元早稲田大学高等学院サッカー部監督
http://intelligence.wasedabook.com/SoccerNote/index.html工藤孝一監督は、日本代表監督まで務め上げた人だが、何と言っても、1936年、日本代表コーチとしてベルリンオリンピックに出場し、「ベルリンの奇跡」を成し遂げた活躍が華々しい。1942年には日本代表監督に就任、その後、従軍。復員後は、郷里岩手で、岩手県サッカー協会の設立に関わり、八重樫茂生を育てるなどし、1952年に再び上京、早稲田大学ア式蹴球部を率いることになる。彼の指導を受けた学生には、川淵三郎さんや松本育夫さん、宮本征勝さん、森孝慈さんなど、多士済々。つまり、彼は、現在の日本サッカー界の重責を担う数々の人たちを育てた名伯楽ということになるのである。彼は、東伏見グラウンドとは西武新宿線の反対側にある工藤薬局を薬剤師の奥さんに任せ、サッカー三昧だった。個人的に話をすると本当に優しい人であったが、グラウンドでは「鬼」となって厳しい人だった。1966年に監督職を引退、1971年にお亡くなりになるまでサッカーに生きた人であった。
元早稲田大学高等学院サッカー部監督
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ReplyDelete工藤孝一監督は、日本代表監督まで務め上げた人だが、何と言っても、1936年、日本代表コーチとしてベルリンオリンピックに出場し、「ベルリンの奇跡」を成し遂げた活躍が華々しい。1942年には日本代表監督に就任、その後、従軍。
復員後は、郷里岩手で、岩手県サッカー協会の設立に関わり、八重樫茂生を育てるなどし、1952年に再び上京、早稲田大学ア式蹴球部を率いることになる。
彼の指導を受けた学生には、川淵三郎さんや松本育夫さん、宮本征勝さん、森孝慈さんなど、多士済々。つまり、彼は、現在の日本サッカー界の重責を担う数々の人たちを育てた名伯楽ということになるのである。
彼は、東伏見グラウンドとは西武新宿線の反対側にある工藤薬局を薬剤師の奥さんに任せ、サッカー三昧だった。個人的に話をすると本当に優しい人であったが、グラウンドでは「鬼」となって厳しい人だった。
1966年に監督職を引退、1971年にお亡くなりになるまでサッカーに生きた人であった。