環境汚染。温暖化。資源の放蕩。飽くなき欲望・消費・経済成長。その底に横たわる欠乏感・不満。歪な富の偏在。命にも自分にも尊厳のもてない生活。
こんな状態でいいのだろうか?みんなが自分の欲望を追求すれば、神の見えざる手に導かれて、社会はよくなっていくのか?確かに経済的な効率はどんどん上がっている。しかし、経済効率は、よい社会をつくるのか?確かに、様々な新しい商品・サービスが開発され、生活は便利になっている。しかし、自然の回復力を上回る影響力を我々人類は持ってしまったのではないか。おそらく大自然は、大きなサイクルでバランスを取るのであって、揺らぎながらも平衡を保つだろう。しかし、新たな平衡点が、人間の生存に適さないものだったらどうか?
文明の表層の快適さの底で、大切ななにかが壊されている。伝統的な暮らしがもっていた何か。あるいは、そんなものはもともと幻想で、現代は、その幻想を破壊しただけであり、人間という存在の根底にそもそもある業の深さ、不完全さが、露呈しているに過ぎないのか。
いや、しかし、たとえ人間が本質的に欲望・執着に突き動かされており、倒れるまで執着対象を追い求め自転車操業を続けるものだとしても、だからといって開き直っていいわけではない。開き直れば、余計に苦にまみれ、人も苦しめることになる。
では、どうすればいいのか?何ができるのか?
月を差す指はどれか?
ReplyDelete曽我逸郎
《映画『いのちの食べかた』を観て。仏教経済学の夢想》
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/
『いのちの食べかた』という映画を見た。
ReplyDeleteテレビのグルメ番組の、食欲という本能を刺激して視聴率を稼ごうとする安直さは言うまでもなく、殺虫剤冷凍餃子事件の連日の報道さえもが、上滑りだと思えてくる重たい内容だった。BGMもナレーションもない。シンメトリーを多用した構図のなかで、ただ食料生産の現場の映像と音が続くだけのドキュメンタリーだが、救いがなく、いたたまれなかった。勿論映画そのものではなく、我々の文明社会が、救いなくいたたまれないのだ。
あちこちの食料生産工場で、魚や鳥や豚や牛が、生きたまま、あるいはチューブで吸い上げられ、あるいはベルトコンベアで運ばれ、オートマチックの流れ作業で腹が割かれ、内臓が吸いだされていく。大きなドラム缶を横にしたような円筒形のスペースに牛が導かれ、素直に従った額に何かが押し当てられると、とたんに巨体はガクッ、ドサリと崩れ落ちる。その一瞬の驚いたような表情、そしてどろりとした死の表情。筒はゆっくりと回転し、牛の身体はズリリ、ズシンと横に吐き出される。そして次の牛が、疑いのない素直な眼で同じ筒に入ってくる。
いのちが、部品のように次々と機械の上を流れ、ばらされ、あれよあれよという間に食料に変っていく。そこには、ためらいも畏れもまったくない。代わりにあるのは、徹底して合理的な効率だ。
屠殺されたばかりの豚が、天井を進むチェーンから吊り下げられて列をなして通っていく。その足首を、ひとつずつ電動ペンチで切り落とす人。傾斜したステンレスのテーブルに流れ出てくる豚の内臓を、ゴム手袋をはめた手で引きちぎり仕分けして、次の工程への投入口に落とす人。
黙々と淡々と、機械のペースに合わせて仕事はこなされていく。休み時間の彼らの表情のない顔の奥にあるのは、単純作業を続けるための疲労なのか、あるいは命を流れ作業で処理することによる感覚の麻痺なのか。
食料生産の現場をとやかく言える立場に、私はいない。現場の有様を見せられて目を覆っているけれど、毎日の食事に注文をつけ舌鼓を打っているのは、他ならぬ私達だ。私達の膨大な需要を満たすために、これらの効率的な工場はつくられ、休まず稼動している。巨大な需要を満たすために、生産は効率的でなければならない。そして、効率的な生産は、感覚を麻痺させる。感覚を麻痺させる程の生産を要求しているのが、我々の消費の欲望ではないのか?
効率、効率、・・・。
効率は、仕事から歓びを奪う。
何故?
効率は、ひとりひとりのこだわりを奪い、尊厳を奪うから。
何故そうまでして効率を追求する?
需要にこたえるため?
否。生産において効率を追求する側は、同時に一方で広告によって欲望を掻き立て、需要の拡大を図っている。
効率とは、コストに対するアウトプットの比を最大にすること。アウトプットを大きくしつつコストを低くすれば、効率は高くなる。
広告は、アウトプットを大きくするため。広告は、ブランド価値を高め、あるいは、大量生産を可能にする。広告とは、消費の欲望を掻き立てること。今や生産は、必要を満たすために行われるのでは、けしてない。より高価格でより多くを売るために、欲望は煽られ、需要が創り出される。
消費の喜びは欲望の充足。しかし、欲望の充足は瞬くうちに飽食・退屈に変わり、さらには欠乏感に変わる。アロスタシス、依存症へのプロセスだ。一時的快楽によって渇望感が強められる永遠の欠乏状態。広告に操られた消費依存症。(小論『一切皆苦は、快を含む。凡夫は執着依存症』参照)
効率は、アウトプットとコストの差(≒儲け)を最大にするため。
儲けは、数字で量られる。数字に上限はない。青天井。無限に上を求める。無際限。果てしない競争。「株式時価総額を高めよ!」 終わりのない rat race。足るを知ることは、永遠にない。足るを知る者は敗れ去るレース。
環境汚染。温暖化。資源の放蕩。飽くなき欲望・消費・経済成長。その底に横たわる欠乏感・不満。歪な富の偏在。命にも自分にも尊厳のもてない生活。
こんな状態でいいのだろうか? みんなが自分の欲望を追求すれば、神の見えざる手に導かれて、社会はよくなっていくのか? 確かに経済的な効率はどんどん上がっている。しかし、経済効率は、よい社会をつくるのか? 確かに、様々な新しい商品・サービスが開発され、生活は便利になっている。しかし、自然の回復力を上回る影響力を我々人類は持ってしまったのではないか。おそらく大自然は、大きなサイクルでバランスを取るのであって、揺らぎながらも平衡を保つだろう。しかし、新たな平衡点が、人間の生存に適さないものだったらどうか?
文明の表層の快適さの底で、大切ななにかが壊されている。伝統的な暮らしがもっていた何か。あるいは、そんなものはもともと幻想で、現代は、その幻想を破壊しただけであり、人間という存在の根底にそもそもある業の深さ、不完全さが、露呈しているに過ぎないのか。『いのちの食べかた』が暴いているのは、現代文明の暗部なのか、それとも時代を超えた人間の実存の暗部なのか?
いや、しかし、たとえ人間が本質的に欲望・執着に突き動かされており、倒れるまで執着対象を追い求め自転車操業を続けるものだとしても、だからといって開き直っていいわけではない。開き直れば、余計に苦にまみれ、人も苦しめることになる。
釈尊がなされようとされたことも、執着にまみれて苦をつくり続ける凡夫(普通の人間)のあり方をなんとか救うことであった筈だ。
では、どうすればいいのか? 何ができるのか?
企業から変えていくことはできるか?
ReplyDeleteおそらく無理だろう。より多くより効率的に生産・販売し、グローバルマーケットで市場占有率を競い、株式時価総額を競う企業に、そのあり方を変えさせることは、難しい。万一変える企業があったとしても、すぐに駆逐される。広告による欲望扇動と効率第一、数字第一の社会は変らない。
では、我々の側が変ることはできるだろうか? 凡夫がいっせいに仏になって執着を滅する? これもまたあり得ない。しかし、少しでも多くの人が、いくらかでも変ることはできるかもしれない。
つまり、広告に晒され続け条件反射を刷り込まれそうになっても、よく気をつけて考え、そんな消費にうつつを抜かすのはつまらないと知る。そして、消費に踊らされず、自分なりにこだわりをもって働くことを歓ぶ生き方ができるなら、そこにひとつの活路があるかもしれない。
シューマッハーは、「仏教経済学」の中で、我々の労働観をこのように批判している。
現代の経済学者は「労働」や仕事を必要悪ぐらいにしか考えない教育を受けている。雇い主の観念からすれば、労働はしょせん一つのコストにすぎず、これは、たとえばオートメーションを採り入れて、理想的にはゼロにしたいところである。労働者の観点からいえば、労働は「非効用」である。働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることであり、この犠牲を償うのが賃金ということになる。したがって、雇い主からすれば、理想は雇い人なしで生産することであるし、雇い人の立場からいえば、働かないで所得を得ることである。
(講談社学術文庫『スモール イズ ビューティフル』小島慶三・酒井懋訳 p70)
「働くことに喜びを見出す」と言えば、労働組合や左翼の人は、ずるがしこい資本家の詭弁と警戒する。しかし、労働を商品としてのみ捉え、賃金という数字でしか評価できないとしたら、資本家と同じ狭い視野でしかない。それに、労働の対価として得た賃金で、商品やサービスを消費して、そこに一時の快を得て、消費依存症に落ちていくならば、まさしく資本の側の思う壺だ。現代の労働者は、生産の場で労働を外側から搾取されるだけでなく、知らないうちに消費の場でも内側から搾取されている。
私が「働くこと」という言葉でイメージしているのは、端的には(『いのちの食べかた』のような大量生産ではない)農業や、手工業、サービス業などだ。地域貢献や人助けの活動も含まれる。自分だけのこだわりで工夫して切磋琢磨していくこと、あるいは、人に喜ばれることを歓びとすることが、歓びのある仕事であろう。対価が得られなくとも、そこにその人の努力とこだわりがあり、喜びがあれば、ひろく「働くこと」と呼びたい。
仏になり執着を滅尽することを目指せ、などとは言わない。しかし、生き方を問い、何が本当に大切か、価値観を深めることは大切なことだと思う。それによって、消費と労働を自分の手に取り戻すことができる。消費の喜びを買う金を稼ぐために、毎日不平を言いながら労働を売る、というのでは、救いがない。
大きな組織の一員として働くことに、どうすれば歓びを見出せるだろうか? 私にはできなかった。そして、正直なところ、未だにイメージできない。価値観・目的を組織と持続的に共有できればいいのだろうか? 崇高な理念を掲げ言行一致の組織なら、可能かもしれないが、一般的とは思えない。
最大の問題は、このような労働では生産量はずいぶん落ちるであろう事だ。落ちたとしても、誰もが働くことを楽しみ、浪費も贅沢もなく、足るを知る暮らしを楽しむことができれば、今地球に生きるすべての人が、飢えずに暮らせるのだろうか? 数量的なシミュレーションではどういう結果が予想されるのだろう。
もうひとつの重要なアプローチは、社会に適切なルールを設け、同時に、富を適切に再配分することだと思う。
日本の最近の政策は、財政運営失敗の責任をうやむやにしたまま、そのしわ寄せを自己責任という、慈悲から最も遠い概念で弱者に押し付け、弱者を切り捨てることばかりが目立つ。その一方で、グローバル企業を優遇する。「勝ち組がもっと勝てば、豊かさは負け組みにまで滲み出す」といった言い方がなされるが、それは嘘だ。勝ち組は、さらに負け組を搾取する。
人に苦をもたらして憚らないような利潤追求は、禁止せねばならない。(石油のための戦争などもっての外だ。)また、適度な累進性のある税制が望ましい。一定の結果平等も必要だ。クライブ・ハミルトンの『経済成長神話からの脱却』には、一人当たりの平均値は小さくても、より平等に富が分配される社会の方が、人々の満足度は高い、というデータが示されている。機会平等と競争を主張して結果平等を悪し様に言う人は、自分の能力を過信して自分は「勝ち組」の側だと思いなしている狭量な人間である。富の量や成長度などよりも、そこに生きる人々の幸せこそが重要だ。
事情によって働けない人、働いているのに不運によって報われていない人、その他様々な多様な生き方を許容する懐の深い社会でありたい。
福祉ただ乗りを警戒する輩もいるだろう。しかし、それにはそれの対応をすればいい。それに、小ずるい人間が多少いたとしても、勝ち組が大規模かつ組織的に搾取をするよりはましである。
夢物語だと笑われているだろうか。生きるために必死で働いている人は、世間知らずのおめでたい議論だと、腹を立てているかもしれない。
しかし、私としては、今の経済とまったく違う経済もありえるのか、まずそれを知っておきたい。一部の人がライフスタイルを装うためのちょっとおしゃれで知的な世界観・人生観にとどまらず、現代社会の深刻な問題を少し薄める希釈液としてでもなく、今とはまったく別の方法として社会全体を運営していく基本的な考えとして、有効なのだろうか。
シューマッハーの『スモール イズ ビューティフル』から35年が経過した。その間、先ほど触れた『経済成長神話からの脱却』といった本も出ているが、これら一連の、今とは別の経済の考え方が本当に実施可能なのだろうか。学問的にシミュレーションされ検証されているのだろうか? それに、もし理論的に可能であったとしても、グローバル化の進んだ現代、どこかの国・地域だけで実現できるのか? もし世界全体が変わらねばならないとしたら、今の経済から別の経済への移行は、現実に可能なのだろうか。既得権を持つ連中の抵抗を政治的に乗り越えていかねばならないのだが・・・。
ここまで読んでくださったのに今更申し訳ないが、私は経済学は門外漢だ。だけれど、今の世の中の仕組みは問題が多すぎると思う。資源の点でも、環境の点でも、なによりいたずらに人々を苦しめている点において、このままではいけない。小手先の辻褄あわせではない根本的な修正が必要だ。ここに書いたモデル、これを仏教経済学と呼んでいいのか分からないけれど、一つの候補として可能性はある、と思うのだが、経済を深く考えておられる方はどう評価されるのだろう。
どなたか是非アドバイスを頂ければ、幸甚である。