鉄眼禅師 仮字法語『第二章 色』【二の一】第一に、色というは、我この身なり。また世界の天地草木にいたるまで、形のあり、色のある物はみな、この色のうちなり。楞厳に、一切衆生無始よりこのかた、己にまよいて、物として、本心を失いて、物のために転ぜらる、といえり。【二の二】この意(こころ)は、一切万法はみな法身真如の体なる事を知らずして、かえって天地の中の万物と思いて、その万物の境界にまよいて、物のために、わが心を転ぜられて、さまざまの妄想を起こすという事なり。【二の三】また古人、法身は形殻のうちにかくるといえり。形殻とはこの身なり。この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、わが身と思えるは、法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、ふかく悪道にしずむなり。【二の四】本より法身の如来なるを、まよいて万物と思い、またはわが身と思うには、二重のまよいあり。【二の五】まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、つくりたてたるものなり。身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。涙よだれ血などは水なり。あたたかなるは火なり。出入の息と、うごきはたらくは風なり。この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、ただ白骨となりて、つゆほどもわが身とたのむべきものなし。かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、このされこうべにつかわれて、地獄の業をのみつくりて、三途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。これ一重の、凡夫のまよいなり。【二の六】さてまた二乗は、凡夫よりも、智恵かしこきゆえに、この身は地水火風の、仮のものぞと、よく見あきらめて、この身をまことの白骨のようにみなし、身においてちりほども、執着の心なし。かつてこの身のために我執我慢をもおこさず、貪欲瞋恚をもおこさず、いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。かくのごとくのさとりはひらけぬれども、いまだこの身の、法身如来なることをしらず、これによりて、世尊、小乗とて大いにきらいたまえり。かの法身の当体をさとらざる故に、二乗の智恵にては、仏の内証、菩薩の境界は、いまだ夢にも見ず。これまた二乗の、一重のまよいなり。さきの凡夫のまよいとともには二重なり。二乗は法身にまようこと一重。凡夫は法身にもまよい、また二乗のさとりしところにもまよう故に、二重のまよいなり。【二の七】菩薩は、凡夫と二乗との、二重のまよいをこえて、この身をすなわち、法身如来と見たまう。これを心経には、色即是空、空即是色と説きたまえり。色というはこの身なり。空というは真空、真空は法身、法身は如来のことなり。さてはこの身すなわち法身、法身すなわちこの身という意なり。二乗は地水火風、本より法身の体なることを知らずして、地水火風は、非情の物なりと思えり。【二の八】菩薩の眼にて見たまう時は、地水火風、みな法身の真体なり。この故に楞厳には、性色真空、真空性色と説きたまえり。色というは地の事なり。性というは、この地は本より、法身の体なるゆえに性色という。性色なるゆえに、すなわち真空なり。また同じ経に、水を性水真空、真空性水ととき、火を性火真空、真空性火ととき、風を性風真空、真空性風邪と説たまえり。これもはじめの地のごとく、水すなわち法身、法身すなわち水、火すなわち法身、法身すなわち火、風すなわち法身、法身すなわち風という意なり。かくのごとくなれば、地水火風は、もとより地水火風にあらず、法身真如の妙体なるを、二乗と凡夫とは、まよいて地水火風と思えり。【二の九】もし地水火風、本より仏なる事をさとりぬれば、わがこの身、はじめより法身なるのみにあらず。天地虚空、森羅万象にいたるまで、みなことごとく法身の妙体なり。このさとりのひらけし時を、諸法実相ともいい、草木国土悉皆成仏ともいえり。【二の十】草木国土のみにあらず、虚空にいたるまで、法身の体なるを、まよいて虚空とおもえり。このさとりのひらくる時、虚空とおもいしもきえて、万法一如のさとりとなる。このゆえに、楞厳には一人真を発して、源に帰すれば、十方の虚空一時に消磒すととき、円覚経には、無辺の虚空、覚に顕発せらるともいえり。禅家には、大地平沈し、虚空分砕すといえり。また極楽を黄金の地とときたまうも、この事を凡夫のために、名をかえて説かれたり。【二の十一】このさとりをひらきて見れば、わが身はわが身ながら、本より法身の体にして、生まれたるにもあらず。生れざる身なれば、死するという事もなし。これを不生不滅といい、または無量寿仏という。生ずると見、死すると見る、これをまよいの夢と名づく。【二の十二】わが身すでにそのごとくなれば、人の身もそのごとし。人間そのごとくなれば、鳥類畜類、草木土石まで、みなしからずという事なし。水鳥樹林、念仏念法、念僧の声を出すと、弥陀経にとき、また十方の諸仏、広長の舌相を三千大千世界に出して、法をときたまうと、のたまいしも、この時のことなり。法華経の中に、諸法は本よりこのかた、つねにおのずから寂滅の相といい、または、法は法位に住して、世間の相は常住なりと、とかれたるも、みなこのさとりのひらけたるをのべられしところなり。よくよく坐禅工夫して、かかるさとりにかない、色蘊のまよいをこえて、法身実相の体にかなうべし。
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鉄眼禅師 仮字法語
ReplyDelete『第二章 色』
【二の一】
第一に、色というは、我この身なり。
また世界の天地草木にいたるまで、形のあり、色のある物はみな、この色のうちなり。
楞厳に、一切衆生無始よりこのかた、己にまよいて、物として、本心を失いて、物のために転ぜらる、といえり。
【二の二】
この意(こころ)は、一切万法はみな法身真如の体なる事を知らずして、かえって天地の中の万物と思いて、その万物の境界にまよいて、物のために、わが心を転ぜられて、さまざまの妄想を起こすという事なり。
【二の三】
また古人、法身は形殻のうちにかくるといえり。
形殻とはこの身なり。
この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、わが身と思えるは、法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、ふかく悪道にしずむなり。
【二の四】
本より法身の如来なるを、まよいて万物と思い、またはわが身と思うには、二重のまよいあり。
【二の五】
まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、つくりたてたるものなり。
身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。
涙よだれ血などは水なり。
あたたかなるは火なり。
出入の息と、うごきはたらくは風なり。
この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。
ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、ただ白骨となりて、つゆほどもわが身とたのむべきものなし。
かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、このされこうべにつかわれて、地獄の業をのみつくりて、三途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。
かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。
【二の六】
さてまた二乗は、凡夫よりも、智恵かしこきゆえに、この身は地水火風の、仮のものぞと、よく見あきらめて、この身をまことの白骨のようにみなし、身においてちりほども、執着の心なし。
かつてこの身のために我執我慢をもおこさず、貪欲瞋恚をもおこさず、いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。
かくのごとくのさとりはひらけぬれども、いまだこの身の、法身如来なることをしらず、これによりて、世尊、小乗とて大いにきらいたまえり。
かの法身の当体をさとらざる故に、二乗の智恵にては、仏の内証、菩薩の境界は、いまだ夢にも見ず。
これまた二乗の、一重のまよいなり。
さきの凡夫のまよいとともには二重なり。
二乗は法身にまようこと一重。
凡夫は法身にもまよい、また二乗のさとりしところにもまよう故に、二重のまよいなり。
【二の七】
菩薩は、凡夫と二乗との、二重のまよいをこえて、この身をすなわち、法身如来と見たまう。
これを心経には、色即是空、空即是色と説きたまえり。
色というはこの身なり。
空というは真空、真空は法身、法身は如来のことなり。
さてはこの身すなわち法身、法身すなわちこの身という意なり。
二乗は地水火風、本より法身の体なることを知らずして、地水火風は、非情の物なりと思えり。
【二の八】
菩薩の眼にて見たまう時は、地水火風、みな法身の真体なり。
この故に楞厳には、性色真空、真空性色と説きたまえり。
色というは地の事なり。
性というは、この地は本より、法身の体なるゆえに性色という。
性色なるゆえに、すなわち真空なり。
また同じ経に、水を性水真空、真空性水ととき、火を性火真空、真空性火ととき、風を性風真空、真空性風邪と説たまえり。
これもはじめの地のごとく、水すなわち法身、法身すなわち水、火すなわち法身、法身すなわち火、風すなわち法身、法身すなわち風という意なり。
かくのごとくなれば、地水火風は、もとより地水火風にあらず、法身真如の妙体なるを、二乗と凡夫とは、まよいて地水火風と思えり。
【二の九】
もし地水火風、本より仏なる事をさとりぬれば、わがこの身、はじめより法身なるのみにあらず。
天地虚空、森羅万象にいたるまで、みなことごとく法身の妙体なり。
このさとりのひらけし時を、諸法実相ともいい、草木国土悉皆成仏ともいえり。
【二の十】
草木国土のみにあらず、虚空にいたるまで、法身の体なるを、まよいて虚空とおもえり。
このさとりのひらくる時、虚空とおもいしもきえて、万法一如のさとりとなる。
このゆえに、楞厳には一人真を発して、源に帰すれば、十方の虚空一時に消磒すととき、円覚経には、無辺の虚空、覚に顕発せらるともいえり。
禅家には、大地平沈し、虚空分砕すといえり。
また極楽を黄金の地とときたまうも、この事を凡夫のために、名をかえて説かれたり。
【二の十一】
このさとりをひらきて見れば、わが身はわが身ながら、本より法身の体にして、生まれたるにもあらず。
生れざる身なれば、死するという事もなし。
これを不生不滅といい、または無量寿仏という。
生ずると見、死すると見る、これをまよいの夢と名づく。
【二の十二】
わが身すでにそのごとくなれば、人の身もそのごとし。
人間そのごとくなれば、鳥類畜類、草木土石まで、みなしからずという事なし。
水鳥樹林、念仏念法、念僧の声を出すと、弥陀経にとき、また十方の諸仏、広長の舌相を三千大千世界に出して、法をときたまうと、のたまいしも、この時のことなり。
法華経の中に、諸法は本よりこのかた、つねにおのずから寂滅の相といい、または、法は法位に住して、世間の相は常住なりと、とかれたるも、みなこのさとりのひらけたるをのべられしところなり。
よくよく坐禅工夫して、かかるさとりにかない、色蘊のまよいをこえて、法身実相の体にかなうべし。
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