わたしが向かおうとしているのは、芝山千代田駅から二・七キロほど南東にある小さな集落、地名を芝山町大字大里、小字を加茂という。この村いちばんの大地主の家に生まれた石井四郎は、内地から優秀な医師や科学者を集めて、満州で細菌兵器の研究・開発・大量生産に取り組んだ。その施設は、石井自身の言葉によると「丸ビルの十四倍半」もあるほど大きな研究室や飛行場、農場、馬場のほかに、東郷村と名づけられた官舎や国民学校、大浴場、酒保、郵便局、病院まで備えたまさにニュータウンと呼べるほどの規模だった。
関東軍七三一部隊に送り込まれた加茂の村人の顔ぶれもさまざまだった。貧しい小作人の次男、三男はもちろんのこと、十五歳の少年から、大工、左官屋、タイル職人、運転手、中華料理店のコックに至るまで、地元の働き手が根こそぎ動員されたといってよい。その数は百数十名ともいわれ、彼らは内地の二倍、三倍の給料をもらって、故郷へ仕送りをした。
ソ連軍が満州へ雪崩れ込んだ終戦の夏、命からがら内地に帰り着いた村人は、以来、貝のように口をつぐんで闇の帝国の秘密を守り通した。「七三一部隊の秘密は墓場までもっていけ」と厳命した石井の言葉にしたがい、隠れるように暮らし、なかには恩給も受けられず生活に窮乏するものもあったという。大地主だった石井家と加茂の村人は蔦のように絡み合いながら繋がり、その特別の連鎖が奥深い闇を生み落としたのである。
石井家から伸びる長い蔦を手繰り寄せるうち、わたしは石井家のお手伝いさんだった渡邊あきという女性が存命であることを知った。当時九十歳、東京の東大井に住んでいることもわかった。渡邊あきを訪ねたのは二〇〇三年五月である。むかしながらの大通りに面した書店の裏手、息子が新築した家の一室で、渡邊あきは穏やかな表情でわたしを迎えてくれた。
数ヵ月後、これまで存在すら全く知られていなかった石井四郎直筆の「1945-8-16終戰当時メモ」と「終戰メモ1946-1-11」が見つかり、わたしは急いで帰国した。かつて終戦直後、部下にノートを託そうとスイカを下げて石井四郎が歩いた道。当時はさぞかし殺風景だったろう同じ道路を五〇年以上後にわたしも歩いて石井の記したノートを見に行くのである。その巡り合わせの不思議さにとらわれながら辿り着いた渡邊家で、周一から二冊の大学ノートを受け取った。
A5判の黄ばんだ大学ノートで、一九四六(昭和21)年のノートには表紙に「石井四郎」と本人が名前を記している。開いてみると、鉛筆で、旧漢字を使った独特の崩し文字で書かれている。判読できない文字や数字が並んでいる。表題にメモとあるように、その日の出来事や用件を綴った覚書であり、いわゆる備忘録である。丹念に読みはじめるうち、行間から石井の息遣いが次第に伝わってくるようで、わたしの手はふるえた。
731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く―
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プロローグ 深い闇
ニューヨークのケネディ空港を飛びたった旅客機が十数時間の飛行ののち、成田空港に近づいて次第に機体を降下させていくと、緑におおわれた小高い丘陵が目に入り、それを囲む畑や水田の穏やかな風景が次第に姿をあらわす。
この風景を眺めるたびにわたしはちょっとした感傷につつまれ、無事に日本へ帰ってきた思いにほっと胸をなでおろす。緑深い平野の広がりはいつも両手を広げて優しく迎えてくれる。9・11以降、わたしの住むニューヨークでは、マンハッタンにかかる橋やトンネルの爆破、炭疽菌やペスト菌、自爆テロによる攻撃など、さまざまな警告が出されるたびに住民は不安にさいなまれてきた。そんな日々からしばらく解放される安堵感につつまれる。
しかし、いつもわたしを癒してくれた緑の光景も、今回は少しちがってみえる。成田空港の南東に隣りあわせてゴルフ場が散在するこのあたりは、二〇〇五年現在、千葉県山武郡芝山町である。日本へ帰国し、わたしが向かおうとしているのは、二〇〇二年秋に開通した芝山鉄道の芝山千代田駅から二・七キロほど南東にある小さな集落、地名を芝山町大字大里、小字を「加茂」という。
「加茂」――その名前は、歴史の波に飲まれるように、ほとんど忘れ去られようとしている。しかし、この小集落が、戦前、遥か満州北部の「平房(ピンファン)」という寒村に、「闇の帝国」と呼ぶにふさわしい一大細菌(生物)戦施設をつくった関東軍七三一部隊の隊長、石井四郎の故郷であり、多くの村人もこの施設へ送り込まれた事実は、拭い去ることができない。
この村いちばんの大地主の家に生まれた石井四郎は、内地から優秀な医師や科学者を集めて、満州で細菌兵器の研究・開発・大量生産に取り組んだ。その施設は、石井自身の言葉によると「丸ビルの十四倍半」もあるほど大きな研究室や飛行場、農場、馬場のほかに、東郷村と名づけられた官舎や国民学校、大浴場、酒保、郵便局、病院まで備えたまさにニュータウンと呼べるほどの規模だった。
はじめは「東郷部隊」、続いて「加茂部隊」や「石井部隊」、そして「関東軍七三一部隊」の防諜名で呼ばれた部隊に送り込まれた「加茂」の村人の顔ぶれもさまざまだった。貧しい小作人の次男、三男はもちろんのこと、十五歳の少年から、大工、左官屋、タイル職人、運転手、中華料理店のコックに至るまで、地元の働き手が根こそぎ動員されたといってよい。その数は百数十名ともいわれ、彼らは内地の二倍、三倍の給料をもらって、故郷へ仕送りをした。
ソ連軍が満州へ雪崩れ込んだ終戦の夏、命からがら内地に帰り着いた村人は、以来、貝のように口をつぐんで「闇の帝国」の秘密を守り通した。平房の破壊を命じ、「七三一部隊の秘密は墓場までもっていけ」と厳命した石井の言葉にしたがい、隠れるように暮らし、なかには恩給も受けられず生活に窮乏するものもあったという。
大地主だった石井家と「加茂」の村人は蔦のように絡み合いながら繋がり、その特別の連鎖が奥深い闇を生み落としたのである。
満州へ出かけた人間の多くが鬼籍に入った現在でも、この小さな村では故石井四郎を「隊長さん」と呼んで慕い、お国のためにやったことだとかばい、部外者の侵入を頑なに阻んできた。
それだけに石井四郎という人物を知るには、石井と「加茂」の特殊な関係を明らかにすることからはじめなければならない。二〇〇三年、石井家から伸びる長い蔦を手繰り寄せるうち、わたしは石井家のお手伝いさんだった渡邊あきという女性が存命であることを知った。当時九十歳、東京の東大井に住んでいることもわかった。
渡邊あきを訪ねたのは二〇〇三年五月である。むかしながらの大通りに面した書店の裏手、息子が新築した家の一室で、渡邊あきは穏やかな表情でわたしを迎えてくれた。
「勲章をたくさんもらった真面目な男がいるから、結婚しなさい」
「加茂」の石井本家近くに住んでいたことが縁で、東京市牛込区若松町の石井家で働くうち、あきは主人の石井四郎から結婚を薦められた。満州へ渡ったのは一九三七(昭和12)年のことだった。
「でも、それは口実で、本当は身のまわりの世話をして貰いたかったらしいですよ」
あきは楽しい思い出でも語るようにこういって笑った。
翌年一月には長野県出身の渡邊吉蔵と結婚。夫も石井部隊に勤めていた。ハルビン市内にあるロシア人の建てた邸宅に住む石井の処から「平房」の官舎へ引越してからも、あきは石井隊長の世話を焼いていた。
同席してくれた長男の周一は、戦後、白髪になった石井四郎が自宅へ何回も訪ねてきていたことを口にした。
「ぼくは昭和二十二年生まれだけど、四歳から五歳の頃には、スイカをぶら下げてきたのを覚えています。以前、うちには石井隊長に託されたノートがあったんです。それを開けてチラッと見ると、手配だとか、そういうことが書いてありました。終戦から終戦直後にかけての大学ノートだったけれど、どこかへ行ってしまった……」
「それは石井四郎直筆のものですか」
わたしは信じられない思いで周一に聞き返した。
二冊の大学ノート
数ヵ月後、これまで存在すら全く知られていなかった石井四郎直筆の「1945-8-16終戰当時メモ」と「終戰メモ1946-1-11」が見つかり、わたしは急いで帰国した。かつて終戦直後、部下にノートを託そうとスイカを下げて石井四郎が歩いた道。当時はさぞかし殺風景だったろう同じ道路を五〇年以上後にわたしも歩いて石井の記したノートを見に行くのである。その巡り合わせの不思議さにとらわれながら辿り着いた渡邊家で、周一から二冊の大学ノートを受け取った。
A5判の黄ばんだ大学ノートで、一九四六(昭和21)年のノートには表紙に「石井四郎」と本人が名前を記している。開いてみると、鉛筆で、旧漢字を使った独特の崩し文字で書かれている。判読できない文字や数字が並んでいる。表題にメモとあるように、その日の出来事や用件を綴った覚書であり、いわゆる備忘録である。丹念に読みはじめるうち、行間から石井の息遣いが次第に伝わってくるようで、わたしの手はふるえた。