Friday, September 21, 2012

富永仲基

人と交わる時には心から誠意をつくし、悪い遊びをせず、優れた人を尊敬し、愚かなるものを侮らず、またわが身にあてはめて考え、悪いことは人にしないことである。人当たりが鋭く、角のたつようなことはせず、ひがんで頑固になることもなく、せかせかとせわしい態度をとらず、怒ることがあっても、度を越えず、喜んでもその立場を失わないことである。楽しみごとにもおぼれず、悲しみごとにも自分を見失わず、なにごとにも十分であろうとなかろうと、みな自分にとって幸いなことであると、そう思って十分心に満足を覚えることである。受け取るべきでないものは、たとえ塵であっても受け取らず、また与えなければならないときは、天下国家であろうとも、それを惜しまず与えることである。衣食のよしあしも、わが身の程にしたがって、奢ることなく、またけちけちすることなく、盗みをせず、偽りをせず、色事を好んでも理性を失わず、酒を飲んでも乱れず、人に害を与えないものは殺さず、飲み食いにはいつもつつしみを忘れず、悪いものは食べず、たくさんものを食べないことである。暇な時間のあるときは、自分の身にとって有益な学芸・学問を学んで賢明になるようつとめることである。

2 comments:

  1. いま世間では、神・儒・仏の道を三教といって、インド・中国・日本の、それぞれ三国に並び行なわれるもののように考えている。あるいは三教は一致すると主張したり、またあるいはこれをたがいに批判しあって争い合うということにもなっている。しかし、本来、道たるべき道というものは、特別のものであって、この三教の道というものも、すべて誠の道というものには、決してかなわない道だということを知る必要がある。なぜかといえば、仏教はインドの道、儒教は中国の道であり、国が異なるので、これらは日本の道ではない。神道は日本の道ではあるが、時代が異なっているので、今の世の日本の道ではない。

    この三教の道というものは、どれも今の日本の世の中で、実践されるべき道としてその必然性をもつ道ではない。実践されないような道は本来の道ではないから、三教はすべて、誠の道に適した道ではないということを、よく知るべきである。

    それならば、その誠の道、つまり今の日本の世で実践されるべき道とはいったいなにをいうのであろうか。それは、ただ物事に対しては、その当然になるべきことをつとめ、今現在やっている仕事に生活の根拠をおき、心を素直にし、品行を良くし、言葉づかいを柔らかくし、立居振舞を慎み、・・・この誠の道は、三教の道にも欠くことのできないものである。

    人と交際する場合にも、心から誠意をつくし、悪い遊びをせず、優れた人を尊敬し、愚かなるものを侮らず、またわが身にあてはめて考え、悪いことは人にしないことである。人当たりが鋭く、角のたつようなことはせず、ひがんで頑固になることもなく、せかせかとせわしい態度をとらず、怒ることがあっても、度を越えず、喜んでもその立場を失わないことである。楽しみごとにもおぼれず、悲しみごとにも自分を見失わず、なにごとにも十分であろうとなかろうと、みな自分にとって幸いなことであると、そう思って十分心に満足を覚えることである。受け取るべきでないものは、たとえ塵であっても受け取らず、また与えなければならないときは、天下国家であろうとも、それを惜しまず与えることである。衣食のよしあしも、わが身の程にしたがって、奢ることなく、またけちけちすることなく、盗みをせず、偽りをせず、色事を好んでも理性を失わず、酒を飲んでも乱れず、人に害を与えないものは殺さず、飲み食いにはいつもつつしみを忘れず、悪いものは食べず、たくさんものを食べないことである。暇な時間のあるときは、自分の身にとって有益な学芸・学問を学んで賢明になるようつとめることである。

    今の文字を書き、今のことばをつかい、今の食物を食べ、今の衣服を身に付け、今の調度を用い、今の家に住み、今の習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、いろいろな悪いことをせず、いろいろとよいことを実践するのを誠の道ともいい、それはまた、今の世の日本で実践されるべき道だともいえるものである。

    ところで、この誠の道というものは、そのもとはインドから来たものでもない。中国から伝来してきたものでもない。また神代のむかしにはじまって、今の世に習い伝えられたものでもない。天から下ったものでもなければ、地から湧き出たものでもない。

    ただ、今生きている人のうえに照らして、このようにすれば人も喜び、また自分もこころよくて、はじめから終わりまでさしつかえるところもなく、全てがよく治まるというところから生まれたものである。

    また、このようにしなければ、人もこれを憎み、自分もこころよくなく、ものごとに支障が増えて順調にゆかないことばかりが多くなるので、どうしてもこのようにしなければならないという、ごくあたりまえの人のなすべきところから出て来たのが、この誠の道である。

    だからこれは、人がとくに頭をひねって、かりに作り出したというものではない。だから今の世に生まれ出て、それが人間として生まれたものならば、たとえ三教を学んだ人だといっても、この誠の道を捨てて、一日として人間らしく生きることはできないはずである。

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