Sunday, August 12, 2012

藤原帰一

イスラム社会や第三世界への連帯、というものを私は信用しない。そこには、国際共産主義運動への連帯が独裁への黙認を伴っていたのと同じような自己欺瞞があるからだ。
また、世界的規模で民主主義を実現するためには必要な闘争だという主張も信用できない。本来は国内体制の選択である民主化を対外闘争の理念にすり替えることは、植民地支配が植民地に文明をもたらすと考えた帝国主義者たちと選ぶところのない、観念の詐術に過ぎないからだ。
さらにいえば、憲法9条と絶対平和主義が展望を開くとも考えない。一見すれば普遍主義的なこの主張は、日本の非武装化を世界平和の推進にすり替えた概念操作であって、核抑止の受益者であるという日本の現実と奇怪な共存を続けてきたものに過ぎなかった。他者の排除なしに平和があり得ないと信じ込む勢力を前に、戦力を放棄した世界を説いても意味はない。
むしろ、平和から理想の仮面を取り除くことが必要ではないか。世界平和といえばユートピアのように響くだろうが、本来の平和とは戦争のない状態に過ぎない。その平和を支えるのは、もちろん各国の武力による威嚇であるが、それに加えて、互いの交渉、取引、妥協がなければこの散文的な平和を支えることはできない。ユートピアでなく、現実としての平和を見直すことが理想主義から脱却する第一歩だろう。

2 comments:

  1. 平和の時代へ 「理想主義」を超えよ

    by 藤原 帰一

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  2. 新年に現代世界を論じるのであれば、まずは理念、価値、理想を語るべきところだろう。だが私は正反対のことを試みたい。現在の国際関係を脅かしているのは理想の喪失ではなく、理想を高く掲げ、自分の抱く理念を疑おうとしない態度であると考えるからだ。

    その一つが、中東から東南アジアにかけて影響力を広げるイスラム急進勢力である。イスラム社会とその価値観がアメリカとその手先によって脅かされているという彼らの世界観は、パレスチナからアフガニスタンに至るまで、イスラム社会が犠牲にされてきたという認識に裏付けられている。被害者意識は被害妄想を生みだし、加速する。自らの抱く恐怖を投影して、敵の姿が過大に拡大され、それが終末論的な闘争に根拠を与えるのである。

    そこでは個々の紛争の詳細な検討はなおざりにされ、「われわれ」と「やつら」の二元的対立にすべてが解消されてしまう。かつてPLOが追い求めた左翼的急進主義と比べても極度に観念的なこの世界観の下で、軍人と一般市民の見境なく殺戮するような無残な暴力が正当化されてしまう。

    もう一つが、現代アメリカに広がる保守主義だろう。「ネオコン」と通称される政策決定者の一群の背景には、アメリカ社会における民主主義の教条化と、急進的キリスト教徒の活動があった。世界を民主主義とそれを否定する勢力、またキリスト教徒とその信仰を脅かす勢力との対決としてとらえる彼らの世界観は、イスラム急進勢力を鏡に映したように、観念的で不寛容な、友敵二元論に支配されている。そして、この観念に裏打ちされることで、テロリストを撲滅する作戦が一般市民を巻き添えにしても、必要悪として承認されることになる。

    このようなイスラム教とキリスト教の把握は、本来の教えから見れば異端に過ぎない。また、民主主義と自由主義は多様な集団による共存を可能とする制度の思想であって、間違っても対外偏見を正当化するような粗暴な観念ではない。

    だが、それが宗教であれ、世俗的な思想であれ、急進化し、教条化した理念は、絶対者と自己を一体化することを通して、自己の絶対化と他者性の否定に陥る危険をはらんでいる。国際共産主義運動のもたらした自己欺瞞と粗暴な暴力から解放されたはずの世界は、再び教条化した観念が不寛容に向かい合う対立に支配されてしまった。

    イスラム急進勢力や福音派キリスト教徒の抱く終末論的世界観を共有する人が多いとは思えない。だが、同時多発テロ事件以後の世界がこの二つの急進的な主張によって揺り動かされてきたことは否定できない。

    イスラム社会でいえば、イスラム教徒の受難に共感するあまり、急進主義の粗暴な世界観を黙認する人が少なくない。先進工業国の場合、教条化した民主化構想には同意しなくても、アメリカ政府による過大な暴力行使を黙認する指導者は少なくなかった。アフガニスタンとイラクという二つの戦争を経験しながら、理念の先走った理想主義者の戦争には出口の見えない現状が続いている。

    それでは、理想主義者の戦争を前にして、どのような選択があるのか。

    まず、イスラム社会や第三世界への連帯、というものを私は信用しない。そこには、国際共産主義運動への連帯が独裁への黙認を伴っていたのと同じような自己欺瞞があるからだ。

    また、世界的規模で民主主義を実現するためには必要な闘争だという主張も信用できない。本来は国内体制の選択である民主化を対外闘争の理念にすり替えることは、植民地支配が植民地に文明をもたらすと考えた帝国主義者たちと選ぶところのない、観念の詐術に過ぎないからだ。

    さらにいえば、憲法9条と絶対平和主義が展望を開くとも考えない。一見すれば普遍主義的なこの主張は、日本の非武装化を世界平和の推進にすり替えた概念操作であって、核抑止の受益者であるという日本の現実と奇怪な共存を続けてきたものに過ぎなかった。他者の排除なしに平和があり得ないと信じ込む勢力を前に、戦力を放棄した世界を説いても意味はない。

    むしろ、平和から理想の仮面を取り除くことが必要ではないか。世界平和といえばユートピアのように響くだろうが、本来の平和とは戦争のない状態に過ぎない。その平和を支えるのは、もちろん各国の武力による威嚇であるが、それに加えて、互いの交渉、取引、妥協がなければこの散文的な平和を支えることはできない。ユートピアでなく、現実としての平和を見直すことが理想主義から脱却する第一歩だろう。

    理念の戦いは、妥協と共存を排除してしまう。だが理想主義者の目には汚く見える取引や談合も、他者の存在を前提としている点において、自己の絶対化に陥った理想主義者たちよりもはるかに現実世界の多様性にかなった行動であり、社会の対立が暴力行使に陥る事態を防ぐために無視できない役割を果たしている。

    理念の対立を利益の対立にまで引き下ろし、妥協と取引の可能性を探ること。ごく散文的な出口には違いないが、終末論的な世界の対抗から実際的な国際関係を取り戻すためには避けられない作業だろう。

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