Tuesday, December 4, 2012

古森義久

レフチェンコ氏は中国の周恩来首相の死後に日本に流れた“周首相の政治遺書”がKGBによる完全な創作であることを、この秘密聴聞会で明らかにした。この“遺書”は日本の一部新聞でも特ダネとして報道された。当時は台湾筋による創作ではないかとの見方が語られていたが、レフチェンコ氏の証言によれば、KGBはこの“遺書”により中国指導部内の対立や揺れ、不安定要因をなまなましく強調することによって日本側に対中接近をためらわせることを狙い、文書をすべてねつ造して日本側の報道機関に取りあげられるよう仕組んだ。同氏自身この偽造文書の配布の段階の工作に、直接関与したという。

2 comments:

  1. 故周恩来首相の“遺書” 「KGBがねつ造」 
    元在日ソ連スパイが米議会で暴露 日中の離反狙い

    毎日新聞

    昭和57年12月2日
     
    【ワシントン1日古森特派員】米国議会関係筋は1日、3年前に東京から米国に亡命したソ連の国家保安委員会(KGB)元工作員の米議会秘密聴聞会における証言の重要点を明らかにした。 証言は近く議会から公表される。同筋によればこの工作員は雑誌特派員の肩書きで75年から4年間、滞日したが、実際にはKGBの少佐としてスパイ、謀略活動に従事していたという。証言は日本でのKGBのそうした活動内容をくわしく説明し、スパイや謀略のために同工作員が自民党国会議員や社会党幹部に働きかけた状況を明らかにしているといわれる。とくに謀略面では、6年前に日本の一部で大きく報道された故周恩来中国首相の“遺書”とされる文書が、実は日中離反をねらってのKGBの完全なねつ造品であることが確認された。

    米国に亡命したこのKGB元メンバーは、ソ連の外交評論週刊誌「ノーボエ・プレーミャ」(新時代)の東京特派員として75年に来日したスタニスラフ・アレクサンドロビッチ・レフチェンコ氏(41)。同氏は79年10月、東京の米国大使館に米国への政治亡命を求め、即日、認められて米国に渡った。亡命の理由について本人は日本外務省に対し「ソ連社会での生活、未来に失望した」とだけ述べた。

    その後、米国でのレフチェンコ氏自身の供述や米国情報磯関の調査によって、同氏について①雑誌特派員というのは偽装にすぎず、そのために一年間の“記者”としての訓練を訪日前に受けただけで、実際の身分はKGB所属の少左だった②KGBの中でも最も大胆な工作をする「積極工作部」の所属で、東京でもKGBの対日積極工作の担当者だった③日本では“記者の肩書”を隠れみのにしてスパイ、謀略の活動を一貫して行っていた――ことなどが判明した。

    米議会筋によれば、下院情報特別委員会(エドワード・ボランド委員長)はことし夏、レフチェンコ氏を秘密聴聞会の証人としてひそかに招き、日本での活動をはじめとするKGBのスパイ、謀略の実態についてくわしく聞いた。レフチェンコ氏がそこで明らかにした惰報の質と量からみて、同氏はこれまでに西側に亡命したKGB関係者の中でも“最も有用で重要な人物のひとり”であることが判明したという。

    下院情報特別委員会はソ連による反核運動への働きかけ、米国の中性子爆弾など新兵器開発阻止の世論工作など最近のKGBの積極工作の実態を明らかにするために一連の秘密聴聞会を開き、レフチェンコ氏も証人の一人として招かれ、この証言を行った。

    (中略)

    さらに同関係筋によれば、レフチェンコ氏は中国の周恩来首相の死後に日本に流れた“周首相の政治遺書”がKGBによる完全な創作であることを、この秘密聴聞会で明らかにした。この“遺書”は日本の一部新聞でも特ダネとして報道された。当時は台湾筋による創作ではないかとの見方が語られていたが、レフチェンコ氏の証言によれば、KGBはこの“遺書”により中国指導部内の対立や揺れ、不安定要因をなまなましく強調することによって日本側に対中接近をためらわせることを狙い、文書をすべてねつ造して日本側の報道機関に取りあげられるよう仕組んだ。同氏自身この偽造文書の配布の段階の工作に、直接関与したという。

    (中略)

    【注】周恩来中国首相が76年1月8日死去後、1月23日付サンケイ新聞は「今日のレポート」欄で「『ある筋』としか書けないのが残念だが、その『ある筋』が『最近香港から流れてきた話だ……』と面白い情報をきかせてくれた」との書き出しで、周首相が遺書を残したとの情報を伝えた。この「遺書」は①平和、民主、社会主義勢力の協力、プロレタリア国際主義の維持②文革のような誤りを再び党内に持ち込まないこと③重工業重視――を訴えている。個人的メモを残さない習慣の同首相が残したという遺書の信ぴょう性について同紙も疑問があると書いたが、同年1月29日のソ連タス通信は「内容が周首相の全生涯と合致している」と本物説を取り、サンケイ新聞が紹介した「遺書」の内容を群しく報じた。さらに同通信は「これは周恩来が中ソ関係を絶望的対決の状態にもっていきたくない旨考えていたことを示す」と“解説”を加えている。

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  2. 後にサンケイ新聞に移籍する古森義久記者がスクープした米議会秘密聴聞会の内容は1週間後に公表された。議事録にはKGBが捏造した「周恩来の遺書」情報を垂れ流したサンケイ新聞の記事が添付され、「FORGERY」(偽造)のスタンプが押されていた。

    秘密聴聞会でレフチェンコは、サンケイ新聞の記事を示しながら次のように証言した。

    1982年7月14日 米下院情報特別委員会秘密聴聞会議事録から 
     
    私が操ったエージェントのうち4人は日本の優れたジャーナリストでした。こうしたエージェントたちは与党自民党とハイレベルの接触があり、また閣僚も含む政府高官との接触があったため、日本政府の内外政策に関する秘密の口頭情報や資料をソ連に提供してくれました。エージェントの一人は、300万部以上の発行部数を持つ大新聞社(注:サンケイ新聞が300万部以上というのはレフチェンコの誤認)のオーナーが極めて信頼を寄せる人物でした。彼はソ連がこの新聞を通じて各種のアクティブメジャーズ(自国に有利な政治状況を作り出す積極工作)を実行するために利用されました。

    彼は私に引き継がれる少し前に「周恩来が遺書を残している」という記事を書きましたが、これこそ70年代にソ連が捏造したものの中で最も成功したケースでした。この遺書はKGB第1総局積極工作部のスペシャリストたちによって捏造されたもので、毛沢東が死ぬ直前、中国指導部内で主要政策で深刻な対立があることを示そうとするものでした。この偽の遺書はマスメディアによって世界の多くの国に伝えられました。

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