Saturday, December 17, 2011

ペトロ・ネメシェギ

「ヒューマニズム」という語について、『小学館ランダムハウス英和大辞典』には、「人間主義」、「人道主義」、「人文主義」という三つの訳語が載せられ、説明として、「人間的趣味・価値・品位・尊厳がその中心となっている思考(行動)様式」と書かれている。これは一般に認められているヒューマニズムの定義であると思う。そこで、このような意味をもっているヒューマニズムという語に「キリスト教的」という形容詞をつけるのは、いささか意外である。というのは、宗教においては、人間ではなく神か仏、つまり人を越える存在が中心にされるべきだと思われているからである。事実、その理由で、キリスト教的な事柄を中心とするヒューマニズム思想を排斥したのである。キリスト者の間に広まっていたこのような考え方に反発して、19世紀に、ヒューマニズムを主張するためには、キリスト教を退け、神を否定しなければならないと主張する人々が現れたことは、よく知られている事実である。この無神論的なヒューマニズムを提示する人々の代表者として、フォイエルバッハ、マルクス、ニーチェなどの名をあげることができる。彼らによると、ニーチェ風に言えば、人間を立てるためには、神を殺さなければならないのである。  このような無神論的なヒューマニズムが、19世紀から20世紀にかけて世界的な運動になったが、ニーチェの思想からナチズムが生じ、マルクスの思考からスターリン主義が生じて、無数の人の命を奪う人間否定に発展して行ったので、現代では無神論的ヒューマニズムが色褪せてしまい、ヒューマニズムを新たに基礎づけ、それとキリスト教徒の関係を考え直さなければならないという必要性が痛感されるようになったのである。

5 comments:

  1. ―キリスト教的ヒューマニズム―

    ペトロ・ネメシェギ
    イエズス会日本管区
    http://www.jesuits.or.jp/sj-humanism.html

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  2. 聖書に見られるヒューマニズムの源    

    聖書にはヒューマニズムの源となりうる言葉が多々あるが、その中から、最も重要な四つの言葉を引用してみよう。

    (1)「神はご自分にかたどって人間を創造された。」(創世記1・27)

    (2)「神は、すべての人々が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる。」(テモテへの第一の手紙2・4)

    (3)「言(ことば)は肉(人間)となって、わたしたちの間に住まわれた。」(ヨハネ福音書1・14)

    (4)「一人の方(イエス・キリスト)は、すべての人のために死んでくださった。」 (コリントの信徒への第二の手紙5・15)  

    この四つの言葉がヒューマニズムとどのように関係しているかを考えてみよう。第一の言葉によれば、人間、しかもすべての人間が「神にかたどって」、すなわち神の像として、神ご自身によって存在と命を与えられているのである。したがって、永遠の神ご自身が人間の存在価値を肯定されるのである。この神の意志は、人類のあらゆる災いや罪よりも強く、第二の言葉で言われているように、あらゆる人間を死と罪から救うことを望んでいる神の意志として永久に存続しているのである。この神の意志の実行として、第三と第四の言葉で言われているとおりに、神の言である永遠の御独り子が人間となり、すべての人のために命を捧げて死んだのである。イエスの死は聖書の中では、いつもイエスの復活、すなわち死のかなたにあるイエスの新しい命と結び付けられている。人間のために死に、人間のために復活し、人間として神の永遠の命にあずかっているイエスの存在は、神がすべての人間を愛していることをはっきり示している事実である。  

    聖書に見られる以上の考えは、確かに、すべての人間の価値を認め、かつ育てる思考・行動様式の源になりうるが、同じ聖書の中には、ヒューマニズムと縁のないような言葉も多々見られる。だから、以上の四つの言葉で言い表わされている聖書の根本的な教えからキリスト教的ヒューマニズムが大きな木として成長するためには、かなり長い時間が必要であったのである。そこで次に、キリスト教の歴史におけるヒューマニズム思想の歩みを語ってみよう。

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  3. キリスト教の歴史に見られるヒューマニズム

    キリスト教思想史を見ると、早くも、古代ギリシアのキリスト教神学者たちの思想において、ヒューマニズムのような考え方が現れたことがわかる。二世紀の神学者エイレナイオスは、人類の歴史の全体を、最初の人間から世の終わりまで続く、神の慈しみによって導かれる一貫した人間救済の営みと見なした。神は、人間に恵みを与えるために人間を創造し、罪を犯して死の運命に服した人間を救うために御子と聖霊を遣わし、アダムをはじめ、すべての人を、イエス・キリストという唯一の頭のもとで一つにまとめようとする。神のこの営みは、人間たちを「永遠の命」へ導く過程である。事実、「生きている人間こそ神の栄光である」。エイレナイオスのこの断言は、キリスト教的ヒューマニズムの合言葉と見なされうる。それによれば、「神の栄光」となるのは、神をほめたたえたり、賛美したりすることよりも、神によって生かされている人間として生きることである。したがって、人間を小さく見せたり、その能力を否定したりすることではなく、あらゆる面で人間の命を育むことが、神の栄光となる。もちろん、エイレナイオスによれば、神との正しい関係こそ、人間が真に生きるために最も必要なことである。事実、上に引用した彼の言葉に続くのは、「人間の命、それは神を見ることだ」という断言である。  

    ヒューマニズム的な思想を持っているもう一人のギリシア教父として、三世紀のオリゲネスの名をあげることができる。彼は宇宙全体の歴史を、善良な神による全人類の教育課程として理解した。自由意志をもっているものとして創造された人間たちは、この教育を受けて、自由に善を選び、行うようになる。死の後でも続くこの教育的な浄化過程によってついに全ての人間が善を選び、善である神と一致して生きるようになる。オリゲネスはこの万民救済のことを、断言としてではなく、希望として述べているが、万民救済という多きな希望を、彼だけではなく、他のギリシア教父、例えば、ニュッサのグレゴリオスも抱いていたのである。  

    ところで、ラテン神学者アウグスティヌスになると、このような楽観的でヒューマニズム的な思想が消える。 彼によれば、原罪に汚染された人類は、神によって断罪され、情欲に走る悪の塊であり、正しく愛することができない人々のうちから神がある者を選び、聖霊によって彼らの意思を動かして回心させ、永遠の命を得るように予定したこの人々を、愛と命に導くのである。「教会以外に救いなし」という公理はアウグスティヌスの思想において非常に厳しい意味を持つようになり、異端者たちを国家権力によって教会に入るように強制するという彼の考えや、キリスト教以外の宗教の実践をキリスト教を国境とする国の市民に禁じるべきであるという当時の人々の考えは、このような思想の自然の産物である。これはもちろん、すべての人間に共通の人間的な事柄を中心にするヒューマニズムとは程遠い考え方である。  

    中世の西欧では、アウグスティヌスの思想の影響を大いに受けたので、ヒューマニズムは栄えることができなかった。その社会は個人の権利や自由よりも、社会や教会の制度や規律を重視し、教会が説く教理から逸脱する人々を異端審問にかけたり、死刑に処したりし、封建社会の秩序を守ることを、人権を守ることに優先させた。したがって、ヨーロッパのキリスト教的な中世社会には、キリスト教的なヒューマニズムが欠如したと言ってもよかろう。  

    ギリシア神学者に芽生えていたキリスト教的ヒューマニズムが再び開花するきっかけとなったのは、15世紀、16世紀のルネサンス時代に起こった古代ギリシア・ローマ世界の再発見であった。プラトン、アリストテレス、ストア派などのギリシア哲学者の人間理解や人間の身体美を称える古代美術の再発見は、ヨーロッパの中で、人間的価値・品位・尊厳に焦点を合わせる思想を生んだ。当時のヒューマニストの一部は、人間を称えるためにキリスト教を退けたが、深いキリスト教的な信仰を保ちながらも、それを人間の尊厳と価値を強調する思想と結び合わせた一連のヒューマニストたちも現れた。ニコラウス・クサーヌス、トーマス・モーア、エラスムスなどのような人たちである。彼らはイエスに対する篤い信仰を持ち、イエスが福音書で説いた生き方を身に付けようとし、金銭欲と権力欲に固まった当時の教会の改革を強く要求しながら、対立、争い、分裂などを極力避けたのである。この人々は、当時キリスト教諸国を激しく襲ったイスラム教徒にさえ、静かな対話と理性的な説得によって近づこうとしたのである。したがって、十五、十六世紀は、キリスト教的なヒューマニズムの素晴らしい春の時代であったが、残念ながら、その後の歴史は、彼らの思想に従わなかったのである。  

    十六世紀に起こったプロテスタントの宗教改革は、一方では、教会の支配に対してキリスト者の自由を強調する点でヒューマニズム的であったが、他方では、原罪によって堕落した人間の無力を強調し、救済予定論を教え、人間が自由意志によって神の恵みと協力しうることを否定するという点で、ヒューマニズムとは程遠いアウダスティヌス的・中世的な思想であったのである。  

    カトリック教会は、宗教改革によって引き起こされた教会分裂のショックを受けて、教会と国家の権力を使って残った信者たちを教会の指導に従わせようとした。だから、当時の教会は信教の自由を認めず、宗教戦争に賛成し、教会の教えとは異なる内容の書物を読むことを信者に禁じたのである。トリエント公会議によって改革されたカトリック教会は、十六世紀以降、世界的な宣教活動を繰り広げて、効果をあげたが、西洋キリスト教の文化と異なる文化から何かを学ほうとした宣教師たちの試みを排斥したのである。ヒューマニズム的とは言いがたいこの時代にも、人間の理性、意志、感情を調和的に発達させることを目指すイエズス会学校の教育制度や、十七世紀のフランスに見られる、芸術、文学などを積極的に評価するいわゆる「信心深いヒューマニズム」 の霊性運動がある程度までヒューマニズム的な要素をもっていたが、この時代のキリスト教を全体として見ると、それはヒューマニズムを育てるようなものではなかったと言うべきである。  

    十八、十九世紀の啓蒙思想、フランス革命の思想、自由主義思想には、ヒューマニズムの思想が復活するが、キリスト教の内部においてそれが大いに開花し、カトリック思想の主流となったのは、二十世紀のことである。  

    この点で先駆者の役割を果たしたのは、フランスの哲学者ジャック・マリタン (Jacques Maritain)である。彼の著作『完全なヒューマニズム』 (Humanisime integral) に表された考えは、当時教会内で危険思想と思われたが、間もなくカトリック教会の最高指導者たちによって述べられるようになったのである。この点で教会の姿勢を変えたのは、ローマ教皇ヨハネ二十三世である。彼が発布した『地上に平和を』と題する回勅は、教会の歴史において初めて、カトリック信者にだけではなく、「すべての善意の人に」宛てられて出されたものである。どの宗派や政党に属する者であっても、すべての人を父親的な愛情をもって迎えたこの教皇は、教会の閉鎖的で排他的な姿勢を打破したのである。彼の死のニュースを聞いたイタリアのあるバス運転手が述べた言葉は、この教皇が人々に与えた印象をよく表している。「この教皇は、わたしたちが人間であることをわたしたちに感じさせたのだ」と。まさに、そのとおりである。  

    同教皇が開いた第二ヴァテイカン公会議がヒューマニズム的な思想をはっきり打ち出している。キリストがすべての人間と一致していること、聖霊がすべての人間の心の中に働いていること、信教の自由を含めてすべての人間の人権が尊重されるべきこと、すべての人間の喜びと悲しみがキリストと弟子の心に響くこと、各民族の文化を尊重し、その価値をキリスト教に受け入れなければならないことなどを宣言したこの公会議は、ヒューマニズムの精神に溢れている。  

    公会議後の教皇たち、すなわちパウロ六世とヨハネ・パウロ二世も、同じ思想を説いている。現教皇ヨハネ・パウロ二世によれば、人間の偉大な尊厳を前にして感じる警こそ、キリスト教が現代に提供する優れた貢献なのである。それで、キリスト教的ヒューマニズムの歴史について以上のように大ざっぱに述べた後、聖書や第二ヴァティカン公会議に従って、このヒューマニズムの内容を、七つの命題にまとめて述べたいと思う。

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  4. キリスト教的ヒューマニズムの七つの命題

    (一) 存在そのものが善である  

    キリスト教的ヒューマニズムの第一の命題は、存在することは善いことであるという主張である。存すること、特に人間として存在し、生きることは、価値のあることであり、意義のあることである。したがって、いっそう豊かに生き、成長し、進歩することも、善いことである。存在と命は、否定され破壊されるべきものではなく、肯定され育てられるべきものである。キリスト教において、この存在肯定の思想は、神の愛による世界創造の信仰に基づくものである。旧約聖書の続編に属する『知恵の書』の次の言葉は、このことを見事に表している。   

    「主よ、あなたは存在するものすべてを愛し、   

    お造りになったものを何一つ嫌われない。   

    憎んでおられるなら、造れなかったはずだ。   

    あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。   

    命を愛する主よ、すべてはあなたのもの。」 (11・24・26)  

    全能永遠の神の愛がすべてのもの、特にすべての人間を包んでいるという確信は、誰をも除外しないヒューマニズムの究極的な源であり、支えである。

    (二) 人間は神の像である  

    人間が神の像として創造されたという思想は、キリスト教的ヒューマニズムの第二の命題である。神の像である以上、どの人間も目的であり、決して手段として利用されてはならないものである。神の像という尊厳は、すべての人間に属するものである。国籍、人種、性別、階級、経済力、学問、健康状態などを一切問わず、各人は、粗末に取り扱ってはいけない、貴ぶべきものである。  神の像としてすべての人は、本質的に平等である。確かに、才能、体力、知能、血統などの点で、人々の間には差がある。しかし、人間として存在しているという点で、すべての人は平等であり、同様に人権を有しているものである。  

    このような考えに基づいて、キリスト教的ヒューマニズムは、人々の間の貧富の差、権力の点での過度の差がないように努力することを要求する。だから、第二ヴァティカン公会議も、大地主によって土地の大部分が占有されている国々で貧しい農民に土地をもたせる農地改革を促進することを強く勧め、政治体制として、全国民を政治に参加させる民主主義を、現代社会にふさわしい制度として高く評価している。教会はもはや国家権力から特権を要求せず、すべての人間に信教の完全な自由が認められるように要求するのである。すなわち、真理に到達することは、強制の結果ではなく、人間の自由な探求の結果でなければならないのである。  

    絶対に侵害してはならない人権がすべての人間にあるという考えの究極的な源は、絶対者でおられる神が各人を永遠に存続する命をもっている人格として存在させ、各人のこの存在を、目的と見なしているということである。「神の栄光のためだ」ということを口実として人間を殺したり、投獄させたりしてはならない。「生きている人間こそ、神の栄光である」からである。このようにして、人間の尊厳の絶対性は、神の絶対性に基づくものである。  

    (三) 全面的な人間陶冶    

    キリスト教的ヒューマニズムの第三の命題は、全面的な人間陶冶の主張である。他の生き物と同様に、人間は時間の中に生きており、時間の中で次第に自分自身を作り上げる。人間は多くの可能性を備えたものとして生まれるが、教育、学習、訓練などによってそれらを発達させなければならない。存在の価値を認め、豊かに存在することは善いことであると信じているキリスト教的ヒューマニズムは、一生涯続く養成の必要をうたっている。  

    人間陶冶に関しては、キリスト教的ヒューマニズムは、人間のすべての側面の調和的な養成を、特に強調している。人間には、理性、意志、感情、身体がある。それらすべてが発展させられるべきである。理性に関しては、必要な知識を得、自国民の文化や人類の文化にはぐくまれてきた諸価値を知り、健全な判断力を身につけ、創造的な知性を育てる必要がある。意志に関しては、徳を身につけ、自然に正しいことを選び、実行する姿勢が育てられるべきである。感情に関しては、豊かな感受性を育て、美を評価し作り出す能力を育てる必要がある。身体に関しては、体育によって身体を鍛える必要がある。結局、人間は、真、善、美の世界との接触によって、人間として育つのである。真理に接することによって人は正しい認識を得、合理的に考える能力を育てる。善に接することによって人は美徳を身につけ、誰も見ていなくても自発的に喜んで正しいことを行う。美と接することによって人は利害によって支配される世界から解放され、所有欲と無関係な喜びを経験する。  

    さらに、人間陶冶の場合、人間の最も深い次元、すなわち究極的なものとの関係を問題にする宗教の次元にも、大いに注目すべきである。存在そのものの意義を問うことは、人間の優れた能力である。人間性のほかのあらゆる側面を発達させ、この最も重要な側面を未発達のままに残すことは、人間性を歪めてしまうのである。  

    第二ヴァティカン公会議は次のように言っている。「わたしたちは、人間の尊厳、兄弟的交わり、自由など、すなわち、人間の本性と努力の素晴らしい実りであるこれらすべての価値あるものを、キリストの霊に結ばれて、またキリストの掟に従って、地上に普及させた後、それらをあらゆる汚れから清められたもの、照らされ変貌されたものとして、キリストが永遠普遍の国を御父に返すときに、再び見いだす」(『現代世界憲章』39)。これは、人間陶冶の永久的な価値を主張する、キリスト教信仰に基づく言明である。

    (四) 人間に人間を啓示するイエス  

    キリスト教的ヒューマニズムは、キリスト教的である以上、その中にはイエス・キリストが中心的な位置を占めている。まず第一に、人間イエスの姿を見れば、神の像として生きている人間の生き方がはっきり見えて来るのである。他者のために生き、他者のために死んだイエス、人々からすべてのこと、良いことも悪いことも受け入れて、すべてを赦したイエス、父なる神を愛し、常に神の心に従い、すべてを信頼をもって神の手から受け入れ、神にことごとく自分の命をゆだねたイエス、十字架上で死ぬときに愛の頂点に至り、死のかなたに復活した人間として、神の懐において生きているイエス、このイエスは、神の像である人間の姿を完全に実現した唯一の人である。したがって、このイエスに倣うことは、神の像である真の人間になるための最良の道である。  

    第二に、キリスト教によれば、このイエスは、人間となった神たる御子であり、自分との一致によって人々を「神の本性にあずからせる」(ベトロの第二の手紙1・4)お方である。エイレナイオスは言う、「神の御子は、そのあまりにも大きな愛のゆえに人の子となられた。それは、人を神の子とするためであった」。ギリシア神学者の間には、もっと大胆に、「神が人間となられた。それは、人間を神にするためであった」と言う者もいる。これこそ、生きている神が自由に与える最大の恵みである。その結果、愛の実践を伴う信仰によって、人間は神ご自身の命にあずかるようになるのである。  

    このことは、キリスト者にとって大きな恵みと希望であるが、第二ヴァテイカン公会議によれば、それは「キリスト信者ばかり」のことではないのである。というのは、「聖霊は、神だけが知っている方法で、キリストの死と復活の秘義にあずかる可能性をすべての人に提供する」(『現代世界憲章』22)からである。この「神だけが知っている方法」についてあえてもっと詳しく語るなら、それを、「良心に従う生き方」として説明することができると思われる。良心について同公会議は次のように言っている。「人間は意識の奥底に法則を見いだす。この法則は人間が自らに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法則の声は、常に善を愛して行い、悪を避けるように勧める。この良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神と共におり、神の声が人間の深奥で響く。この良心は、神と隣人に対する愛によって守られる法則を悟らせる」(『現代世界憲章』16)。この世で実際に存在する人間たちの場合、この良心の声を、イエスの死と復活のゆえに人類に与えられている聖霊の働きとして理解することができる。それに促されて、大慈悲である神にすべてをゆだね、すべての人に愛を示して生きている人間は、意識しなくても、神の命にあずかっているのである。  

    もちろん、キリスト者の立場からすると、すべての人がこのことを意識し、イエスによって啓示された神の愛を明白に信じ、神に感謝する人々の集いに加わることは、きわめて望ましいことである。

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  5. (五)「古き人間」からの脱却  

    人が神の像になりうるのは、神の愛と恵みによることであるが、そのためには、人間の協力も必要である。このことは、キリスト教的ヒューマニズムの第五の命題である。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣うものとなりなさい。キリストがわたしたちを愛したように、あなたがたも愛によって歩みなさい」 (エフェソの信徒への手紙5・1)。聖書のこの言葉は、神の愛によって人間に与えられた課題をきわめて適切に表している。  

    このような課題を果たすためには、努力が必要である。聖書の言葉で言えば、各人の中に潜んでいる「古き人間」との戦いのための努力である。人間は自己中心的に生きる傾向があり、エゴ的な欲望を満足させようとする傾きがある。貪欲、権力欲、快楽欲に駆られて生きるように、あるいは反対に、怠惰に流れて、無気力になるように、人間は常に誘惑されている。欲望に支配されることも、怠惰に暮らすことも、「古き人間」 の業であり、聖霊の指導に従うためには、聖書の言葉で言えば、この「古き人間」を「殺さなければならない」 のである。  

    もちろん、この場合人間が「殺す」のは、決して真に価値のあるものではなく、充分に成長していない人の未熟さだけである。人は人間として成長するためには、存在することよりも所有することを追求する姿勢に打ち勝たなければならない。そのためには、克己、節制、忍耐などが必要である。しかし、最も必要なのは、ありのままの自分が神によって愛されているということを確信することである。人々がさまざまの欲望を満足させようと必死になっていることの理由と、何もやる気のないことの理由は、多くの場合、人が感じる不安である。神によって受け入れられているという認識こそ、人をこの不安から解放するのである。

    (六) 他者のために生きる  

    人間はひとりで生きるのではなく、神と共に・また他の人々と共に生きている。そして、人間は神と他の人々に向かって心を開き、神と人々を受け入れ、愛することによって、真の人間になる。第二ヴァティカン公会議は次のように言っている、「愛の掟は人間完成と世界改革の根本法則である」(『現代世界憲章』38)。「特に現代においては、わたしたち自身がすべての人の隣人となり、わたしたちと出会うすべての人に行動的に奉仕する緊急な義務がある」(同書27)。「人間は、自分自身を無私無欲の気持ちで他人に与えることによってのみ、完全に自分自身を見いだすのである」(同書24)。  

    他者との対話、他人の身になること、イエスがわたしたちを愛したように互いを愛すること、これこそ神の像として生きる人間の在り方である。聖書が言っているように、「神は愛だからである」(ヨハネの第一の手紙4・8)。  

    さらに、人はただ他の人々だけではなく・大自然とも対話すべきである。人間はすべての生き物を、命を愛する神の輝きを映すものとして尊重し、その命を育てるべきである。神から人間に与えられた役割は、創世記一章に書かれた「地を従わせよ」(1・28)という言葉よりも、創世記二章に書かれた、「神は人間をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2・15)という言葉である。すなわち人間は、大自然の園丁である。人は大自然を破壊せず、それを麗しい園、人間にふさわしい住まいになるように、育てるべきである。

    (七) 神はすべてのものにまさる  

    以上述べた六つの命題は、人間的価値を中心とするヒューマニズムにふさわしいものとして容易に認められ得ると思うが、キリスト教的ヒューマニズムの第七の命題は、ヒューマニズムの命題としていささか奇妙と思われるかも知れない。それは、無限の神が神以外の一切のものに無限にまさるから、神への忠実を守るために必要であれば、それ以外の一切のものを失うことを覚悟しなければならないという主張である。キリスト教の信仰によれば、一切の有限のものを失っても、神を失わなければ何の損害にもならないのである。この確信を最もはっきりした形で実行したのは、各時代の殉教者たちであるが、溺れかけた人、あるいは電車のホームから線路に落ちた人を助けるために命を犠牲にした人々も、同じ確信を示している。このような人々に当てはまるのは、イエスの次の言葉である。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ福音書8・35)。  

    イエスのこの言葉をもっと広く解釈して、「愛のために命を失う人はそれを救う」とも言えると思う。逆説的なことであるが、誰かを大いに愛しているから、その人を助けるために命すら惜しくないと思っている人こそ、生きがいを感じて、楽しく生きるのである。逆に、ヒューマニズムを口実として自分自身だけを守り、高めようとする人は、真の人間性を失ってしまうのである。  

    神はすべてにまさる。しかも、この神はすべての人の救いを望み、すべての命を愛する神である。この神の愛と合流して生きる人こそ、キリスト教的ヒューマニズムを生きるのである。

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