Saturday, June 23, 2012

川瀬貴也

天皇制イデオロギーにとって最も重要な役目を果たしたのは言うまでもなく靖国神社である。靖国神社の他神社との一番の相違点は、軍に直接属しており過去の忠臣だけでなく将来にわたって祭神が増加することを見越した神社である、という二点であろう。
靖国(招魂社)はもともと維新前後の官軍側の戦死者の霊を慰めるために造営されたものである。従来、戦争における死者は敵味方の区別なく祭られるのが常であったが、味方だけが祭られるという特異な思想がここにおいて始まった。そして戦死して靖国に祭られるという結果が、次第に目的となってしまったことが一番の問題点である。つまり、「靖国で祭られる為に死んでこい」「靖国でまた会おう」との思想が生まれてしまったのである。日清・日露戦争、第一次・第二次世界大戦という大きな戦争に国民が巻き込まれ、全国民がいやおうなしに身近な人の戦死という事態に直面せざるを得なくなった時、その戦死者の霊を全て掌握している靖国神社との関わりを持つ羽目になったのは致し方なかったことといえるだろう。
また、国家神道の核をなす天皇崇拝自体も、国家によって創唱された新宗教の一つの局面と言って良いであろう。特に公教育において、この新宗教は国民に注入された。天皇の写真は、御真影という名で各学校に配布された。これはいわゆるイコンの一種である。そして教育勅語という教義が内面化され、この二つのものに対する最敬礼などの儀礼が存在し、それらを祀る奉置所などの施設が存在した。これが宗教でなくて一体なんなのだろうか。

11 comments:

  1. 「日本における政教関係-残存する神道=非宗教論的心性への問題提起」

    by 川瀬貴也

    第2章 日本近世・近代における政教関係
    http://homepage1.nifty.com/tkawase/osigoto/sotsuron/chap2.htm

    第3章 信教の自由と政教分離
    http://homepage1.nifty.com/tkawase/osigoto/sotsuron/chap3.htm

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  2. 第2章 日本近世・近代における政教関係
     
     プロローグで少し触れたように、江戸幕府は寺院を統治機構の一つとしたことは周知の通りである。まずは、その事を少し振り返ることにしよう。そして続いて、明治維新後の政教関係を、神仏分離、排仏毀釈が行われ神道国教化政策が執られた「明治維新直後から帝国憲法制定まで」、『信教の自由』が一応明文化されながらも国家神道が制度的に確立して行く「憲法制定後」、そして軍国主義ファシズム期下の「宗教団体法制定から敗戦まで」というように大きく三つに時代を区切って、時代順に見ていこう。
     
     <江戸時代の宗教政策>
     応仁の乱から戦国時代は、民衆にとって苦難の時代であったに違いあるまい。その様な時代背景のせいか、室町時代後半から江戸時代初期にかけて各地で民衆のための寺院が数多く建立されている。これは、菩提寺によって葬儀が執行され、家の墓に納められたいと言う民衆の欲求と同時に、その欲求に応じるべく仏教各派が葬祭・祈祷などの活動を通じて教勢を拡大していったことによる。これが江戸時代の『寺檀制度』の基礎となった(1) 。 幕府は檀那寺に檀家の寺請証明をさせることで、民衆のキリスト教信仰や日蓮宗の不受不施派などを厳しく取り締まった。また、檀家を持つ寺院は宗門人別帳作成の際、寺請証文を出す務めを持ったほか、檀家の転出や移動の際には寺送り証文を発行するなど、統治権力の一端を担い個々人を掌握する役目を負っていた。
     また幕府は各宗派を管理するため、『本末制度』を完成した。これは寛永九、十年(1632、33年)に諸宗末寺帳を作成提出させたことから始まる。各宗派の寺院が本山・本寺の台帳に記載され、本末関係を確定させそれを幕府が掌握するシステムであった。つまり 『寺檀制度』によって民衆を特定寺院に縛り、『本末制度』によりその寺院を統制したのである。この『本末制度』は、それまで一国あるいは郡レベルの地域組織を持っていた地方寺院・大社などを解体させ、本山・本所を頂点とした全国的な組織に再編成しなおそうとしたところが、今までに無かった点として注目される。そして、寛文五年(1665年)に全宗派を対象とした『諸宗寺院法度』が制定され幕府による仏教支配制度は完成した。
     この様な統制は、既成の仏教宗派のみならず、神道、または修験者やあるき巫女、陰陽師など、流動的な形態をとっていた宗教者にも及んだ。具体的に言うと、彼等は葬儀の場から締め出されその結果定着し、衰退していった。幕府はこれらの宗教にも仏教と同じような統制を施行しようとして、例えば神道には『神社及禰宜神主法度』を制定し、吉田・白川両家の支配下に、陰陽師は土御門家の組織下に入ることを強制し、各々組織化・系列化を大幅に進行させた。これらの宗教統制は全て、幕府がよりきめ細かな人別掌握を企図したからに他ならない。そして各宗教は法の枠内で生存し、ここに他の宗教と『住み分け』る『宗教の多元状況』の包芽が見られるのである。
     しかし幕府は、宗教活動の大枠は非常に厳しく設定していたが、その中での宗教的活動は放任していた(2) 。幕府の支配が磐石の構えであった時代においてはそれで問題はなかったのだが、幕藩体制が揺らぎ、加えて外国からの圧力なども意識されるようになってくると、人々の宗教心にもいくばくかの変化が起きたと思われる。その一つが幕末から次々と現れた新宗教であり、もう一つが後期国学や水戸学の影響下に出現してきた復古神道または国体神学である。そして維新後にはこの国体神学が政祭一致の公的イデオロギーとなってゆくのである。
     一つここで指摘しておきたいのは、江戸時代に現世の権力者やそれに仕えて功績のあったものを祀るという思想が台頭してきたことである(3) 。これは後に皇族とそれに使えて功績あったものだけを祀るという国体神学の原理の源流となって、後に述べることになる『靖国神社』の原理となってゆくことは銘記されて良い。

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  3. <明治維新から憲法制定まで>
     明治維新直後、維新政府は神祇官を復活させ、神道国教化政策が推進されることとなった。そしてこの神祇官には、復古主義的な国学者、神道家が登用された。神道国教化主義は、当時過剰なまでに恐れられていたキリスト教への対抗手段としての性格があった。維新当初の政府のキリスト教に対する態度は、キリシタンを邪宗門とするなど幕府と何等変わるところがなかった。しかしこれが外国の反発を引き起こさないはずがない。政府には、キリスト教が燎原の火の如く広がってしまう前に民衆の心を捕らえる信念体系の確立こそが焦眉の急だという意識があった。具体的には、天皇を記紀神話と結び付け、宗教的にとらえる意識を再生産させる全国的組織を早急に造り上げ、その組織の細胞と位置付けた神社から神仏習合的要素を徹底的に払拭し、新たな『神話』を創作することであった。そして神仏分離、廃仏毀釈が行われるのである。この神仏分離、排仏毀釈は、江戸時代に仏教の下風に甘んじていた神道の復権という色合いが濃厚であった。また、神道側からのシンクレティズムに対する拒否とも言えるであろう。またこの事実は、今我々が想像するところの神道という宗教が、実は近代になって『創作』されたということの証拠でもある。それまでは、神社と寺院が一体であることが当たり前であったのだ。その名残は、幾つかの大寺院の中に残る神社や、『神宮寺』と呼ばれる神社内の寺院に見られる。「創唱宗教は、民間信仰を基底にしつつも、これをむしろ否定し、変革させる向きにおいて止揚しながら、新たに発明されたものだと言って良い(和歌森太郎)。」という指摘は神社神道、殊に靖国神社に当てはまるものと言えよう(4) 。
     神道を国教とするために、仏教勢力の力を殺ぎ、神社から仏教的色彩を一掃し神道の絶対的優位を確立すべく、廃仏毀釈は行われた。実施の度合いは地域によってまちまちであったが、仏教側に多くの傷跡を残したことには変わりなかった。廃仏毀釈の嵐は明治四年(1871年)の廃藩置県を境にして沈静に向かった。この政策の全国的な展開によって、各地の神社と祭神はそれぞれの地域住民との精神的紐帯や土着性といったものを失い、急速に国家的・天皇的なヒエラルキーに従属させられ、あるいは抹殺されていった。
     結局神道国教化政策は挫折せざるを得なかった。それは、祭政一致や神祇官制が近代国家として出発しようとしていた明治の国家体制の原理になると考えていた幻想の帰着として当然であった。しかし、この時期に伊勢神宮を頂点にする神社のヒエラルキーが形成され、天皇崇拝は国民の道徳であり、神社神道は宗教ではなく「国家の祭祀」であると、神道=非宗教論が展開されて行き、祭礼日の制定などにより国体論的イデオロギーが広く国民に内面化されていったことは重要であろう。神社神道は国家と結び付くことにより、宗教と名乗る必要がなくなり(逆に宗教と名乗ることは神道の絶対性を失わせることでもあったので、神道の神話体系の上に乗る天皇にとっては不都合が生じる)、『実質上の国教』として終戦まで諸宗教の頂点に君臨することになる。
     政府は仏教、神道諸教派を含めた教化運動を展開することになった。そこで神祇官を神祇省に、ついで明治五年(1872年)教部省に改組しその実行組織として中央に大教院、地方に中教院・小教院という準公的機関を設置し、その運動の中心にした。大教院は神仏二教が合同して設立したものである。この事は、神道主導の宗教体制を神仏平等にした点で意味があった。教部省は国民教化の任に当たる宗教家を教導職とし、『三条の教則』を国民に宣布させた。ちなみに、この『三条の教則』は次のようなものである。宗教色よりは、倫理的な色合いが強いのが特徴であろう。
     第一条、敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
     第二条、天理人道ヲ明ニスヘキ事
     第三条、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
     この教部省時代に仏教各宗派が公認され、明治六年(1873年)にはキリスト教も禁制を解かれた。また同年、『教会大意』を制定し、黒住、御嶽、富士、吐普加美などの新宗教系の各講社が「一派之教会」として許可されるようになったことも、見逃せまい。新宗教的な運動が曲がりなりにも政府から認知されたのはやはり画期的であるからである。そしてこの認知された幾つかの講社は、後の教派神道となった。
     大教院の運動は神道と仏教の合同布教であったため、多くの矛盾と齟齬があった。その矛盾は島地黙雷に「政教混淆」と指摘され、欧米流の政教分離・信教の自由を求める運動となっていった。そして明治八年(1875年)には浄土真宗四派の大教院離脱がきっかけとなり、大教院布教運動を停止することとなった。同年、『信教の自由保証の口達(教部省口達書)』が出された。ついで明治一〇年(1877年)には教部省は廃止され、その責務は内務省社寺局に移されることになった。
     大教院解散により各宗派はそれぞれ布教に乗り出すことになったが、その資格が政府に認可された教導職に限定されていることには変わりなかった。これでは、結局布教の自由は確保されない。そこで政教分離による布教の自由をと、年々教導職廃止の声は高まり、遂に明治一七年(1884年)に教導職は廃止された。

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  4. <帝国憲法制定後>
     さて、明治政府の宿願は、近代国家であると西洋諸国に認められ、追い付くという事であったのは言うまでもない。具体的には富国強兵政策と、不平等条約改正、そして憲法の制定であった。明治二二年(1889年)に大日本帝国憲法が発布されたが、その第二八条には『信教の自由』が制定された。これは、西洋諸国において、国教制度の国が幾つかあるが、等しく信教の自由が保証されており、信教の自由と政教分離は先進国の象徴、メルクマールと見なされていたことに由来する(5) 。その条文は以下に記す通りである。
     第二八条、日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
     この条文の特徴は、他の条文では、「法律ノ範囲内ニ於テ」とか「法律ニ定メタル場合」という条件で制限が付いているのに、憲法それ自体がすでにその制限を定めていたことである。美濃部達吉の『逐条憲法精義』によると、「安寧秩序」とは、「社会的秩序、殊に社会の善良な風俗」を指し、「臣民タルノ義務」は「国家及び皇室に忠順なる義務」と、それに伴う「国家及び皇室の宗廟たる神宮、歴代の山陵、皇祖皇宗及び歴代の天皇の霊を祭る神社などに対し不敬の行為を為さざる義務」の他、「兵役義務、国民教育を受くる義務」を意味するとされ、解釈者の主観によって著しい伸縮の幅を持った広範な制限を許す規定であった。臣民の義務として、国家神道信仰が挙げられているわけであるから、言い換えれば、この二八条は国家神道体制をそれと明言しないで前提としているのだから、この「信教の自由」は矛盾したもの、あるいは極めて不充分なものであったと言えよう。美濃部は、皇室に関係する祭祀は法律上宗教でないと言ってもやはり疑いもなく一つの宗教であり、「而してそれはわが帝国の国教である」との感想を述べている。これは憲法学の立場から神道=非宗教論の欺瞞性を突いたものである。もっとも帝国憲法の起草者たちは、国家神道をもって日本の国教とする考えは持っていなかった。政府は、発布後も一貫して、日本には国教制度はないとの公式見解を取り続けた。この立場から、国家神道以外の宗教に対する疑似政教分離主義は導かれ、帝国政権は天皇崇拝を中心に据えるという宗教的性格を本質的に持っていた故に、「反」宗教的性格と「親」宗教的性格の間を、その時々の政治上の必要から揺れ動くことになった。
     
     さて、国家神道について少し述べてみることにする。国体神学が新政府の公的イデオロギーとなったことは前に述べた通りである。明治維新以降、伊勢神宮を頂点とする神社ヒエラルキーの形成と共に、政府によって国体神学に基づく神社が数々創建された(6) 。これらの神社は古制で装われ、本来の神道の伝統との断絶は覆い隠されていた。創建神社には大きく分けて四つのタイプが存在する。一つ目が、招魂社(後の靖国神社)や護国神社のような近代天皇制国家の戦死者を祭る神社。二つ目が、湊川神社(楠木正成)、藤島神社(新田義貞)など、南朝側の忠臣を祭る神社。三つ目が平安神宮、橿原神宮など、皇族を祭った神社。最後が、少し時代は後になるが、朝鮮神宮、建国神廟など植民地に皇民化政策の一環として創建された神社である。このほかにも、数々の天皇陵が明治時代になって確定、もしくは造営されたことも、根本の思想は同じである。
     この中でも、天皇制イデオロギーにとって最も重要な役目を果たしたのは言うまでもなく靖国神社である。靖国神社の他神社との一番の相違点は、(1)軍に直接属しており、(2)過去の『忠臣』だけでなく将来にわたって祭神が増加することを見越した神社である、という二点であろう。(2)について詳しく述べるなら、『靖国(招魂社)』はもともと維新前後の官軍側の戦死者の霊を慰めるために造営されたものである。従来、戦争における死者は敵味方の区別なく祭られるのが常であったが、味方だけが祭られるという特異な思想がここにおいて始まった。そして戦死して『靖国』に祭られるという『結果』が、次第に『目的』となってしまったことが一番の問題点である。つまり、「靖国で祭られる為に死んでこい」「靖国でまた会おう」との思想が生まれてしまったのである。日清・日露戦争、第一次・第二次世界大戦という大きな戦争に国民が巻き込まれ、全国民がいやおうなしに身近な人の『戦死』という事態に直面せざるを得なくなった時、その『戦死者の霊』を全て掌握している靖国神社との関わりを持つ羽目になったのは致し方なかったことといえるだろう。この『靖国』の思想は県レベルでは護国神社、村レベルでは忠魂碑というように末端まで浸透していった。現在問題になっている『忠魂碑訴訟』も、この歴史を鑑みて考慮せねばならない。この事は後にまた触れることになるだろう。
     また、国家神道の核をなす天皇崇拝(Mikado worship)自体も、国家によって創唱された『新宗教』の一つの局面と言って良いであろう。特に公教育において、この『新宗教』は国民に注入された。天皇の写真は、『御真影』という名で各学校に配布された。これはいわゆる「イコン」の一種である。そして『教育勅語』という「教義」が内面化され、この二つのものに対する最敬礼などの「儀礼」が存在し、それらを祀る奉置所などの「施設」が存在した。これが「宗教」でなくて一体なんなのだろうか。
     
     明治三三年(1900年)、二十年に渡って存在していた内務省社寺局が分割されて、内務省神社局と宗教局が設置された。このことが行われたのには複雑な理由があった。一つは、神社界により神祇官復興の運動が絶えず続けられていたことである。もう一つの理由は、不平等条約を改正するために、事実上国教の地位を与えられていた神道を「宗教に非ず」と諸外国に対してアピールする必要であったことである。神道が国家から特別の待遇を受け、一方キリスト教は相変わらず白眼視されていると言うことが諸外国の不満となっており、条約改正の障害になっていた。そこで政府は神道を他の宗教と同じ管轄から切り離し、神道は他の宗教とは違うものであるという形を執り、もって政教分離が行われているということを装うことに努めた。神社の法的性格については法規の上で明記されていなかったと言っても、神社には国家施設として公法人の地位が、神官神職には官吏待遇の地位が与えられていた。これをもって政府は「神道は宗教に非ず」「神社は国家施設」としたのであるが、しかし施設などの管理、または監督行政面では、神社は他の寺院と同じ宗教法規のもとにおかれていたのである。このことは、政府が「神道は宗教に非ず」と内外に詭弁を弄していても、本音では神社を宗教施設として取り扱っていたことを端なくも告白している。
     明治四十年代には、国家神道を補助する宗教団体の翼賛体制の包芽が見られた。これは、日露戦争時に宗教界をあげて戦争協力するといった国策奉仕の姿勢が定着したことに端を発する。明治四五年(1912年)、政府は神仏基の三教の代表者を集めて、三教会同を開いた。そして代表者たちは「皇道ヲ扶翼シ益々国民道徳ノ振興ヲ図ル」決議を行い、国家神道体制への忠誠を表明した。この会議は既に近代天皇制の枠内で地歩を確立していた仏教や教派神道に続いてキリスト教の主流が政府に妥協と従属を表明した点で、政府の宗教政策の大きな成功を意味した(7) 。
     大正二年(1913年)に内務省にあった宗教局は文部省に移管された。文部省宗教局が神道以外の公認宗教を統括することとなったが、前述した通り、政府は無制限の信教の自由を許したわけではなく、『国体』に反する宗教は厳しく取り締まられた。その根拠は勿論憲法の条文中にある『安寧秩序』『臣民タルノ義務』であるが、実際に行使された法規は刑法に存在していた『不敬罪』、あるいは警察犯処罰令であった。特に警察犯処罰令はその発動が容易であったため警察当局から『淫祠邪教』と見なされた宗教(特に一部の新宗教)はこれにより組織の拡大を制限された。不敬罪が初めて宗教団体摘発に適用されたのは大正一〇年(1921年)の第一次大本事件の時であった。この事件が大正デモクラシー華やかなりしときに起こったのは、日本の政教関係を考える上で実に示唆的である(8) 。日本流に換骨奪胎された『信教の自由』の行き着いた先がこの事件であったのだ。日本流の『信教の自由』とは言葉を換えるなら、ヨーロッパにおけるように人権、もしくは自ら勝ち取ったものではなく、国家が与える恩恵としての『信教の自由』と言うことである。 『与える側』は同時に奪うこともできる。国家に生殺与奪の権を奪われている宗教団体は常に国家の監視の目を感じて自己規制することになり、宗教としての生命力を喪失して行くことになった。弾圧されるからこそ燃え上がる信仰も確かに存在したであろうが、その前に立ちはだかる国家権力は余りに強すぎた。

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  5. <宗教団体法成立から敗戦まで>
     帝国憲法発布から敗戦まで、憲法二八条の規定、刑法の不敬罪、警察犯処罰令などによって、今日我々が使う意味の『信教の自由』は事実上存在しなかった。否、憲法からして、統制の契機を内包していたので、二八条は、空虚な条文であったとも言える。しかし、文部省による間接支配を受け入れた公認宗教の教職者や信者は、帝国憲法下における『信教の自由』の存在を疑わなかった。天皇制国家への忠誠を誓う限り、その活動を制限されることはまれだったからである。しかし例外も存在する。『大本』や『ひとのみち』は、天皇制イデオロギーを内面化して、反って当局から目をつけられる結果を招いた。『大本』は記紀神話と大本の神話をオーヴァーラップさせ、異端的な読み替えを行ったと見なされ、『ひとのみち』は教育勅語を卑俗に解釈したといって弾圧された。『正統』が『異端』の存在を許さなかったのは歴史の示すところである。
     元号が昭和に代わり、軍国主義ファシズムは高揚し、日本は中国に侵略し、満州国なる傀儡国家を建設し国際的に孤立し、ついには太平洋戦争を引き起こしたこの時期、国家神道はますますファナティックに信奉された。明治維新直後の四、五年間と、第二次世界大戦中の二つの期間がまさに国家神道の最盛期であったと言えるであろう。満州国皇帝溥儀に天照大神を拝ませるということすら行われたのだ。
     日中戦争下の昭和一四年(1939年)、政府の長年の懸案であった『宗教団体法』が公布された。この法律は明治維新以来初めての統一的な宗教法であった。それまでも何度か総合的な宗教法の制定が企図されたのだが、その度にキリスト教を神仏両教と同等に扱うことなどを理由に、仏教を中心とする反対運動が起こり、法案は流産を続けていた。この法律の目的は、制定時の首相平沼騏一郎が言うように「(前略)しかしいずれの宗教に致しましても、わが国に行われます以上は必ずや我が国体観念に融合しなければならぬと言うことは、これは申すまでもないことでございます。(中略)宗教の横道の走るということは、これは防止しなければならぬが、それが為にはそれに対して監督を加えることが必要であろうと思います(昭和一四・二・八、貴族院特別委員会にて)。」というものであった。この法律において、宗教団体は『仏教』『教派神道』『キリスト教その他』に三分割され、政府の完全な統制下におかれた。それまでも行われてきた行政上の締め付けや、昭和一〇年(1935年)の『大本』に対しての大弾圧(第二大本事件)など苛烈な宗教弾圧の示威効果もあって、もはや宗教界からの反対運動は見られなかった。この法律の性格は代表的な条文を引用するだけで容易に推測され得る。では同法一六条と一九条を引用してみよう。
     
     第一六条 宗教団体又は教師の行う宗教の教義の宣布若は儀式の執行又は宗教上の行事が安寧秩序を妨げ又は臣民たるの義務に背くときは主務大臣は之を制限し若は禁止し、教師の業務を停止し又は宗教団体の設立の認可を取り消すことを得
     第一九条 主務大臣は命令の定る所に依り本法に規定するその権限の一部を地方長官に委任することを得
     
     一六条にも、帝国憲法二八条にある『臣民たるの義務』『安寧秩序』という美辞麗句がまたもや使用されている。この二つの言葉は限りなく拡大解釈され政府は恣意的に宗教団体の全活動を制限、もしくは弾圧することが可能であった。一九条の意味するところも大きかった。と言うのも、権限の一部を受ける地方長官は警察権を一手に握る内務官僚であった。つまり、宗教団体はそれぞれの地方の警察の監督下におかれることになった。
     同法が施行された昭和一五年(1940年)は神武天皇即位二千六百年に当たるということで式典が盛大に挙行された。これを機に内務省神社局は廃止され、内務省の外局として神祇院が設置された。神道に関する独立した中央の官衙の復活は、神社界にとって神祇官の神祇省への格下げ以来の失地回復であり、国家神道はまさに絶頂期を迎えた。そして前述の法律に加え、天下の悪法として名高い『治安維持法』の改悪(昭和16年)があり、宗教団体は徹底的に管理された。弾圧された新宗教で代表的なものでは、『大本』『ひとのみち』『ほんみち』『灯台社』『創価教育学会』等が挙げられる。彼等は文字通り殉教者をも出したのである。一方既成宗教も連帯して国家に奉仕するようにと命ぜられ、『大日本戦時宗教報国会』という翼賛団体も結成された(昭和19年)。幾つかの神社では、神風祈願が行われ、靖国神社の『祭神』は増える一方であった。
     国家神道は敗戦まで『超宗教』として日本を戦争へと駆り立てる精神的根拠の支柱でありつづけ、神はその様子を見ておられたのであろうか、遂に『神州』日本に神風は吹かなかった。そして昭和二〇年(1945年)八月、日本はポツダム宣言を受諾し、日本は敗北し、近代天皇制は崩壊した。これは国民が国家神道その他の思想統制の桎梏から解放されたことを意味した。
     
     <まとめ>
     こうして見てくると、江戸時代から敗戦時まで、政治権力は宗教団体に対して、一貫して抑圧的且つ統制的であったことが伺えよう。政治権力にとって、「宗教」とは支配体制に奉仕することによって初めて存在価値が生まれてくるものであった。日本は歴史上、宗教より政治権力が強いという伝統があり、この政治権力が歯止めを失った時代が軍国主義ファシズム期であった。宗教団体も、遡れば江戸時代から余りに上意下達に慣れ過ぎ、政治権力に抵抗しなかった点も見過ごせない。政治権力に抵抗してきた歴史を持つ浄土真宗でさえ、真俗二諦論(仏法と王法の協力・相互依存を説く教説)によって、比較的早い時期から国家神道的イデオロギーを内面化し、戦争協力の道を開いたとの厳しい指摘、反省がある(9) 。「無拘束な権力が必ず権力者を害うとは歴史の一致した結論である(10)。」ということや「統制されぬ権力自体は、常に自由の宿敵となる(11)。」ということを一番骨身にしみて理解したのは、内的な良心を、常に外部規範、すなわち天皇制ファシズムによって押し潰された多くの「宗教者」であろう。
     明治政府は、やはり現在から見ると擬制的な近代政権であり、その実態は絶対君主制と、近代化との不幸な結婚によって生まれたものであった。しかも国教たる神道が、天皇絶対主義をその重要な柱としていた。この歴史を念頭におかねば、新憲法下の『信教の自由』の真の意義は分かるまい。政治と宗教の関係についての模範解答は未だに出てはいないかもしれぬが、我々は歴史上の経験からそれを模索して行くしかないのだ。今の所、戦前の経験から言えることは、日本において政教一致はやはり『良くないもの』であったということである。歴史を忘れるものは歴史によって裁かれるのを忘れてはなるまい。
     
     さて、次の章では、占領期の宗教政策、日本国憲法における『信教の自由』と『政教分離』の概要と、政教関係の一般論をしてみようと思う。つまり、今我々が享受している 『信教の自由』、またその信教の自由を可能ならしめる『政教分離』の意味を確認するのが次の章の目的となろう。

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  6. 3章 信教の自由と政教分離
     
     <国家神道の終焉>
     ポツダム宣言を受諾して、日本はGHQに占領され、民主主義国家の道を歩むことになった。このポツダム宣言は、日本における思想、信教の自由を要求していた。その第十項に曰く、「(前略)日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし。」と。この精神に則り、一九四五年(昭和二〇年)十月には『政治的、社会的及び宗教的自由に対する制限除去に関する件』なる覚書-いわゆる『人権指令』-が発せられ、治安維持法と宗教団体法の廃止が宣言され、同年十二月『国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する覚書』、いわゆる『神道指令』が発令された。これにより、国家神道の廃止(神祇院の廃止や神宮皇学館の閉鎖も含める)、国家とあらゆる宗教との結び付きの禁止、そして神社神道が今後は民間の一宗教として存続できることなどが明らかにされた。それとほぼ同時に、宗教団体法の廃止が正式に命ぜられ、その代わりに宗教法人令が発せられた。『神道指令』発令当時のGHQ内部の経過は、岸本英夫が述懐しているように(1) 、比較的日本に対して配慮のあるものであったと言えるであろう。勿論岸本を始めとする日本側の努力も評価すべきであろう。当時神道は狂信的な愛国心の源泉であると諸外国に考えられており、即座に壊滅させるべしと言う意見も諸外国のみならずGHQ内部にも存在したが、GHQ宗教課は神道を潰すことはかえって日本人の信教の自由を犯すことになるとして、慎重な政策を執ったのである。結局、GHQの宗教政策は、一九四五年十月に、SWNCC(国務・陸軍・海軍三省調整委員会)の国務省代表J.ビンセントが述べたように、「神道が日本人個人の宗教であるかぎり何ら干渉されるものではないが、国家の強制する神道は廃止される。日本人は国家神道を支えるための税金を支払わなくても良くなるし、学校にも神道の付け込む余地はなくなるであろう(2) 。」という方針が貫かれた。GHQ宗教課課長W.K.バンズも、宗教としての神道は、廃止できないという結論に達した。彼は国家神道の危険性は、①その国家による主宰、支援、普及、②日本政府及び神道国家主義者達による領土、天皇、及び国民の起源の神聖性についての多かれ少なかれ曖昧な神話による説明、③その神話を表象する儀式の遵守を強制し、その神話の述べるところを歴史上の事実として受け入れることを全ての日本人に強いた厳格な体制、にあると考え(3) 、神道指令の対象はあくまで 『政府によって支援され自国の政治組織を尊崇する宗教的な仕組み』であると自覚していた。まとめていうならGHQは『国家神道(State or National Shinto)』は厳しく禁止しようとしたが、『神社神道(Shrine Shinto )』に対しては神社界が想像する以上に寛大な処置を取ったと言えるだろう。実際神社界が恐れていたような神社の取り壊し、廃止などは一つも行われず、国家神道の最たるものであった靖国神社でさえ無事であったのだから。要するに、占領当初における合衆国政府の宗教に関する政策は、信教の自由を宣言すべきこと、宗教活動を制限する全ての法令を廃止すること、国民に信教の自由を希求するように勧奨すべきこと、宗教が超国家主義及び軍国主義の隠れ家にならないようにすべきこと、重要な宗教的財宝を保護し保存すべきこと、連合国軍をしてすべての宗教制度を尊重せしむべき事などであった(4) 。
     神道指令により神社は宗教法人としての地位を確保して、翌年の一九四六年にはその連合体である宗教法人神社本庁が設立された。神社神道は他の宗教と同じ地平に落ち着いたのである。靖国神社は、神社本庁には加入せず、同年東京都の単立宗教法人となった。
     『神道指令』と並んで政教分離に重要な役目を果たしたのが、昭和二一年(1946年)元旦の天皇の『人間宣言』である。これは、国家神道の核をなす『天皇崇拝』の終焉を意味した。天皇が自らの神聖性を否定したこの宣言により現人神としての天皇は『死ん』で、翌年新憲法下における「国家の象徴」としての天皇が新たに『生まれ』た。
     宗教法人令は、信教の自由の精神に則り、宗教法制の簡素化、自由化(具体的には、許可制から届出制への移行)を促進し、いわゆる『神々のラッシュアワー』を出現させた。しかしこの宗教法人令は欠点を持っていた。最大の欠点は、宗教法人に認定する基準や指針が何一つ作られず、文部省は無審査で申請を受け付けるという方針を取ったことである。そして既成宗教団体内の分裂なども促進され、膨大な数の新宗教団体が生じ、その中にはとても宗教とは言えないような団体も免税などの優遇を目当てに認可を求める事態も発生したのである。まさに自由を放埒と取り違えた時期であった。そこでそれに代わる法律の制定が強く望まれ、昭和二六年(1951年)宗教法人法が制定された。宗教法人法の内容にはこの論文では踏み込まないが、基本的性格は宗教法人令を踏襲し、届出制から認証制へと変更され、宗教団体は審査を経て法人格を獲得することとなったのを指摘しておこう。 神道指令によって国家神道はその約七十年に及ぶ歴史に幕を閉じた。この神道指令は昭和二七年(1952年)の平和条約の発行と同時にその効力を失ったが、その趣旨は日本国憲法と宗教法人法に色濃く残っている。

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  7. <日本国憲法第二〇条と第八九条>
     昭和二一年(1946年)一一月に日本国憲法は公布され、翌年五月から施行された。戦後日本の宗教政策は新憲法施行前から、『ポツダム宣言』『神道指令』によって既に明らかにされていたが、信教の自由と政教分離が憲法中に明文化されて始めて、その基されたと言っても良いであろう。その条文をここに記してみよう。なお、この時点で触れておくが、いわゆる『押し付け憲法論』というものが存在するが、これは占領時の日本政府の新憲法制定者たちが、余りにも時代錯誤的で憲法草案をGHQに押付けられる結果を自ら招いたのである(5) ということを指摘するにとどめる。さて、信教の自由と政教分離を定めたのは、周知の通り、第二〇条と第八九条である。その条文は以下の通りである。
     
     第二〇条[信教の自由、国の宗教活動の禁止]信教の自由は、何人に対してもこれを保証する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
      ②何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
      ③国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
     第八九条[公の財産の支出利用の制限]公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育、若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
     
     一見して分かるように、二〇条において、人権としての『信教の自由』と、それを保護し、確実にする手段としての『政教分離』が明記されている。八九条は、経済的な部分における政教分離を規定しており、この二つの条文により、諸外国にも例がないほど、厳格な政教分離が実現している。このように厳格な政教分離が規定されているのは、戦前の国家神道体制の反省からであることは言うまでもないことである。
     『信教の自由』とは、G.アンシュッツの古典的定義によると一般に次の三つから成り立っていると言われる。(1)信仰告白の自由、(2)宗教的活動・礼拝の自由、(3)宗教団体・結社を結成する自由、の三つである。(1)が最も狭義の『信教の自由』である。内的自由と言っても差し支えない。後の二つは、社会的場面における自由である。 (1)は、日本国憲法第一九条の「思想及び良心の自由」と重なると考えられる。(2)と(3)は、「集会・結社・表現の自由・検閲の禁止・通信の秘密」を定めた第二一条と重なる。ヨーロッパにおいて『信教の自由』が人権思想のの嚆矢であった歴史を考えるとこの重なりは不思議ではない。そして勿論『信教の自由』には不信仰の自由が含まれるし、自分の信仰について沈黙する自由も-例えば『踏み絵』のような制度の禁止-含まれる。また、宗教上の教育の自由も忘れてはならない。これは能動的に宗教教育を施す自由、及び受動的にそれを受け、または受けない自由を含む。この宗教教育の自由の蹂躙は、戦前特にキリスト教系の学校において深刻な問題であった。教育基本法の第九条には、「国及び地方公共団体が設置する学校は特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。(第二項)」という憲法第二〇条第三項と同じ規定と、もう一つ「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。(第一項)」とあるのは、信教の自由と政教分離、または宗教的寛容の精神の重要性を生徒に示す教育のことを指している(6) 。これらは、公立私立の区別なく学校で教えられるべき内容だからである。以上が憲法学上の見解である。
     ここで注意しなければならないのは、憲法の条文中にある「宗教」の定義が明確にされておらず、何やら「宗教的なもの」が暗黙の内に了解されている形で第二〇条と八九条が書かれていることである。この定義されざる「宗教」もしくは「宗教団体」を巡って、戦後、政教分離に関する数々の訴訟が引き起こされたのである。日本におけるこの問題の発生基盤は、まず第一に日本が先進諸国の中でも最も宗教の私事化が進み、膨大な数の宗教団体・宗教法人の存在する社会状況であること、そして第二に最も厳格な政教分離規定を定めている憲法、この二つが宗教関係訴訟を多発させ、持ち込まれた訴訟に対して裁判所が取り組む際の微妙な難しさを生じさせているのだということができよう(7) 。また、原告側と被告側、そして裁判所の「宗教認識(何が宗教で、何が宗教ではないか)」の乖離と齟齬が原因と言い直すこともできよう。
     また、「宗教」を政府が恣意的に解釈するという問題も発生している。特に、自民党の靖国神社公式参拝問題がそれである。政府と歩を一にして、裁判所の判断も恣意的と言わざるを得ない例が存在する。この様な事態が発生する原因は、政治学的に言うと、議院内閣制による「立法府」と「行政府」の一体化と、憲法第七九条により最高裁の裁判官が全て内閣によって任命されることの二点であるといえる(8) 。結局、自民党の長期政権で最高裁判所が硬直化してしまったのだと言える。つまり三権分立のはずなのに実際には緊密化してしまったのである。
     しかし宗教学で言う「宗教」と判例で言う「宗教」は違うものなのだろうか。また、大きく違って良いものなのだろうか。又その根拠は何か。この問題は次章で具体的な事例を通じて考察してみたいと思う。

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  8. <政治と宗教の関係類型>
     政治と宗教との関係はこれまでも論じられてきたし、これからも論じていかねばならぬ命題の一つであろう。というのも、政治と宗教は共に人間生活の根幹に関わり、両者は 「共通の価値意識の共有」、つまり共通の価値や意味が個人のパーソナリティーの中に内面化されるという場面でオーヴァーラップするからである。また、宗教的理念が、具体的方策としての政治を作り出すと言うこともできるであろう。共に「生活様式」を構築するという意味で、極論すれば宗教と政治は「似た者同士」ということが言えよう。
     近代化、もしくは世俗化の特徴の一つに、政治勢力が宗教的権威の支配下から離れることは繰り返し述べられてきた。しかしここにこそ、近現代の政教関係を複雑にしている原因があると思われる。即ち、政治権力は宗教的権威から離れたと同時にそれによる権威付けを失うことになった。そこで、政治権力は自らの権威を保つために反って一種の宗教的権威(精神的権威と言ったほうが良いか)を自ら作り出す衝動に駆られることになったと思われる。権力は、被支配者の真の服従を勝ち取るためにはその内面に侵入し、その奥底まで支配しなければならないからであり、そのためにイデオロギー注入装置としての公教育が重要視されたのである。政治権力による新たな『神話』の創造は近代天皇制やナチスの「二十世紀の神話」に典型的に見られる。
     
     さて、『政教分離』が、政治と宗教の間の関係の『ひとつ』であることはいうまでもないが、政教分離とは違うタイプの関係が存在する(した)のも事実である。そこでまず、政教分離問題を論じる前に、政治と宗教の関係を類型化してみよう。それによって、政教分離の本質が明らかになるからである。一般には、次の三つのタイプが存在すると言われている。
     ①政治と宗教が一致・融合するタイプ
     ②政治あるいは宗教が他を利用し、従属させるタイプ
     ③政治と宗教が対立もしくは分離しているタイプ(9)
     ①の例としては、部族社会の宗教や、古代の祭政一致やビザンティン帝国の皇帝教皇主義があげられよう。
     ②は細かく見ると二つのパターンに分けられる。まず政治権力が宗教を利用した例(②-a)としては、江戸時代の寺請制度や、戦前の国家神道があげられよう。いわゆる『国教』はこの典型例である。逆に、宗教が政治を利用、従属させた例(②-b)としては、中世ヨーロッパの絶頂期のローマ法王に典型例を見て取れよう。②の後者の例は、宗教的権威が世俗権威を上回っている状態、つまり宗教が『聖なる天蓋』となっている状態と言い換えても良かろう。現代においては、コーランやシャリーアを政治の根本原理にしているサウジアラビアや革命後のイランの政治体制などがこれに当たるであろう。
     ③は、明らかに信教の自由と政教分離が確立された近代国家において普遍的にみられるものである。また過去における宗教を基盤にした反乱(日本で言うなら『一向一揆』など。ヨーロッパなら、宗教改革時の『ミュンツァーの乱』『フス戦争』等が挙げられようか。中国においては、王朝が滅びるときに何等かの宗教を基盤にした-例えば後漢末の『黄巾の乱』、元末の『白蓮教徒の乱』-農民反乱が頻繁にみられる。)もこの類型の典型例であろう。
     ①、②のタイプは、政治と宗教が相互依存、共存していると特徴付けられる。③は政治と宗教が分離、乖離しており、歴史においては多く対立関係が見られ、近現代の政教分離国家においては、戦後の日本、アメリカ合州国、フランスなどに見られるように政治の 『非宗教化』(laicite、a-religious)が眼目とされる。また、①は一元論に、②と③は二元論に立脚していると見ることができよう。
     政治と宗教の関係は、実際には上記の諸類型が複雑にからみあっている様相を呈しているものであるが、あえて①のタイプを除外して単純化して言えば、常にパラレルな二元論的対抗関係として捉えられる。政治と宗教を二元論に基づいて把握する方法は、社会学においては、テンニースのゲゼルシャフトとゲマインシャフトの区別や、デュルケ-ムの言う機械的連帯と有機的連帯のギャップ、ウェーバーの合理(法)的権威とカリスマ的権威の葛藤などに同様のものがみられる(10)。
     さて、宗教が社会の統合機能を司るという『機能論』は、デュルケーム以来宗教社会学の一大テーゼとなっているが、このことを念頭において上記の諸類型の②を検討すると、政治機構が宗教を利用し道具化している状況と、宗教が社会統合の機能を果たしている状況とは峻別しがたい(11)ということがわかる。立場を代えてみれば、利用されているとみなされている側が実は他方を利用しているということもあり得るのである。例えば、明治維新直後の神道は、神道側から見れば政治権力を利用して自己の勢力を拡大させようとしたと見ることもできよう。
     それでは、政治と宗教の関係を、パーソンズ式の四象限図式にして私なりに表してみたい。この図式に上記の類型は全て含まれる。四つの極を取るが、『政治権力が優越←→宗教的権威が優越』『協力関係←→不一致』というものである。『協力関係』とは、例え究極的には互いに目的が違っても、当座として共存・協力を選んだ場合も含む。つまり上記の類型の①、②を共に含む。『不一致』は、言うまでもなく③の類型である。
     
    (図は省略)

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  9. 政治権力が強く、協力関係にあるとき(第一象限)、いわゆる国教体制が敷かれるであろう。②-aの類型である。
     そして、政治権力、宗教的権威が協力関係にあり、祭(まつり)=政(まつりごと)である場合、これは座標軸上にある類型①の祭政一致体制である。
     第四象限、つまり宗教的権威が優越しており協力関係にある場合は、聖なる天蓋、即ち②-bの類型である。
     次に、類型③の、政治と宗教が対立、不一致の状態である場合を考えてみよう。政治権力が強大でその政治権力がある特定宗教、もしくは宗教全体に対して敵意を持った場合は、「弾圧」が発生するだろう。そしてもし政治権力が宗教に干渉せず中立的な態度決定をするときは、「政教分離」となる。この第二象限はポジ(政教分離)とネガ(弾圧)がある。 宗教的勢力が比較的強く、政治権力と対立するときは先に例としてあげた宗教を基盤にした反乱(反乱の結果勝てばこの象限に表されるだろうし、負ければ第二象限の「弾圧」となってしまう。類型分けの都合上、勝った場合を想定しておく)や『カノッサの屈辱』のような「対立」の事態を引き起こすことになるだろう。
     忘れてはいけないのは、「弾圧」というのは、その社会の成員が全て従わねばならないとされる社会の“エトス”が存在したときに発生すると言うことである。であるから第一象限の国教体制下において国教でないもの(非国教徒)は弾圧されたし、第四象限の『聖なる天蓋』の場合も、その行き過ぎとして魔女狩り、異端審問などが存在した。つまり、類型の②は、弾圧を引き起こす契機を内在させていると言うこともできよう。こうして見ると、「弾圧」というのは、どんなときでも発生する恐れのある現象であると予想されよう。自明のことだが、『多数派』が弾圧されるということは無い。弾圧されるのは常にその社会での『少数派』である。であるから、少数者保護の立場から『信教の自由』の重要性が繰り返し主張されるのである。結論として、「弾圧」が発生しない可能性が一番高い状態は『政教分離』制度のときであると言えよう。しかし政教分離していれば、全く弾圧が発生しないと言うことは出来ない。何故なら、もし、政教分離が確立しているにも拘らず、ある宗教が政治権力を欲して、その権力でもって自らの理想に進もうとする志向性を持つなら、現存する政治権力と衝突せざるを得ない。もしくは、その教義があまりにもその社会通念から掛け離れている場合、政治権力とその社会そのものから「制裁」を受けることもあろう。アメリカのユタ州のモルモン教徒はその一例であろう。
     
     宗教側からの政治への接近と言う見地から、昨今注目されるいわゆる「原理主義」を少し考えてみよう。「原理主義(fundamentalism)」は、もともとアメリカ合衆国の聖書回帰運動を指していた言葉であるが、他の宗教の似た運動を表現するのに援用されている。私もこの慣例に習うことにする。
     先ほど、類型の②-bにイスラーム原理主義国家を含めたが、まだ政権をとってはいないが原理主義の台頭している国の状態を上の図で説明するなら、第三象限(対立)から、第四象限(聖なる天蓋)へのダイナミクスとしてとらえることは出来ないだろうか?エジプトなどは、過激な原理主義者を取り締まっているが、アルジェリアでは、一九九一年の選挙において、「憲法と議会を廃止し、全てをコーランに委ねる」と主張するイスラ-ム原理主義のFIS(イスラーム救国戦線)が多数を取ってしまい、「民主主義を尊重したら民主主義が廃止になる」という論理学の教科書通りのパラドックスを現実のものにしてしまった(アルジェリアは結局軍部がクーデターを起こし、FISを圧倒的多数とする議会は閉鎖されてしまった)。
     キリスト教の原理主義は、概ね政教分離制度の国に存在し、その原理主義は、アメリカなどに見られるように、政治への介入を志向している。代表的なものが『妊娠中絶問題』と、進化論など聖書の記述に反することを教える是非を問う『教育問題』である。これも上の図で説明するなら、第二象限から、第四象限への移行を志向していると言って良いと思われる。
     イスラーム原理主義、キリスト教原理主義は共に再び『聖なる天蓋』へ回帰しようとしている。この『再び』というところに注目して、これらの運動を「再イスラーム(キリスト)化」と呼ぶ論者も存在している(12)。しかし、これらの運動は盲目的に過去へ回帰しようと言うものでは決してないことにも注意するべきであろう。原理主義は、近代性の価値に基づく教育制度を経てきた者達によって発せられた問いであり、従って科学や技術と両立可能であると考えられているのである(13)。実際、原理主義者の中には、技術者を含むインテリ層が多いのは知られた事実である。
     日本人である私にはこれらの運動がいいか悪いかの判断は出来ないが、少なくとも日本においてのこの様な運動は容認しがたいと感じる。日本で「原理主義」と呼べるものは過去においては復古神道やその流れの上にあった国家神道のある種のエトスであろう。そしてその守るべき「原理」とは、「国体」であった。しかし現在においては、多分に形而上的観念である「国体」論より、経済大国である日本の現状それ自体が保守すべき「原理」として掲げられている(14)、という指摘がある。ともあれ、只一つの『正しい道』が国民に強制される恐ろしさを経験している日本では、政教分離原則を守るに如くはないということが言えよう。では次に、政教分離について少し詳しく見ていくことにしよう。

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  10. <政教分離の一般的考察>
     政教分離の原則を大まかに言えば、「国家は国民の世俗的生活のことだけに、自己の要求を限るべきであり、国民の内面的信仰生活については国民の自律にゆだねるべきである」ということである。「国家は世俗的事項と関わるときだけ-例えば財産問題など-宗教または宗教団体と関係を持つべきである。また逆に宗教団体は、自己のよって立つ神の名において、国家ないし政府に命令してはならない。宗教団体として許されるのは、国民の精神に感化を及ぼすことを通じて、いわば間接的に国家に対して影響を与えることだけである(15)」。そして、政教分離は、信教の自由に奉仕する制度的保障であるという見方が一般的である。制度的保障とは、ある抽象的な命題を間接的に達成するために、具体的な制度を遵守することを言う。例えば、『学問の自由』という命題を達成するために、『大学の自治』を国が認める、などがそれである。であるから、「政教分離を遵守すること」が信教の自由のための至上課題なのである。信教の自由と政教分離の不可分性はこれに尽きる。
     また、政教分離、そしてこの制度により確実になる信教の自由には、『宗教的寛容の精神』が不可欠である。宗教的寛容には二つのタイプがあり、一つは、ある宗教が他の宗教を排除するのではなく同一社会内において並存することを認めること。もう一つは国家などが宗教の内容には触れず、宗教多元状況を認め、その状況を保護することである(16)。政教分離に直接関係があるのは言うまでもなく法的、政治的寛容である後者であるが、社会のエトスとしての前者も重要であることは論を待たないであろう。重要なのは、この 『寛容』は、自然と生まれたものではなく、作り出されたということである。「寛容の習慣は本来自然には存在しない。それは社会的遺産に由来するものであり、文明の進歩に伴い繰り返しその価値を学び直してこそ維持されるものである。これこそ、不断の監視が自由の代償であるというあの有名な格言の意味である(17)。」という言葉を改めて思い出さねばなるまい。
     政教分離が遵守されず、数々の弾圧を生みだしたということは第Ⅱ章や、先程の政教関係の類型論で述べてきた通りであるが、もう一つ重要なことがある。それは、宗教側の堕落ということである。国家の庇護に慣れた宗教は、生き生きした宗教的生命を失い、民衆の期待に応えられなくなってしまったことは、日本の仏教や戦前の神道の歴史を見ても明らかであるし、キリスト教の歴史が一番そのことを良く示している。
     一口に政教分離と言っても、どの国においても同様の形態をしていることはない。大きく分けて三つのパターンがあげられる。一つは個人レベルの「信教の自由」が制度レベルでの「政教分離の原則」によって裏付けられているもの。これはアメリカや現在の日本が典型例である。もう一つはイギリスや北欧諸国のように国教が存在するが、その信仰の強制が行われないというパターン。最後は、ドイツ、イタリア、オーストリアのように国家と教会が互いに尊重し合い、教会が公法人としての資格を持ち、協定(コンコルダート)を締結しているパターンである(18)。
     さて、ヨーロッパにおいてはイギリスのように国教が存在するにもかかわらず『信教の自由』が保障されているとされる国家が幾つか存在する。この様な例を挙げてそれをそのまま日本に対応させ、日本においても、神道という「国教」が存在しても、不都合はないとする意見が散見される(19)が、日本とヨーロッパではまるで事情が違う。これらの国はどちらかと言うと例外的存在であって、イギリスにおいてはラスキが言うように十八・九世紀の非国教徒を中心とした、寛容のための戦いが勝ち取った成果として、現在の状況があるのである。信教の自由が恩恵的に与えられている日本とは全く事情が異なるのである。 また、政教分離は、世界的にみると少数の国でしか施行されておらず、普遍的な制度ではないとする意見も存在するが、問題は「数」ではなく、どんな制度がその国家と国民に相応しいかであって、日本においては政教分離こそが相応しいのは歴史的にみて明らかであると言って良い。それに政教分離から導かれる信教の自由は、普遍的な価値を持つものであろう。日本国憲法前文において、憲法理念は普遍的な原理に基づくものであると明らかにされている。

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  11. <まとめ>
     さて、この章では、信教の自由と政教分離を共に規定した憲法の意味すること、即ち両者の関係がコインの表裏のようなものであることを述べてきた。第Ⅰ章の最後に少し触れておいたが、両者を切り離して考える論者も存在する。確かに、信教の自由の侵害は、直接的且つ個人的にその侵害が感じられることを契機にして、訴訟が起こされる。政教分離違反訴訟は、個人の信仰心の痛みもさることながら、違反している事実指摘が契機となることが多い。政教分離違反は、たとえ個人的な侵害が無くても、違反の事実が存在すれば、それだけで結局信教の自由を脅かすことになるのである。信教の自由は、極めて個人的な問題であるのと同時に、極めて社会的な問題なのだ。これは、宗教が現代において極めて個人的なもの(私事)とされるのと同時に、極めて社会的な事象であるとされることと対応している。であるから、信教の自由と政教分離を別次元の事象であると考えたり、「政教」の「政」は、「政治」か「政府」のどちらかとか、「教」は「教団」か「宗教」か 「信教」かなどという議論(20)は、いたずらに議論を混乱させるだけであるといえよう。
     これに似た議論をもう一つ紹介しよう。
     政教分離を英語では、“separation of church and state”というのは良く知られている。直訳すれば、『教会(教団)と国家との分離』となる。この原語を基に、日本における政教分離も(特定)教団と国家との分離であって、『宗教と国家との分離(separationof religion and state )』を要求するものではないという意見が、津地鎮祭の名古屋高等裁判所での審議で、鑑定人の一人であった小野祖教国学院大学教授(当時)の意見として提出されている(21)が、筆者には疑問に思える。と言うのも、宗教の要素として、よく「教え」「儀礼」「信者集団(church)」、そして「個人的な体験」があげられるが(22)、これらの要素は、全体として「宗教」を形作るのであって、ばらばらに切り離してそれぞれが単独で国家と結び付くことなど出来るだろうか?「教会(教団)」だけほかの要素を置き去りにして、国家と結び付くことなど出来ようか?不可能である。であるから、教会と国家が結び付くということは、即ちその「教え」「信者集団」とも結び付くということであり、separation of church and stateの意味することは、結局、separation of rel-igion and state なのである。もしも小野が言うように本当に歴史に鑑みると言うならば、GHQの宗教政策は、国家と神道という「特定宗教」との結び付きを断ち切る意図を持っていたのだから、日本における政教分離を英語で言うなら、少しアレンジして、separat-ion of shrine and state と言っても良いのである。勿論日本には仏教を始め数々の宗教があり、それら全てが国家に奉仕するように仕向けられた戦中の翼賛体制を考えるにつけ、やはりshrineのみならず、全てのreligionがstate と分離されなければならないとするべきであろう。
     上の議論にほのみえているのは、戦前の神道=非宗教論と同じ心性である。神道は教団(church)をもたない、もしくは教団ではないから、政教分離( separation of church and state )の範疇に必ずしも入らないと言いたいのである。これを仮に『神道=非教団論』とでも呼ぶことにしよう。神道を特別扱いする議論のもう一つの大きな流れは、言わば『神道=習俗論』である。神道的儀礼は宗教と言うより習俗であるとのロジックである。この代表的な論が、津地鎮祭訴訟の最高裁判決である。この二つの新たな『神道=非宗教論』を念頭におきつつ、次の章において具体的な事例をあげてそれぞれを検討することにしよう。

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