Sunday, June 5, 2011

高島俊男

 中国において「国家」というのは、皇帝とその統治機構を指す語である。中国にはここ千年以上、貴族というものはいない。固定した支配階級もない。皇帝一人のみが、全権を一手に掌握する唯一至高の存在である。
 もっとも、皇帝が国家の全権を握っているというのは、名目あるいは建前であって、創業皇帝を別とすれば、ふつうには、皇帝個人が政務全般を知悉し、掌握し、直接指揮しているわけでぱない。事実はたいてい、宰相、大学士などと呼ばれる数人乃至十人内外の高官による集団指導がおこなわれている。これが、知識人から成る壮大かつ複雑な官僚機構を指揮する。
 皇帝と、宰相・大学士等のブレインと、中央・地方の官僚とから成る統治機構が「国家」である。また「公家」とも言う。これは運命共同体である。
 「国家」の下に官僚予備軍の士大夫階層があり、その下に人口の圧倒的多数を占める衆庶がいる。国家と衆庶との間には隔絶した距離があるが、通路は開いている。衆庶のなかの優秀な若者が科挙により上昇して国家の成員になる可能性は常にある。たとえば曾国藩のごとく。
 共産党国家が昔の王朝国家とちがうのは、党の総書記が世襲でないことだが、事実は集団指導なのだから、これはそれほど大きなちがいではない。集団指導の中核である宰相・大学士等に相当するのは党中央委員会政治局の常務委員会である。
 それよりも大きなちがいは、党と国家とが二重になっていて、「党が国家を指導する」という形になっていることである。このために官僚機構が昔よりもいっそう複雑になっている。たとえば国務院の外交部の上に党中央委員会の対外連結部があってこれが外交部を指揮している。あるいは地方各都市の市政府の上に党委があってこれが市政府を指揮する。
 ソ連をはじめとして世界のあちこちに社会主義国があったころには、そのどこでも党が国家を指導するという形になっていたわけだが、その国家というのは西洋風の国家であった。ところが中国では、「国家」が昔の「国家」のなごりをひいている。すなわち国家は衆庶の上にのっかっているものであって、衆庶をも含めた国家ではない。
 その国家の上に、これはまさしく昔の国家に相当する党が指導機関として乗って、「党と国家」という形になっているから、なかなか複雑なのである。 なお、中華人民共和国において、党と国家の路線を市場経済の方向へと大転換する英断をくだした皇帝は鄧小平である。この転換は、初代毛沢東の素志・遺命に反する。だから鄧小平は明帝国の第三代成祖永楽帝にあたる。創業皇帝の遺志にそむくことによって成功し、国家を生きながらえさせた。

7 comments:

  1. なお「国家」という語が何度も出てきたから簡単に説明しておきましょう。
    中国ではこの語は二千年以上前からあり今もあって、意味にさしたる変化はない。そしてそれは、今の日本人が漠然と考える「国家」とはだいぶちがう。

    ReplyDelete
  2. ・・・わたしはかねがね共産党の中国のことを「アトモドリ帝国」と言っている。
    「帝国」というのは、一切の権力を一手に集めた独裁君主が統治している、というだけではない。

     まず第一に、国民の自由がまるっきり剥奪された。自由といったって、言論の自由とか出版の自由とかいう高次元の話じゃない。いやそういう高級な自由がないことはもちろんだが、もっと低次元の、この町内はイヤだから別の町内に引越したいとか、今の仕事は性分に合わないから別の仕事をしたいとかいった、「自由」というのもおこがましいほどのあたりまえのことさえできない。すべての人はいずれかの「単位」に所属し、各単位には共産党組織があって、人々の生活をガッチリおさえている。

    ・・・・・・・・・・

    そして実は、中国人がかくも完全に自由を奪われたことはかつてない。以前ある中国留学生に「今の中国はアトモドリ国家だと思う」と言ったら「アトモドリしてそのまたずっと先まで行っていますよ」と笑っていたがその通りである。

    ReplyDelete
  3.  もう一つ、マルクス主義という国家哲学を強制して、国民のものを考える能力を奪ってしまったということがある。これは漢から清にいたる王朝が儒学(あるいは儒教)を国家哲学にしたのに相当するが、その程度はずっときびしい。
    ・・・・・・・・・
    わたしはやはり中国自体にマルクス主義を受け入れる素地があったのだと思う。それは「経典」の必要である。

    「経典」とは、時と所とをこえて、この世のありとあらゆる事物、人間が遭遇するありとあらゆる現象に、正しい解釈を与え、さらに指針を与えてくれる、永遠の真理の書である。

    中国では実に二千年以上にわたって、『易』『書』『詩』『礼』『春秋』の「五教」に代表される儒家の経典がそれであった。これらの経典は、孔子が直接手がけて整理した書、孔子直系の人が作り孔子の思想を正しく伝える書(『論語』『孟子』など)、およびその注釈(『左伝』『公羊伝』など)より成る。いかに新しい事態や現象に出くわしても、その問題意識を持って経典を読みかえせば正しい解釈と指針が得られる、という絶対万能の書が経典である。十九世紀後半の危機の時期ににわかに「公羊伝」が盛行したのなどはよい例である。

    二十世紀になって「打倒孔家店」が叫ばれ儒教が権威を失うと、中国人の心に空白が生じた。その空白を埋めたのがマルクス主義である。つまり、儒教そのものは否定されたが、真理を記した書物というよりどころを求める習性は、急にはなくならなかったわけである。

    中華人民共和国の建国後、マルクス主義の書物は「革命経典」と呼ばれることになった。これも経典なのである。
    マルクス主義が他の西洋の学問とちがうのは、一つには、全面的であること、すなわち、あらゆる学問、あらゆる方面にまたがっているか、もしくは応用が利くことである。もう一つは、絶対に正しいことである。この点で、他の学問は儒教のかわりにはなれなかった。

    中国における書物の分類は二千年も前から始まっているが、西洋式分類とは考え方がちがい、書物のランクづけである。より正しい、より尊い本から順に並べてゆく。伝統的分類法では、一番は「経部」であって、『易』にはじまる儒家の経典が並ぶ。

    現代の分類法では一番は「マルクスレーニン主義毛沢東思想」であって、マルクスの著作にはじまる革命経典が並ぶ。これらは不磨の大典でって侵すべからざるものである。しからばかつての儒家の経典とこんにちの革命経典のあつかいは何から何まで同じなのかというと、そうではない。

    儒家の経典は解釈の自由を許した。だからこそ二千何百年も前の本がその後の時代の応用に耐えたのであって、学者は時にはずいぶん無理な、あるいは無茶な受けとりようをして、しかし自分ではそれが「聖人の本意」と信じて、結果的にはある程度柔軟な思想を展開したわけである。

    革命経典は一般人が任意に解釈することを許さない。解釈権を有するのは党のみである。その解釈は党の必要に応じて変わりうる。しかし一般の学者が革命経典を自由に解釈する形で事故の考えを展開する余地はない。

    中国の学者の論文を読んでいると、革命経典が論断の証拠として用いられていることがしばしばある。「それが証拠にマルクスがこう言っている」という形である。これは昔の人の「聖人もかく言えり」と同じであって、習性というものは強固なものだと感じ入る。

    共産党は中国人のこの習性を利用したのである。しかしまた、利用されてしまうような素地が中国人にあるのも事実なのである。中国人の行動や思考はいわばがんじがらめなのであるが、それら一切の束縛から、それどころか憲法をはじめとするすべての法律や規則からも完全に自由なのがたった一人の帝王である。

    そういう体制をわたしは「帝国」と呼ぶのである。

    ReplyDelete
  4. 中国では一人の皇帝が死ぬつど、その治世の出来事を記した「実録」が編纂されるようになった。その材料は、皇帝が日々決済した公文書で、最高級の官庁が皇帝に提出したものである。この「実録」は、王朝が倒れた後で、次の王朝が編纂する「正史」の根本資料になる。後世になると、王朝が健在なうちに、「実録」を基礎にして「国史本紀」を作り、さらにそれに対応して「国史列伝」を編纂するようになる。こうした手続きは、いかにも信頼すべきもののように見えて、実は重大な落し穴がいくつもある。

    ReplyDelete
  5.  第二の落し穴は、「正史」の編纂を実際に担当する史官の性格である。隋の時代に科挙の試験が始まって、作詩・作文の能力を基準にして官僚を採用するようになった。
    唐の時代になると、科挙の及第者(「進士」)の中でも特に優秀な者を翰林院という人材プールに入れて、皇帝の発布する公文書の代筆をさせるようになって、その仲間から歴史書の編纂官も出ることになった。ところで科挙の試験の出題範囲は、儒教の経典であった「五経」だったので、儒教は宗教としては道教と仏教に圧倒されて消滅していたけれども、また現実の政治には何の影響力もなかったけれども、儒教の政治学の用語や観念だけは生き残って、科挙出身の文人官僚が歴史をまとめる際の価値判断に影響を与えることになった。その結果、唐以後の「正史」には非現実的な面が多く表れて来る。その一例は、「正史」が歴史の軍事面を軽視することである。

    ReplyDelete
  6.  中国のどんな王朝でも、政権の本当の基盤は軍隊であり、本当の最高権力は、常に皇帝を取り巻く軍人たちが握っていた。中華人民共和国で、真の最高権力機関が中央軍事委員会であって、中国共産党中央委員会ではないのを見ても分かる通りである。

    しかし軍人は文字の知識がなく、記録には縁がない。だから軍人の言い分は「正史」には表れない。これに反して科挙出身の文人官僚は皇帝の使用人に過ぎないのに、彼らの書く「正史」は、科挙官僚こそが皇帝の権力を支える基盤であり、中国の政治は科挙官僚の文人政治であったかのような、間違った印象を与えるように出来上がっている。
    これは儒教の理想論を反映しているだけのことだが、この事情が、これまで中国文明の歴史文化の真相の理解をどれほどさまたげてきたか、はかり知れないものがある。

    ReplyDelete
  7. 元版『中国の大盗賊』が出て以後こんにちまで十六年ほどのあいだの、中国の変化は甚大であった。
    政治的には共産党の独裁(中国では「専政」と訳す。そのほうがまさる)を維持したまま、経済は資本制(あるいは自由市場制)に移行した。そしてそれが成功して、大繁栄している。さすがにもう「社会主義中国」を支持する人は日本にいないだろう。中国が好き、という人はいるだろうが、それは自由経済の中国が好きなのだろう。

    筋から言えば、社会主義制度が破産すれば、プロレタリア独裁(事実は共産党独裁)の国家はつぶれるはずである。現にソ連は崩壊した。東欧諸国も同様である。

    中国のみが例外で、執政党としての共産党と社会主義経済とが、血管でつながっていなかった。一方が死んだら必然的にもう一方も死ぬという関係になかった。

    社会主義の経済制度が死んでまるで正反対のものに変わっても、その上の国家は平気で生きている。それどころか、共産党がリードして、経済を資本制に変えたのである。ーー言うまでもないことだが、共産党は、資本制を覆滅して社会主義の社会を(さらには共産主義の社会を)うちたてるために生まれ、ひろがり、成長したものなのである。

    してみると中国の共産党は、「共産党」と名のってはいるが、その本質は、共産党ではなかったのである。では何であったのかと言えば、権力を奪取して自分たちの王朝をうちたてようとする集団だったのだ。そして伝統的方式によってみごとにそれに成功し、国家を創建したのである。

    ReplyDelete