歴史小説には宿命的なハンデがある。 それは、登場人物よりも先に読者が話の展開を知っているということだ。 たとえば関ヶ原の戦いで家康と三成のどちらが勝つのかドキドキする読者はあまりいない。織田信長が明智光秀に殺されることも、江戸幕府が倒れ明治になることも、読者は既に知っている。知っていて読むのである。こんなジャンルは他にない。 しかしそこが作家の腕の見せ所だ。 いつ何があったというだけなら年表を見れば事足りる。年表の記述と辻褄を合わせながら、その隙間をドラマティックに埋めていくのが歴史小説なのだと言っていい。 ところが梶よう子の『一朝の夢』はひと味違う。年表の隙間を埋めるのではなく、年表に半透明の幕を張り、その手前でドラマを展開するのである。町方や市井の物語の向こうに常に歴史が透けて見える、そんな作風なのだ。『一朝の夢』の主人公は、三男として生まれながら兄の急逝で家督を継いだ中根興三郎。北町奉行所の同心だが、探索や吟味をするのではなく両御組姓名掛り、つまりは閑職の名簿作成役である。しかし興三郎は特に不満には感じていない。暇な方が趣味の朝顔栽培に没頭できるからだ。揶揄をこめて「朝顔同心」などと呼ばれたりもするが、まったく気にしない。 朝顔の話になると止まらなくなるという朝顔オタク。江戸時代には朝顔の栽培が流行し、変種を生み出すことを競い、大きな金も動いたという。しかし興三郎が朝顔に惹かれたのは「美しく、堂々とした花でなく、蔓だけ伸び、人目に触れずそっと咲いて萎んでしまうような」突然変異の朝顔と自分が似ている、と思ったことにある。
名を売ろうとか金を儲けようとかではない。朝顔を心から慈しんだ人だけが“朝顔からの褒美”として咲かせられるという黄色花をいつか見たい、咲かせたい。それだけが夢という男なのだ。 そんなぼんくら同心が、朝顔がとりもつ縁でいつの間にか幕末の大政変に巻き込まれていく──という展開になるから驚く。 興三郎はある日、ひょんなことから身分の高そうな武家と知り合い、朝顔を介した交流が始まる。なかなかの風流人で、興三郎は彼との時間を楽しく過ごすのだが、実はこの武家が、それこそ歴史年表に名を刻む実在の人物なのである。 この武家と興三郎は、身分は違えどともに長男ではなく、家を継がない自分は何をなすべきかを探しながら生きてきた。これだ、と思った矢先に事情が変わって家督を継ぐことになったのも同じである。ともに悩みがあった。迷いもあった。そんなふたりにきっかけを与えたのが朝顔だ。黄色の朝顔を咲かせるという夢だ。武家は庭の朝顔を見ながら興三郎に言う。「お主は懸命に作れ。(中略)儂は、儂の為すべきことを恐れずやろう。ふたりで朝顔から褒美をもらおうではないか」 このあたりになると、読者はこの武家が誰なのか見当がついてくる。見当がつけば彼のその後の運命もわかる。「儂の為すべきことを恐れずやろう」とは何のことか、その結果何が起きるのか、読者は登場人物よりも先に知る。そして巷間伝えられているこの人物像とは趣が違うことに驚くだろう。これが冒頭に書いた歴史小説というジャンルの特徴である。 ここで、話の先を知っているというハンデが一転、強みになる。彼が誰でどうなるか分かっているからこそ、この武家の心根と信念に心打たれる。運命を知っているからこそ、このあと随所に登場する武家のセリフひとつひとつに、読者は彼の壮絶な決意を感じ取ることができるのである。
そして相手の正体を知らぬままに自分にできることをやろうとする興三郎に対してもまた、共感と応援と、そして切なさがとめどなく沸き上がって来るのだ。 やがて興三郎は武家の正体を知る。知るに至った事件と、そのとき彼がとった行動が本書のクライマックスである。 歴史を動かすのは常に一握りの人々で、多くの民はただ巻き込まれるだけだ。興三郎は悲劇を防げない自分の無力さに慟哭する。慟哭の中で、ぼんくらの朝顔同心と呼ばれていた興三郎が見せる驚くべき芯の強さを堪能されたい。 終盤、国政を大きく揺るがす大事件が起きる。年表にも載っている出来事だ。けれど日々の生活はその年表の1行で区切れるものではない、ということが本書を読むとよくわかる。 施政者が殺されても夏になれば朝顔は咲く。大輪もあれば、変種もあるだろう。朝顔の花は1年きりだが、種がとれ、命を受け継いだ花が来年また咲く。残された人は先人が残したものをしっかと受け継ぎ、次の時代へ手渡す。そうして日々は続いていくのだと、すとんと胸に落ちる。 骨太な歴史小説である。と同時に肌理(きめ)細やかで優しい小説である。運命に立ち向かう強さと、運命を受け入れる潔さの両方がここにある。 なお、本書の前日譚となる『夢の花、咲く』が12月に出るそうだ。安政の大地震と将軍(政権)交代という、まるで現代の映し絵のような舞台で興三郎がどんな活躍を見せるか、併せて楽しまれたい。 前日譚だから興三郎は本書よりさらに輪をかけてぼんくらだ。しかし『一朝の夢』の読者は興三郎の芯の強さを既に知っている。興三郎の未来を知っている。これもまた歴史小説の書き手らしい趣向だ。知って読むと、味わいはまた格別である。
歴史小説には宿命的なハンデがある。
ReplyDeleteそれは、登場人物よりも先に読者が話の展開を知っているということだ。
たとえば関ヶ原の戦いで家康と三成のどちらが勝つのかドキドキする読者はあまりいない。織田信長が明智光秀に殺されることも、江戸幕府が倒れ明治になることも、読者は既に知っている。知っていて読むのである。こんなジャンルは他にない。
しかしそこが作家の腕の見せ所だ。
いつ何があったというだけなら年表を見れば事足りる。年表の記述と辻褄を合わせながら、その隙間をドラマティックに埋めていくのが歴史小説なのだと言っていい。
ところが梶よう子の『一朝の夢』はひと味違う。年表の隙間を埋めるのではなく、年表に半透明の幕を張り、その手前でドラマを展開するのである。町方や市井の物語の向こうに常に歴史が透けて見える、そんな作風なのだ。
『一朝の夢』の主人公は、三男として生まれながら兄の急逝で家督を継いだ中根興三郎。北町奉行所の同心だが、探索や吟味をするのではなく両御組姓名掛り、つまりは閑職の名簿作成役である。しかし興三郎は特に不満には感じていない。暇な方が趣味の朝顔栽培に没頭できるからだ。揶揄をこめて「朝顔同心」などと呼ばれたりもするが、まったく気にしない。
朝顔の話になると止まらなくなるという朝顔オタク。江戸時代には朝顔の栽培が流行し、変種を生み出すことを競い、大きな金も動いたという。しかし興三郎が朝顔に惹かれたのは「美しく、堂々とした花でなく、蔓だけ伸び、人目に触れずそっと咲いて萎んでしまうような」突然変異の朝顔と自分が似ている、と思ったことにある。
名を売ろうとか金を儲けようとかではない。朝顔を心から慈しんだ人だけが“朝顔からの褒美”として咲かせられるという黄色花をいつか見たい、咲かせたい。それだけが夢という男なのだ。
ReplyDeleteそんなぼんくら同心が、朝顔がとりもつ縁でいつの間にか幕末の大政変に巻き込まれていく──という展開になるから驚く。
興三郎はある日、ひょんなことから身分の高そうな武家と知り合い、朝顔を介した交流が始まる。なかなかの風流人で、興三郎は彼との時間を楽しく過ごすのだが、実はこの武家が、それこそ歴史年表に名を刻む実在の人物なのである。
この武家と興三郎は、身分は違えどともに長男ではなく、家を継がない自分は何をなすべきかを探しながら生きてきた。これだ、と思った矢先に事情が変わって家督を継ぐことになったのも同じである。ともに悩みがあった。迷いもあった。そんなふたりにきっかけを与えたのが朝顔だ。黄色の朝顔を咲かせるという夢だ。武家は庭の朝顔を見ながら興三郎に言う。
「お主は懸命に作れ。(中略)儂は、儂の為すべきことを恐れずやろう。ふたりで朝顔から褒美をもらおうではないか」
このあたりになると、読者はこの武家が誰なのか見当がついてくる。見当がつけば彼のその後の運命もわかる。「儂の為すべきことを恐れずやろう」とは何のことか、その結果何が起きるのか、読者は登場人物よりも先に知る。そして巷間伝えられているこの人物像とは趣が違うことに驚くだろう。これが冒頭に書いた歴史小説というジャンルの特徴である。
ここで、話の先を知っているというハンデが一転、強みになる。彼が誰でどうなるか分かっているからこそ、この武家の心根と信念に心打たれる。運命を知っているからこそ、このあと随所に登場する武家のセリフひとつひとつに、読者は彼の壮絶な決意を感じ取ることができるのである。
そして相手の正体を知らぬままに自分にできることをやろうとする興三郎に対してもまた、共感と応援と、そして切なさがとめどなく沸き上がって来るのだ。
ReplyDeleteやがて興三郎は武家の正体を知る。知るに至った事件と、そのとき彼がとった行動が本書のクライマックスである。
歴史を動かすのは常に一握りの人々で、多くの民はただ巻き込まれるだけだ。興三郎は悲劇を防げない自分の無力さに慟哭する。慟哭の中で、ぼんくらの朝顔同心と呼ばれていた興三郎が見せる驚くべき芯の強さを堪能されたい。
終盤、国政を大きく揺るがす大事件が起きる。年表にも載っている出来事だ。けれど日々の生活はその年表の1行で区切れるものではない、ということが本書を読むとよくわかる。
施政者が殺されても夏になれば朝顔は咲く。大輪もあれば、変種もあるだろう。朝顔の花は1年きりだが、種がとれ、命を受け継いだ花が来年また咲く。残された人は先人が残したものをしっかと受け継ぎ、次の時代へ手渡す。そうして日々は続いていくのだと、すとんと胸に落ちる。
骨太な歴史小説である。と同時に肌理(きめ)細やかで優しい小説である。運命に立ち向かう強さと、運命を受け入れる潔さの両方がここにある。
なお、本書の前日譚となる『夢の花、咲く』が12月に出るそうだ。安政の大地震と将軍(政権)交代という、まるで現代の映し絵のような舞台で興三郎がどんな活躍を見せるか、併せて楽しまれたい。
前日譚だから興三郎は本書よりさらに輪をかけてぼんくらだ。しかし『一朝の夢』の読者は興三郎の芯の強さを既に知っている。興三郎の未来を知っている。これもまた歴史小説の書き手らしい趣向だ。知って読むと、味わいはまた格別である。