が進むにつれ煎茶道への関心は薄れてきており、現在動きは停滞している状況である。

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