Tuesday, July 31, 2012

桜井英治

日本で中国銭の本格的な使用がはじまるのは12世紀半ばであり、このとき銭は、それまで米・絹・麻がもっていた一般的交換手段機能の大半を吸収するが、支払手段機能の獲得は明くる13世紀まで待たねばならなかった。 この現象は、じつは宋から元への王朝交替という中国国内情勢によって引きおこされたものである。宋にかわって中国を支配した元は紙幣専用政策を採用して国内での銅銭使用を禁止した。その結果、中国国内で使い道を失った銅銭が中国から海外へ大量に流出し、それがこの時期、日本やジャワ、ヴェトナムなど、東アジア全域に中国銭使用の拡大という共通の現象をもたらしたのだ。 年貢の代銭納化は中世日本の経済構造を一変させた。厖大な量の商品が生まれ、地方から中央にもたらされる物資も、年貢ではなく、商品が主流になる。生産物を換金するための定期市も各地に簇生し、商品流通量が貢納による物流量を上まわり、市場経済社会の段階に入った。それは約300年続く。。。 1570年前後に世界史的規模でおこったいくつかの複合的な原因によって中国から日本への銅銭供給が途絶し、それが日本における銭経済の終焉をもたらした。それにともない年貢の代銭納制も維持が困難になり、しだいに米を中心とする現物納へと回帰していった。年貢の代銭納制下で展開した中世的な市場経済社会はこうして終焉を迎えた。

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  1. 流通経済史と荘園制

    by 桜井英治

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  2. 私は日本中世史の研究者ではあるが、大部荘の研究者ではなく、荘園史の研究者ですらない。したがって、今回のプレゼンターとしてふさわしいとはいえないが、私の専門であり、近年大きな進展のみられた流通経済史分野の成果については海外ではほとんど知られていないと思われるので、それらを紹介しておくことには一定の意味があろう。また、流通経済といっても荘園制と無関係ではなく、むしろ荘園制下の収取制度と密接な関係を保ちながら展開していたことが知られているので、その点でも今回のワークショップのテーマに十分沿うものと思われる。

    近年の流通経済史研究のブレイクスルーは、貨幣史分野においておこった。

    前近代の日本の貨幣史は、自国銭の時代(7世紀後半~10世紀後半)→商品貨幣(米・絹・麻)の時代(11世紀~12世紀前半)→中国銭の時代(12世紀後半~16世紀)→自国銭の時代(17世紀~)、という複雑な変遷をたどったが、そのうち中国銭の時代がほぼ時代区分上の中世に一致する。

    中国銭はいくつかの段階を経て日本社会に普及したことが知られている。中国銭の本格的な使用がはじまるのは12世紀半ばであり、このとき銭は、それまで米・絹・麻がもっていた一般的交換手段機能の大半を吸収するが、支払手段機能の獲得は明くる13世紀まで待たねばならなかった。その過程は、松延康隆の研究によれば、まず1220年代後半に絹と麻の支払手段機能を吸収したのに続いて、それから約半世紀後の1270年代に米の支払手段機能を吸収することで完了した(松延1989)。

    このうちとくに1270年代におこった変化は、荘園制の歴史においては、いわゆる(米)年貢の代銭納化として知られるものであるが、従来、商品経済の活発化という国内的要因で説明されてきたこの現象が、じつは宋から元への王朝交替という中国国内情勢によって引きおこされたものであることが近年、大田由紀夫によって指摘されている(大田1994)。中国では1276年に南宋の首都臨安が陥落し、かわって中国を支配した元(モンゴル)は翌1277年に紙幣専用政策を採用して国内での銅銭使用を禁止した。その結果、中国国内で使い道を失った銅銭が中国から海外へ大量に流出し、それがこの時期、日本やジャワ、ヴェトナムなど、東アジア全域に中国銭使用の拡大という共通の現象をもたらしたというのである。日本における年貢の代銭納制の普及も明らかにその結果であった。

    年貢の代銭納化の過程については、いくつかの見通しが示されている。

    網野善彦が指摘するように、中世の年貢には米だけでなく、塩・鮭・アワビなどの水産物や板・檜皮などの林産物、鉄・金などの鉱産物、絹・麻などの繊維製品、莚などの工芸品等々、いわゆる非水田的生産物が多数含まれており、しかも、水田では生産されないそれらの年貢が水田にたいして賦課されていたところに大きな特徴があるが(網野1980、1998)、大山喬平は、年貢の代銭納化は、米ではなく、このような非水田的生産物を年貢としていた荘園や村からはじまったことを明らかにしている(大山1978)。

    これらの製品の生産者と水田所有者を同一とみるか、別とみるか(生産物に即していえば、農間副業的生産物とみるか、専業的生産物とみるか)をめぐる論争については、いずれのケースもあったとみるのが自然だと思われるが、ただ、代銭納制への移行がよりスムーズにおこなわれたのは、製品生産者と水田所有者が別であった――すなわち荘官や農民が製品生産者から製品を買い取って年貢に充てていた――ケースだろう。なぜなら、そこには水田的生産物(米)の売却という、代銭納制下の基本的プロセスがすでに含まれているからである。荘園制には、在地(および中央)における一定の商品交換が不可欠の要素として組みこまれていたといえよう。

    年貢の代銭納化は中世日本の経済構造を一変させたと考えられる。第一に、それは厖大な量の商品を発生させた。それまで年貢として中央に送られていた生産物の大半が、現地で売却されることになったためだが、これ以後は、地方から中央にもたらされる物資も、年貢ではなく、商品が主流になる。生産物を換金するための定期市も各地に簇生した。年貢の代銭納制が普及した13世紀後半以降の日本列島では、商品流通量が貢納による物流量を上まわっていたことが確実であり、いわゆる市場経済社会の段階に入ったと解釈される(桜井・中西2002)。

    信用経済の発達がみられたのも代銭納制普及の大きな影響のひとつである。商品流通が拡大するなかで、銭よりもさらに軽量で輸送コストの安い決済手段が求められた結果、この時期に出現したのが割符(saifu)とよばれた手形である(桜井1996)。注目されるのは、割符には1個10貫文の定額手形が多かったことである。それらは1つ、2つと個数で数えられ、1つといえば10貫文、2つといえば20貫文をさしたが、定額面であることは、人から人へ転々と譲渡されうる、紙幣的な機能がそこに期待されていたことを示している。10貫文といえば、ほぼ今日の100万円に相当するが、中世後期の経済はそのような高額貨幣としての機能をもった特殊な手形をも発達させたのである。

    代銭納制の普及は、商品作物の生産を促進した可能性も高い。というのは、年貢の代銭納制とは年貢として銭を要求しているわけだが、その銭をどのように入手するかについてはいっさい問うていないからである。だから、それまで米を中心に作っていた荘園が、代銭納制採用以後も引き続き米を作らねばならない必然性はまったくない。それよりは、土地土地の気候に適した、しかも換金性のより高い作物、つまり商品作物を作ったほうがはるかに効率的であり、少なくとも年貢の代銭納制はそのような生産者行動を制度的に可能にしていたといえる。

    14世紀に成立した『庭訓往来』や、14世紀末~15世紀初頭ごろつくられた京都の物価表である「京都諸芸才売買代物事」、 15世紀半ばの東大寺領摂津国兵庫北関の関税台帳である『兵庫北関入船納帳』などには、それまで知られていなかった新たな特産物がいくつも登場してくるが、その背景としては、やはり13世紀後半における代銭納制の普及以外には考えられないだろう(桜井2004、2007)。

    年貢の代銭納制は、石高制のもとで米納年貢制が復活する16世紀後半まで約300年間にわたって存続したが、それが16世紀後半に終焉を迎えた原因も、貨幣動向に求める見解が有力である。黒田明伸は、1570年前後に、世界史的規模でおこったいくつかの複合的な原因によって中国から日本への銅銭供給が途絶し、それが日本における銭経済の終焉をもたらしたことを明らかにしている(黒田1994、2003)。それにともない、年貢の代銭納制も維持が困難になり、しだいに米を中心とする現物納へと回帰していったと考えられる。貢納による物流量はふたたび商品流通量を上まわったとみられ、大坂が全国的な年貢換金市場として浮上してくる一方、各地に簇生した定期市は縮小を余儀なくされたであろう。年貢の代銭納制下で展開した中世的な市場経済社会はこうして終焉を迎えたと考えられる。

    以上のように、長いあいだ一国的な枠組のなかで進められてきた流通経済史研究は、近年、アジア史ないし世界史的見地から急速に書き替えられつつある。流通経済史と不可分の関係にある荘園史研究も当然そうした動向から自由ではありえないだろうことを指摘して報告を終えたい。

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  3. 中世日本の中国銭経済

    by 桜井英治

    http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf

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  4. 1)古代日本貨幣史の概要

    a. 古代の銅銭鋳造事業

    本節の課題は、中国銭を主要貨幣として展開した中世日本経済の特質について論じることにあるが、はじめにその前史をなす古代貨幣史の概要から述べておく。

    日本の鋳造貨幣の歴史は7 世紀後半にはじまる。現在確認されている日本最古の鋳造貨幣は「無文銀銭」とよばれる銀貨である。これは出土品として二十数点が現存しているが、中央に小孔の穿たれた直径3 センチほどの銀貨であり、銘文をまったくもたないことからこの名でよばれている。この銀貨は、原料銀の産地や鋳造主体、詳しい鋳造開始時期などいっさい不明だが、天武天皇の政府が7 世紀後半に最古の銅銭である富本銭を鋳造したときにはすでに流通していたことが知られている。

    一方、遅くとも683 年以前に鋳造が開始されていた富本銭は、円形方孔で「富本」の銘文をもつ中国銭タイプの銅銭であった。富本銭が鋳造された天武朝は、663 年の白村江での敗戦によって対外的緊張が高まるなか、中央集権化が強力に推進され、古代律令国家の基礎が築かれた時代であった。「日本」という国号がはじめて採用されたのもこの時代であり、また、それまでの「大王」が「天皇」とよばれるようになったのもこの時代とみる説が有力である。天武天皇は中国型の専制国家を志向し、律令制や都城制など、中国の制度を積極的に導入したが、銅銭の鋳造もその一環であった。けれども銀銭の使用に慣れていた人びとは、素材価値の低い銅銭を容易に受け入れようとはせず、最初の銅銭鋳造の試みは失敗に終わった。

    古代国家が次に鋳造した銅銭は708 年初鋳の和同開珎である。これは1991 年に富本銭が最古の銅銭と確認されるまで、長いあいだ日本最古の銅銭と考えられてきたものである。和同開珎は710 年に完成する平城京建設に向けた財政手段(労働者にたいする支払手段)として鋳造されたものとみられる。富本銭のときとは異なり、律令政府はかろうじてその普及に成功したが、その後も市場価値の下落に苦しめられ、そのたびに新銭の発行によってこれを弥縫せねばならなかった。

    ともあれ、これ以後、律令政府は10 世紀後半まで約300 年間にわたり、富本銭・和同開珎を含め、合計13 種類の銅銭を鋳造しつづけたが、958 年初鋳の乾元大宝を最後に銅銭鋳造事業は中絶する。その直接の原因は、原料銅主産地である長門国長登銅山の衰退にあったが、もうひとつの原因として、対外的緊張の緩和にともない、古代国家がそれまでとってきた専制国家型の大規模財政を放棄したことがあげられよう。国家財政が大幅にスリム化したことにより、財政補填手段としての銅銭鋳造事業は不要になったのである。

    b. 商品貨幣の時代と信用経済の萌芽

    政府が銅銭鋳造事業を中止すると、銭は急速にその信任を失い、明くる11 世紀初頭に銅銭の流通はついに途絶する。これ以後、12 世紀半ばまでの約150 年間、日本社会は金属貨幣をもたず、もっぱら米と絹布(絹・麻布)に依存する商品貨幣(実物貨幣・物品貨幣)の時代を経験する。10 世紀後半といえば、高麗やヴェトナムなどの東アジア諸国がまさに銭の鋳造を開始した時期にあたるが、その同じ時期に日本は銭経済を放棄したのである。

    米や絹布が銅銭に取って代わったことについては、一見すると先祖返り、つまり経済の発展段階を逆行する動きのようにみえるかもしれないが、それは正しくない。商品貨幣経済は、物々交換のようにモノなら何でもよかったわけではなく、米と絹布というごくかぎられたモノにしか貨幣の資格を認めていなかったからである。

    この時代にはさまざまな信用貨幣(手形)が発生し、日本史上、最初の信用経済の発達がみられたことも見のがせない。米や絹布という、持ち運びに不便な貨幣を使っていたことが、逆に貨幣の節約手段、輸送の省力化の手段としての手形決済を発達させたと考えられる。このように信用経済が商品貨幣の時代に発達するという傾向は世界史的にも広く確認されるが、それはこの時期の日本にもよくあてはまるといえよう。

    この時代の手形類を振り出していたのは民間の金融業者ではなく、中央の財務機関である大蔵省や、諸国の徴税を担当していた国守(このころになると、遙任といって任国に赴任せず、京都に留まるケースが増えてくる)などであった。大蔵省や国守は他の官庁などから経費の請求をうけると、所管の出納担当者に支払いを命じた支払命令書を振り出し、請求者はそれを当該担当者のもとに持参して経費の支払いをうけたのである。

    国守が振り出した支払命令書のなかには、支払地が地方であるものも少なくなかったが、そのようなばあい、請求者自身が地方に赴くのはコストがかかるため、民間の金融業者である借上がそれらの支払命令書をまとめて買い取り、地方での回収業務を代行することもあった。手形割引の早い例といってもよいだろう。このように、日本における最初の信用経済は、10 世紀後半~12 世紀の財政システムのなかから発生したのである。

    ところがこれらの手形類は、いずれも中世の入口にあたる12 世紀中に姿を消してしまう。国守の徴税能力の低下やそれにともなう財政システムの改編の影響もあったが、12 世紀半ばに銭経済が復活した影響も大きかったであろう。輸送性能にすぐれた銭の普及は手形決済の必要性を低下させたと考えられるからである。

    12 世紀後半に日本社会は突如として金属貨幣の時代に再突入する。しかしそれは、かつてのような自国鋳貨によるものではなく、中国銭、なかんずく北宋銭の大量流入によって招来されたものであった。そしてこの中国銭への依存は基本的に寛永通宝の鋳造が軌道に乗る17 世紀後半まで維持されることになる。

    このように、前近代の日本の貨幣史は、自国鋳貨の時代→商品貨幣の時代→中国銭の時代→自国鋳貨の時代、という複雑な変遷をたどるが、そのうち中国銭の時代はほぼ時代区分上の中世に一致する。なぜ日本の中世国家はみずから貨幣を鋳造せず、その供給を中国に依存しつづけたのか、またそのような中国銭への依存は中世の流通経済にどのような影響を与えたのか、これらは中世日本の国制を考えるうえでもきわめて重要な問題であろう。

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  5. 2)中国銭経済の開始

    a. 宋銭の流入

    北宋(960~1127)は中国歴代王朝中まれにみる大量の銅銭を鋳造した王朝であり、北宋銭は明代にいたるまで中国国内流通銭の首座を占めつづけることになるが、にもかかわらず中国は北宋時代からすでに銭不足に悩まされていた。その原因のひとつに周辺諸国への銅銭の流出があったが、銅銭の国外流出は次の南宋(1127~1276)の時代にさらに深刻化した。とくに1199 年には日本・高麗への銅銭帯出を禁止する法令が出されており、日本が宋銭の主要な流出先に数えられていたことが知られる。

    一方、日本側の史料をみると、1150 年の土地売券に約150 年ぶりに銭が再登場し、1179年には朝廷で宋銭使用の停否が検討されるほどの流通量に達した。1193 年に朝廷はついに宋銭使用の禁止にふみきるが、朝廷の禁止令にもかかわらず、民間での宋銭使用は一向に衰えず、結局なしくずし的に宋銭使用は容認されてゆく。朝廷がいくら銅銭の使用を促しても人びとがそれをつかおうとしなかった古代とは対照的に、この時期には朝廷がいくら銅銭の使用を禁止しても人びとはその使用をやめなかったのである。その理由は、すでに森克己が指摘しているように、宋銭が民衆のイニシアティブによって流通を開始した貨幣であったからにほかなるまい。

    一方、12 世紀末東国に成立した武家政権である鎌倉幕府は、1226 年に准布の貨幣的使用を禁じ、銅銭使用を強制する法令を出している。幕府は朝廷とは異なり、宋銭にたいして寛容な態度をとったが、この法令は中世の権力が明確に宋銭の基準貨幣化を打ち出した最初の意思表示でもある。そして、このころから宋銭は米・絹布がもっていた貨幣機能を急速に吸収しはじめるのである。

    b. 宋銭の貨幣機能獲得過程

    通常、貨幣の機能といえば、1.一般的交換手段(流通手段)、2.支払手段、3.価値尺度機能(計算手段・計算貨幣)、4.富の蓄蔵手段、という4 つの機能をさす。近代貨幣においてはこれらの諸機能が統合され、有機的に結びついているが、前近代貨幣のばあい、それらはしばしば分裂し、各機能ごとに異なる貨幣が用いられている例もめずらしくなかった。そして中世の銅銭も、当初からこれらすべての機能を備えた完全な貨幣として登場したわけではなかったのである。

    造都事業にかかわる国家的な支払手段として国家によって広められた古代の銅銭にたいし、宋銭は一般的交換手段としてまず民衆のあいだに広まった点に特徴があるが、宋銭が米や絹布から貨幣機能を吸収し、貨幣形態として完成するまでには、なお長い時間を要した。以下、松延康隆・大田由紀夫らの研究にそってその過程を概観しておこう。

    第1 の画期は、宋銭が絹布の支払手段としての機能を吸収する1220 年代後半である。貢租のうち、従来、絹布など繊維製品で納められていた部分がこのころを画期としていっせいに代銭納化してゆくのである。前述の1226 年の幕府法もその一環として位置づけられるが、同じく絹布がもっていた価値尺度機能も13 世紀半ばごろまでに宋銭に吸収された。

    第2 の画期は、宋銭が米の支払手段としての機能を吸収する1270 年代である。その変化をもっとも明瞭に示すのが、この時期におきた、いわゆる年貢の代銭納化である。米の価値尺度機能も1300 年代にはほぼ宋銭に吸収され、こうして14 世紀初頭に宋銭は貨幣形態としての完成をみることになる。

    ところで年貢の代銭納化がおきた1270 年代には、日本だけでなく、ジャワやヴェトナムなど、東アジア全域で中国銭経済への転換がおきている。この時期、中国では南宋の首都臨安が1276 年に陥落し、かわって中国を支配した元(モンゴル)は、翌1277 年に紙幣専用政策を採用して国内での銅銭使用を禁止した。その結果、国内での使い道を失った銅銭が中国から大量に流出し、それがこの時期、東アジア全域に中国銭使用の拡大という共通の現象をもたらしたのである。日本における代銭納制の普及も明らかにその一環であり、この現象を流通経済の発達といった国内的要因だけで説明することはできない。むしろ大田も指摘するように、このとき大量に流入した中国銭がその後の日本に加速的な流通経済の発達をもたらしたと考えるのが妥当だろう。

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  6. 3)中国銭経済の展開

    a. 市場経済の発達と割符の登場

    年貢の代銭納制は、たんなる収取方式の変更というだけでなく、その後の経済全体にはかりしれない影響をおよぼした。荘園現地では、それまで生産物をそのまま貢租として中央に送ればよかったのにたいし、代銭納制のもとでは、それらを現地でいったん売却・換金し、そこで得た銭を中央に送らねばならない。代銭納制はそのような売却・換金がおこなわれる場としての定期市を全国各地に簇生させた。

    売却された生産物は、売却された時点で商品に転化する。その一部は地域内で消費されたが、他の一部は遠隔地商人の手に渡り、巨大な消費者人口をかかえる畿内はじめ遠隔地へと運ばれた。物流の見地からいえば、それまで貢租として現地を船出し、中央に送られていた生産物が、代銭納制以後になると今度は商品として船出し、中央に送られるようになったということである。こうして年貢の代銭納制はいまだかつてない厖大な商品の流れをつくりだし、その結果、日本列島ではこれ以降、本格的な市場経済が展開することになった。そして、この経済発展のもとで平安時代に続く信用経済発達の第二のピークが訪れることになる。

    この時代を特徴づける信用貨幣が割符である。日本における為替手形の源流は、13 世紀前半に発生した、他地返済の特約の付いた特殊な借用証書にあったと考えられる。それがやがて送金手段に転用され、あるいは商業上の決済手段にも利用されて、江戸時代の為替手形につながってゆくことになるが、割符もその一種として発達したものであることはまちがいない。ただ割符には、一般の為替手形にはみられない大きな特徴があった。それは、割符の多くが10 貫文の額面をもつ定額手形だったことである。割符はしばしば1 つ、2 つと個数で数えられ、1 つといえば10 貫文、2 つといえば20 貫文を意味した。

    割符が定額だった理由は、不特定多数の人びとのあいだを転々流通することがあらかじめ前提されていたためと考えられる。1 回の取り組みで役割を終えるのであれば、定額である必要はなく、江戸時代の為替手形のように額面に端数が出てもよいからである。その意味で割符は紙幣に近い性格も備えていたといえる。

    ところで10 貫文というと、今日の貨幣価値でいえば100 万円前後に相当するから、かなりの高額貨幣である。それが問屋によって振り出されていたことも考え合わせると、割符が遠隔地間の巨大な商品取引のなかから発生してきたものであることはまちがいない。

    割符は振出地も支払地も畿内やその周辺のものが多いが、それらはしばしば遠隔地商人の手で地方へ運ばれ、米や各地の特産物の買付に利用された。こうしていったん地方の生産者の手に渡った割符は、今度は年貢の送進手段としてふたたび荘園領主のいる畿内に送られ、換金されたのである。このような高額の信用貨幣が流通していたところにも、中世後期における信用経済の発達ぶりがうかがえよう。

    b. 14 世紀の銭貴と後醍醐天皇の貨幣発行計画

    14 世紀に入ると13 世紀後半のインフレーションは終息し、日本は一転して銭荒(銭不足)・銭貴(銭高)に見舞われることになった。松延康隆が明らかにした14 世紀の著しい地価下落は、そのような銭荒・銭貴の進行を端的に示す現象であろう。後述する後醍醐天皇の貨幣発行計画もこの銭荒・銭貴に便乗して企てられた可能性が高いが、14 世紀後半には高麗・李氏朝鮮やヴェトナムでも銅銭や紙幣を自前で発行する動きが強まることから、14 世紀には東アジア規模で銭荒・銭貴が進行していたとみられ、その原因が中国からの銭流出の鈍化にあったことも疑いない。

    備蓄銭の慣行が14 世紀後半ごろから日本各地で本格化するのも、このことと無関係ではない。松延は備蓄銭慣行の広まり、すなわち銭が富の蓄蔵機能を獲得したことが、銭の退蔵を促し、それが銭荒・銭貴の原因になったと推測したが、これは原因と結果が逆である可能性が高く、むしろ長期的な銭荒・銭貴傾向のなかで将来の銭供給にたいする不安とさらなる銭貴への予測から、備蓄銭の慣行が広まったと解釈したほうがよさそうである。

    このような銭貴傾向のなか、中世日本にあってただひとり銅銭と紙幣の発行を考えた人物があらわれた。後醍醐天皇(1288~1339、在位1318~1339)である。

    後醍醐天皇の貨幣発行計画については、従来、天皇の貨幣鋳造大権を回復しようとしたとか、貨幣経済に基礎をおく国家への転換を図ったといった説明がなされてきたが、『太平記』巻12 には、貨幣発行は大内裏造営のために計画されたと明記されている。名目貨幣、すなわち額面価値がその素材価値を上回る貨幣のばあい、発行者には貨幣発行収入がもたらされるが、その利益は、銅銭よりも紙幣を発行したほうがさらに大きくなる。後醍醐の貨幣発行計画も、銅銭だけでなく、紙幣の発行も視野に入れていたことからわかるように、大内裏造営費用を捻出するための財政補填策として構想されたものだったのである。この点は、造都事業と密接な関係をもって進められた古代律令政府の銅銭鋳造事業とまったく同じ発想であり、後醍醐の貨幣発行計画もその点では依然として古代的なものにとどまっていたといわざるをえない。

    後醍醐の貨幣発行計画は結局日の目をみなかったが、そもそも後醍醐がどこからこのアイデアを仕入れたかといえば、紙幣という着想に注目すれば、やはり中国からとみるのが自然だろう。とくに後醍醐が銅銭と紙幣の併用を考えていたことからすれば、そのモデルは紙幣専用政策をとった元ではなく、銅銭と紙幣の併用政策をとった南宋に求められるべきである。

    後醍醐天皇以外の為政者が貨幣の発行を思い立たなかったのは、結局、大内裏造営計画のような大事業を企図した者が中世には後醍醐以外存在しなかったためである。後述するように、財政補填策としての貨幣発行は中世日本のような“小さな政府”には無縁のものだったといえよう。

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  7. 4)中国銭経済の終焉

    a. 明銭の流入と明銭論争

    12 世紀半ばに大量の宋銭流入によってはじまった中国銭経済は、途中いくつかの小変動を経験しながらも、15 世紀後半まではほぼ安定的な状態を保っていたとみてよい。1368 年に中国に明王朝が成立すると、以後、洪武通宝(1368 年初鋳)・永楽通宝(1411 年初鋳)・宣徳通宝(1434 年初鋳)などの明銭が流入しはじめるが、明銭が宋銭に取って代わることはなく、流通銭の首座は依然として宋銭によって占められていた。

    ところが15 世紀末になると、それまで3 世紀以上にわたって維持されていた中国銭経済にもようやく動揺の兆しがみえはじめた。その動揺はまず特定の銭種のみを選好して、それ以外の銭種の受け取りを拒否する撰銭行為となってあらわれ、それを取り締まるための撰銭令がこれ以後、室町幕府や、地方権力である戦国大名によって頻繁に出されてゆく。

    初期の撰銭に関して注目すべきことは、老朽化した銅銭に加え、当時出まわりはじめたばかりの明銭が忌避の対象となった点である。西日本の代表的な戦国大名である大内氏が1485 年に発布した撰銭令は、撰銭令の初見史料として知られるものだが、そこでもっとも問題視されていたのもやはり明銭にたいする撰銭行為であった。明銭にたいする忌避はほどなく畿内にも波及するが、研究者の関心をさらに引きつけたのは、明銭忌避が日本ばかりでなく、同時期の中国でもおきていた事実である。

    日中でほぼ同時並行的に明銭忌避が発生した原因に関しては、現在3 つの説が提唱されている。この問題をはじめて本格的に取り上げた足立啓二は、中国における明銭忌避の原因を、1436 年に明政府が銀財政への転換を開始して銭が国家的支払手段でなくなったことに求め、日本における明銭忌避はそれが波及したものだと説明した。この理解にもとづいて足立が提唱した、中世日本は中国の内部貨幣圏であるとの主張は、1990 年代初頭の日本史学界に大きなセンセーションを巻きおこしたが、この説はまもなく、明は銀財政以前から鈔法(紙幣専用政策)をとっており、銭が国家財政とリンクしていた事実はそもそもなかったとする大田由起夫の批判によって後景に退いた。代わって大田が注目したのは、明銭の鋳造量の少なさ、その希少性であった。大量に存在することが小額貨幣として受容されるための重要な条件であったことは理論的にも確かめられているが、明銭はその条件を満たしていなかったというのが大田の説明である。そして近年、第3 の説を提唱したのが黒田明伸である。黒田は、北京で永楽通宝にたいする撰銭が発生するのが1460 年代であったこと、そしてそのきっかけが1456 年ごろから顕著になる江南からの私鋳永楽通宝の流入にあったことに着目し、この私鋳永楽通宝がやがて北京でなく、日本をめざすようになったと推測した。つまり黒田は、北京と日本で明銭忌避がほぼ共時的に発生した原因は、まさに同一の私鋳永楽通宝が流入したことにあったとみたのである。

    すでに否定された足立説は別として、大田説・黒田説のいずれが正しいかはいまだに決着をみておらず、また今後第4 の説が登場する可能性もないとはいえないが、ここでは、この問題が日中双方の15 世紀貨幣史にとって共通の課題であることを指摘して、今後の研究の進展に期待したいと思う。

    なお、明銭がたどったその後の足どりについてだけ触れておくと、明銭のうち洪武通宝と宣徳通宝がついに精銭(宋銭を中心とする良貨)の仲間入りをはたすことができなかったのにたいし、永楽通宝は16 世紀半ばにいたってようやく精銭としての評価を獲得する。とくに東日本では永楽通宝の評価が上昇し、当該地域におけるもっとも代表的な精銭となる。永楽通宝はこうして初鋳以来約150 年を経てようやく日本における市民権を獲得したのであるが、その背景にはじつは精銭全体の希少化というより切実な事態が進行しつつあったのである。

    b. 精銭の希少化と私鋳銭

    銅銭の流通量は追加供給がないかぎり減少する。とくに精銭は退蔵されやすく、また自然の老朽化・貶質化によっても絶えず悪銭への格下げがおきたから、市場において希少化する速度は他の銭種にくらべてはるかに早かった。またこのころようやく精銭の仲間入りをした永楽通宝も、より高い評価が得られる東日本に大量に流出した可能性が強く、畿内・西日本においては精銭の希少化がきわめて早い速度で進行したと考えられる。精銭の希少化は精銭だけでなく、やがては銅銭全体の希少化を招くことになろう。この時期、それを補完する役割をはたしたものが私鋳銭にほかならない。

    私鋳銭には日本国内で鋳造されたものと中国で鋳造されたものとがあったが、とくに後者は16 世紀半ばの嘉靖の大倭寇によって大量に国内にもたらされ、量的にも精銭を凌駕する勢いを示した。それにともない、民間では、当初のように私鋳銭を流通から完全に排除してしまうことは少なくなり、代わって精銭よりも低い価値を与えたうえで通用させる慣行が一般化した。商人たちは、精銭自体が希少化するなかで、入手のむずかしい精銭にこだわるよりも、低品位ながら豊富に存在する私鋳銭での取引を選んだのである。

    しかし私鋳銭によってかろうじて維持されていた銭経済もついに破綻の時を迎える。

    とくに西日本においては16 世紀後半に中・高額取引分野における銭遣いが破綻し、1570年前後には銭遣いから米遣いへ、続く16 世紀末から17 世紀初頭には米遣いから銀遣いへの転換があいついでおきた。400 年以上にわたって続いてきた中国銭経済がいよいよ終焉の時を迎えようとしていたのである。

    その原因については、中国からの銭供給の途絶に求めた黒田明伸の所説にしたがうべきだろう。黒田は、第1 に1566~67 年に明政府が倭寇の本拠地であった漳州を制圧するとともに海禁を一部解除したこと(銭の密輸組織の消滅)、第2 にマニラ―アカプルコ間の定期航路の開設にともない、ポトシ銀が銭の密造基地であった中国東南沿岸部に流入し、同地域を銭遣い圏から銀遣い圏に変えてしまったこと(銭の密造組織の消滅)を指摘して、それらが中国から日本への銭供給を途絶させたとみるのである。

    中国と日本国内、2 つの銭供給源のうち一方を失ったことで、日本国内では銭の希少化がさらに進行した。西日本において銭遣いから米遣いへの転換がおきたのはそのもっとも顕著なあらわれだが、この時期におきた土地制度上の重大な変化である貫高制から石高制への転換もそれにともなうものであった。年貢や軍役の基準となる土地生産力の算定には、それまで銭に換算する貫高制が用いられていたが、1580 年代ごろから米に換算する石高制への転換が進み、江戸幕府によって全面的に採用されるにいたった。この一見先祖返りにみえる現象も、中国からの銭供給の途絶の影響とみることにより、合理的に理解することが可能となろう。

    一方、銭が比較的豊富に存在した東日本では基本的に米遣いへの転換はおこらなかったが、銭の希少化はここでも確実に進行していた。そのことを明瞭に示すのが低銭(私鋳銭などの悪貨)の価格高騰である。16 世紀後半の奈良ではビタとよばれる低銭が流通していたが、当初100 文=米2 升6 合程度だったその価格が、1590 年ごろには100 文=米1 斗6升にまで高騰する。同じようなビタ価格の高騰は京都・伊勢・越前などでも確認されるが、いずれも銭の希少化にともなう現象と考えられよう。

    銭の希少化にともなっておきたもうひとつの現象は精銭の空位化である。低銭に価格高騰がみられたのと並行して、流通銭の最上位に位置していた精銭におきたのが実体の消滅と計算貨幣化の動きであった。たとえば、奈良ではそれまで100 文=米2 斗前後の高価格をもっていた精銭が1590 年ごろ実体を失い、「本銭」とよばれる純粋な計算貨幣に転化したことが知られている。そして東日本において高い評価を獲得し、「超精銭」としての地位を築いていた永楽通宝も、まもなくまったく同じ道を歩むことになる。

    関東地方を支配していた戦国大名後北条氏は、諸税の永楽通宝での納入を原則としながらも、実際には黄金・米穀・漆・綿等での代納を認めざるをえなかったし、東海地方でもそれまで永楽通宝で納入されていた年貢が1584 年ごろから永楽1 貫文=ビタ4 貫文の比価でしだいにビタによる代納に切り替えられていった。永楽通宝はいまだ完全に実体を失ってはいなかったものの、これらの事実は、東日本においても永楽通宝の希少化が着実に進行しつつあったことを物語っている。そして明くる17 世紀にはついに永楽通宝の空位化が現実のものとなった。

    1608 年、成立まもない江戸幕府は、永楽1 貫文=京銭(ビタ)4 貫文=金1 両の公定レートを定めると同時に永楽通宝の流通を禁止したが、このころまでに永楽通宝は流通銭としてはほぼ実体を失っていたとみられ、流通の禁止もそのような現状を追認した措置と考えられる。にもかかわらず、上記の公定レートに永楽通宝が組み込まれたのは、永楽通宝が計算貨幣としては生きていたためである。このような永楽通宝の実体の消滅と計算貨幣化も中国からの銭供給の途絶がもたらした影響にほかならない。

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  8. c. 寛永通宝の発行と三貨制度の成立

    17 世紀前半は小額貨幣の不足が深刻化し、民間・諸藩・幕府それぞれがこの事態への対応を迫られていた時代であった。民間の対応としては、中世以来の私鋳銭生産と、民間金融業者による紙幣(私札)の発行など、また諸藩の対応としては、藩営工房における組織的な私鋳銭生産や低品位銀貨・紙幣(藩札)の発行などが具体的な動きとしてあげられるが、このような小額貨幣不足を抜本的に打開することになったのが、江戸幕府が1636 年に鋳造を開始した寛永通宝である。寛永通宝は、当初は鋳造量も少なかったために、しばらくは古銭(中国銭とそれを模した私鋳銭)との併用が続いたが、1670 年に江戸幕府はようやく古銭の使用を禁止して寛永通宝への一本化を実現する。このころまでに寛永通宝の鋳造が軌道に乗り、それを安定供給できる体制が達成されたのであろう。こうして日本は自国鋳貨のみによる貨幣体系を確立し、約500 年におよんだ中国銭経済がついに幕を閉じるのである。

    一方これよりさき、江戸幕府は高額貨幣である金銀貨の発行も開始していた。中世は中国銭のみを用いていた単一通貨の時代であったから、この点にも江戸幕府幣制の画期性があらわれている。

    中世の高額貨幣としては、前述のごとく信用貨幣である割符があったが、この割符は16世紀初頭に忽然として姿を消してしまう。これに代わって新たな高額決済手段として浮上してきたのが、鉱山開発の進展にともなって産出量が増えてきた金銀であった。ただしこの段階の金銀はいずれもまだ品位・形状ともに一定していなかったうえ、秤にも地域差があり、それらが遠隔地決済の妨げになっていた。全国統一を果たした豊臣秀吉は、度量衡を統一して全国市場の基礎を築くとともに、賞賜・贈答用の金貨として天正大判を鋳造したが、本格的な通貨としての金貨は江戸幕府が鋳造した慶長小判が嚆矢である。一方、銀貨としては、各大名がそれぞれの領国内で流通させていた領国銀が存在したほか、貿易用・遠隔地決済用には精錬された高品位の灰吹銀がそのまま用いられていたが、いずれもやがて江戸幕府によって鋳造された慶長丁銀に統一された。こうして江戸幕府は金・銀・銅貨よりなるいわゆる三貨制度を確立するのである。

    ところで16 世紀以来、東日本では主に金が用いられたのにたいし、西日本では銀が用いられるという地域性があったが、この傾向は江戸時代にもそのままうけつがれた。

    良質な金山が甲斐・伊豆・佐渡など東日本に多く分布していたのにたいし、石見銀山をはじめとする良質な銀山が西日本に集中していたことがこのような配置を生んだとみられるが、西日本に銀が普及した背景としては、貿易を通じて東アジア世界に広く開かれていた地理的環境も見落とすわけにはいかない。計数貨幣であった金貨にたいし、銀貨がその後も長く秤量貨幣でありつづけたのもそれが東アジアの国際通貨であったこととかかわりが深い。まもなく江戸幕府は鎖国政策によってオランダ・中国・朝鮮・琉球以外との交渉を断つことになるが、かつての東アジア貿易の痕跡は「東の金遣いと西の銀遣い」として国内経済に刻印され、幕末にいたるのである。

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  9. 5)中国隣国型国家と辺境型国家

    日本は12 世紀半ばから17 世紀前半まで、500 年近くにわたって、銅銭をみずから鋳造せず、その供給を中国に依存しつづけたが、前述のごとく、その期間が時期区分上の中世とほぼ一致することは見のがせない事実だろう。

    同時期の周辺諸国の状況をみると、朝鮮(高麗918~1392、李氏朝鮮1392~1910)やヴェトナム(10 世紀半ば以降)、琉球(15 世紀後半、第1 尚氏王朝末期から第2 尚氏王朝初期)など、中国の近隣にあってその影響を強くうけていた国々ほどむしろ銅銭を自鋳する傾向にあり、しかもこれらの国々の多くが古代の日本と同様、専制的な国家体制を採用していたことも重要である。琉球の国制は他とやや異なるが、それでも銅銭の自鋳を開始する時期が、琉球の歴史のなかでもっとも中央集権化の強まる時期と一致していることは注目してよい。

    これにたいし、中国から遠く離れたジャワ(マジャパイト王国1293~1520 ごろ)ではもっぱら中国銭とそれを模倣した私鋳銭が使用され、中世日本とよく似た貨幣状況を示している。しかもジャワは港市国家(ヌガラ)、中世日本は封建制と、国家体制はかならずしも同一ではないものの、いずれもきわめて分権的な国家であった点も共通する。朝鮮やヴェトナムのように中国と隣接し、中国型の中央集権的な体制を敷いていた国家群を中国隣国型国家、逆にジャワのように中国から遠く離れ、中国とは異なる分権的な様相を示していた国家群を辺境型国家とよぶなら、日本は古代から中世にかけて中国隣国型から辺境型へと国家の体質を大きく方向転換させたといえるのである。そして、すでに述べたように、そこには対外的緊張の緩和が大きく作用していたと考えられる。

    中国や中国隣国型国家が採用した専制体制とは、古代日本の律令体制を含め、対外戦争の脅威を契機として採用された戦時体制であり、人員・物資の大量移動を前提とするきわめて非能率的な体制であった。そして貨幣を自鋳するか否かという問題もこの財政構造と密接にかかわっていたのである。

    これにたいし、中世日本の政府は、朝廷にせよ、幕府にせよ、首長が大宮殿に住まう習慣もなければ、異民族との戦争が慢性的に財政を圧迫するという経験ももたなかった。元(モンゴル)の襲来は一過的な事件に終わったし、国内の合戦にしても当時は武士たちが自弁で戦うのが原則であったから、国家が大規模な財政をもつ必要はまったくなかったのである。財政手段としての貨幣発行は中世日本の“小さな政府”には無縁のものであったといえよう。

    一方、朝鮮やヴェトナムのようにつねに独立を脅かされていた国家にとって、独自の鋳貨をもつことにはたんなる経済政策にとどまらない、自主独立の象徴としての意義もこめられていたと考えられる。朝鮮が、民間にほとんど受容されなかったにもかかわらず、銅銭自鋳にこだわりをみせたのもそのためであろう。

    このようにみてくれば、東アジアにおいては中国との距離、対外的緊張の強弱が国家体制をデザインするにあたって重要な因子となっていたことはまちがいない。分権的な国家は中国からの地政的な距離が遠く、対外的緊張の相対的に弱い地域に生まれる傾向がある。そしてその分権的な国家デザインのなかの一形態として中世日本の国制を理解することができるのではなかろうか。

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