Wednesday, December 7, 2011

司馬遼太郎

平和とは、まことにはかない概念である。単に戦争の対語にすぎず、"戦争のない状態" をさすだけのことで、天国や浄土のように完全な次元ではない。あくまでも人間に属する。平和を維持するためには、人脂のべとつくような手練手管が要る。平和維持にはしばしば犯罪まがいのおどしや、商人が利を逐うような懸命の奔走も要る。さらには複雑な方法や計算を積みかさねるために、奸悪の評判までとりかねないものである。例として、徳川家康の豊臣家処分をおもえばいい。家康は三百年の太平をひらいた。が、家康は信長や秀吉にくらべて人気が薄い。平和とは、そういうものである。
なぜリアリズムを失ったか 。。。 どうして大正のある時期に、日本はもう戦争はできない、専守防衛の国である、ということがいえなかったのでしょう。 。。。 陸軍省や海軍省の省益がそれをさせなかったのでしょうな。官吏としての職業的利害と職業的面子が、しだいに自分の足もとから現実感覚をうしなわせ、精神主義に陥っていったのでしょう。物事が合理的に考えられなくなる。 。。。

1 comment:

  1. ロシア側は奉天敗戦後、引き下がって人を建て直し、訓練を受けて輸送されてくる兵員を待ち、弾薬を充実させています。そのときに平野に展開した日本軍はほとんど撃つ砲弾がなくなっている。訓練された正規将校は極めて少なくなり、いきのいい現役兵は極端に減っていました。日本国の通弊というのは、為政者が手の内――とくに弱点――を国民に明かす修辞というか、さらにいえば勇気に乏しいことですね。この傾向は、ずっとのちまでつづきます。日露戦争の終末期にも、日本は紙一重で負ける、という手の内は、政府は明かしませんでした。明かせばロシアを利する、と考えたのでしょう。

    江戸体制はいうまでもなく身分は世襲制だった。また中国や朝鮮のように科挙の制がなかった。なかったからこそ幸いだったといってよく、もし漢文の古典を朱子学の法則どおりに丸暗記して身分上昇せねばなせないような体制だったら、江戸後期の諸学は興らなかったろう。むろん、のちの近代化が不可能なほどにアジア的停滞におちいっていたにちがいない。

    わたしは、22歳のとき、凄惨な戦況のなかで敗戦を迎えた。おろかな国にうまれたものだ、とおもった。昭和初年から十数年、みずからを虎のように思い、愛国を咆哮 (ほうこう) し、足元を掘りくずして亡国の結果をみた。

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