Sunday, August 21, 2011

丸山健二

一度動物園で飼育された動物を自然に返すことは、殺処分も同様の仕打ちであることは自明の理であり、だから、そんな非道な真似をする関係者はほとんどいない。しかし、勤め人の場合は違う。長い余生を送るにはあまりにも僅かな餌を持たされ、あとは自力でどうにかしろということで野に放たれる。

属している国家や雇ってくれた企業にそれほどまでに恩義を感じなくてはならない根拠など、ひとつもありはしないのだ。国は税金を搾り取り、企業は搾取しただけのことであって、恩を感じてもらわなければならないのは、むしろあなたの側である。それにもかかわらず、何故にそこまで卑屈になるのか。

あなたという存在をどこまでも蔑ろにし、とことんこけにしているのは、ひょっとするとあなた自身なのかもしれない。あなたの自由を封じてしまっているのは、いかなる場合においても追従の生き方を優先させ、ともあれ周囲と調子を合わせたがるあなたであって、ほかの誰かではないのかもしれない。

8 comments:

  1. 「社畜たちへ」――丸山健二の「怒れ、ニッポン!」第4回

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  2. http://getnews.jp/archives/136662

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  3. もしもあなたに人間としての尊厳を大切にしたいという気持ちが多少なりともあるのなら、あなたを締めつけ、あなたの自由の大半を奪っている首輪を、その時が訪れたあかつきには自らの手で外さなければならない。人として生きたかどうかは、ひとえにその成否いかんに掛かっている。今がその時かも。

    首輪を外すことを野良犬の立場に身をやつすという意味に解釈してはならない。日々の糧を確保するために、拾い食いしたり、もらい食いしたり、盗み食いしたりするというような憐れな生き方を想像して怯えてはならない。生き物として自力で餌を確保するのは真っ当であり、ために、生きる喜びがある。

    人間的尊厳を重視して生きたい、本来自由であるべき人間に復帰したいという、そんな自然な願望を絶望に終わるだけの夢にしていいのか。それで本当にいいのか。あなたの周りには歯が立たない人間ばかりがいて、かれらに従うしかないのか。徒手空拳を恐れてはならない。孤立無援を嘆いてはならない。

    もう一度言う。いや、何回でも言う。これは不特定多数の民衆のための国家などではないのだ、と。特定少数の連中がいい思いを独占したいがための国家なのだ、と。そいつらの傲慢で豪勢な暮らしを支える、それだけのために我々は存在し、かれらの奴隷として一生を終えるのだ、と。国家なんて幻だ。

    東電と原子力保安委員会の広報係の開き直りの態度がすっかり板についてしまった。いかに危険で、いかにずっこけた内容であっても、ともかく淡々とした口調でもって発表しておけばそれでいいのだという居直りが固定化され、この国の未来を覆い隠した恐怖が一段と凄みを増してきている。ぞっとする。

    安全を殊更強調するのは、それがいかに危険であるかという何よりの証にほかならない。そして、この世に安全なものなどないのだからとする言い訳は、所詮、詭弁のたぐいでしかない。原発に対するただ一辺倒の反対は単純に過ぎ、この問題はもっと複雑なのだとする反論もまた、裏切り者の論理なのだ。

    原発を推進させていい思いをするのは国民ではない。こんなことになってしまって悲惨な目にあわされるのは我々だけなのだ。必要以上どころか、べらぼうに高い電気料金でぼろ儲けしてきた輩は、築き上げた莫大な財力でもって、放射能の届かぬ安全な土地へいつでも好きなときに移り住むことができる。

    牛や豚や鶏のように、肉にされる運命をおとなしく受け容れる手はない。我々は人間であって、家畜ではない。やられっぱなしで死んでゆくことはない。徒死を迎える前に、せめて自分が人間であったことを知らしめようではないか。神妙な顔の裏であざ笑っている輩に一矢を報いてやろうではないか。

    もう一度政治家どもや役人どもや経営者どもの顔をとっくりと見よ。果たしてこれが要職にふさわしい人相かどうかをじっくり確かめるがいい。無能なくせに私欲だけは人一倍長けており、保身のみしか念頭にない、姑息な人間とはこういう顔を持つ連中をさして言うのだ。あなたの目はまだ節穴なのか。

    資本家とその手先である為政者たちは、国民を欺き、利用し、蔑ろにしているばかりか、この程度の知恵しか回らない、この程度の怒りしか覚えない、この程度の根性しかない連中など御しやすいものだと、そう高をくくっている。さもなければ、この期に及んであれほど厚かましく振る舞えるはずがない。

    要職に就いている無能な政治家は、依然として有能なふりをつづけている。人前ではいかにも賢そうな表情や態度を演技し、もともと有りもしない正義への情熱をさかんにアピールしながら、甚だしく似合わない地位に尚もしがみついているその姿は、哀れにして滑稽だが、実はこれ以上の危険はないのだ。

    それにしてもどうしてこうまでそろいもそろってこんなアンポンタンやオタンコナスやロクデナシばかりが政治家や役人や知事や経営者なのだろうか。そのくせ連中は人一倍愛国者を気取り、日本の将来について誰よりも強い思いを抱いているといったアピールに精を出す。反社会的な国賊とはこいつらだ。

    大臣というポストを与えられたとたんに威張り散らしたがるのは、そいつらを前にするや一や二もなくへりくだってしまう者が多いからだ。どんなに理不尽な真似をしても、いかに横柄な態度を取っても、へいこらするとわかっているから、あの連中のあまりに封建的な接し方が依然として改まらないのだ。

    こうしたどこまでも浅はかで無責任極まりない国家を構築し、それを支えることで、身の丈を越えたいい思いを堪能してきた連中は、未だにその思いが忘れられず、あるいは、惨めな転落に怯え、ために、原発を維持する悪しき方向へと着実に動きだしている。一時のしおらしい態度はもはや見る影もない。

    理念が理念と呼ばれるゆえんは、ひとえに欲望に蹂躙される運命にあるからだ。欲望は知性も理性も軽く一蹴し、あざ笑い、明日ではなく、この今を生きるだけの刹那的なエネルギーを授けてくれる。要するに麻薬と同じということだ。欲望に添い過ぎた国家に輝ける未来はない。待っているのは破滅のみ。

    この国を真の意味における国民のものにできる時代は訪れるのか。それはひとえにあなたの認識いかんにかかっている。見た目や、雰囲気といった判断材料に頼っている限りにおいては、とんでもない悪党に全権を委ねてしまうことになる。それらしく見える奴ほど危ないのだ。しっかり覚えておくがいい。

    この国に最も欠落しているのは、反省の力だ。そもそも反省という言葉さえ知らないのではないか。反省がないから同じ失敗を幾度でも繰り返すのだ。動物たちでさえも反省から学習へと直結する能力をしっかり具えており、同じ轍を踏まぬように気を配って生きている。日本人は動物以下ということか。

    金さえ入ってくれば、原発であろうが軍事基地であろうが受け容れてしまうという生き方から派生する悲劇の数々。企業にたかり、国家にたかって生きることを自立した人生よりも優先させてしまうという堕落した精神。そして最も恐ろしいのは、かれらにそれ以外の選択肢がないと思い込ませる洗脳の力。

    敬うに値する、素晴らしい人間が登場することを期待する前に、自分という人間と、その周辺にいる人間を再点検するがいい。そうすることによって、どうしてあんなクズどもを自分たちの代表として檜舞台に立たせてしまったかがわかり、大いに悔やまれるはずだ。まずは疑いの眼で他者を見ることだ。

    搾取されるばかりの一般人のあいだであれほどまでに広がっていた不安や恐怖心だが、しかし、ひとたびそれに慣れてしまうとみるみる影をひそめ、さほどの悲劇ではなかったのではないのかという強気な重いがつのり、もしくはその重圧に耐えきれなくなって、人生の喜びを享受する方向へと傾いてゆく。

    夢のようにころがりこんでくる金が目当てで原発を認めてしまうであろうと思われる、潜在的な市町村は数知れないだろう。公害の歴史はそうやって築かれてきたのだ。目の前に飴をちらつかせられたなら、あとはもう安全であるという真っ赤な嘘をずらりと並べてもらうだけで、美味い話だと信じ込む。

    恐怖に立ちすくみ、鬱に胸ふさがれ、悲劇の海で全身濡れ鼠になってしまった人々は、暗澹たる未来を前にしてなす術もない日々を送っているうちに、結局は自分しか当てにできないことに気がつき、これまで眠っていた底力が突如として芽生え、支え合って生きることとは他者を頼ることではないと悟る。

    本当に頑張らなければならないのは、安全な境遇に身を置いているためにむしろ溺れかけている、あなた自身ではないのか。被災者たちは、いちいち頑張れと言われなくても頑張らざるを得ない状況に陥ってしまっているので、その点においてはあなたよりもはるかに逞しい精神状態にあると言えるのだ。

    ひっきりなしにテレビに登場するコメンテーターは、結局、国民を騙す側に身を置く、大悪党の手先の小悪党にすぎない。そもそもスポンサーや国家の影響を避けては通れないかれらに本音など言えるわけがなく、ましてや正真正銘の正義を唱える資格などあるはずもないのだ。卑しさが表情に出ている。

    権力や金力に色目をつかい、すり寄り、その片棒を担ぐために真実や真理を平気でねじ曲げるような、とことん性根の腐った輩が文化人であるはずがなく、また、教養人や学者であるわけもないのに、かれらにはその自覚がすっぽりと欠如している。ために、厚顔無恥を臆面もなくさらすことができるのだ。

    日本人はどうしてここまでお上に弱いのか。何故に対等の関係で正々堂々と物を言うことができないのか。上下関係以外の関係を知らないのか。それは、一個の独立した人間としての誇りを棄てているからだ。損得のみの尺度しか持ち合わせていないせいだ。要するに、性根が腐っているということになる。

    疑心が暗鬼を生み、不信が自暴自棄を差し招き、そして生きる目的さえも失いかけたとき、なでしこジャパンの奇跡的大勝利がもたらされ、人々は息を吹き返したかのようにいっせいに瞳を輝かせる。よく頑張った選手たちから強力なパワーをもらったと言って大喜びする。本当に彼女たちを見倣えるのか。

    どんなに純粋な頑張りも、結局は国威発揚に利用されてしまうスポーツの前途はどうなる。あくまでも凄まじい努力を重ねて結果を出した当人たちが大したものなのであって、間違ってもニッポンが大したものであるということではないのだ。そのあたりの認識をはき違えると、民族主義に付け込まれる。

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  4. 言語不在の陰鬱な沈黙のそこに座り込んではいないか。世離れした暮らしに憧れながらも、苦難ばかりの日常をだらだらと送ってはいないか。空を切って飛ぶ鳥を見かけるたびに、無に惹かれている自分にはたと気がつきはしないか。もしかすると生きることに失敗したのではないかと呟いたりしないか。

    偽善者の政商が危機を最大限に利用して世論を煽り、政治家を意のままに動かして企む、ぼろ儲け。原子力エネルギーに取って代わるものとしての風力発電や太陽光発電にまつわる黒い噂の数々。どんな時にも、どんな所にもころがっている利権。それに群がり集まる小悪党から大悪党まで。正義はどこに。

    怒りも悲しみもそう長くはつづかない。ましてやそれが深い反省に結びつくことなどほとんどあり得ない。だから、人はいかに劣悪な環境のもとであっても平然と生きてゆけるのだ。ほんのちょっとした楽しみを見いだしながら、何事もなかったかのように、実際にはとてつもなく悲惨な暮らしを笑顔で送る。

    本来自由であるべきはずの人間が、いつしか国家の支配層にその魂をまる呑みにされ、思考と行為を理不尽なまでに制限され、偽の道徳によって欺かれ、尊厳を無化され、無条件的な立場へと追いやられてしまうといった時代は、じわじわと迫ってくるのではなく、ある日を境に、突如として訪れるのだ。

    歯が立たないものとしての放射能が投げかける影は、日を追うにつれて濃くなるばかりだ。もはや言い繕えないほど深刻な段階へと差しかかり、徒手空拳の人々の頭上と足元を暗くさせ、未来への夢や希望を無残に打ち砕き、真なるものへと向かって開かれているはずの精神の扉を閉ざさせようとしている。

    臆面もなく、しゃあしゃあと嘘をつく政治家のひとりが、自分が先頭に立って誘致した原発であるにもかかわらず、それがひとたび重大な事故を引き起こすと態度を一変させ、いつの間にか原発反対を訴えている。東電の広告塔を務めて稼いでいた女流作家が、原発に向かって非難めいた言葉を発している。

    国民の為政者に対する不審の念はますますつのるばかり。しかし、せいぜい愚痴止まり。こいつらを何とかしてその地位から引きずり下ろしてやろうというけなげな決意を固めるまでには至らない。あとはもう、諦めの深いため息を漏らすか、かれらの間抜けぶりと欲の深さを愚弄して喜ぶかするしかない。

    この国が自分たちのものでないとしたら、我々はいったい何だというのだ。おのれの行動の手綱をあっさりと国家に渡してしまったお人好しの愚者か。それとも、真の国民としての威信を獲得する気持ちなどもとよりない、思い込みと自堕落な生き方が得意の〈奴隷もどき〉か。自ら滅びる道を選ぶなんて。

    中国の列車事故についてあげつらう資格など日本にありはしない。他国の欠点を利用して自国の欠点を帳消しにするような見え透いた真似はするな。まだ獄門が閉じられたわけではないのだから。依然としてそれはぽっかりと大口を開け、無言のまま毒をまき散らしながら犠牲者の数を増やしつづけている。

    他人の行為から受けた感動を感動のままで終わらせることなく、自分のなかにしっかりと取り込んでおのれの人生を力強いものに変えてゆく者は、稀だ。そのほとんどが一過性の興奮と感涙のなかへと埋没してしまい、一ヵ月後にはもういつもの自分に、自分の頑張りで得る感動とは無縁な者に戻っている。

    やっぱり国家は資本家たちの私物でしかない。癒着の構図がますます鮮明になってきている。あいつらはやりたい放題のことをやっている。これまでもそうだったし、これからもそうだろうという思いが強くても、しかし、諦めるわけにはゆかない。言える立場に在る者はけっして口を閉ざしてはならない。

    さまざまな形で抑圧している飼い主の実態に気づいたとき、さて、どう出る。首輪を外してから痛憤を込めてそいつに飛び掛かることができるか。その心構えが本当にできているのか。ためらってもいい。怯んでもかまわない。利害に執心することなく、最終的に牙を剥くことができれば、その者は人間だ。

    世界平和を口にするとき、絶対に目をそらしてはならないこと。それはどうしてこうもたやすく国家に従ってしまうのかという、ただこの一点にある。そこに言及しない平和会議や平和集会は、単なる戯れ言の交換の場にすぎない。それどころか、もしかすると戦争を暗に容認する行為になるかもしれない。

    戦争は国家が起こす行為であり、国民は国家の決断に引きずり込まれるだけである。参戦に賛成し、それを支持する国民であっても、いざ自分が兵士として戦場に赴かなければならない立場に立たされたときにはたちまち及び腰になってしまう。血の気の多い若者を煽って犠牲にするのは国家の常套手段だ。

    戦争を推し進めたがる連中は、兵士としてはほとんど役に立たない、老いぼれたちであって、かれらはいつも安全なところに身を置き、冷血な命令を平気で下し、何十万、何百万という犠牲者を軽々と乗り越えて、勲章を押しいただき、名誉を独り占めにし、後世に名を残し、記念碑やら銅像やらを建てる。

    いい若い者が「国益」などという言葉を得意気に使っている場面に出くわすたびに反吐が出そうになる。そうやってどんなに国家にゴマをすったところで、国家はおまえのことなど屁とも思っていないのだぞ。頭のひとつも撫でてやって、「愛い奴じゃ」と言い、けちな飴玉でもしゃぶらせるだけだぞ。

    国家を私物化している連中は、いかに有能な働きをし、いかに忠実な僕の役を見事に演じたところで、最終的に自分たちの仲間には加えない。飴玉以上の褒美はけっして与えない。奴隷頭にはしても、奴隷をこき使う側にまでは出世させない。奴隷頭は、最終的に奴隷と主人によって軽蔑の板挟みにされる。

    ネットの時代は世界主義の拡大に焦点を定めるべきだ。そしていかなる国家の憲法や法律にも優先し、支配階級を厳しく排除した、地球上の仲間としてのそれを創るべきだ。結束を固め、互いに情報を交換し、支援し合うだけで、流血を最小限に抑えた革命を、比較的短期間でなし遂げられるかもしれない。

    不安の世でなかった時代は皆無だ。それというのも、こうして儚い命を抱えて生きる存在自体が非常に危ういものであるからだ。つまり、この世の摂理は命あるものに対して闘えと言っている。人生は最初から最後まで闘いの連続だと言っている。だからといって、闘いの対象を戦争に置くのは愚の骨頂だ。

    自分たちは地球を何百回となく破壊できるほどの核兵器を保有し、未だに実戦配備をしながら、ほかの国がそれを持とうとすると途端に目くじらを立てるのは、あまりに理不尽で、あまりに不条理ではないのか。自分たちは理性と常識を具えているから、危険極まりない代物を持つ資格があると言うのか。

    戦争を絶やさないようにするという異様なやり方で経済をどうにか支え、辛うじて大国の地位を保ってきたアメリカも、さすがにここへきてどうやっても帳尻が合わなくなり、肝心の軍事費さえも削減しなければならなくなって、いよいよ本格的な衰退を迎えつつある。同盟国日本など容赦なく切り捨てる。

    核兵器を非人道的なものとして決めつけるならば、その他の通常兵器は人道的なのか。核戦争は反対で、普通の戦争は賛成ということなのか。廃絶すべきはすべての兵器とすべての戦争とすべての軍隊ではないのか。そのことを非現実的として笑い飛ばすのならば、最初から平和を口にしなければいいのだ。

    自主避難という無責任極まりない言い方を平気でする政府。それは政府が自ら政府であることを放棄したことを意味し、もはや国家の体を成していないことを認めたことにほかならない。ならば、国民は国民でありつづける必要がないということになり、国を無法地帯と位置づけてもかまわないことになる。

    政治家どもはああでもないこうでもないという屁理屈を付けて東京電力の命を救おうとしている。つまり、連中にはそれほどの恩義があり、復活したあかつきにはかれら個人個人に多大なメリットがあるというわけだ。政治の良心の有無は、ひとえにこの怪物企業を死刑にできるかどうかにかかっている。

    政治家はどうして自分の手に余る仕事に就いてしまったのかということに気がつかないのか。そんな重い使命を果たすだけの能力など本当はどこにもありはしないのだということがなぜわからないのか。それほど愚かということなのか。その地位を確保すればあとは役人や秘書たちがどうにかしてくれるのか。

    東京電力がこれまでさまざまな名目のもとにばら蒔いてきた金は、社会の隅々まで浸透し、充分過ぎるほどの効果をあげてきた。金の効果は絶大で、それになびかなかった者は皆無と言ってもいい。そうやって民主主義国家のなかで絶大なる王国を築き上げ、誰にも文句を言わせぬ雰囲気を生み出してきた。

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  5. 丸山健二の「怒れ、ニッポン!」
    正義の怒りにつながらない悲しみは、ただの泣き寝入りでしかない。泣き寝入りは、一個の独立した人間の取るべき態度では断じてなく、この世に存在することの尊厳をみずから放棄した、羊のようにおとなしいだけの腰抜けの愚者の選択肢だ。  怒れ、ニッポン!

    金と出世のために学者としての魂を平気で売り飛ばした、似非学者、御用学者、腐れ学者のオンパレードがテレビを連日賑わしている。この際、かれらの顔と、かれらしか用いないテレビの体質を胸に焼き付けておくがいい。そして、同種同根のコメンテーターや文化人や芸能人、その他の知名人たちも。

    どこのどいつがこの国を牛耳っているのか、この国を食い物にしているのかということが、今回の原発事故によって鮮明になった。これを契機に、国家が不特定多数のものであるという錯覚を捨てなければならない。国家はあくまで特定少数のものであり、その他はかれらの奴隷にすぎないのだ。

    ひとつの大企業のボスがあこぎに稼ぎまくった贅沢に過ぎる資金をばら蒔くことで、政治家も役人も学者も報道陣も文化人も芸能人もがっちりと抑え込み、自分の言いなりに操れる木偶人形として利用し、国家の私物化を押し進めている。手の指で数えられるそいつらこそが元凶中の元凶なのだ。

    あの電力会社の会長や社長やその他の幹部たちの神妙な態度と顔つきの裏側に張りついている冷酷さと傲慢さは、さまざまな名目を悪用してさまざまな人々に金をつかませて国家をわが物にしたという自負と自信が支えになっているからだ。だから、口先だけの謝辞にとどめ、土下座にしても田舎芝居なのだ。

    飴と笞に弱いのは人の常だが、ここぞというところでそれを突っぱねられない者は知識人でも教養人でも文化人でもない。いや、人間でもなく、動物に堕してしまった人間もどきにすぎない。人には二種類ある。飴にも笞にも絶対に屈しない、真っ当な人間と、それ以外だ。

    日本人には、世界的に見て希有なほど豊かな情緒が具わっている。しかし、その精神はお粗末なかぎりだ。精神とは、要するに自分だけの判断で決定する力を身につけていることだ。個としての、または孤としての力の有無こそが精神の基盤であり、それ抜きの感情だけではとても人間とは言えない。

    政治家どもの顔をとっくりと見るがいい。よくよく目を凝らして見るがいい。あれが国家を仕切れるほどの顔か。欲深いだけの間抜け面。幼稚なパフォーマンスが精いっぱいの、企業から金をくすね、税金をちょろまかし、あるいは、その地位に甘んじているばかりの無能力者の集団。選んだのは誰だ。

    国民のためを心底から思って動いている政治家がただのひとりでもいると思うのか。かれらが高い理想と志のもとにあの地位をめざしたと思うのか。かれらを支持した選挙民がお人好しの間抜けだと思うのか。ちっぽけな欲に後押しされて一票を投じた結果が、強欲に蝕まれた輩に大きな権限を与えたのだ。

    それらしく見えればいい、それらしく振る舞えばいいという価値観が、それらしいだけの軽薄な輩をそれそのものに仕立て上げてしまっている。この国のありとあらゆる分野において、そのおかしな論理が罷り通り、ために、実力のない奴がその地位についている。国の底力がつかない所以がそこにある。

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  6. 丸山健二の「怒れ、ニッポン!」第2回

    元通りの生活に戻したからといって、それでめでたしというわけにはゆかない。生き方そのものを変える方向で再スタートを切らなくては、大試練の意味がなかったことになってしまう。お上の言いなりになる事大主義を完全に退治し、独力の判断と決断と洞察力を身につけることが必要不可欠なのだ。

    芯から腐りきっている、あこぎな上にもあこぎな悪というものは、マンガや映画やテレビドラマや娯楽小説のなかに登場する、どこからどう見てもそれとわかるような存在ではない。また、社会の底辺にうごめくアウトローたちとも一線を画している。連中は社会の表側に、しかも堂々たる地位を占めている。

    なぜ為政者たちはまともな人間ではないのか。それは権力の始まりからしてまともではないからだ。威張りくさることができる上に、楽をして驚くほど甘い汁が吸えるというふざけた立場に魅せられて集まってきた、泥棒同然のろくでもない性根の集団に、我々は国をまるごと預けてしまっているのだ。

    泣いてごまかす日本人。泣かれたら許す日本人。このあまりに情けない、あまりに幼稚な国民性をどうにかしないかぎり、日の当たる場所に巣くっている悪党どもは永遠に栄えるであろう。そしてかれらを無意識に支えている大衆もまた永久に虐げられたままの人生を送る羽目に陥ってしまうであろう。

    せめて原発の是非について国民投票を! その町が賛成したからといって、その県が同意したからといって、原発の建設を認めるのはおかしい。いざというときの被害は日本中に、いや、世界中に深刻な影響を与えてしまうのだから。賛成に一票を投じた者も自分の町に建設が決まったときにはどうする?

    暴れたら手がつけられぬほど凶暴で、甚大で致命的な被害を及ぼす野獣なんぞを飼い、これは二重三重の頑丈な檻に閉じ込めてあるからまったく心配ないと言い張ってきた連中が、野に放たれたそいつが大怪獣と化して暴れまわっているのに、次はもっとしっかりした檻にするから大丈夫だとぬけぬけ言う。

    都会人は、おのれの内面を、とりわけ本能に限りなく近い感情を言葉や態度で巧みに隠す術を身につけている。それなしでは世渡りが不可能になるからだ。しかし、人口の少ない田舎においてそんな小細工は必要ない。感情も欲望もむき出しにすることができ、そこにいとも簡単に付け込まれてしまう。

    あんなにこすっからい、地位を利用してあこぎな儲けを企む性根がはっきりと顔に出ている政治家をどうして選んだりするのか。その目は節穴なのか。そうではない。政治家を支えている人々もまた思わぬ余祿を当てにし、ちっぽけな欲が満たされることに期待して「汚れた一票」を平気で投じているのだ。

    真の教養とは、また、真の学識とは何かを問うとき、問題にすべきは権力や権威や名誉や金銭に断じて屈しない強靱な精神を育み、それをきちんと維持しているかどうかだ。そうしている者こそが本物の教養人であり、本物の学識者であり、本物の文化人であって、それ以外は世に害をなす寄生虫なのだ。

    何回でも叫ぶ。「怒れ、ニッポン!」国民に怒って欲しくない輩は、頭を低くしたポーズをとりながら、怒りが持続力を失う時期を読み、それを待っている。諦めのため息を漏らす回数が増えてゆく頃合いを見計らっている。そして相手の顔色を窺いながら、手練手管を駆使して復活を果たすつもりなのだ。

    慣れは、改良や改善の最大の敵だ。欲深く、腹黒く、人を物扱いしてひと儲けをたくらみ、人を踏みつけていい思いをしようと連中は、そのことをよく承知し、悪用する。そして、いつのまにやらかれらの天下が再生されている。憤怒のすべてが正義と関係あるわけではないが、正義の必須条件ではある。

    原発の恐ろしさは、自然災害の煽りを食らって事故を招くことだけではない。テロリストたちにはまさにもってこいの標的となる。よく訓練された数人と消音器付きの短機関銃と高性能爆薬さえあれば、ほとんど無防備に近いわが国の原発などものの数十分で破壊し、甚大な被害を与えることが可能だろう。

    いかに理想的な国家であろうと、結局は抑圧と隷従の関係で成り立っている。そして国民の九割九分か、それ以上の人々が被抑圧者としての生涯を終えてゆくのだ。かなり努力し、精いっぱい生きているつもりなのに、どうもぱっとした人生にならないことを、才能の欠如や不運のせいにしてはならない。

    さほど役に立つとは思えぬ知識のあれこれをぎっしりと頭に詰め込み、一流とされる大学を卒業し、憧れの高級官僚になり、同僚との仁義なき熾烈な闘争に明け暮れ、大企業や政治家の顔色を窺いながら美味い汁を吸い、国民を平気であざむき、天下りを繰り返して余生を充実させる、そんな人生って何だ。

    お国のためにぜひとも専門的な知識と知恵を拝借したいという声が政府から掛けられるたびに、待ってましたとばかりに喜々として集まる、お馴染みの民間人の面々。かれらにいったい何がやれるというのだろうか。その名声とやらにふさわしい活躍をし、見事な答えを出したことが一度でもあるだろうか。

    人間らしい本質的な人間としての未来がこの国民の頭上に輝く可能性はあるのだろうか。そうした理想に一歩でも近づきたければ、各人が他者に頼ることなく自分自身を改革してゆくしかないのだ。つまり、強者にすがりつく生き方を根本から改め、おのれがおのれを助けることを学ばなくてはならない。

    これ以上ひとつになるニッポンをやめようではないか。ひとつにまとまり過ぎた結果が、このざまなのだから。これからは、いい意味で、より積極的にばらばらになるほうがいい。この際、傲岸不遜の誹りを受ける覚悟で、どこまでも主我的な個人として生き、強者にからめ捕られる人生と手を切るべきだ。

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  7. 丸山健二の「怒れ、ニッポン!」第3回

    少年のような心を持った大人という表現を自慢として用いたがる、あまりに恥知らずな男の何と多いことか。そんな連中にかぎって、大人の男として振る舞わなくてはならない非常時にも相変わらず子どもをやっているのだ。その無責任さをまったく自覚することなく、父親面や責任者面を少しも改めない。

    やみくもに国家を肯定し、一から十まで認めるという無思慮な姿勢は、幼稚なゆえに危険な偏愛であって、本当の愛国精神ではない。さまざまな不正や矛盾に対して義憤を覚えるということに端を発しているのが、まさにそれなのだ。ちなみに、「愛国主義は悪党ども最後の拠り所」という言葉をご存じか?

    八百長まみれの相撲を国技同然に扱う日本は、ある意味、国民性を見事に象徴していると言える。根回しという表現でもって和らげてはいるものの、そのやり口の実態はまさしく八百長以外の何ものでもなく、それはこの国のありとあらゆる分野において蔓延している、伝統的なペテン。そして、疲弊の元。

    怒っている場合ではない、非難している場合ではないという、そんな意見に誤魔化されてはならない。怒るときにしっかりと怒っておかないことには、いつかまた必ずや襲いかかってくる悲劇に対処するための効果的な手段を生み出せないのだ。心底からの怒りこそが正義に裏打ちされた未来を差し招く。

    今、被災地の現場に来ている。女川町の真っ只中にわが身を置いている。天災の凄まじさにただただ圧倒されるばかりだ。しかし、最も恐ろしいと思ったことはこの悲惨な光景にたちまち自分の目が慣らされてしまうことだ。当事者でないことがこれほどまでに残酷な自分を生み出すとは思わなかった。

    とことん嘆き悲しんでも、どんなに失望落胆しても、ときには死を選択したくなっても、最終的には自力のみが物を言う。他力は所詮他力でしかなく、踏み台にはなり得ても、しかし、再生復活へ向けての決断と決行は自力に頼るしかない。守護神は自身以外に存在しないことを肝に銘じておくべきだろう。

    神仏という名の、あり得べからざる存在に精神を麻痺させられてはならない。生命を超えた生命を持つと言われているかれらが人間を造ったのではない。人間の弱さと狡さがかれらを生み出したのだ。さもなければ、人類や他の生き物たちがこれほどまでに延々といたぶられつづけるわけがないではないか。

    予想外の悲劇に見舞われたことで孤立感が深まり、他者の力に頼らざるを得ない状況に屈辱を覚えているうちに、それまではあれほど前向きだったおのれにすっかり自信が持てなくなり、もしかするとわが人生は哀れな結末に終わるのではないかという不安に苛まれる段になって初めて底力が発揮される。

    自己の実力や能力というものを、それまでの経験や体験によってのみ推し量ってはならない。つまり、おのれをそう簡単に見くびってはならない。どん底の境遇に投げ込まれたことがなかったせいで、ただそれだけの理由で、安閑として暮らしてきた自分を弱いと勝手に決めつけているだけのことなのだ。

    人をとことん駄目にしてしまう原因は、試練の数の少なさだ。あるいは、試練に挑もうとしない逃避癖だ。そして、その場凌ぎの癒しや、臭い感動のあれこれがほとんど利益目当てで氾濫する社会に取り込まれ、本物の慰安や本物の感激の味をすっかり忘れ、いや、一度も味わうことなく生きてきたせいだ。

    最初から高貴な性格の持ち主も、最初から侮りがたい人物も、最初から圧倒的な魅力を放つ人間もいない。かれらは挫折や落胆や悲劇をきっかけにして絶対的孤立に追いやられ、完膚なきまでに叩きのめされ、臨界の彼岸ぎりぎりまで追いつめられたことで、人生には敢闘あるのみと悟った人たちなのだ。

    誰にでも参加できる至高のボランティア活動とは、原発に異を唱え、そのすべてを廃炉に持ってゆく姿勢を表明することだ。原発が存在する限り、この国の未来の設計図は絶対に成り立たない。農業も漁業も林業もあったものではない。それでも原発を推進させたがる連中の性根は自滅の欲で腐っている。

    これほど甚大な被害を受けた当の国なのに、原発反対運動が一向に盛り上がらないのは一体全体どうしたことなのかと憂いていたところ、ここへきてようやく勢いを増してきた。喜ばしい限りだ。しがらみの数が少ない若者たちまでがだんまりを決め込むような腑抜け揃いではなかったことに救いを感じる。

    たった一度の人生なのに、人間を人間たらしめる理念に背中を向け、実際にはさほどの強者とは思えぬ輩の顔色を窺い、鼻息を窺って、大した見返りがあるわけでもないのに、リストラされるときにはバッサリと斬られてしまうというのに、おのれの心を歪めてまで屈従するとは。そんな自分をどう思う。

    隷従のなかでしか安住できない人間に成り下がってしまってはいないか。それは物心がついたときからすでにして始まっていたのではないか。自由をさかんに口にしながら、実際には自由をめざすことが苦痛なのではないか。そう、確かに自由は危険な道のりである。しかし、個人の自由こそが至宝なのだ。

    動物園の動物に共通するメリットは生涯にわたって餌の心配が無用であることだが、そのことを勤め人のそれと同一視するのは早計だ。動物は息を引き取るまで面倒を見てもらえても、勤め人は高齢による労働力の低下や、景気の変動や、雇い主の気まぐれなどによって途中であっさりと放り出されてしまう。

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  8. http://getnews.jp/

    ガジェット通信(正式名称:未来検索ガジェット通信)とは、ソフトウェア開発会社未来検索ブラジルが一事業部門としての傘下企業、東京産業新聞社が運営している自称「お気楽ニュースサイト」である。

    @niftyとの協業Webニュースサイト、夕刊ガジェット通信も存在する。

    未来検索ガジェット通信はデジタルガジェットマニアのための情報サイトです。運営は東京産業新聞社がおこなっています。東京産業新聞社は2009年2月に設立された、紙を使わないニュース配信をおこなう新聞社です。

    livedoorニュース、エキサイトニュースなどのポータルサイト、SNSのmixi、モバゲータウンに記事を配信している事から、読者数の多い、社会的影響力の大きなWebニュースサイトである。

    2ちゃんねる創始者で有り、元管理者、ニワンゴ取締役の西村博之、メールマガジン「まぐまぐ!」創始者である深水英一郎、「テクザー」「シルフィード」の作者である上坂哲、「携帯動画変換君」で知られるMIROと記者に「仕事の認知度」の高く信者の多い著名人・名士を揃えているのが特徴である。

    ガジェット通信の名の通り本業の電子ガジェット類の記事は一ヶ月に渡って現物を使用したレビュー記事、カメラ屋店頭の印象にだまされるな!立体デジカメ『FinePix REAL 3D W1』レビュー - ガジェット通信のクオリティの高さに見られる様に、存分に専門性を発揮するサイトである。

    一方、ガシェット類のレビュー以外のニュース記事だと途端に残念なクウォリティを発揮する。特に、「2ちゃんねるの声」と銘打った引用元の板、スレッドタイトルさえ不明の書き込みの引用とされる一連の文章は、良くある「大新聞の国民の声」と同様、ガシェット通信の記者・編集者の意見をさも「2ちゃんねるの住人達の声」として恣意的に記事に掲載している疑念が持たれている。

    2009年9月22日ジャーナリスト津田大介に、ナリナリドットコム、トレビアンニュース、アメーバニュースと共に四天王を成すニュースサイトと評された。

    2011年4月の時点では、報道・社会派記事は発行責任者深水英一郎(ふかみん)、肩の凝らない読み物系記事はソル、クリエーターへのインタビュー記事を中心に編集長宮原俊介(shnsk)の署名記事が読み応えのある記事が多い。

    ゲスト寄稿者による良質・実用性の高い署名記事も増え、ソフトウェア開発会社の副業と言う枠に留まらない良質な記事も掲載・配信される様になり、2chスレの感想文的なまとめ報道記事の様式美を超えたWeb日本語報道メディアの一翼を担う可能性ある。

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