Saturday, March 2, 2013

cozy-p

Ambrose Bierce の “The Moonlit Road” が一つの事実に対して三通りの解釈を示しているのに対して、芥川龍之介の「藪の中」は三通りの事実を提示しているようにみえる。しかし、「藪の中」の主題を近代的心理描写に置くならば、三通りの心理状態があると考えることも可能である。
結局、「藪の中」は、『今昔物語集』第二十九巻第二十三話「具妻行丹波国男於大江山被縛語」を中心とし、部分的に同巻の「袴垂於関山虚死殺人語」を追加し、近代文学に換骨奪胎・再構成したものである。そして、その再構成の過程において、Robert Browning の “The Ring and the Book” や Ambrose Bierce の ”The Moonlit Road” が形式的な影響を与えたものと考えられる。そこに Edgar Allan Poe の “The Murders in the Rue Morgue” の関与も含めて、それらの程度がどれほどのものであったか、まさに「藪の中」である。それこれらの影響は、決して芥川龍之介の独創性、創作性を否定するものではなく、彼の博識と、それを自己のものとして吸収し、自家薬籠中のものとして活用し得る能力を示すものである。「藪の中」は「羅生門」として映画化され、国際的に知られることとなった。

7 comments:

  1. 藪の中試論

    私の研究ノート

    http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/yabunonaka.htm

     一般に、関係者の証言が食い違い、真相が見えないことを指して「藪の中」というが、その語源は芥川龍之介(1892-1927)の小説によるという。広辞苑第五版(岩波書店)には「やぶ-の-なか【藪の中】(芥川竜之介の同名の小説から)関係者の言うことが食違っていて、真相が分らないこと。」とある。小説のタイトルが一般名詞となっているのである。そのくらい、この作品は、人口に膾炙した作品であったということになる。多くの人が一度は読んだ文学作品であろうと思われるが、その主題が何か、事件の真相はどこにあるか、正確に説明できる人は極端に少ないと思われる。04年夏、この作品「藪の中」の全文朗読を聴く機会があった。社会的階層の異なる男女、そして死霊の言葉が、直接の会話文として、作品全体の文章となっている。そのため、朗読の際にも、地の文というものがなく、それぞれの「台詞」を発話者の背景を踏まえながら、発声しなければならないことになる。昨今、斎藤孝氏の影響によるものか、声に出して読むという行為が流行であるが、多様な朗読を試みるには、「藪の中」は最適の材料となる。数の人物がそれぞれの個性を言葉に滲ませて語る「藪の中」には緊迫感があり、また表情も豊かである。ちょうどその頃私は「すべて世はこともなし」で有名なビクトリア朝のイギリス詩人ロバート・ブラウニング(Robert Browning,1812-89)の詩をいくつか読んでいた。そこで気が付いたのであるが、この作品『藪の中』は、構成といい、内容といい、彼の作品『指輪と本』(The Ring and the Book,1868-69)に酷似しているのである。詳しいことはよく調べてみないと判らないが、何らかの影響を受けているのは間違いないと思った。こういったものは、斎藤孝氏ではないが、音読してはじめてわかることである。昨今の無条件に手放しで朗読を歓迎する流行に迎合するわけではないが、音読によってこそ、はじめて見えてくるものもあるのではないかと考えた。

    芥川龍之介の小説「藪の中」は、「羅生門」と同様に、『今昔物語集』に題材を採ったものである。この作品を執筆した当時の芥川龍之介は、末期の保吉ものにみられるような私小説的な手法を用いて、自己を作品に表すような作家ではなく、常に自己と作品の間に余裕のある距離とポーズをもって、題材を他に求めることが多かったようである。特に、近代人の生活とはかけ離れた平安王朝に題材を求めた例が多い。「今ハ昔」として過去の物語、それもどれくらい過去であるのか不明瞭な時間の設定がなされている『今昔物語集』は、格好の材料となったに違いない。この『今昔物語集』の中でも、芥川龍之介が最も興味を持ったのは本朝の部の「世俗」と「悪行」の部であることが、彼自身の小文「今昔物語に就いて」に記されている。要するに『今昔物語集』の中でも最も三面記事に近い内容のものである。
     「藪の中」は周知の如く『今昔物語集』第二十九巻第二十三話の「具妻行丹波国男於大江山被縛語」をボディとし、部分的に同巻の「袴垂於関山虚死殺人語」などが参照されている。この二十九巻には盗賊談が収められている。因みに「羅生門」もまたこの巻の「羅城門登上層見死人盗人語」に拠ったものである。
     ただ、『今昔物語集』の「具妻行丹波国男於大江山被縛語」は、小説「藪の中」に比べて非常に素朴な物語である。ここでは登場人物も「男」「妻」「今ノ男」というように名称も正確に設定されておらず、漠然とした人物造形に留まっている。しかし、芥川龍之介の小説になると、男は金沢武弘、その妻は真砂、「今ノ男」となっている盗人には多襄丸という固有名詞が与えられている。多襄丸が、この時点で有名な盗人であったことは別のところに記述がみられる。物語自体も、「羅生門」が『今昔物語集』に題材を採りながらも換骨奪胎されて近代小説として蘇ったように、「藪の中」には登場人物たちの複雑な心理的葛藤が描かれ、物語の構成も入り組んでいる。しかも『今昔物語集』の「具妻行丹波国男於大江山被縛語」では、女が犯されただけで殺人事件は起こっていない。この話では、夫の目の前で他の男に犯された妻と、それを見せ付けられた夫は、その後も丹後へ旅行を続ける。女を犯した男もまた獰猛な盗人ではなく、馬を奪い、弓と太刀を持ち去りはしたが、盗みが目的であったわけではない。それが、芥川龍之介によって換骨奪胎され、再構成された「藪の中」の登場人物は、近代的苦悩を持ち合わせた人間像として描かれている。当事者たちは、各人各様の意見や解釈を、それぞれの口から述べ、次第に問題の核心に迫っていくという技巧的な手法が用いられており、当然、ただの三面記事には止まらない劇的な展開で読者を物語世界に引き込んでいく。先ず、検非違使の取調べに答える木樵、旅法師、放免、真砂の母である媼の四人が殺人事件の外郭と概要を語り、客観的な事実が明らかになっていく。次いで、事件の当事者であり主人公である多襄丸、真砂、巫女の口を借りた死霊となった金沢武弘が、それぞれの立場から事件の内面を告白していく。
    ここで、取調べに答える木樵、旅法師、放免、媼の四人の証言は、この物語の前提となる事実を述べ、探偵小説的興味に潤色された細切れの時事を提供する。先に述べたように、ポーの「モルグ街の殺人事件」を連想させる。この推理小説では、パリのモルグ街のアパルトマン二階で母親と娘が惨殺される事件とその事件の密室トリックを本格的推理の手順を踏んで事件を解決する素人探偵デュパンが中心に描かれているが、事件の時刻に部屋の外部で、多くの人が妙な声を聞いたにも関わらず、巡査の質問に答えた彼らの証言がことごとく異なっていることが謎の中心となっている。つまり、事件に関して争う声を聞いたという多くの証言が食い違う。その声はスペイン語だったとかイタリア語だったとか英語だったとかオランダ語であるとかロシア語であるという証言まであらわれ混乱する。結末は、この声は大猿のものであった。客観的事実の認識と理解が、個々人の感覚によって異なるため、その証言に差異が現れるということである。しかし、多襄丸、真砂、武弘の独白は事件の当事者によるものである。しかも、これは内面の吐露であり、心理状態が事実として語られることになる。まさに、「劇的独白」である。「藪の中」に対する「モルグ街の殺人事件」の影響を示唆する文章はないが、ブラウニングの『指輪と本』との関連はすでに指摘されている。(長谷川泉『近代名作鑑賞』P.230)

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  2.  つまり、事件そのものは『今昔物語集』に題材を得ていても、物語の手法、つまり、ひとつの事件を関係者や当事者の立場ごとに異なる解釈と独白によって劇的に物語ろうとする技巧は、『指輪と本』から得たものであることが指摘されている。とはいうものの、例え手法の上ではブラウニングの影響があったとしても、芥川龍之介が「藪の中」で発揮した独創性は否定できないし、文学的評価を低めるものではない。むしろ、裁判記録や詩といった『指輪と本』の形式を、『今昔物語集』の題材に援用し、物語に多重的な広がりを持たせた手腕に驚かされる。

     ここで、ブラウニングおよび『指輪と本』について触れておく。ロバート・ブラウニング(Robert Browning, 1812-89)は、テニソンとともにビクトリア朝の英詩を代表する詩人である。「神、そらに知ろしめす。/すべて世は事も無し。」の詩句は、上田敏の名訳によってブラウニングの名を一躍日本でも有名にし、人間性に対する信頼と楽天主義の思想を宣言したものとして知られる。しかし、ブラウニングの文学上の評価は、人間の心理を洞察し表現するため「劇的独白」(dramatic monologue)の形式を確立したことにある。そして、『指輪と本』(The Ring and the Book,1868-69)は、その「劇的独白」の手法を駆使して書き上げられた彼の代表作である。一八六〇年イタリアに滞在していたブラウニングは、十七世紀のローマで起こった殺人事件に関して検察官と弁護士が提出した裁判記録を古物商から手に入れた。彼はすぐにこの事件に興味を持ったが、六一年に愛妻を失ったのでロンドンに帰り、しばらくたってから執筆にとりかかって、四年をかけて全十二巻二万千百十六行からなり、各巻がそれぞれ一人の語り手の劇的独白で進められる長詩を書上げ、三巻ずつ一冊にして六八年に二冊、六九年に二冊を出版して完結させた。ある殺人事件をめぐって、作者を含めた十人の登場人物が、それぞれの視点から事件を語り、独白を通じて語り手の心理と性格が浮かび上がってくる。

    第一巻は作者が語り手で、亡き愛妻の指輪を読者に示し、ローマの宝石商がこの指輪を純金と合金をまぜて巧みに作り上げたように、詩人はフローレンスの古物商で見つけた古い殺人事件の裁判記録である「この四角い古い黄色の本」を素材にして、想像力を加えてこの長詩を創作したいきさつを語り、事件のあらましをのべる。名門の破産しかけた初老のグィードー伯は、持参金目当てに十三歳の美しいポンピリアという娘と結婚し、娘の養父母を居城に引き取る。しかし養父母はグィードー伯の貧しい生活に失望し、財産を相続させるのが惜しくなってローマへ逃げ帰り、ポンピリアは実の娘ではないと主張した。グィードー伯は身重な妻を虐待したので、妻は青年僧に助けられて逃亡したが、追ってきた夫に捕らえられて姦通罪で訴えられる。彼女は尼僧院へあずけられたのち、養父母のもとへ帰って男子を出産する。そこへグィードー伯が四人の部下を連れて現れ、一家を殺害する。グィードー伯は弁解するが死刑になった。第二巻では、自分の妻に疑いをいだく男が、ローマの半分を代表する陪審員的な具申者として登場し、重傷をおったがまだ息のあるポンピリアを非難し、グィードー伯に同情的な意見を述べる。第三巻は独身の男が、残りのローマ半分を代表して、ポンピリアに同情的な意見を語る。第四巻は第三者的な立場から、どちらにも味方しない上流階級の代表的な意見が述べられる。第五巻では裁判官の訊問に答えて、新妻殺しの殺人、グィードー伯の自己弁護が展開される。第六巻に入ると姦通罪の疑いをかけられた青年僧が、ポンピリアを殉教者とみなす力強い弁護を展開する。第七巻は絶命するまで四日間生きのびたポンピリアが、尼僧たちに語る哀れな身の上話で、これだけでも独立した名編とされる。第八巻ではグィードー伯の弁護人が、名誉毀損に対する正当防衛の立場から弁護を展開する。第九巻では検事のきびしい論告がある。第十巻で法王が死刑の裁決を下す。第十一巻では獄中で無罪を主張するグィードー伯の弁解がある。第十二巻では、作者の立場にもどって、死刑の様子などが四つの報告書によって語られる。

    この無韻の長詩は、優れた一篇の心理小説の内容を持つものである。芥川龍之介はこの「劇的独白」の手法および『指輪と本』の形式を援用し、人生の機微、人間心理の微妙な陰影を描き出すことに成功したのである。『指輪と本』における語り手が、裁判官である法王、弁護士、検事の三人を除くと、「藪の中」と同じ七人となることや、事件の当事者にあたるグィードー伯、ポンピリア、青年僧の三人が、多襄丸、真砂、武弘の三人と同様に各人各様の証言を行い、内容が齟齬するものの物語に深みと幅を与えるなど、幾つかの共通点や文学表現上の類似点がみられることは確かである。しかし、私が調べた限りでは、芥川龍之介がブラウニングを、影響を受けるまでに受容していたという確証はなかった。また、両者の関連を客観的に証明する資料の存在を示すような論文もみられなかった。ただ、芥川龍之介が上田敏を批判して「上田さんは結局、いろんな着物をシツクリとつける名人だったんだらう。」と書いている文章が残っている。このことから、芥川龍之介が上田敏の訳詩を批判的にせよ読んでいたことは明らかであり、ブラウニングおよび『指輪と本』の存在を認識していたことも推測できる。
    また、ここでもう一つの問題点がある。当事者の一人であり、殺人事件の被害者である金沢武弘が、巫女の口を借りた死霊という形で独白を行う点である。死霊や巫女という非科学的、超自然的な存在が登場することである。この点において「藪の中」は、エラリー・クイーンの推理小説におけるタブーを犯しており、ミステリー小説としては成立しえないことになる。推理小説云々はともかくも、死霊や巫女の存在は不可解である。超自然的なものについては『今昔物語集』にも、『指輪と本』にも登場していない。ここで私の考えは、中唐の詩人李賀(790-816)に及んだ。李賀は中国文学には珍しい幻想詩人である。彼の詩は絢爛と凄絶を兼ね合わせた幻想の世界を描き出し、作風はペシミズムとデカダンスに塗り込められて暗い。美女の亡霊、深山の妖かし、墓前の鬼火など、中国文学にはないものを好んで詩題とした。唯美的あるいは耽美的な李賀の作風は、芥川龍之介の好むところであり、彼が李賀の詩を愛好したことは広く知られているところである。巫女の口を借りたる死霊の金沢武弘の登場は、李賀の影響くらいに軽く考えていた。あるいは、ポーの影響がここに証明されれば、「モルグ街の殺人事件」との関連も成り立つのではないかなどと、戯けたことさえ考えていた。ここにビアスからの形式上の暗示があることに気が付いたのは、不覚にも半年以上の時間が過ぎてからのことであったと思う。

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  3.  アンブローズ・ビアス(Ambrose Bierce, 1842-1914?)は、『悪魔の辞典』で有名なアメリカの作家である。辛辣無比の風刺家、短編の名手として知られている。このビアスを日本で最初に紹介したのは芥川龍之介である。「アムブロオズ・ビイアスは毛色の変わった作家である。(中略)短編小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少ない。評家がポオの再来と云ふのは、確にこの点でも当つてゐる。その上彼が好んで描くのは、やはりポオと同じやうに、無気味な超自然の世界である。この方面の小説家では、英吉利にAlgernon Blackwoodがあるが、到底ビイアスの敵ではない。(中略)日本訳は一つも見えない。紹介もこれが最初であろう。」と、随筆『点心』で称賛とともに紹介している。芥川龍之介がポーを高く評価していたことと同時に、ビアスに大いに注目していたことも判る。『侏儒の言葉』を『悪魔の辞典』の影響下にあるもの、執筆動機となったとする説さえあるくらいである。ビアスの短編の中でも、「藪の中」への影響が考えられるのは「月明かりの道」(The Moonlit Road, 1907)である。この作品も、一つの殺人事件をめぐって三人の人物が登場し、その独白によって物語が展開するという形式を持っている。この作品は、日本でも早くからその存在が知られていたが、翻訳が出版されたのは最近である。二十一世紀になって、岩波文庫から古典的な英米文学作品が出版されているが、「月明かりの道」もまたそのような作品のひとつである。そして、文庫本の表紙には、ビアスが芥川龍之介に絶賛されていたことが紹介されている。余談になるが、スティーブンソン(Robert Stevenson, 1850-94)の『バラントレイの若殿』(The Master of Ballantrae, 1889)も長い間、絶版のため翻訳が手に入らなかったが、今世紀になって岩波文庫で出版された。古典の宝庫の謳い文句の通り、日本の文化形成に大きな役割を果たしてきた岩波文庫であるが、その方針は現在でもある程度は継承されているように思う。
     「月明かりの道」の内容であるが、ある女性が殺され、その夫である男性が蒸発するという事実が彼らの息子によって語られる。次に、蒸発した夫と思しき男性が記憶を辿りながら語る。そして、最後に霊媒師の口を借りて殺害された女性の陳述がある。男とその妻とその息子の語る三通りの物語が併置され、三人の証言する事件の様子とそれをめぐる三人の言動は、それぞれにまったく齟齬するものである。しかも、証言の内容は各自が自己を正当化し無過失を主張するようなものではなく、自分の責任と罪を懺悔するものとなっている。さらに、物語の最後の章では、殺された女の死霊が霊媒の口を通して語る点も「藪の中」と共通する。ブラウニングよりもビアスの影響が、より強力なものであることは否定できないであろう。少なくとも、後半において当事者である多襄丸、真砂、巫女の口を借りた死霊となった金沢武弘が、それぞれの立場から事件の内面を告白していく部分は、ビアスの作品の形式そのものであり、模倣性を疑いたくなるくらいである。そして、ビアスと芥川龍之介の関連は極めて明白である。ただ、「月明かりの道」が一つの事実に対して三通りの解釈を示しているのに対して、「藪の中」は三通りの事実を提示しているようにみえる。しかし、「藪の中」の主題を近代的心理描写に置くならば、三通りの心理状態があると考えることも可能である。当事者に各人各様の意見や解釈を述べさせ、問題の核心に迫ってゆくというような手法は、後の「報恩記」にも見られる。
     結局、「藪の中」は、『今昔物語集』第二十九巻第二十三話「具妻行丹波国男於大江山被縛語」を中心とし、部分的に同巻の「袴垂於関山虚死殺人語」を追加し、近代文学に換骨奪胎・再構成したものである。そして、その再構成の過程において、『指輪と本』「月明かりの道」が形式的な影響を与えたものと考えられる。そこにポーの関与も含めて、それらの程度がどれほどのものであったか、まさに「藪の中」である。それこれらの影響は、決して芥川龍之介の独創性、創作性を否定するものではなく、彼の博識と、それを自己のものとして吸収し、自家薬籠中のものとして活用し得る能力を示すものである。「藪の中」は「羅生門」として映画化され、国際的に知られることとなった。単なる模倣でないことは、既に確定していることであると断言してもよいであろう。元来、芥川龍之介は『今昔物語集』や『聊斎志異』など、日本や中国の古典に題材をとった小説を得意としている。中国の文豪魯迅が芥川龍之介を賞賛して「彼はまた旧い材料を多用し、ときには物語の翻訳に近くなっている。だか、昔のことを繰り返すのは単なる好奇心だけからではなく、より深い根拠に基づいてのことである。彼はその材料に含まれている昔の人々の生活から、自分の心情にぴったりし、それに触れ得る何ものかを見出そうとする。だから、昔の物語は彼によって書き改められると、新たな生命が注ぎ込まれ、現代人と関係が生じてくる。」と書いている。これは芥川龍之介の基本的な創作態度であり、末期の保吉ものや「歯車」など、自己の苦悩を描いた私小説的な手法の作品は珍しいといえる。彼は自己を語るにしても赤裸々に私小説に書き著すのではなく、常に余裕のある距離とポーズをもって、他に題材を求めることを好んだ。「藪の中」にしても、芥川龍之介の実体験を踏まえたものだとする説もある。この作品が発表される少し前、彼は秀しげ子という夫人と関係し、しかもその夫人が年少の友人である南部修太郎と通じた事件があったという。三角関係に巻き込まれた人間の心理的現実が作品に確実に投影されていると考えられる。つまり、「藪の中」の主題を女性への絶望感と考えることも可能だということになる。
     映画「羅生門」が封切られた当時の日本は、まだ国民の間に東京裁判の記憶が鮮やかであり、証人の言葉から事実を再構築することの困難さが人々に身近に感じられていたという。小説や映画の中だけでなく、現実の世の中においても事実というものは常に「藪の中」にあるものかもしれない。「藪の中」を発表した頃から、芥川龍之介は詩的世界に関心を深め、筋のない、反因果的なものに強く惹かれていくようになったという。
     読者は「藪の中」を読むとき、当事者か関係者の証言が「事実」であるという前提を持っている。しかし、証言はあくまでも一つの「情報」であり、必ずしも「事実」とは限らない。証言といえども「情報」の一つに過ぎないのである。高度情報社会といわれ、「オレオレ詐欺」など虚偽の情報や情報操作による犯罪が横行する今日ならずとも、「情報」は常に事実であるとは限らない。芥川龍之介の作品にも「龍」「西郷隆盛」といった「情報の捏造」「情報操作」を主題にした小説がある。「藪の中」はさしずめ「情報の混迷」「情報過多」が主題といったところではないだろうか。「便りのないのは無事」というが、情報がないというのも有効な情報である。「藪の中」とは情報量の多さがかえって事態を不明確にすることを示唆している。

     芥川龍之介という日本の近代文学者は、『今昔物語集』といった古典を主たる素材として、ブラウニング、ビアスといった外国文学を参照しながら、自己の創作を行ったことになる。明治以降、日本は近代化の過程において、江戸期以前に摂取してきた中国文化、国内で育み熟成させてきた日本文化の基礎の上に、西欧諸外国の技術を導入してきたのである。「和魂洋才」の謳い文句ではないが、文化の総体である文学もまた、従来の日本文学を土台に西欧の手法や形式を取り入れ、近代文学が構築されてきたのである。森鴎外、夏目漱石といった芥川龍之介の一世代前の作家たちも、芥川龍之介自身も、漢学の素養や漢詩文・日本古典文学の教養の上に、近代西欧文学を積み重ねて自らの作品世界を構築してきた人々である。「藪の中」における芥川龍之介の創作態度、手法には、それが色濃く表れている。そのことを通じて、日本の近代文学が辿ってきた道、文学における国際交流の姿を知っておくこともまた重要なことではないかと思う。犯人の特定をはじめとして、「藪の中」の解釈は様々である。小説中の証言と同様に読者側も様々な解釈をすることが可能であり、この作品をどう扱うかもまた様々である。真実はどこにあるのか特定できない。だから、「藪の中」なのである。

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  4. TAJOMARUと羅生門と藪の中

    http://13colors.blog104.fc2.com/blog-entry-381.html

    まずは短編小説、「藪の中」

    検非違使(けびいし)に問われたる木樵(きこ)りの物語

     さようでございます。あの死骸(しがい)を見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今朝(けさ)いつもの通り、裏山の杉を伐(き)りに参りました。すると山陰(やまかげ)の藪(やぶ)の中に、あの死骸があったのでございます。あった処でございますか? それは山科(やましな)の駅路からは、四五町ほど隔たって居りましょう。竹の中に痩(や)せ杉の交(まじ)った、人気(ひとけ)のない所でございます。
     死骸は縹(はなだ)の水干(すいかん)に、都風(みやこふう)のさび烏帽子をかぶったまま、仰向(あおむ)けに倒れて居りました。何しろ一刀(ひとかたな)とは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳(すほう)に滲(し)みたようでございます。いえ、血はもう流れては居りません。傷口も乾(かわ)いて居ったようでございます。おまけにそこには、馬蠅(うまばえ)が一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。
     太刀(たち)か何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄(なわ)が一筋落ちて居りました。それから、――そうそう、縄のほかにも櫛(くし)が一つございました。死骸のまわりにあったものは、この二つぎりでございます。が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。何、馬はいなかったか? あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。何しろ馬の通(かよ)う路とは、藪一つ隔たって居りますから。

    検非違使に問われたる旅法師(たびほうし)の物語

     あの死骸の男には、確かに昨日(きのう)遇(あ)って居ります。昨日の、――さあ、午頃(ひるごろ)でございましょう。場所は関山(せきやま)から山科(やましな)へ、参ろうと云う途中でございます。あの男は馬に乗った女と一しょに、関山の方へ歩いて参りました。女は牟子(むし)を垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。見えたのはただ萩重(はぎがさ)ねらしい、衣(きぬ)の色ばかりでございます。馬は月毛(つきげ)の、――確か法師髪(ほうしがみ)の馬のようでございました。丈(たけ)でございますか? 丈は四寸(よき)もございましたか? ――何しろ沙門(しゃもん)の事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、――いえ、太刀(たち)も帯びて居(お)れば、弓矢も携(たずさ)えて居りました。殊に黒い塗(ぬ)り箙(えびら)へ、二十あまり征矢(そや)をさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。
     あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真(まこと)に人間の命なぞは、如露亦如電(にょろやくにょでん)に違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。

    検非違使に問われたる放免(ほうめん)の物語

     わたしが搦(から)め取った男でございますか? これは確かに多襄丸(たじょうまる)と云う、名高い盗人(ぬすびと)でございます。もっともわたしが搦(から)め取った時には、馬から落ちたのでございましょう、粟田口(あわだぐち)の石橋(いしばし)の上に、うんうん呻(うな)って居りました。時刻でございますか? 時刻は昨夜(さくや)の初更(しょこう)頃でございます。いつぞやわたしが捉(とら)え損じた時にも、やはりこの紺(こん)の水干(すいかん)に、打出(うちだ)しの太刀(たち)を佩(は)いて居りました。ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携(たずさ)えて居ります。さようでございますか? あの死骸の男が持っていたのも、――では人殺しを働いたのは、この多襄丸に違いございません。革(かわ)を巻いた弓、黒塗りの箙(えびら)、鷹(たか)の羽の征矢(そや)が十七本、――これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。はい。馬もおっしゃる通り、法師髪(ほうしがみ)の月毛(つきげ)でございます。その畜生(ちくしょう)に落されるとは、何かの因縁(いんねん)に違いございません。それは石橋の少し先に、長い端綱(はづな)を引いたまま、路ばたの青芒(あおすすき)を食って居りました。
     この多襄丸(たじょうまる)と云うやつは、洛中(らくちゅう)に徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。昨年の秋鳥部寺(とりべでら)の賓頭盧(びんずる)の後(うしろ)の山に、物詣(ものもう)でに来たらしい女房が一人、女(め)の童(わらわ)と一しょに殺されていたのは、こいつの仕業(しわざ)だとか申して居りました。その月毛に乗っていた女も、こいつがあの男を殺したとなれば、どこへどうしたかわかりません。差出(さしで)がましゅうございますが、それも御詮議(ごせんぎ)下さいまし。

    検非違使に問われたる媼(おうな)の物語

     はい、あの死骸は手前の娘が、片附(かたづ)いた男でございます。が、都のものではございません。若狭(わかさ)の国府(こくふ)の侍でございます。名は金沢(かなざわ)の武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気立(きだて)でございますから、遺恨(いこん)なぞ受ける筈はございません。
     娘でございますか? 娘の名は真砂(まさご)、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。顔は色の浅黒い、左の眼尻(めじり)に黒子(ほくろ)のある、小さい瓜実顔(うりざねがお)でございます。
     武弘は昨日(きのう)娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、壻(むこ)の事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。どうかこの姥(うば)が一生のお願いでございますから、たとい草木(くさき)を分けましても、娘の行方(ゆくえ)をお尋ね下さいまし。何に致せ憎いのは、その多襄丸(たじょうまる)とか何とか申す、盗人(ぬすびと)のやつでございます。壻ばかりか、娘までも………(跡は泣き入りて言葉なし)

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  5. 多襄丸(たじょうまる)の白状

     あの男を殺したのはわたしです。しかし女は殺しはしません。ではどこへ行ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくら拷問(ごうもん)にかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯(ひきょう)な隠し立てはしないつもりです。
     わたしは昨日(きのう)の午(ひる)少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍子(ひょうし)に、牟子(むし)の垂絹(たれぎぬ)が上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。ちらりと、――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩(にょぼさつ)のように見えたのです。わたしはその咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。
     何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女を奪(うば)うとなれば、必ず、男は殺されるのです。ただわたしは殺す時に、腰の太刀(たち)を使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派(りっぱ)に生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)
     しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。が、あの山科(やましな)の駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫(くふう)をしました。
     これも造作(ぞうさ)はありません。わたしはあの夫婦と途(みち)づれになると、向うの山には古塚(ふるづか)がある、この古塚を発(あば)いて見たら、鏡や太刀(たち)が沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪(やぶ)の中へ、そう云う物を埋(うず)めてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、――と云う話をしたのです。男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、――どうです。欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半時(はんとき)もたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路(やまみち)へ馬を向けていたのです。
     わたしは藪(やぶ)の前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇(かわ)いていますから、異存(いぞん)のある筈はありません。が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺(つぼ)にはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。
     藪はしばらくの間(あいだ)は竹ばかりです。が、半町(はんちょう)ほど行った処に、やや開いた杉むらがある、――わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合(つごう)の好(い)い場所はありません。わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩(や)せ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。その内に竹が疎(まば)らになると、何本も杉が並んでいる、――わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。男も太刀を佩(は)いているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括(くく)りつけられてしまいました。縄(なわ)ですか? 縄は盗人(ぬすびと)の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張(ほおば)らせれば、ほかに面倒はありません。
     わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも図星(ずぼし)に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女は市女笠(いちめがさ)を脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛(しば)られている、――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐(ふところ)から出していたか、きらりと小刀(さすが)を引き抜きました。わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈(はげ)しい女は、一人も見た事がありません。もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹(ひばら)を突かれたでしょう。いや、それは身を躱(かわ)したところが、無二無三(むにむざん)に斬り立てられる内には、どんな怪我(けが)も仕兼ねなかったのです。が、わたしも多襄丸(たじょうまる)ですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀(さすが)を打ち落しました。いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。
     男の命は取らずとも、――そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女を後(あと)に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋(すが)りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥(はじ)を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘(あえ)ぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)
     こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷(ざんこく)な人間に見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊にその一瞬間の、燃えるような瞳(ひとみ)を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴(かみなり)に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。妻にしたい、――わたしの念頭(ねんとう)にあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑(いや)しい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒(けたお)しても、きっと逃げてしまったでしょう。男もそうすればわたしの太刀(たち)に、血を塗る事にはならなかったのです。が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那(せつな)、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。
     しかし男を殺すにしても、卑怯(ひきょう)な殺し方はしたくありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)男は血相(けっそう)を変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利(き)かずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。――その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。わたしの太刀は二十三合目(ごうめ)に、相手の胸を貫きました。二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)
     わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか? わたしは女がどちらへ逃げたか、杉むらの間を探して見ました。が、竹の落葉の上には、それらしい跡(あと)も残っていません。また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉(のど)に、断末魔(だんまつま)の音がするだけです。
     事によるとあの女は、わたしが太刀打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。――わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐにまたもとの山路(やまみち)へ出ました。そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。その後(ご)の事は申し上げるだけ、無用の口数(くちかず)に過ぎますまい。ただ、都(みやこ)へはいる前に、太刀だけはもう手放していました。――わたしの白状はこれだけです。どうせ一度は樗(おうち)の梢(こずえ)に、懸ける首と思っていますから、どうか極刑(ごっけい)に遇わせて下さい。(昂然(こうぜん)たる態度)

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  6. 清水寺に来れる女の懺悔(ざんげ)

     ――その紺(こん)の水干(すいかん)を着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲(あざけ)るように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶(みもだ)えをしても、体中(からだじゅう)にかかった縄目(なわめ)は、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転(ころ)ぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に、わたしをそこへ蹴倒しました。ちょうどその途端(とたん)です。わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚(さと)りました。何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震(みぶる)いが出ずにはいられません。口さえ一言(いちごん)も利(き)けない夫は、その刹那(せつな)の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃(ひらめ)いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを蔑(さげす)んだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。
     その内にやっと気がついて見ると、あの紺(こん)の水干(すいかん)の男は、もうどこかへ行っていました。跡にはただ杉の根がたに、夫が縛(しば)られているだけです。わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たい蔑(さげす)みの底に、憎しみの色を見せているのです。恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中(うち)は、何と云えば好(よ)いかわかりません。わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。
    「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥(はじ)を御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」
     わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。それでも夫は忌(いま)わしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしは裂(さ)けそうな胸を抑えながら、夫の太刀(たち)を探しました。が、あの盗人(ぬすびと)に奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には見当りません。しかし幸い小刀(さすが)だけは、わたしの足もとに落ちているのです。わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。
    「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」
     夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇(くちびる)を動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」と一言(ひとこと)云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹(はなだ)の水干の胸へ、ずぶりと小刀(さすが)を刺し通しました。
     わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交(まじ)った杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。わたしは泣き声を呑みながら、死骸(しがい)の縄を解き捨てました。そうして、――そうしてわたしがどうなったか? それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。小刀(さすが)を喉(のど)に突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢(じまん)にはなりますまい。(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐(ふがい)ないものは、大慈大悲の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)も、お見放しなすったものかも知れません。しかし夫を殺したわたしは、盗人(ぬすびと)の手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば好(よ)いのでしょう? 一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しき歔欷(すすりなき))

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  7. 巫女(みこ)の口を借りたる死霊の物語

     ――盗人(ぬすびと)は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利(き)けない。体も杉の根に縛(しば)られている。が、おれはその間(あいだ)に、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真(ま)に受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然(しょうぜん)と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬(ねたま)しさに身悶(みもだ)えをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆(だいたん)にも、そう云う話さえ持ち出した。
     盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡(もた)げた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有(ちゅうう)に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚(しんい)に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)
     妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇(やみ)の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色(がんしよく)を失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。「あの人を殺して下さい。」――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様(さかさま)におれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪(のろ)わしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか? 一度でもこのくらい、――(突然迸(ほとばし)るごとき嘲笑(ちょうしょう))その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。「あの人を殺して下さい。」――妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋(すが)っている。盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒(けたお)された、(再(ふたた)び迸るごとき嘲笑)盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷(うなず)けば好(よ)い。殺すか?」――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦(ゆる)してやりたい。(再び、長き沈黙)
     妻はおれがためらう内に、何か一声(ひとこえ)叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。盗人も咄嗟(とっさ)に飛びかかったが、これは袖(そで)さえ捉(とら)えなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。
     盗人は妻が逃げ去った後(のち)、太刀(たち)や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄(なわ)を切った。「今度はおれの身の上だ。」――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟(つぶや)いたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度(みたび)、長き沈黙)
     おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小刀(さすが)が一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺(さ)した。何か腥(なまぐさ)い塊(かたまり)がおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山陰(やまかげ)の藪の空には、小鳥一羽囀(さえず)りに来ない。ただ杉や竹の杪(うら)に、寂しい日影が漂(ただよ)っている。日影が、――それも次第に薄れて来る。――もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。
     その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇(うすやみ)が立ちこめている。誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀(さすが)を抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢(あふ)れて来る。おれはそれぎり永久に、中有(ちゅうう)の闇へ沈んでしまった。………

    青空文庫より転載(「藪の中」は著作権が消滅しております)

    黒澤映画「羅生門」も原作は「藪の中」

    平安時代。荒れ果てた都の羅生門で、杣売りと旅法師が放心状態で座り込んでいた。そこへ雨宿りのために下人がやって来る。下人は退屈しのぎに、2人がかかわりを持つことになったある事件の顛末を聞く。

    ある日、杣売りが山に薪を取りに行っていると、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出た。次に旅法師が検非違使に呼び出され、殺害された武士が妻・真砂と一緒に旅をしているところを見たと証言した。

    やがて、武士殺害の下手人として、盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は女を奪うため、武士を木に縛りつけ、女を手篭めにしたが、女が「生き残った方のものとなる」と言ったため、武士と一対一の決闘をし勝利した。しかし、女は逃げてしまったと証言した。

    しばらくして、生き残っていた武士の妻が検非違使に連れて来られた。妻は多襄丸に手篭めにされた後、多襄丸は逃亡し、妻は夫に自分を殺すよう訴えるが意識を失い、意識を取り戻したら、夫には短刀が刺さって死んでいた。自分は後を追って死のうとしたが死ねなかったと証言した。

    そして、夫の証言を得るため、巫女が呼ばれる。巫女を通じて夫の霊は、妻は多襄丸に手篭めにされた後、多襄丸に情を移したが、多襄丸は妻を生かすか殺すか夫が決めていいと言ってきた。しかし、それを聞いた妻は逃亡した。多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害したと証言した。

    しかし、杣売りは下人に「3人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件を目撃していたのだ。そして、杣売りが下人に語る事件の当事者たちの姿はあまりにも無様で、あさはかなものであった。

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