Friday, January 18, 2013

平野啓一郎

どんなかたちの愛であれ、私たちは、愛する人と一緒に過ごす時間が心地良い。もっと言うなら、一緒にいるだけで、相手がどうだろうが、勝手にこっちがうれしい。心が安らぐ。夢見心地になる。静かな喜びに満たされる。そして、持続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のおかげで、それぞれが、自分自身に感じる何か特別な居心地の良さなのではないだろうか?
。。。愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。
。。。文学はまさしく、個人であるはずの主人公が、恋愛をする複数の分人を抱えてしまっていることによる矛盾と葛藤を、飽きもせずに延々と描いてきた。

3 comments:

  1. 私とは何か

    「個人」から「分人」へ

    平野啓一郎

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  2. ・ すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」となる。

    ・ 「分人」という造語について、別に、従来のキャラとか仮面といった言葉で十分じゃないかという指摘を何度か受けた。しかし、キャラを演じる、仮面をかぶる、という発想は、どうしても、「本当の自分」が、表面的に仮の人格をまとったり、操作したりしているというイメージになる。問題は、その二重性であり、価値の序列である。

    ・ 人間には、いくつもの顔がある。—私たちは、このことをまず肯定しよう。相手次第で、自然とさまざまな自分になる。それは少しも後ろめたいことではない。どこに行ってもオレはオレでは、面倒くさがられるだけで、コミュニケーションは成立しない。だからこそ、人間は決して唯一無二の「(分割不可能な)個人 individual」ではない。複数の「(分割可能な)dividual」である。

    ・ 私は森鴎外が大好きだが、彼は「仕事」を必ず「為事」と書く。「仕える事」ではなく「為る(する)事」と書くのである。

    ・ 自傷行為は、自己そのものを殺したいわけではない。ただ、「自己像」を殺そうとしているのだと。だから、確実に死ぬ方法を選択しない。いや、むしろ逆じゃないのか?今の自分では生き辛いから、そのイメージを否定して、違う自己像を獲得しようとしている。つまり、死にたい願望ではなく、生きたいという願望の表れではないのか。

    ・ 分人のネットワークには、中心が存在しない。なぜか?分人は、自分で勝手に生み出す人格ではなく、常に、環境や対人関係の中で形成されるからだ。私たちの生きている世界に、唯一絶対の場所がないように、分人も、一人ひとりの人間が独自の構成比率で抱えている。そして、そのスイッチングは、中心の司令塔が意識的に行っているのではなく、相手次第でオートマチックになされている。

    ・ 『3年B組金八先生』のような学園もののドラマでは、主役となる「いい先生」は、生徒一人一人に対して柔軟に分人化する。グレた生徒とは、その生徒と最もうまくコミュニケーションが取れる分人になる。優等生とは、また違った分人で接する。そのことに、生徒が信頼を寄せる。一方で、「悪い先生」は、どの生徒に対しても、教師としての職業的な分人だけで接する姿が強調される。(中略)私たちは、尊敬する人の中に、自分のためだけの人格を認めると、嬉しくなる。

    ・ 八方美人とは、分人化の巧みな人ではない。むしろ、誰に対しても、同じ調子のイイ態度で通じると高を括って、相手ごとに分人化しようとしない人である。

    ・ 分人の数は、人によってかなり差がある。それはおそらく、どれぐらいの数の分人を抱えているのが、自分にとって心地良いかで決まってくる。

    ・ 誰とどうつきあっているかで、あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体が、あなたの個性となる。

    ・ 環境が変われば、当然、分人の構成比率も変化する。つまり、個性も変化する。弁護士になった大平さんを、昔の暴力団の知り合いが「あれは本当の顔じゃない!」などと、どうして言えるだろうか?

    ・ 結局のところ、子どもの生育環境を考えるというのは、その子にとって、どのような分人の構成が理想的なのかを考えることなのだろう。

    ・ 愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。(中略)他者を経由した自己肯定の状態である。なぜ人は、ある人とは長く一緒にいたいと願い、別の人とはあまり会いたくないと思うのだろう?相手が好きだったり、嫌いだったりするからか?それもあるだろう。しかし、実際は、その相手といる時の自分(=分人)が好きか、嫌いか、ということが大きい。

    ・ 年齢とともに、人間は死者との分人を否応なく抱え込んでゆくことになる。魂を通じて、あの世の知人と交信し続けるというのは、実は、時々その死者との分人を生きてみることなのかもしれない。仏壇に話しかけたり、墓に線香を上げたりする時には、私たちは、その懐かしい分人が甦ってくるのを感じる。あなたの存在は、他者の分人を通じて、あなたの死後もこの世界に残り続ける。

    ・ 一人の同じ人間が、まったく思想的立場の異なるコミュニティに参加しているとする。個人として考えるなら、それは矛盾であり、裏切りだ。首尾一貫しない、コウモリのような人間だと見なされるだろう。しかし、分人の観点からは、これが可能となる。それぞれのコミュニティには、異なる分人で参加しているからだ。そして、むしろまったく矛盾するコミュニティに参加することこそが、今日では重要なのだ。

    ・ 私たちは、一人一人の内部を通じて、対立するコミュニティに融和をもたらし得るのかもしれない。右のコミュニティにも左のコミュニティにも参加している人は、右のコミュニティでの分人に左のコミュニティでの分人が染み出してくる。そうして、右のコミュニティ内であなたと分人化する人の中には、何がしか、対立するコミュニティの価値観が影響する可能性がある。

    ・ 自分の親しい人間が、自分の嫌いな人間とつきあっていることに口出しすべきではないと、私は書いた。大好きな人間の中にも、大嫌いな人間の何かしらが紛れ込んでいる。そこに、私たちの新しい歩み寄りの可能性があるのではないだろうか。

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  3. 人間は「分人化」しないと精神がもたなくなる

    平野啓一郎

    http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110930/222913/?rt=nocnt

    国家がなくなっても、「ユートピア」はない

     僕が一番、恐れているのは、国家権力の弱体化です。これは日本に限らず、2010年代に世界的に非常に大きな問題になっていくと思います。国家がなくなったらどうなるかという時に、かつてのような「ユートピア」のイメージはもはやありません。ソマリアのような状況になり、弱者が一番悲惨な目に遭います。問題の量が国家の処理能力を超えているのでしょう。

     一方で、問題を処理しなくてはいけないレイヤー(階層)が大きく変化してきています。これはポストモダンの頃から言われてきた話ですが、「大きな物語」が「小さな物語」になって、インターネットの時代になることで、情報の発信者と受け手も細分化が進んでいます。この流れは今後も変わらないと思います。

     インターナショナルな問題として国家権力を超えるものも出てきているわけですし、レイヤーごとに国家にできること、民間でできること、そして個人でできることを選択しないといけないでしょう。結局、国家の構成要素も人です。人間の1日はどんなに頑張っても24時間しかない。オバマ大統領がどれほど優秀な人でも、リンカーンの時代とは問題の量が違います。

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