人の氏はその人の血族姻族関係のつながりを示すを常とし、またその名と相まつてその人と他とを識別するものとして我が国民の社会生活上極めて重要なもので、新憲法並びに民法の改正によつて家の制度が廃止され、氏が家を示す名称でなくなつたけれども、唯その本人のためのみのものではなく、同時に社会のためのものである。それ故氏がみだりに変更されるときは社会一般人にも多大の影響を及ぼすものであるから軽々にその変更を許すべきでないことは当然である。しかしそうだからと言つて当人に社会生活上氏を変更することが真に止むを得ない事情があり、且つ社会的客観的に見ても納得のいく事情が認められる場合には、氏の変更を許すべきものとしなければならない。戸籍法第107条の法意もここにあるのであつて、同条に「やむを得ない事由」と言うのは、当人にとつて社会生活上氏を変更しなければならない真に止むを得ない事情があると共にその事情が社会的客観的にみても是認せられるものでなければならない場合を言うものと解すべきである。
大阪高等裁判所判決(昭和30年10月15日)
ReplyDelete氏は個人のものなのに、なぜ戸籍の秩序や法的秩序から変更を制限するのか
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氏の変更がきわめて限定的な場合にしか認められないとしている背景には、既に述べた家制度の名残もあるのでしょう。また、戸籍法というのが、本籍地と氏をもって一つの家族を登録していることからも、氏そのものが変わるとある家庭の同一性の識別が非常に困難になるというお国の側からの理由がきわめて大きい要素であると考えられます。
このような政策的な立法事実が果たして現在の社会においても合理的な妥当性を有しているのかは疑問がなくもありません。近年は憲法13条による人格権・幸福追及権に基づく新しい人権が広く認められるようになってきています。例えば肖像権や環境権は判例上もその権利性が認められるようになって久しいですし、最近ではreproduction(子孫を残すか否か)という権利も憲法上の人権であると主張する学者もいます。加えて、主として在日朝鮮人(韓国人)によって「名称の呼び名」を日本語読みにされたことは憲法上の人格権を侵害しているという裁判も提起されました。そうすると、自分の氏についてもその個人の自由に定め、変更することができるという氏名変更権というようなものも憲法上の人権といえるのではないだろうかということも考えられます。
確かに、なぜ戸籍の秩序という国の都合で個人の氏名変更の自由を制限されるのかということには疑問があります。戸籍の秩序維持のためであれば、厳格な届出形式を定めることによって手続上のミスをなくして住民票から社会保険までもれなく変更手続きができるようにすれば足りるのですし、それができないというお役所(国・地方公共団体)の体制の不備を個人のツケにするのはおかしいといえます。そもそも、何故戸籍によって国民を管理する必要があるのか、という根本的な疑問もでてきます。
現在はこのような視点を正面にたてて裁判で争われたようなものは見あたりませんが、近い内に氏の変更についてもより個人の自由となる時代になるのではないかと思われます。