黎明期
1: 神武 (前660-前585) > 2: 綏靖 (前581-前549) > 3: 安寧 (前549-前511) > 4: 懿徳 (前510-前477) > 5: 孝昭 (前475-前393) > 6: 孝安 (前392-前291) > 7: 孝霊 (前290-前215) > 8: 孝元 (前214-前158) > 9: 開化 (前158-前98) > 10: 崇神 (前97-前30) > 11: 垂仁 (前29-70) > 12: 景行 (71-130) > 13: 成務 (131-190) > 14: 仲哀 (192-200)
古墳時代
15: 応神 (270-310) > 16: 仁徳 (313-399) > 17: 履中 (400-405) > 18: 反正 (406-410) > 19: 允恭 (412-453) > 20: 安康 (453-456) > 21: 雄略 (456-479) > 22: 清寧 (480-484) > 23: 顕宗 (485-487) > 24: 仁賢 (488-498) > 25: 武烈 (498-506) > 26: 継体 (507-531) > 27: 安閑 (531-535) > 28: 宣化 (535-539) > 29: 欽明 (539-571) > 30: 敏達 (572-585) > 31: 用明 (585-587) > 32: 崇峻 (587-592)
飛鳥時代
33: 推古 (592-628) > 34: 舒明 (629-641) > 35: 皇極 (642-645) > 36: 孝徳 (645-654) > 37: 斉明 (655-661) > 38: 天智 (661-671) > 39: 弘文 (671-672) > 40: 天武 (673-686) > 41: 持統 (686-697) > 42: 文武 (697-707)
奈良時代
43: 元明 (707-715) > 44: 元正 (715-724) > 45: 聖武 (724-749) > 46: 孝謙 (749-758) > 47: 淳仁 (758-764) > 48: 称徳 (764-770) > 49: 光仁 (770-781)
平安時代
50: 桓武 (781-806) > 51: 平城 (806-809) > 52: 嵯峨 (809-823) > 53: 淳和 (823-833) > 54: 仁明 (833-850) > 55: 文徳 (850-858) > 56: 清和 (858-876) > 57: 陽成 (876-884) > 58: 光孝 (884-887) > 59: 宇多 (887-897) > 60: 醍醐 (897-930) > 61: 朱雀 (930-946) > 62: 村上 (946-967) > 63: 冷泉 (967-969) > 64: 円融 (969-984) > 65: 花山 (984-986) > 66: 一条 (986-1011) > 67: 三条 (1011-1016) > 68: 後一条 (1016-1036) > 69: 後朱雀 (1036-1045) > 70: 後冷泉 (1045-1068) > 71: 後三条 (1068-1072) > 72: 白河 (1072-1086) > 73: 堀河 (1086-1107) > 74: 鳥羽 (1107-1123) > 75: 崇徳 (1123-1141) > 76: 近衛 (1141-1155) > 77: 後白河 (1155-1158) > 78: 二条 (1158-1165) > 79: 六条 (1165-1168) > 80: 高倉 (1168-1180) > 81: 安徳 (1180-1185)
鎌倉時代
82: 後鳥羽 (1183-1198) > 83: 土御門 (1198-1210) > 84: 順徳 (1210-1221) > 85: 仲恭 (1221) > 86: 後堀河 (1221-1232) > 87: 四条 (1232-1242) > 88: 後嵯峨 (1242-1246) > 89: 後深草 (1246-1259) > 90: 亀山 (1259-1274) > 91: 後宇多 (1274-1287) > 92: 伏見 (1287-1298) > 93: 後伏見 (1298-1301) > 94: 後二条 (1301-1308) > 95: 花園 (1308-1318) > 96: 後醍醐 (1318-1339)
南朝
97: 後村上 (1339-1368) > 98: 長慶 (1368-1383) > 99: 後亀山 (1383-1392)
北朝
(1): 光厳 (1331-1333) > (2): 光明 (1336-1348) > (3): 崇光 (1348-1351) > (4): 後光厳 (1352-1371) > (5): 後円融 (1371-1382) > (6)/100: 後小松 (1382-1412)
室町時代
101: 称光 (1412-1428) > 102: 後花園 (1428-1464) > 103: 後土御門 (1464-1500) > 104: 後柏原 (1500-1526) > 105: 後奈良 (1526-1557) > 106: 正親町 (1557-1586)
江戸時代
107: 後陽成 (1586-1611) > 108: 後水尾 (1611-1629) > 109: 明正 (1629-1643) > 110: 後光明 (1643-1654) > 111: 後西 (1655-1663) > 112: 霊元 (1663-1687) > 113: 東山 (1687-1709) > 114: 中御門 (1709-1735) > 115: 桜町 (1735-1747) > 116: 桃園 (1747-1762) > 117: 後桜町 (1762-1770) > 118: 後桃園 (1770-1779) > 119: 光格 (1779-1817) > 120: 仁孝 (1817-1846) > 121: 孝明 (1846-1866)
明治以降
122: 明治 (1867-1912) > 123: 大正 (1912-1926) > 124: 昭和 (1926-1989) > 125: 今上 (1989-現在)
黎明期 (創作された系譜)
ReplyDelete1: 神武 (前660-前585) > 2: 綏靖 (前581-前549) > 3: 安寧 (前549-前511) > 4: 懿徳 (前510-前477) > 5: 孝昭 (前475-前393) > 6: 孝安 (前392-前291) > 7: 孝霊 (前290-前215) > 8: 孝元 (前214-前158) > 9: 開化 (前158-前98) > 10: 崇神 (前97-前30) > 11: 垂仁 (前29-70) > 12: 景行 (71-130) > 13: 成務 (131-190) > 14: 仲哀 (192-200)
古事記・日本書紀において系譜は存在するがその事績が記されない「2:綏靖天皇(前581-前549)」から「9:開化天皇(前158-前98)」までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を、欠史八代という。これらの天皇が実在したという説も根強いが、現代の研究では、創作された系譜とする説が主流だ。
応神天皇の父親の仲哀天皇 (第14代天皇) の在位が西暦192年から200年。
応神天皇の母親の神功皇后 (1926年迄は第15代天皇) の在位が201年から269年。
応神天皇 (第15代天皇) の在位が270年から310年。
応神天皇 (第16代天皇) の子供の仁徳天皇の在位が313年から399年。
たった三代で、192年から399年まで、200年以上にわたって国を治めたことになる。
仲哀天皇がお亡くなりになったのが200年2月6日、応神天皇がお生まれになったのが201年1月5日、神功皇后はその間、お腹に石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせ、筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵し三韓征伐。住吉大社の神代記に「是に皇后、大神と密事あり」とあるので、応神天皇の父親は住吉大神。いやいや、仲哀天皇の息子たち(異母兄の香坂皇子や忍熊皇子)を畿内で滅ぼした武内宿禰こそが応神天皇の父親。。。 これはもう、完全に、物語の世界だ。
古墳時代 (史料のない歴史)
ReplyDelete15: 応神 (270-310) > 16: 仁徳 (313-399) > 17: 履中 (400-405) > 18: 反正 (406-410) > 19: 允恭 (412-453) > 20: 安康 (453-456) > 21: 雄略 (456-479) > 22: 清寧 (480-484) > 23: 顕宗 (485-487) > 24: 仁賢 (488-498) > 25: 武烈 (498-506) > 26: 継体 (507-531) > 27: 安閑 (531-535) > 28: 宣化 (535-539) > 29: 欽明 (539-571) > 30: 敏達 (572-585) > 31: 用明 (585-587) > 32: 崇峻 (587-592)
「21:雄略天皇(456-479)」の子の「22:清寧天皇(480-484)」には後嗣がなく、「17:履中天皇(400-405)」の孫である「23:顕宗天皇(485-487)」・「24:仁賢天皇(488-498)」が王位を継いだとされているが、実際は王位簒奪ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。
「24:仁賢天皇(488-498)」の子の「25:武烈天皇(498-506)」も跡継ぎがなく、「15:応神天皇(270-310)」の5世孫とされる「26:継体天皇(507-531)」が王位に就いているが、これにより「16:仁徳天皇(313-399)」の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説もある。
実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に編纂された『日本書紀』(720年に完成)などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考えも見られる。
不安定な基盤に乗っていた王統が確立したのが「26:継体天皇(507-531)」の皇子である「29:欽明天皇(539-571)」の頃だと言われている。欽明天皇以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇を中心とした政府が形成され始めることとなった。この時期、隋の煬帝に対して「天子」と自称したと『隋書』に見える。
大化の改新から摂関政治、そして院政 (権力闘争の系譜)
ReplyDelete飛鳥時代
33: 推古 (592-628) > 34: 舒明 (629-641) > 35: 皇極 (642-645) > 36: 孝徳 (645-654) > 37: 斉明 (655-661) > 38: 天智 (661-671) > 39: 弘文 (671-672) > 40: 天武 (673-686) > 41: 持統 (686-697) > 42: 文武 (697-707)
奈良時代
43: 元明 (707-715) > 44: 元正 (715-724) > 45: 聖武 (724-749) > 46: 孝謙 (749-758) > 47: 淳仁 (758-764) > 48: 称徳 (764-770) > 49: 光仁 (770-781)
大化の改新は、「36:孝徳天皇(645-654)」の在位2年目(大化2年; 西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の「38:天智天皇(661-671)」)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変の後に行われたとされる。天皇の宮を飛鳥から難波宮に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされる。
大化の改新によって中大兄皇子が実権を握って以降、唐の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、「40:天武天皇(673-686)」及びその後継者によって完結することとなった。特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。この時代に詠まれた柿本人麻呂らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。
律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。
日本書紀は720年に完成。神代から持統天皇の時代(686-697)までのことが書いてある。当然ながら、「38:天智(661-671) > 39:弘文(671-672) > 40:天武(673-686) > 41:持統(686-697)」という系譜を正当化し、称える内容になっている。
平安時代
50: 桓武 (781-806) > 51: 平城 (806-809) > 52: 嵯峨 (809-823) > 53: 淳和 (823-833) > 54: 仁明 (833-850) > 55: 文徳 (850-858) > 56: 清和 (858-876) > 57: 陽成 (876-884) > 58: 光孝 (884-887) > 59: 宇多 (887-897) > 60: 醍醐 (897-930) > 61: 朱雀 (930-946) > 62: 村上 (946-967) > 63: 冷泉 (967-969) > 64: 円融 (969-984) > 65: 花山 (984-986) > 66: 一条 (986-1011) > 67: 三条 (1011-1016) > 68: 後一条 (1016-1036) > 69: 後朱雀 (1036-1045) > 70: 後冷泉 (1045-1068) >
平安時代初期の9世紀中後期頃から、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政・関白に就任するようになった。特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。
摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。
もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。この頃、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったといわれ、朝廷の任命した国司を追放し、関東7か国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)。
これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3か月で将門が戦死して新政権は崩壊した。
院政期
ReplyDelete71: 後三条 (1068-1072) > 72: 白河 (1072-1086) > 73: 堀河 (1086-1107) > 74: 鳥羽 (1107-1123) > 75: 崇徳 (1123-1141) > 76: 近衛 (1141-1155) > 77: 後白河 (1155-1158) > 78: 二条 (1158-1165) > 79: 六条 (1165-1168) > 80: 高倉 (1168-1180) > 81: 安徳 (1180-1185)
平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家を外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条天皇は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。この説が正しければ、白河院政に先立つ最初の院政ということもできるが、後三条天皇は譲位後半年足らずで崩御したのでその真意は謎のままである。
後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王と輔仁親王を帝位から遠ざけるため、当時の天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。
この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであった。
治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。政治的には、院政期に権門勢家が国家からの自立の度合いを深めるに従い、天皇家という一権門の代表に滑り落ちた。理念面では、歴代の天皇が神や仏といった超越者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。仏法に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く人口に膾炙する。殊に、後白河天皇のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判も投げつけられた者もいる。即位灌頂により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、仏教の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。
後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。
時に、両統迭立の時代になると、神孫為君の論理に安住出来なくなり、徳治と善政を標榜するようになる。花園天皇は「皇胤一統」の論理に寄りかかる事を戒め、国王としての徳の涵養を力説している。また同じく儒教精神から、後鳥羽上皇のように『承久記』や『六代勝事記』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた易姓革命思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。
院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代の後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の崩御後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手でほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。
武士の世の中 (権力を持たない権力)
ReplyDelete鎌倉時代
82: 後鳥羽 (1183-1198) > 83: 土御門 (1198-1210) > 84: 順徳 (1210-1221) > 85: 仲恭 (1221) > 86: 後堀河 (1221-1232) > 87: 四条 (1232-1242) > 88: 後嵯峨 (1242-1246) > 89: 後深草 (1246-1259) > 90: 亀山 (1259-1274) > 91: 後宇多 (1274-1287) > 92: 伏見 (1287-1298) > 93: 後伏見 (1298-1301) > 94: 後二条 (1301-1308) > 95: 花園 (1308-1318) > 96: 後醍醐 (1318-1339)
南朝
97: 後村上 (1339-1368) > 98: 長慶 (1368-1383) > 99: 後亀山 (1383-1392)
北朝
(1): 光厳 (1331-1333) > (2): 光明 (1336-1348) > (3): 崇光 (1348-1351) > (4): 後光厳 (1352-1371) > (5): 後円融 (1371-1382) > (6)/100: 後小松 (1382-1412)
室町時代
101: 称光 (1412-1428) > 102: 後花園 (1428-1464) > 103: 後土御門 (1464-1500) > 104: 後柏原 (1500-1526) > 105: 後奈良 (1526-1557) > 106: 正親町 (1557-1586)
中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。
しかし承久の乱(承久3年(1221年))以降の天皇の権力的な側面の失墜は著しく、蒙古襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。皇室もまず大覚寺統と持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した(南北朝時代)。
鎌倉幕府の崩壊後、一時大覚寺統傍流の後醍醐天皇による天皇親政(建武の新政)が試みられたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。しかしその後の内乱を通じて南北両朝が並立し、足利方の北朝が南朝を吸収することで収拾された。なお、はるか後の明治時代になって、この時代の北朝と南朝のいずれが正統であるかという議論(南北朝正閏論)が起こっており、現在の皇室は北朝の系譜であるものの、神器を保有した南朝を正統とすることで決着している。
また、室町幕府3代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府4代将軍義持が固辞しており、真相は定かではない。
戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しかったとされているが、有力戦国大名や織田政権・豊臣政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後も制度として継続する。
江戸時代
107: 後陽成 (1586-1611) > 108: 後水尾 (1611-1629) > 109: 明正 (1629-1643) > 110: 後光明 (1643-1654) > 111: 後西 (1655-1663) > 112: 霊元 (1663-1687) > 113: 東山 (1687-1709) > 114: 中御門 (1709-1735) > 115: 桜町 (1735-1747) > 116: 桃園 (1747-1762) > 117: 後桜町 (1762-1770) > 118: 後桃園 (1770-1779) > 119: 光格 (1779-1817) > 120: 仁孝 (1817-1846) > 121: 孝明 (1846-1866)
江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。
しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、これまでと同様に全て天皇から任命されるものであった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。
江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁親王に太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。
しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末の尊皇攘夷運動へと繋がった。
明治以降 (再神格化そして人間宣言)
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幕藩体制が揺らぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められ、大政奉還に至る。官軍の勝利で天皇を中心とする新政権ができ、西ヨーロッパの模倣のなかで、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになった。天皇制は国体と称され、体制に反対するものは不敬として封じ込まれ、言論は統制され、天皇を中心とした戦時体制が作られた。
敗戦後、占領軍は、占領を円滑に行うために、天皇というシステムを存続させたた。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、ダグラス・マッカーサーの強い反対で撤回し、人間宣言を行うことで占領軍の統治を助けた。
天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と高松宮を摂政として皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする意見を、三笠宮、近衛文麿、木戸幸一、南原繁、佐々木惣一、中曽根康弘などが唱えたが、国体護持を掲げていた権力者たちの多くは、民主主義という新たな権威に乗り換えることに成功し、その結果、天皇は国の象徴と呼ばれ、式典などに利用される存在になっていった。
天皇を利用することに価値を見出す人たちは、時計の針を反対に回し、社会を戦前に戻そうとしている。しかしながら、高潔で、リベラルで、平和を願い、人間として素晴らしい今上天皇を利用しようなどというのは、あまりにも礼を欠く考えである。