Sunday, November 13, 2011

ネルケ無方

外から見たらどう映るか分かりませんが、やっている本人にとっては坐禅こそが現実なんです。

坐禅をして、何になるか?その答えはハッキリと、坐禅をしても何もならない、ということです。

われわれ人間は絶えず、何かを求めて生きています。それは金であったり、恋人であったり、学校や会社での成功であったりします。最終的には現在の自分に欠けている「しあわせ」を追いつづけているのでしょう。しかし、一生懸命にしあわせになろうとしている自分は今ここ、この自分の本当の有りようを見失って、自分をいつも留守にしているのではないでしょうか。しあわせになろうとしているうちに、しあわせとはいったい何なのかということも、今の自分は実に幸せの中にいるのだという現実も分からなくなってしまいます。

2 comments:

  1. ネルケ無方
    安泰寺の九代目の堂頭

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  2. いったん、求めることを止めなければなりません。何かになろうとはからって坐るのは坐禅ではありません。正反対に最初からそう言うはからいを止めにして自分を坐禅の中に投げ込んで坐禅に任せれば、始めて坐禅が坐禅として行われます。
    そのとき、自分ではなく、坐禅が坐禅をします。と同時に、自分が始めて本当に自分になり、「自分」をします。

    仏法というものは今の自分の有り様にもうすで表れているはずです。
    しかし、私たちはそれに目を向けず、外側にそれを求めますから、「偽物」の世の中しか見ることは出来ません。
    本当の仏法は現実そのものであり、そこには「にせもの」も「ほんもの」もありません。この現実を本気になって見つめ、今ここ、本音を生きれば初めて本物の自分になれます。
    本物とは、私たちが求めるというよりも、今ここ、私たちから求められているのです。

    「自分はいったい何をしようとしているのか」、自分の原点を振り返って見れば、なにも心配することなく、一人でも二人でも、大空の下でただ坐らせていただけるほど幸せなことはないはずです。
    見方によって、生きる姿勢によって、私の人生は地獄になり、極楽になります。

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