Saturday, March 26, 2011

三崎無我

釈迦の教えの究極は何かと言いますと、それは無常であると思うのです。
無常と言いますのは、この世のすべては変化流動し、固定されたものは一切ないという事です。
人はとかく安定したものを求めたがるわけでありますが、安定を求めるばかりに、それが失われた時に動揺する。激しく苦しむ。ゆえに釈迦は、世に安定したものなど一切無いという事を前提として生きよと説いたのです。
人は安定を求めます。
しかしながら、自分という存在、人という存在、いや、世の中という存在そのものが、不安定なものなのです。
「必ず上手く行く」「絶対に成功する」という事は、決してない。決してないのだと心に刻む事。そこに、かえって安心が生まれます。
仏教の安心とは、絶対的なものを掴まえることで得る安心ではありません。不安定なものであると悟ることによって生まれる安心です。
我々は、誰人たりとも、将来の安泰は保証されていない。将来の健康を保証されていない。
もちろん、できるだけ努力して、生活の安定や健康に努めますが、それでも、いざという時は仕方ないという覚悟を決めてこそ、精神的な安定性を得られるのです。
将来が恐くてならないという状態から解放されるのです。
我々は朝の露の如く、いつか消えて行く存在です。
健康や財産を失うことを、必要以上に心配してはなりません。今を楽しむのです。無常だからこそ、今に感謝し、今を生きるのです。

3 comments:

  1. 目からウロコの仏教入門
    〜ひとりで学ぶ歴史と思想〜
    ─ 無常の教えに立ち返る ─

    by 三崎無我

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  2. なぜ、この世は無常なのか?
    それは、あらゆるものは、関わり合いの上で成立しているからです。

    他のものにまったく影響を受けず、それだけで存在し得るものは何も無いのです。

    それはまた人間も同じです。

    人はただ一人では生きられない。
    必ず、他の者の助けを必要とします。
    人のものの考え方すら、日々、他からの影響を受けているのです。

    それゆえ、「私は」「私は」と、自分に執着するのは間違いである。
    謙虚になるべき時は謙虚になり、反省すべき時は反省しなさい。
    あなたは、あなたの力だけで、あなたになったわけではないのですよ。
    そして、これからもそうなのですよ。

    このような考え方が「無我」です。


    以上の考え方を身につけておきますと、
    苦しい事があっても、必要以上に苦しむ事はない。
    ギリギリのところで、己を支えられる。
    仏教では、このように昔から説明して来たのです。

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  3. 葉隠という書物に、「武士道と云は、死ぬ事と見付[け]たり」とあります。
    生きるか死ぬか迷ったら、死ぬほうを選べと説いています。

    私は20代の頃、これを読んでも意味がわかりませんでしたが、
    基本的な仏教を学んで、無常思想を知ってから、
    やっと、この意味が理解できたのです。

    「生きる」という事に執着するから、恐怖が生じる。
    その恐怖ゆえに、合戦の折、力が抜け、判断力がにぶる。

    ところが、「死ぬ」という覚悟を決めて勝負に挑めば、
    相手を見据える目もしっかりして来る。

    太刀を持つ腕にも力が入る。

    これは、まったく無常思想そのものなのです。

    我々は、いつ死んでもおかしくない。

    だったら、いたずらに死を怯えるのではなく、来たら悠然と迎えてやろう。
    そういう気持ちになってこそ、はじめて今を生きることができるのです。

    むしろ、死を怯えて生きるというのは、死んでいるも同じ事です。
    死を覚悟してこそ、生きることができるのです。

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