Sunday, February 19, 2012

榊淳史

「見てはいけない」という禁令を破る話は、たとえば、鶴女房などがある。西洋にも、禁令の話がある。比較してみると、西洋の場合は、禁令を破ってつらい思いをするが、しかし、そのあと、救い手(たとえば王子様)が現れて、結婚などで締めくくる、というパターンがあるのに対し、日本の場合は、禁令を出した本人が、悲しみのあまりにいなくなってしまう、そして、禁令を破ったものは、その場に取り残される、というパターン。
つまり、西洋の場合は、なんらかの結果(たとえば、結婚)があるのに対し、東洋の場合は、元の状態(たとえば、独身)に戻ってしまうのだ.このことを、西洋のある昔話研究者が「すべてを失った無の状態になる」といい、しかし、これを河合先生は禅にも通じる円環的全体性(終わりも始まりも包含している状態)と見て、東洋的な世界観である、と言っている。

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  1. 西洋的な持続的成長ではない、東洋的円環的収束

    10代から心理学や哲学、宗教、芸術、物理学などに関心があったのは、対外的な不安感がいつもあるからで、他人とはなにかを知るためだった.しかし、自分の立ち位置を見つけた後は、同じ関心ごとへの関わりは、世界のあり方に触れる志向になっていった.

    ユング心理学が展開する「全体性」や、東洋の思想の「中庸」、また、哲学では構造主義やポスト構造主義がスポットライトを当てている「枠」について、今もっているものが正しいわけではなく、自分も見えていない「世界」が存在していると知ったのは、30代に入ってからだ.

    つねづねぼんやりと違和感を持っていたのは、「成長」への焦燥感.明治維新によって日本は西洋的な合理的な解釈と啓蒙思想によって、日本全体が西洋の世界観を目指して、成長することにまい進した.その根底は、現実的な生活の中に根付いている.

    日本の深層にあるマインドは、一方で、東洋的であるままのようにも思える.自我確立に軸をおく西洋のやり方を取り込んではいるが、しかし、全体としては、自我埋没的なマインドである.

    …と指摘すると、ネガティブな意味となる.しかし、それは、西洋的視点からみた話.東洋的な全体的なマインドからすれば、当然のあり方である.いわば、これは東洋的な自我なのである.

    そこで、ひとつ思い立ったのが、持続的成長ということ.

    成長し進歩し発達する、という志向には、直線的で、スタートがあり終わりがある、というイメージがある.ある正しい頂点があって、そこに向かっていく世界観.さらに「持続的」と形容詞がついているから、究極のエリートのようなイメージが湧く.しかし、持続的に成長する、という直線的な世界観は、日本に合っているのだろうか.

    『昔話と日本人の心』は昔話を深層心理学の見地から見つめ、日本人の根底にあるマインドをみてみようとする.この中で、同じようなモチーフなのに、日本と西洋とで異なる結果になる話がある.

    「見てはいけない」という禁令を破る話は、たとえば、鶴女房などがある.西洋にも、禁令の話がある.比較してみると、西洋の場合は、禁令を破ってつらい思いをするが、しかし、そのあと、救い手(たとえば王子様)が現れて、結婚などで締めくくる、というパターンがあるのに対し、日本の場合は、禁令を出した本人が、悲しみのあまりにいなくなってしまう、そして、禁令を破ったものは、その場に取り残される、というパターン.

    つまり、西洋の場合は、なんらかの結果(たとえば、結婚)があるのに対し、東洋の場合は、元の状態(たとえば、独身)に戻ってしまうのだ.このことを、西洋のある昔話研究者が「すべてを失った無の状態になる」といい、しかし、これを河合先生は禅にも通じる円環的全体性(終わりも始まりも包含している状態)と見て、東洋的な世界観である、と言っている.

    話を持続的成長に戻す.持続的成長がなんらかの結果を求めて、直線的に進んでいくとすれば、一方で、成長だけでなく、自ら進んで崩していくパワーをも包含する視点もあってよいのではないか.ただし、これだけでは、文学的な趣向にすぎないので、現実的な政策に落とし込むには発想の転換とイノベーションがいるとは思う.

    しかし、進歩することが正しいわけではないことは、構造主義を提案したレヴィ・ストロースが明らかにしている.

    東洋的円環的収束観を持ち続けているのにも関わらず、自我の持ち方として、西洋的直線的成長観にとどまっていることが、日本独特の感情文化につながっている気がする.

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