Sunday, February 19, 2012

鈴木秀夫

ユダヤ・キリスト教においては「万物が全能なる神により創造されたものであり、世界は決して永遠ではありえない。世界は天地創造から終末に向かって一直線に進行している」という「直線的世界観」があります。その中でフォー・ベター・トゥモローという思想が生れ、すべてのものが一つの流れの中で、終末に向けて進歩している、と考えられています。
それに対し、仏教の場合、前述しましたように、まず、万物が空ですから、絶対者(例えば如来)もまた空でなければならず、天地万物は絶対者と共にあるものである、と考えます。そして、絶対者がなくなるということは考えられないから、従って、天地万物もなくなることはない。さらに、死んだ生物が土に帰り、そこからまた新しい生命が誕生するという「輪廻転生」の概念も加わって、万物は永遠に流転するという「円環的世界観」が成立したのです。
ところが、日本は近年、西洋思想から生れた制度や方法等を数多く取り入れている。中でも代表的なのが「民主主義」ですが、これは本来、仏教徒が主流の日本には根付かない、定着しないのではないかと私には考えられます。

4 comments:

  1. 森林の思考・砂漠の思考

    鈴木秀夫

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  2. アンケート調査などをすると、日本人は比較的「わかりません」あるいは「どちらでもいい」という回答が多いんです。これは決して意識が低い人々が多いということではなくて、根源に、森林の思考、仏教的な思想が内在するとも考えられるんです。

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  3. 西洋のユダヤ・キリスト教の論理は「ロゴスの論理」です。この論理は「A」か「非A」か、「善」か「悪」か、というふうに、常に二者択一なんです。これは砂漠で生活するためには必要不可欠なことです。

    つまり、水場があるかないか、常に決断を迫られるわけです。選択次第でその後の運命は生か滅か、大きく違ってくる。

    東洋、すなわち仏教の論理は「レンマの論理」と言いまして、例えば「A」というのは「非A」があって初めて存在する、言い換えれば「善」は「悪」があって初めて存在する。ゆえに「善」も「悪」もそれ自身では存在し得ないが、しかし現実には存在している、という論理なんです。ちょっと理解しにくいかもしれませんが、根本にあるのは「すべてのものは互いに相まって存在している」という考え方です。ちなみに、仏教ではこれを「空(くう)」と表現しています。これは、森林には生が満ち満ちており、砂漠と違って、生か滅か、行く手を思い悩む必要がない、区別する必要がない、という背景と密接な関連があります。

    ユダヤ・キリスト教においては「万物が『全能なる神』により創造されたものであり、世界は決して永遠ではありえない。世界は天地創造から終末に向かって一直線に進行している」という「直線的世界観」があります。その中で「進歩思想(フォー・ベター・トゥモロー)」というものが生れ、すべてのものが一つの流れの中で、終末に向けて進歩している、と考えられています。

    それに対し、仏教の場合、前述しましたように、まず、万物が空ですから、絶対者(例えば如来)もまた空でなければならず、天地万物は絶対者と共にあるものである、と考えます。そして、絶対者がなくなるということは考えられないから、従って、天地万物もなくなることはない。さらに、死んだ生物が土に帰り、そこからまた新しい生命が誕生するという「輪廻転生」の概念も加わって、万物は永遠に流転するという「円環的世界観」が成立したのです。

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  4. ところが、日本は近年、西洋思想から生れた制度や方法等を数多く取り入れている。中でも代表的なのが「民主主義」ですが、これは本来、仏教徒が主流の日本には根付かない、定着しないのではないかと私には考えられます。

    要するにユダヤ・キリスト教では、人間は「個」であると考えます。そして、全能なる神をものすごく大きな存在と考え、その神から見たら、個の存在なんていかにも小さい、みんな同じである。だから、それぞれの意見を出し、多数決を採って、物事を決定しようというシステムになっているわけです。「陪審員制度」などもそういう考え方のもとに生れていると思います。

    (私などの考えからすると、陪審員という、言わば法律に関しては素人の集団に有罪だの無罪だのと決められてしまうより、経験や勉強を積んだ権威ある大裁判官に判定してもらった方が、納得できるのではないか、と思ってしまうんですが・・・。)

    そのあたりが、仏教との違いで、個人、インディビジュアリズムが元になっているかどうかでしょうね。つまり、ユダヤ・キリスト教は、神のもとで人間はちっぽけな存在同士、みんな平等、対等である、という考えなんですね。

    反面、仏教では、菩薩など修行に応じて階層があるように、われわれの中に、より知識の豊富な人の意見や判断を尊重するという考え方が根付いているのかも知れませんね。

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