Sunday, November 27, 2011

瀬戸内寂聴

「もうこりた」という伝教大師・最澄のお言葉についてお話しいたしましょうか。私がこのお言葉を口にしますと、たいていの人は「もう懲りごり」の意味の「もう懲りた」という字に早合点するようです。実は「忘己利他」と書きます。
伝教大師・最澄は私が僧籍を置く日本天台宗の開祖です。その最澄が、いまから約1200年ほど前に、小乗仏教の戒律を捨て、大乗仏教の戒律だけをとることを決意したときに、その理論づけとして『山家学生式』を書きあらわしました。"山家"とは、日本では比叡山に住まわれた最澄を山家大師とも呼び、その法系に連なる修行僧たちをさします。
ですから『山家学生式』は山の規則とでもいうべきもの。最澄はその中で、忘己利他 慈悲之摂 と書いておられます。...己れを忘れ他を利するは慈悲の極みなり、と読みます。
その前に「好事を他に与え、悪事を己れに向え」とあります。いいことは人にあげ、悪いことはみんな自分に引き受け、自分の幸せは忘れ、人の幸福のためこ尽くすのが慈悲の最高のものだというのです。

2 comments:

  1. 忘己利他
    - 慈悲の極み

    瀬戸内寂聴

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  2. それまでの仏教は奈良中心で僧侶になり戒(かい)受けるのも、奈良の戒壇院でしか受けられませんでした。地方にはそれは二つありましたが、都の周辺にはありません。
    最澄は旧来の仏教とは違うものを、現実的で自由な新仏教を始めるため、戒律の数も減らし比叡山に新しい戒壇院を創ろうとしたのです
    度々天皇にお願いしましたが奈良の僧たちが反対して許されません。それで、天皇に理解してもらうため、山の僧たちが修行中に守る規則をつくり、朝廷にさしだしました。、その中にこのことばがあります。
    「国宝とは何か、それは道心ある者である。道心ある者とは、好事を他に与え…」とつづきます。
    つまり比叡山では国の宝となるようなすばらしい修行者、道を求める人を養成するというのです。
    "己を忘れ他を利する"とは、犠牲奉仕のことです。サービリス・アンド・サクリファイスです。
    "慈悲"とは仏の愛で、公平無私な無償の愛をいいます。己れを忘れ他を利する精神は大乗仏教の根本思想であり、お釈迦さまの説いた仏教の原点であると最澄は考えました。
    これは、お釈迦さまがこの世にお生まれになる以前から、この世での生涯までを描いた『釈迦物語』に出てくる"捨身飼虎(しゃしんしこ)"のお話と照らし合わせてみても、正しいお考えであるように、私には思えます。
    とても感動的な説話ですから、内容を簡単にお話ししておきましょう。
    ...お釈迦さまの前生は、摩詞薩捶太子といい、ある日、2人の兄と一緒に竹林に入ったとき、飢えた虎の母子が瀕死でいるのに出会います。太子はそれを憐れみ、崖から身を投げてその餌食となってあげたのです。
    この"捨身飼虎"の説話は身を捨てて他を利するという菩薩行をあらわしたもので、こういう善行の功徳でもってお釈迦さまは現世で仏陀としも成道したといいます。
    奈良法隆寺の玉虫厨子にはこの絵が描きこまれています。崖から落下する太子は、ひとひらの赤い花びらのように、美しく静寂に満ちております。
    聖徳太子は、「身ヲ捨ストハ謂ク自ラ放ニ奴ト為ルト。命ヲ捨ストハ人ノ為ニ死ヲ取ルナリト。今云ク捨命ト捨身トハ皆是レ死ナリ」と断言しておられます。捨身、捨命、捨財は大乗仏教思想の根本をなすもので、〃忘己利他"の思想であり、犠牲精神の思想です。
    それがいかに実行しにくいかを誰でもが知っているからこそ、"捨身飼虎"の説話に人々は感動し、広く語り継がれ、描き継がれているのでしょう。シルクロードの要衝であった中国・敦煌の壁画にも、この絵が色鮮やかに描かれておりました。
    忘己利他!この四文字はいつみても清々しい。
    今の日本人の多くは、自分のことしか考えず、人を押しのけてでも、自分が先にいい目をみようとします。自分の利益と幸福しか眼中になく、あらゆる行為に代償を求めます。エコノミック・アニマルと外国から軽蔑され、しかも世界有数の経済大国にのしあがっています。
    今の小・中学生は病気で授業を休んでいたお友達に、試験前の自分のノートを見せてあげるとか、そういうことは絶対にしないそうですね。どこかが狂っているとしか思えません。
    目の前で沈んでいく人々を潜水艦の甲板から見下ろし、救助しなかったという自衛隊員たち。あるいは、40日間以上もひどりの女高生に集団でリンチを加え続けて殺してしまった少年たち。この非人間的無感動は、すべて自利利己しか考えない社会環境と誤った教育の結果ではないでしょうか。
    他人の不幸や傷みを自分の傷みとして感じるのが、人間だけが持つやさしさなのです。他人の心の傷みを思いやる心、想像力こそ愛なのです。
    得度して10年くらいたったころ、私は、"忘己利他"の実践行しか僧侶にはない、という自覚を得ました。これひとつ教えられただけでも、出家して、本当によかったと思っております。

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