私の生涯の道として 一勤め人の職を選んでしまいました
電気事業という仕事にたずさわってきました
そして事業が続くかぎり全員みんなの努力がその中に溶け込んでおります
私の分も何百万分の一か何千万分の一の 極く微量のものが事業の中に溶け込んでおります
それが企業に従事する者の仕事と存じます
自分の足跡を刻む程のことはありません
私は年をとりまして 生命の燃焼も残り少なくなりました
死ぬ迄自分なりに自己陶冶していきたいと思います
それも死とともに 消滅です
自分をあとに残さないように と思っております
前略にて失礼いたします
ReplyDelete城山先生が小生の件に関し 対談の相手をつとめて下さるという お言葉をいただいて本当に勿体ないことと身の震える思いがいたしました。
只 私の生涯の道として 一勤め人の職を選んでしまいました。電気事業という仕事にたずさわってきました。そして事業が続くかぎり全員みんなの努力がその中に溶け込んでおります。私の分も何百万分の一か何千万分の一の 極く微量のものが事業の中に溶け込んでおります それが企業に従事する者の仕事と存じます 自分の足跡を刻む程のことはありません 私は年をとりまして 生命の燃焼も残り少なくなりました 死ぬ迄自分なりに自己陶冶していきたいと思います それも死とともに 消滅です 自分をあとに残さないように と思っております
独りよがりの意見を申し上げ 失礼の程何卒ご寛容下さいますようお願い申し上げます
城山先生の益々のご健康とご活躍をお祈りいたします
四月八日 平岩 外四
城山三郎先生 (県立神奈川近代文学館所蔵)
運命を変えた手紙 平岩外四から城山三郎へ 文藝春秋 2011年9月特別号
6歳で父親を亡くし、母親に育てられる。愛知七中入学祝に母親から夏目漱石全集を贈られる。一族から大学進学を反対されるが、母親が反対を押し切り、旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学法学部へと進学させた。1939年(昭和14年)に大学を卒業。東京電灯(現在の東京電力)に入社した。
ReplyDelete1941年(昭和16年)太平洋戦争で陸軍に召集される。配属されたニューギニア戦線でジャングルを敗走し、飢えと熱病のため、平岩のいた隊は107名中、最後には生存者7名という地獄の体験をする。この体験は、平岩に人生を達観させる契機となった。終戦後、会社に戻り、そこで木川田一隆の目にとまり、平岩は木川田を「経営についても人生についても終生の師」と尊敬するようになる。1971年常務、1974年副社長を経て、1976年(昭和51年)10月東京電力社長に就任する。1984年(昭和59年)6月社長を退き、会長に就任。1993年に相談役に就く。
1977年以降、電気事業連合会会長、国家公安委員会委員、経済審議会会長、産業構造審議会会長、宮内庁参与に起用、なお参与は2006年5月まで務め、天皇・皇后の助言役を務めた。
財界活動では、1978年(昭和53年)に経団連副会長に就任。早くから、将来の経団連会長と嘱望されていたが、1986年(昭和61年)の経団連会長人事の際、新日本製鐵社長の斎藤英四郎に会長の座を譲った形となり、無欲さを賞賛された反面、財界には平岩人気から一部に不満が残った。
1990年(平成2年)経団連会長に就任。就任早々、証券金融スキャンダルを受けて経団連企業行動憲章を制定し、企業モラルの確立を図った。また、バブル経済崩壊後の景気低迷を受けて、対日直接投資拡大、輸入促進ならびに輸入関連規制緩和のための緊急提言を行ったり、「アジア隣人会議」を開催してアジア経済の一体化、投資促進などを各国の経済界代表とともに話し合った。1992年宮沢内閣のときに、邦銀の不良債権処理のための公的資金投入に経団連会長として「そんなことは考えることもできません」と反対している。1994年(平成6年)5月27日に会長職を退任し、名誉会長に。2002年(平成14年)9月にはいったん退いたが、2006年(平成18年)4月に復帰した。
2007年(平成19年)5月22日午前10時56分、心不全のため都内の病院で死去。享年94(92歳没)。叙・従二位。